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送別会
第154話:桜の花びらは奪い取られて
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少しふらふら歩いた後、「あ、お前の鞄、持ってきて」と言われ、何でと訊いても答えないので、シートに戻って鞄を探した。何だか膨らんでいて、ん、何か入ってる?開けてみるとそれはさっき買ったカツサンドじゃない方のサンドイッチだった。
「あれ、さっき出したのに・・・」
つぶやきながら黒井の元に戻ると、「それね、俺が入れといたの」、と。
「え、何で?」
「食べたかったから」
「・・・そ、そう」
そのまま、またトイレへの道をゆっくりと歩く。・・・やっぱり、二人きりでいたいよ。みんなの前で<仲良し>表明するのも嬉しいけど、こうして、何も話さなくても、二人で歩きたい。お前がどうかは、知らないけど、さ。
「ほら、あそこ。行けるか?」
「・・・うん」
黒井を送り出し、入り口の辺りで待った。夜は少し冷えて、マフラーをしてくるんだったな、と思った。ああ、あのカシミアも、そろそろ防虫剤を入れてしまわなきゃ。
すっきりした、と黒井が帰ってきて、よかったねと出迎えた。
そして、トイレの往復五分だけかと思った時間は、黒井が反対方向に歩き出して、延びていった。
「お、おい、そっちじゃ・・・」
「うん、ちょっと、酔い覚まし」
「ほんとに・・・平気か?」
「へーき」
ぐずぐずしている僕の手を取って、歩き出す。その手が思ったより熱くて、やっぱり忘年会の夜を思い出した。
「お、お前・・・結構酔ってるよ」
「ね、あっち行こ。桜、見たい」
振り向かず、やんわりと引っ張っていく。ぼんやりと白っぽい、六分咲きくらいの桜の下を通り過ぎて、でもその桜が見たかったわけでもないようで。
やがて花見の場所からは離れていって、暗い、森っぽい方に突入していく。え、ちょっと、立ち入り禁止とか書いてない?
「クロ、危ないよ」
「へーきへーき」
足元は潅木みたいのが突き出してるし、傾斜が落ち葉で滑りやすいし、っていうか場所は違うけど、まるで藤井のときみたいな・・・。
「ど、どこ行く気?」
「さあ、なんとなく」
公園の入り口からは全くの反対方向だった。何かの建物の横を過ぎ、喧騒が少し遠ざかる。
分け入った下りの獣道はすぐに終わり、普通の道に出た。しかし黒井は道沿いには歩かず、なおも直進する。また柵をまたいで、どこかに出た。
それは、神社だった。
公園内にあるお稲荷さん?それにしては大きい。暗くてよく見えないけど、右手の社に堤燈がさがっていて、・・・<熊野神社>?
「・・・神社、だね」
「・・・うん」
「知ってたの?」
「・・・ううん」
そして、黒井はその先にあった桜を見上げた。垂れ下がるほどの枝ぶりで、ぼんやりと白い。その横顔はやっぱり雪を見るときと同じそれで、手の届かない何かを、求めていた。
しばらく二人で、桜を眺めた。まるで、この西新宿の地で伝説の何かを見つけて、たどりついたかのように。風が吹いてひらりと花びらが舞い、雪より遅いスピードで、ぴらぴらと落ちていった。
「桜が、散りそう」
ふいに黒井が、意味ありげにつぶやいた。
「・・・え?」
「今、思い出した。お前は俺に、そう言ったんだ」
「・・・何が?」
「言ったんだよ。俺は、桜が散りそうだって」
その、舞い落ちた花びらの上を歩いて桜の根元まで行くと、黒井はその場に腰を下ろした。そして、「ね、おべんと食べよ」と。「あ、酒、忘れたよ」と言うので、僕は鞄の重さに思い当たり、「・・・ちゃんとある」と、サンドイッチとウイスキーの箱を取り出した。
・・・・・・・・・・・・・・
丘の上の優雅な夜桜スポットでもなくて、ただ地べたに座り込んでるだけだけど、とりあえず誰もいなくて、二人きりの花見だった。
「さっきの、桜が散るって何のこと?」
隣でサンドイッチをパクつく黒井に訊いてみる。
「・・・だからね、お前が、俺の、中と外が合ってないって、そんな話、した」
「そう、だっけ」
「そーだよ。俺は・・・ええと、本当は綺麗好きじゃないから、そこに、何ていうか違和感があって、でもそれは魅力的じゃないんだって・・・」
「えっ、何だそれ・・・。い、いつの話?」
「いつだったかな。でも確か俺んちだよ。何か、風呂を洗ってもらった時かなあ。結構前だよ」
「それを・・・今思い出したの?」
「うん。そういえば、あの時から、俺がそういうこと言い出す前からさ、やっぱりお前は俺のこと分かってたんだ」
「み、魅力的じゃないとか、そんなこと・・・」
「違うって。ええと、他にも何か・・・壁がひび割れてるから目立つんだとか、とにかくそんなこと言われた。でさ、俺、意味はよくわかんなかったけど、でも言い当てられたんだって、どきっとしたんだ。ああ、やっぱバレてたんだって」
そう言ってウイスキーの箱を開け、「いつ買ったの?」と言いながら、瓶の蓋を開けてぐいと呷る。
「お、おい」
「うへっ、きつい」
「ストレートなんて、ちょっとにしとけ」
「そこの水汲んで、水割りにしよっか」
横の手水場を指さして笑うので、「だめだめ」と止める。しかし、瓶を片手に立ち上がって、柄杓を手にした。
「ちょ、ちょっと。コップとか持ってくればよかったけどさ」
「・・・」
「あ、何、水飲むの?」
「・・・」
「お、おいクロ、柄杓に酒入れたりしちゃだめだからな?」
僕も立ち上がって隣に立つと、「そんなことしないって」、と。しかし柄杓で水を汲んだまま飲みはせず、それを僕の方に向けた。
「え、何、手洗えって?」
「ちがうよ」
柄杓と黒井の顔を交互に見て「?」と目で訴えると、「手、出して」と言われた。
「え?何、手を洗うの?」
「ちがう。お前がコップになんの」
「はい?」
「ほら、手、出して。水、こぼさないで」
勝手に流し始めるので、慌てて両の手のひらをお椀にして受け止める。それでも指の隙間から少しずつ漏れていく。
「もっとちゃんと!」
「む、むずかしいよ」
もう一度柄杓から水を注がれ、一生懸命その透明なものを保った。そこに黒井が急いで瓶を傾け、トクトクトク・・・と甘美な音が鳴る。
「い、入れすぎ!」
「できた!」
黒井は瓶を置くと、僕の手を自分の手で包み込むようにして僅か持ち上げ、そこに顔をつっこんで乱暴な水割りをすすった。ずるずると音を立てて吸い、んぐ、んぐ、と喉を鳴らす。何で、下半身のそれから何かを吸い取られてるような、錯覚・・・。
「お、お前・・・」
「・・・んん、うまくは、ないけど、うまい」
そして、その手を離すことなく、僅かに残っているそれを僕の方へと持ち上げる。
「お前も、いっちゃって?」
「え・・・」
「ほらはやく。なくなっちゃう」
今飲んだせいってこともないだろうが、その包み込む両手が熱を帯びてきたような気がするし、真正面から「いっちゃって?」とささやかれて今度は胸の辺りがひゅうと透ける。そして、二人で大事に、二人の間にある何かを、やがてなくなっていく何かを両手で守りながら向かい合っているこの瞬間が、この上なく、切ない気がして・・・。
「あっ」
その時、つと、手の中の水に、桜の、花びら。
僕と黒井は一瞬無言で目を見合わせ、次の瞬間、僕は何も考えずに自分の手を引き寄せ、顔を覆うように、最後に残った水と、そしてその花びらを、吸い込んだ。
・・・・・・・・・・・
「食べた?」
「ん、んー・・・」
口の中を舌で探るけど、花びらは薄いし味もないし、飲み込んでしまったのか口の中のどこかに貼りついているのか、よく分からなかった。
「口、開けて?」
「ん?」
歯医者みたいに覗き込んでくるので、仕方なく口を開け、「えー」と舌を出してみせる。
・・・か、顔が、近いって。
僕は目を逸らし、何かを診断されるのを待った。え、っていうか、桜ってそのまま食べたらまずかったのかな。塩漬けとかにしないと、毒だったりする?お前が美味しいって言うから、つい食べちゃったんだけど・・・。
「あ、ちょ、ちょっとそのまま・・・」
もう、唾を飲み込まないと、開けっぱなしはきついんですけど。そう思って目をつぶったとき、両の肩をつかまれて、あたたかい何かが入ってきた。
「っ・・・!」
驚いて急に息を吸い込み、その舌を噛むわけにもいかないから口を閉じきれず、少し溜まった唾を飲み込みきれなくて、僕は餅を喉に詰まらせた人みたいに黒井の腕をばしばし叩いた。その舌が出て行ってしまうとようやく僕は涙目で咳き込み、膝に手をついてはあはあと荒い息をついた。そして、まるで何もなかったかのように黒井が僕の背中をさすった。
「かはっ・・・、はあ、はあ・・・。い、いきなり、何・・・」
前かがみになったまま、何度か咳をした。でも本当は、大げさにそうしてるだけ。だって、どんな顔で頭を上げればいいか、時間稼ぎ。・・・舌の感触が、まだ残っている。熱くて、少し薄い、よく動くえろい舌・・・。もう、味を覚えてきちゃった。お前以外、受けつけない身体になりそう。
軽く咳き込みながら体を起こし、ようやく黒井を見る。すると、口をもごもごさせてその舌を出し、舌先についた花びらを自慢げに見せ、かっこつけて片目をつぶった。いや、カッコがついちゃうわけだけど。
「お、お前、それは俺のだよ!」
「んー!」
「言えばやるのにさ。や、やり方が卑怯なんだよ」
一瞬で舌はしまわれて、「お前も奪ってみれば?」なんて、逃げ出す。
「お、おい!」
「へへっ。もう、んんー、飲み込んじゃうかも」
「待てって!」
神社の境内で、夜の鬼ごっこ。っていうか、捕まえたってどうするつもりなんだ、俺。
鳥居をくぐり、黒犬を追っかけて坂道を駆け下りるとそこは大通りで、歩道を全力ダッシュ。ふいに黒井が消えたかと思うと、別の階段からまた神社へと戻る道。ほら、酔っ払いに昇り階段で追いつくのなんか簡単だ。後ろから抱きついて捕まえ、二人とも笑いながらその場にへたりこんだ。そして、階段に座り込む黒井を、僕は「捕まえた・・・」と、押し倒した。
「・・・もう、きっと、飲んじゃった、よ」
軽く息切れしながら階段に頭を乗せ、黒井は夜空を仰ぎ見る。のけぞった喉に、その中を通っていく花びらを羨むほど、そそられた。
「いいよ、お前に、やるって」
「・・・はあ、急に、欲しく、なったんだ」
「だったら、最初から、そう言えば・・・」
「違う。そうじゃない。あの時はそう思わなくて、でも、・・・欲しくなって、だからちゃんと、自分の力で、それが、欲しくて・・・」
アユミさんがさ、なんて言うから嫉妬の準備をしたら、マヤのライバルの話だった。演劇の、マンガだ。
「亜弓さんが言ってたんだよ。<自分の力、自分の力・・・!!>ってさ。学校の運動会で、転んでもごぼう抜きしながら、親の七光りでも、元からの美貌でもなく、自分だけの力で勝ち取るんだって、必死なんだ。周りから何でも出来てさすがねって半分笑われながら、それを黙らせるくらいのハンデを越えてみせようとさ、歯を食いしばって、必死なんだ・・・」
階段の段違いに腰掛けて、神社と通りの狭間で独白は続く。花びらが、時折僕たちの上に舞い散った。
「だから、わざわざ、欲しいかって訊かれて、うんって言って親切にもらうなんて、何の意味も、なくてさ。俺が自分の直感で見つけた神社で、自分で奪った桜だ」
「・・・」
「・・・笑う?」
「・・・」
ゆっくり、一度かぶりを振った。僕がかけるような安直な言葉は全部、花びらと一緒に、階段の下に掃き出した。
「お前は卑怯って言うかもしんないけど、俺にはこれしかないんだ。だから、許して・・・」
僕は黒井の二段ほど下で、顔を背けて、通りを見遣った。胸がきゅうと痛む。許すも、許さないも、ないだろう。俺はただ、そこに一緒にいられただけで、それだけで幸せだって、その舌が忘れられないって、おめでたいだけの男なんだ。
「・・・もう、帰ろう、か」
「・・・うん」
「このまま、帰っちゃおう」
「え?」
その声の調子が、「一緒に帰っちゃおうよ?」ではなくて、ただ自分で決めた独り言みたいな響きで、僕が思わず振り向くと、黒井はもう立ち上がっていた。
「今日はもうこれでいいよ。これ以上することない。帰る」
「・・・み、みんなのとこは」
「お前、戻るなら俺帰ったって言っといて」
「・・・っ」
黒井はトン、トンと階段を下りながら、腕を上げて伸びをして、振り向きもしない。胸が詰まって、動けなくて無言で見送りそうになるけど、今日は、俺だって、諦めない・・・。
「待てよ!一人で、行っちゃうのかよ」
駆け下りて、その腕をいじましくつかむ。
「え?お前も、帰る?」
「・・・」
「いいよ。一緒に、途中まで」
「と、途中って?」
「今日は一人で帰るからさ。うち」
「え?」
「・・・ああ、別に、一緒に帰るわけじゃないか。お前は自分ち、帰るよね」
僕はまた胸を詰まらせて、「待ってて」と言い置き、階段を駆け上って鞄を取りに戻った。その後思い出して引き返し、ジョニー・ウォーカーの瓶をひっつかんで、すでに歩き出している黒井の後を、追った。
「あれ、さっき出したのに・・・」
つぶやきながら黒井の元に戻ると、「それね、俺が入れといたの」、と。
「え、何で?」
「食べたかったから」
「・・・そ、そう」
そのまま、またトイレへの道をゆっくりと歩く。・・・やっぱり、二人きりでいたいよ。みんなの前で<仲良し>表明するのも嬉しいけど、こうして、何も話さなくても、二人で歩きたい。お前がどうかは、知らないけど、さ。
「ほら、あそこ。行けるか?」
「・・・うん」
黒井を送り出し、入り口の辺りで待った。夜は少し冷えて、マフラーをしてくるんだったな、と思った。ああ、あのカシミアも、そろそろ防虫剤を入れてしまわなきゃ。
すっきりした、と黒井が帰ってきて、よかったねと出迎えた。
そして、トイレの往復五分だけかと思った時間は、黒井が反対方向に歩き出して、延びていった。
「お、おい、そっちじゃ・・・」
「うん、ちょっと、酔い覚まし」
「ほんとに・・・平気か?」
「へーき」
ぐずぐずしている僕の手を取って、歩き出す。その手が思ったより熱くて、やっぱり忘年会の夜を思い出した。
「お、お前・・・結構酔ってるよ」
「ね、あっち行こ。桜、見たい」
振り向かず、やんわりと引っ張っていく。ぼんやりと白っぽい、六分咲きくらいの桜の下を通り過ぎて、でもその桜が見たかったわけでもないようで。
やがて花見の場所からは離れていって、暗い、森っぽい方に突入していく。え、ちょっと、立ち入り禁止とか書いてない?
「クロ、危ないよ」
「へーきへーき」
足元は潅木みたいのが突き出してるし、傾斜が落ち葉で滑りやすいし、っていうか場所は違うけど、まるで藤井のときみたいな・・・。
「ど、どこ行く気?」
「さあ、なんとなく」
公園の入り口からは全くの反対方向だった。何かの建物の横を過ぎ、喧騒が少し遠ざかる。
分け入った下りの獣道はすぐに終わり、普通の道に出た。しかし黒井は道沿いには歩かず、なおも直進する。また柵をまたいで、どこかに出た。
それは、神社だった。
公園内にあるお稲荷さん?それにしては大きい。暗くてよく見えないけど、右手の社に堤燈がさがっていて、・・・<熊野神社>?
「・・・神社、だね」
「・・・うん」
「知ってたの?」
「・・・ううん」
そして、黒井はその先にあった桜を見上げた。垂れ下がるほどの枝ぶりで、ぼんやりと白い。その横顔はやっぱり雪を見るときと同じそれで、手の届かない何かを、求めていた。
しばらく二人で、桜を眺めた。まるで、この西新宿の地で伝説の何かを見つけて、たどりついたかのように。風が吹いてひらりと花びらが舞い、雪より遅いスピードで、ぴらぴらと落ちていった。
「桜が、散りそう」
ふいに黒井が、意味ありげにつぶやいた。
「・・・え?」
「今、思い出した。お前は俺に、そう言ったんだ」
「・・・何が?」
「言ったんだよ。俺は、桜が散りそうだって」
その、舞い落ちた花びらの上を歩いて桜の根元まで行くと、黒井はその場に腰を下ろした。そして、「ね、おべんと食べよ」と。「あ、酒、忘れたよ」と言うので、僕は鞄の重さに思い当たり、「・・・ちゃんとある」と、サンドイッチとウイスキーの箱を取り出した。
・・・・・・・・・・・・・・
丘の上の優雅な夜桜スポットでもなくて、ただ地べたに座り込んでるだけだけど、とりあえず誰もいなくて、二人きりの花見だった。
「さっきの、桜が散るって何のこと?」
隣でサンドイッチをパクつく黒井に訊いてみる。
「・・・だからね、お前が、俺の、中と外が合ってないって、そんな話、した」
「そう、だっけ」
「そーだよ。俺は・・・ええと、本当は綺麗好きじゃないから、そこに、何ていうか違和感があって、でもそれは魅力的じゃないんだって・・・」
「えっ、何だそれ・・・。い、いつの話?」
「いつだったかな。でも確か俺んちだよ。何か、風呂を洗ってもらった時かなあ。結構前だよ」
「それを・・・今思い出したの?」
「うん。そういえば、あの時から、俺がそういうこと言い出す前からさ、やっぱりお前は俺のこと分かってたんだ」
「み、魅力的じゃないとか、そんなこと・・・」
「違うって。ええと、他にも何か・・・壁がひび割れてるから目立つんだとか、とにかくそんなこと言われた。でさ、俺、意味はよくわかんなかったけど、でも言い当てられたんだって、どきっとしたんだ。ああ、やっぱバレてたんだって」
そう言ってウイスキーの箱を開け、「いつ買ったの?」と言いながら、瓶の蓋を開けてぐいと呷る。
「お、おい」
「うへっ、きつい」
「ストレートなんて、ちょっとにしとけ」
「そこの水汲んで、水割りにしよっか」
横の手水場を指さして笑うので、「だめだめ」と止める。しかし、瓶を片手に立ち上がって、柄杓を手にした。
「ちょ、ちょっと。コップとか持ってくればよかったけどさ」
「・・・」
「あ、何、水飲むの?」
「・・・」
「お、おいクロ、柄杓に酒入れたりしちゃだめだからな?」
僕も立ち上がって隣に立つと、「そんなことしないって」、と。しかし柄杓で水を汲んだまま飲みはせず、それを僕の方に向けた。
「え、何、手洗えって?」
「ちがうよ」
柄杓と黒井の顔を交互に見て「?」と目で訴えると、「手、出して」と言われた。
「え?何、手を洗うの?」
「ちがう。お前がコップになんの」
「はい?」
「ほら、手、出して。水、こぼさないで」
勝手に流し始めるので、慌てて両の手のひらをお椀にして受け止める。それでも指の隙間から少しずつ漏れていく。
「もっとちゃんと!」
「む、むずかしいよ」
もう一度柄杓から水を注がれ、一生懸命その透明なものを保った。そこに黒井が急いで瓶を傾け、トクトクトク・・・と甘美な音が鳴る。
「い、入れすぎ!」
「できた!」
黒井は瓶を置くと、僕の手を自分の手で包み込むようにして僅か持ち上げ、そこに顔をつっこんで乱暴な水割りをすすった。ずるずると音を立てて吸い、んぐ、んぐ、と喉を鳴らす。何で、下半身のそれから何かを吸い取られてるような、錯覚・・・。
「お、お前・・・」
「・・・んん、うまくは、ないけど、うまい」
そして、その手を離すことなく、僅かに残っているそれを僕の方へと持ち上げる。
「お前も、いっちゃって?」
「え・・・」
「ほらはやく。なくなっちゃう」
今飲んだせいってこともないだろうが、その包み込む両手が熱を帯びてきたような気がするし、真正面から「いっちゃって?」とささやかれて今度は胸の辺りがひゅうと透ける。そして、二人で大事に、二人の間にある何かを、やがてなくなっていく何かを両手で守りながら向かい合っているこの瞬間が、この上なく、切ない気がして・・・。
「あっ」
その時、つと、手の中の水に、桜の、花びら。
僕と黒井は一瞬無言で目を見合わせ、次の瞬間、僕は何も考えずに自分の手を引き寄せ、顔を覆うように、最後に残った水と、そしてその花びらを、吸い込んだ。
・・・・・・・・・・・
「食べた?」
「ん、んー・・・」
口の中を舌で探るけど、花びらは薄いし味もないし、飲み込んでしまったのか口の中のどこかに貼りついているのか、よく分からなかった。
「口、開けて?」
「ん?」
歯医者みたいに覗き込んでくるので、仕方なく口を開け、「えー」と舌を出してみせる。
・・・か、顔が、近いって。
僕は目を逸らし、何かを診断されるのを待った。え、っていうか、桜ってそのまま食べたらまずかったのかな。塩漬けとかにしないと、毒だったりする?お前が美味しいって言うから、つい食べちゃったんだけど・・・。
「あ、ちょ、ちょっとそのまま・・・」
もう、唾を飲み込まないと、開けっぱなしはきついんですけど。そう思って目をつぶったとき、両の肩をつかまれて、あたたかい何かが入ってきた。
「っ・・・!」
驚いて急に息を吸い込み、その舌を噛むわけにもいかないから口を閉じきれず、少し溜まった唾を飲み込みきれなくて、僕は餅を喉に詰まらせた人みたいに黒井の腕をばしばし叩いた。その舌が出て行ってしまうとようやく僕は涙目で咳き込み、膝に手をついてはあはあと荒い息をついた。そして、まるで何もなかったかのように黒井が僕の背中をさすった。
「かはっ・・・、はあ、はあ・・・。い、いきなり、何・・・」
前かがみになったまま、何度か咳をした。でも本当は、大げさにそうしてるだけ。だって、どんな顔で頭を上げればいいか、時間稼ぎ。・・・舌の感触が、まだ残っている。熱くて、少し薄い、よく動くえろい舌・・・。もう、味を覚えてきちゃった。お前以外、受けつけない身体になりそう。
軽く咳き込みながら体を起こし、ようやく黒井を見る。すると、口をもごもごさせてその舌を出し、舌先についた花びらを自慢げに見せ、かっこつけて片目をつぶった。いや、カッコがついちゃうわけだけど。
「お、お前、それは俺のだよ!」
「んー!」
「言えばやるのにさ。や、やり方が卑怯なんだよ」
一瞬で舌はしまわれて、「お前も奪ってみれば?」なんて、逃げ出す。
「お、おい!」
「へへっ。もう、んんー、飲み込んじゃうかも」
「待てって!」
神社の境内で、夜の鬼ごっこ。っていうか、捕まえたってどうするつもりなんだ、俺。
鳥居をくぐり、黒犬を追っかけて坂道を駆け下りるとそこは大通りで、歩道を全力ダッシュ。ふいに黒井が消えたかと思うと、別の階段からまた神社へと戻る道。ほら、酔っ払いに昇り階段で追いつくのなんか簡単だ。後ろから抱きついて捕まえ、二人とも笑いながらその場にへたりこんだ。そして、階段に座り込む黒井を、僕は「捕まえた・・・」と、押し倒した。
「・・・もう、きっと、飲んじゃった、よ」
軽く息切れしながら階段に頭を乗せ、黒井は夜空を仰ぎ見る。のけぞった喉に、その中を通っていく花びらを羨むほど、そそられた。
「いいよ、お前に、やるって」
「・・・はあ、急に、欲しく、なったんだ」
「だったら、最初から、そう言えば・・・」
「違う。そうじゃない。あの時はそう思わなくて、でも、・・・欲しくなって、だからちゃんと、自分の力で、それが、欲しくて・・・」
アユミさんがさ、なんて言うから嫉妬の準備をしたら、マヤのライバルの話だった。演劇の、マンガだ。
「亜弓さんが言ってたんだよ。<自分の力、自分の力・・・!!>ってさ。学校の運動会で、転んでもごぼう抜きしながら、親の七光りでも、元からの美貌でもなく、自分だけの力で勝ち取るんだって、必死なんだ。周りから何でも出来てさすがねって半分笑われながら、それを黙らせるくらいのハンデを越えてみせようとさ、歯を食いしばって、必死なんだ・・・」
階段の段違いに腰掛けて、神社と通りの狭間で独白は続く。花びらが、時折僕たちの上に舞い散った。
「だから、わざわざ、欲しいかって訊かれて、うんって言って親切にもらうなんて、何の意味も、なくてさ。俺が自分の直感で見つけた神社で、自分で奪った桜だ」
「・・・」
「・・・笑う?」
「・・・」
ゆっくり、一度かぶりを振った。僕がかけるような安直な言葉は全部、花びらと一緒に、階段の下に掃き出した。
「お前は卑怯って言うかもしんないけど、俺にはこれしかないんだ。だから、許して・・・」
僕は黒井の二段ほど下で、顔を背けて、通りを見遣った。胸がきゅうと痛む。許すも、許さないも、ないだろう。俺はただ、そこに一緒にいられただけで、それだけで幸せだって、その舌が忘れられないって、おめでたいだけの男なんだ。
「・・・もう、帰ろう、か」
「・・・うん」
「このまま、帰っちゃおう」
「え?」
その声の調子が、「一緒に帰っちゃおうよ?」ではなくて、ただ自分で決めた独り言みたいな響きで、僕が思わず振り向くと、黒井はもう立ち上がっていた。
「今日はもうこれでいいよ。これ以上することない。帰る」
「・・・み、みんなのとこは」
「お前、戻るなら俺帰ったって言っといて」
「・・・っ」
黒井はトン、トンと階段を下りながら、腕を上げて伸びをして、振り向きもしない。胸が詰まって、動けなくて無言で見送りそうになるけど、今日は、俺だって、諦めない・・・。
「待てよ!一人で、行っちゃうのかよ」
駆け下りて、その腕をいじましくつかむ。
「え?お前も、帰る?」
「・・・」
「いいよ。一緒に、途中まで」
「と、途中って?」
「今日は一人で帰るからさ。うち」
「え?」
「・・・ああ、別に、一緒に帰るわけじゃないか。お前は自分ち、帰るよね」
僕はまた胸を詰まらせて、「待ってて」と言い置き、階段を駆け上って鞄を取りに戻った。その後思い出して引き返し、ジョニー・ウォーカーの瓶をひっつかんで、すでに歩き出している黒井の後を、追った。
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拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【完結】君の穿ったインソムニア
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