黒犬と山猫!

あとみく

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コペンハーゲン・アゲイン

第220話:アトミク夢見勝負

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 その小さい羽虫の、幼虫が、排水口の水辺にいるって知ってるから、容赦なくどろっとした洗剤を流し込んだ。
 風呂桶と壁の隙間にも、どくどくと流し込む。
 経験があるからうろたえたりしないし、行動も迅速だ。
 あとは一時間くらいおいて水で流すだけ。薬剤の力は偉大だ。
 深い満足を覚え、風呂場を出ると、玄関でガチャガチャと音がし、どんどんと叩く音。
 ・・・ああ、鍵を締めちゃったんだっけ。
「ああ、ごめん、ごめん!」
 慌てて開けると、荒く息をついてだらりと疲れきった黒犬。
 灰色のTシャツの、胸の辺りが汗ですっかり濃くなっている。
「あ、暑い。シャワー、浴びたい・・・」
 キャップを取ると、その髪もじっとりと湿って顔に貼りついていた。立ち昇る上気した体温と汗のにおいで、僕は思わず下を向く。
 ・・・あの、たまんないんですけど。
 「あー疲れた」って僕のTシャツの肩で額の汗をぬぐって、ふらふらと風呂場に向かう。でも、ああ、今だめだって!
「ちょ、ちょっと待ってクロ、今入れないんだよ!まだ洗剤流せないから、もうちょっと・・・」
「え、なに、入れないの?あ、暑い。汗かいたよ」
「クーラー入れてちょっと待ってて、ごめん」
「はあ、お前、少し冷えてる、気持ちいい・・・」
 その熱く湿った手のひらで腕を握られ、頬を合わせられて、もう瞳孔が開きそう。この官能的なにおい、どうしろっていうの?
 それから黒井は、そのTシャツを、僕の目の前で脱いだ。
 何だか外国のサッカー選手みたいな脱ぎ方。ファンタジスタ!
 そして、そのままそれで汗を拭いて、丸めて僕に寄越した。
「ま、まったく、自分で洗濯カゴに・・・」
 後ろを向いて洗濯機に向かいながらシャツに顔をうずめるか、このまま黒井の裸を拝むか、二つに一つだけど、どうしよう、決めきれないよ・・・。

 結局二兎を追うものは0.7兎くらいを得て、シャツのにおいを一瞬堪能して振り向いたら黒井はもう新しいシャツを着ていた。
 ・・・今、その胸を舐めたら、しょっぱいかな。
「ねこ、クーラーのリモコン!」
「は、はいっ!」
 黒井は床に大の字になり、クーラーをかけてやると、また寝てしまいそうだった。
「おいおい、まだ昼にもなってないぞ。もう寝るの?」
「うるさいな、シャワー浴びるまで、だけ、だよ・・・」
「よく寝るなあ黒犬先生」
「・・・おまえ、ねむく、ないの・・・?」
 眠い、けどさ。
 いや、だめだ、今寝たら、洗剤が・・・。
 黒井の隣に丸まって寝てしまいたい欲求が身体のほとんどを占めたけど、最後の理性で、いや、意地で、耐えた。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 結局寝てしまった黒犬をおいて買い物に出て、冷やし中華を買ってきた。
 それから風呂場を流して、まだ塩素のにおいがするけど、汗だくの黒犬を入れてやらないと・・・。

 その後は、カーテンを開けた部屋で、一緒に<ATOM>の第四章を読んだ。
 内容としては、謎のアルファ粒子と闘って迷走気味のラザフォード先生が、執念で加速器を作りあげるくだりだ。
 第三章の、<量子力学の王子たち>による劇的なひらめきや発見の数々もエキサイティングだったけど、理論家でなく実験家たちの実際的な努力にも心動かされるものがあった。
 そんなことを話して、お互いが、理論家タイプなのか実験家タイプなのかって話になった。
「だってお前は理屈だけでしょ?」
「そ、そんなことない。地道な作業だって好きだ」
「あ、そうか。じゃあ両方?」
「いや、まあ、両方得意ってことなのか、わかんないけど。でもまあ、お前は・・・あれ、どっちだろ」
「え、お前はどっちも出来て、俺はどっちもだめ?」
「いや、何ていうか、もっと芸術方向とか?」
「えー何それ」
「どうも、クロはさ、枠にはまんないっていうか、一つに定まらないっていうか。あえて言えば、スナフキンみたいな放浪者?」
「へえ、そんなイメージ?まあ、俺もハーモニカ好きだよ」
「ふ、ふうん」
「鉄くさくて、唇が擦れるけど」
 僕は思わずその唇を見つめて、慌てて目を逸らした。
 

・・・・・・・・・・・・・・・


 なぜだか後ろからのぞき込まれながら冷やし中華を作り、それを食べて、洗い物も済ませたら、いよいよその時が来た。
 胸がぎゅうぎゅう痛いのと。
 もっともっと深い繋がりと満たされる一体感を求める気持ちと。
 それから、もう頭がぐらぐらして眠くてしょうがなくて、とにかくアトミクな夢を見て勝つんだという思いと。
「じゃあ、寝よ」
「お、お前、まだ寝れるの?」
「寝れる」
「三年寝太郎だ」
「・・・眠れる森の美女とかにしてくれない?」
「美女じゃない」
「眠り姫」
「同じだし、姫じゃない」
「じゃあ眠れる獅子」
「・・・黒犬だろ?」
「わん」
「ほら、眠れないんだろ?また走ってこいよ。俺は徹夜で眠いんだ。寝るよ」
 わんわん、と体を揺すぶられ、「やめろよ!」と笑う。ああ、何て甘いんだ。でも眠い。
 枕元にチラシと鉛筆を用意して、とにかく物理の夢を見よう。お前とのあられもない夢なんか見たら、忘れたことにして負けるしかなくなる・・・。
「お、おい、クロ。今回は負けたらどうなる」
「えーと、うーんと、負けた方が、夕飯を作る」
 ・・・く、クロの手料理!
「・・・っ、ま、負けないからな」
「俺だって」
「おやすみ。もう寝る、声かけないで」
「うーん、お前が負けた方が、うまい夕飯にありつけるんだけど?」
「うるさい、黙って」
「何だよ、作るの嫌?」
「黙れクロ公、人が作る飯はうまいんだ」
「えー、俺のはそんなうまくないよ?」
「味付けがどうとか、手間暇かかってるかとか関係なく、ただそれはうまいんだ」
「ふうん。でもいいや、俺が勝つから」
「俺だね」
「・・・どうしてお前、いつもシニカルなくせに勝負になるとムキになんの?」
「・・・え、そう、だな。確かに」
 それはもちろんお前の作った飯が食いたいから・・・だけど、たとえそうじゃなくたって、負けたくないと思った。
 どうしてだろう。
 ミステリの知識とかで負けたくないなら分かるけど、こんな、偶然に任せた夢見勝負なんかで負けたくない理由があるはずもない。
 でも、なぜか、言われたら、絶対勝つって反射的に思った。あの本番の時も、それから携帯を取り合ったり、冷たい手を腹に突っ込んだり、どうでもいいじゃれあいの時だって。
 もちろん、相手がお前だからだ。それ以外の相手なんか眼中にない。でも、たとえ好きな相手だからって、勝ちを譲ろうとか、勝負なんかせず仲良くやろうとか、そんなことは一瞬も思わないのだった。
 ・・・もしかして、こういう、馬鹿げた追いかけっこみたいなことを、俺は、本気で、したかった?
 鬼ごっこだろうがかくれんぼだろうが、斜に構えて本気でやったこともないし、わざと鬼になったりして周りの空気をしらけさせたものだ。それからはだんだん<この指止まれ>に入ることもなくなって、遊びに加わることもなくなっていった・・・。
 本当は、やりたかったのか。
 勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。
 そういう当たり前のことを、遠慮せず、恥ずかしい思いもせず出来る相手。そういう自分を、見せられる相手。
 ・・・だから、だよ。俺がムキになる理由。
 理屈を紡ぎ終わる頃には、黒井はびくんと痙攣し、眠りに落ちていた。おやすみ、クロ。よいアトミクの夢を。


・・・・・・・・・・・・・・


 ・・・。
 ・・・確か、ええと、図書館。
 いや、その前に、神社に・・・。
 水野だ。あいつは小学校の同級生。そんなやつ思い出しもしなかったのに、一緒に車に乗ってた。もう一人は、たぶん、クロ。はっきりは分からないけど、背の高い男だった。
 車に何か乗せて、運んでた。納品するって言ってたけど、コーラやポテトみたいな食べ物ばかりだったな。
 そう、神社を目指してて、それは上空からの航空写真的には見えていて、パンフレットの見取り図みたいなものも僕には見えていたんだけど、階段に車が入れなかったのか、道が分からなかったのか、結局たどり着けなかった。
 それで図書館に行って、ああ、「あと十五分です」って女性の司書に言われたな。僕は急がなきゃ、と焦ったけど、クロみたいなやつが、「まだ全然平気だ」って言うから、じゃあいいかって棚を見て回ったんだ。
 ・・・そうだ、物理の棚を探した!
 そう、下の方に、ものすごい分厚い、十センチ以上あるような、図鑑というか、ビジュアルブックというか、とにかく一番厚い顧客台帳より厚いような、つるつるのファイルっぽい本があった。
 表紙には、黒の地に、白でくっきり、極太フォントの<光>の文字。
 光についての本だった。
 中は見てないけど、たぶん、光が宇宙をどんな風に旅するか、みたいな内容だ。宇宙の神秘的でカラフルな写真と解説がつづられていたんだと思う。
 でも僕は、それは、そんなに興味がないからいいやと言う。
 宇宙とか星とかじゃなくて、もっと、原子や量子を探してたんだ。
 でも結局それらしい本はなかった。
 それから・・・。
 思い出せないな、その前に納品だったのか、納品の途中で図書館に寄ったのか。
 一通り思い出した後、枕元に手を伸ばして、キーワードをぐちゃぐちゃに書き付けた。
<神社、図書館、光、車、水野、クロ?、十五分前、・・・>
 それから、神社や図書館への道のりを図に描く。結構カーブの多い道で、こっちの山の上に神社があるらしくて、納品先はもっと西・・・。 
「・・・はんぶん、だ」
 ・・・え?
「こっちからこっち・・・」
「え?」
 仰向けに寝ていた黒井が、その腹の上で手を動かした。薄暗い部屋で顔を見るけど、目は閉じたまま。
 豆腐を二つに切り分けるみたいに、手のひらを縦にして腹に当て、ずいと奥へ押し出すような動きをした。
「今はあっち側・・・」
 な、何だ、僕に喋ってるのか?
 夢の内容を話してる?
 それとも、寝言?
「にぶんのいち」
「・・・」
 それから、腹に当てていた手はぐったりと横に落ち、すうと寝息が漏れた。
 しかし少しするとまた、「・・・しょうふなんだ」と言った。
「え?」
「・・・」
 また、寝てしまう。
 いったい何なんだ?
 とにかく今言ったことをメモすればいい?
<半分、こっち、二分の一、しょうふ?>
「・・・んー」
 ついに黒井は目をこすって一度目を開けた。
 そして、「あっち側だよ」と閉じゆくまぶたで、僕に訴えた。
<あっち側>
「ねこ、おれ今変なこと言ってる」
 ん、これは本物か?
「でもだって、そう、だった」
 もう起きたのかな、メモしなくていいのかな・・・。
「ねえわかんなくなっちゃうよ、はやくきいて」
「え、え?お前、起きたの?喋れるの?」
「わかんなくなっちゃう!はやく!」
 黒井は寝たまま僕の腕を強くつかみ、というか爪を食い込ませてつねり、「いててて、わかった!」と僕は降参した。
「い、いいよ、メモするから、話して」
「ちがう、おれが今何言ったのか俺に訊いて」
「え、え、ええっと・・・!」
 僕は自分の夢の地図の上に走り書きされたメモを読み上げる。バインダーとかなくて、書きにくかったからよく読めないんだ・・・。
「ええ、半分、こっち、二分の一・・・」
「ああ、ああ、それはこれだ。うん、それから?」
「・・・しょうふ」
「しょうふ。うん、俺は娼婦だ。娼婦だったんだ。それから?」
「あっち側」
「ああ、それってこれのこっち、ってかあっちだよ」
「・・・ふん?」
「これ、ここのこれ。レンガみたいな、透明の、顕微鏡の、ほら、プレパラートみたいな」
「はあ」
「ここの半分からあっちが光ってて、今、こっちなんだよ。わかる?光ってる方が、その、あれなの」
「・・・あれ?」
「いや、その、活性化っていうか、生きてるっていうか、何て言うんだっけこういうの?」
 黒井はもどかしそうに「ほら、あれ!」と繰り返すが、正直、何のことやらさっぱりだ。
 ・・・黒井の頭は大丈夫か?
「えーと、あの・・・れ、れいき、れいきだ!」
「冷気?・・・霊気?」
「そう、励ますやつ」
「・・・あ、励起ね」
<(レンガ、プレパラート、光ってる方、励起)>
「ああ、これってたぶん原子ってか電子かな。やっぱ俺の勝ちだ」
「は?何言ってんの?意味不明だよ。俺の方がもっと明確に物理の棚を探した」
「たな?」
「図書館の物理学コーナーの棚だよ。お前のはいったいぜんたい何の話だかさっぱりわからん」
「だ、だから言ってるじゃん、これ・・・」
 黒井が起き上がって反論する。何度も手で<それ>を腹の上になぞってみせるけど、やっぱり分からない。
「その抽象的なそれが何だかは知らないけど、っていうかこの娼婦だのあっち側だのは何なんだ。原子に関係あるわけ?」
「それは・・・わかんない」
「俺の方がもっとちゃんと筋が通ってる。お前のは夢じゃなくて、何かただ寝ぼけてただけだ」
「・・・っ、で、でも、スピンは二分の一だろ」
「スピン?ええと、スピン二分の一は、電子?フェルミオン?」
「ほら、電子だ。スピン二分の一の電子だよ、今ここにあった」
「・・・電子は、ええと、レンガだのプレパラートだの、長方形じゃない。それに、スピン二分の一ってのは別に、長方形の物体を真っ二つに切り分けた半分、って意味じゃない」
「そ、それはそうだけど、その、もっと直感だよ。夢なんだからさ、正確さとかじゃなくて、イメージでしょ?」
「うっ、それは、確かに・・・」

 結局僕は黒井に押されて、図書館で<光>の本を退けた後、これぞという本が見つからなかったことが敗因となり、勝負に負けた。
 そして、僕は米を炊き、ベーコンとエリンギと冷凍のほうれん草を炒め、さっき買っておいたオージービーフを焼いた。
 でも、黒井は何だかんだ言ってキッチンで僕にまとわりつき、エリンギを切ってくれた。「このエリンギでかい」「切るの痛い」って、ああ、カサが削ぎ落ちちゃってるじゃないか。うう、変なこと言うなよ、妙に痛いから。

 二人で食べながら、「ねえ、楽しかったね」と黒井が笑った。
 僕も、「うん、すごく」と笑った。
 何で、こんなに幸せなんだろう。
 今朝まで、お前を監禁して殺して心中しちゃおうと思ってた僕なのに、どうしてこんなに心が晴れてるんだろう。
 お前に心臓を鷲掴みにされて、好きなように、気まぐれに弄ばれているみたい。
 僕が何のかんのと不安定に揺れてみたって、もしかして、お前に開いた穴の深さの方が強くて、僕の人生は、<俺のために生きてくれたらいい>に戻されているのかな。
「これうまいね」
「ほうれん草?」
「昔は、ちょっと苦いのが嫌いだったけど」
「うん」
 会社の同僚が二人、ありきたりな1Kの一室でフライパンに直接フォークを伸ばしてるってだけの、平凡な図だ。
 でも、本当は、そうじゃない。
 肉を切ろうと伸ばした僕のナイフが、ほんの微かに、震えてるの、気づいてる?お前は平皿に盛ったご飯に塩をかけながら、ねえ、表面的には仲の良い友達だけど、お前の中ではどういう図になっている?
「ねえ、次は何しよっか」
「うん?」
「次のアトミク」
「・・・まださっきの分析が済んでない。それに、物理史だってまだ」
「ええ?それもいいけど、何か新しいこともしようよ」
「まったく、やりっぱなしでどんどん先に行くなって。っていうか、そもそも・・・」
「うん?」
「・・・なんて、いうか、お前は、その」
「・・・ん?」
「だから、何だ、その、・・・お前にとって、こういう方向で、それは、どこかへ進んでるのかって」
 黒井は手を止めて少し考え、視線をさまよわせた後、「下地、かな」と言った。
「下地?」
「何だろう、イチかゼロかって話でいえば、ゼロだよ。相変わらずなんもない。でも何か、下地っていうか基礎っていうか、何かが埋まってるような、気はする」
「・・・うん」
「でも、そんなの明日には消えちゃうかもしれなくてさ。俺、何回基礎工事しても更地に戻っちゃうんだよね。だから俺はさ、頑張ってもだめなんだ」
「・・・だめなんて」
「違う違う。努力したって俺にはなんも出来ないって意味だよ」
「え?・・・意味じゃない、じゃなくて?」
 黒井は少し笑って、違う違うと繰り返した。
「たぶん俺は、努力とか頑張るとかじゃないんだよ。もっとこう、何ていうか、扉が開くか開かないかであって、頑張って毎日一ミリずつ開けてこう、じゃないんだよ」
「少しずつ、じゃない?」
「うん」
「もっと劇的な何か?」
「・・・どうかな、別に、そんなの何もなくたって、ある朝急にあったりしないかなって思うけど。まあ、ないんだけど!」
 黒井は声を上げて笑い、グラスの烏龍茶を飲んだ。その歯並びのいい白い歯と、口角の上がった綺麗な笑顔と、でも、瞳は少し悲しそうだった。
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