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夏目懐目。
中学生の時に、こう名乗らなければいけなくなった。
両親が離婚したのだ。僕は母親の苗字を名乗る事になった。
離婚させまいと仕込んだトリックも虚しく、離婚を切り出されざまあ見ろと思ったが、アイツは無傷だった。
『別れたら愛しの息子が名前の事でイジメを受ける』
用意して置いた最終手段を使わなくとも、言って欲しかった言葉が返って来たのだから。
『君の為なんだ』
夫婦という肩書きを捨てて、男と女に戻っただけ。
会えばキスもセックスもする。むしろ面倒な責任と束縛から解放された2人は、幸せそうだった。
金は捨てるほどある。子供という繋ぎがなくても、離れない事を確信した2人は、無敵だ。
父親の名前は椿懐石。
化粧品会社として有名だった“TSUBAKI”の若社長。次期社長を見据えた息子の名前が、椿懐目だった。
顔の整った社長と、美人な直属社員が結婚して生まれた息子は、美男子だった。
名前負けしないその外面が、彼を壊していった。
鏡を見れば、母親から生まれてきたのは一目瞭然。事実だと思い知らされる。
性別が違うハンデを感じさせないほど、そっくりな顔。
ーー体に流れる母親のの血は濃厚過ぎて、何もかもが遺伝した。
鏡を見なければ良い、なんてアホみたいな助言を言われた所で、鏡を見るのが癖な所までが似ているという自分に反吐が出る。
手首を切っても、流れてくるのは母親の遺伝子が混ざった血。
それなのに、出てきた血は美しくて、魅了された。
痛みも、残った醜い傷も、美しいと賞賛される母親に似た顔も全て。愛おしいく感じる自己愛。
母親を嫌いでいる僕が、愛おしくてたまらない。この感覚までもが、母親の思い通りなのだ。
自覚するたび死にたくなるナツメを、自殺させない為の4つ人格が存在した。
虚言癖。設定のなりきり。多重人格。メンヘラかまってちゃん……何とでも言ってくれてもかまわなかった。
曖昧な言い方で、濁したかったから。
症状に個人差があると聞かされていても、それに病名をつけられるのが嫌だった。
治療と称して、探られるのが嫌だった。
ナツメの生き方全てが醜いのは自覚していた。理解出来ない奴に、見られたくない。
ーー所詮、他人の評価。僕はこれが美しいと思って、生きてる。
【ツバキ】
両親を嫌うナツメに代わって、苗字の椿を最大限に利用して上手い生き方を導いてくれた人格。
主人格の座を時には取り合い、譲り合う。上手く共存してきたが、両親が離婚して名乗れなくなった途端、たまに顔を出すだけの一人格にまで降格した。
猫被りの良い子ちゃん。礼儀正しくて、愛想も良くて、仲良くしてくれる友人と両親が大好きな良い子ちゃん……全てを完璧に演じきる、優秀な人格であると同時に、他の人格への精神負担を加速させる、一番厄介な人格。
【ナツメ】と【ナツ】
今はほぼメインの人格になったのが、“ナツメ”。それに良く似た人格の“ナツ”。互いでさえ区別が難しい、曖昧な存在の人格。
猫被りのツバキが自我を出し、少しわがままになった程度。大きな違いと言えば、性癖程度だった。
バイのナツメと、女嫌いでゲイのナツ。母親のは人間嫌い。自分を好きな人間以外大嫌い。好きになった人間へのセックス依存……それらを強く引き継ぎ、我慢しないのがナツ。それがナツメにも影響が出た結果、バイとなったのだった。
柊静という1人の男を、4人共有の恋人にしている。
【なっちゃん】
女性への性転換を希望している女性人格。
他の人格と比べ、唯一嫌われている人格で、ナツメに中では孤独。
何故なら、母親に一番似ているとされる存在だからだ。
静を一番気に入っていて、気に入られているであろう人格。
ノンケ寄りのバイである静の寝る相手が出来るのは、彼女だけ。静の相手を他の人格がする事は、彼女が絶対許さない。
人格の切り替えは、他人の指示は勿論、ナツメたちの意思でも上手く行くものでは無い。
結局。“世間体に抗いきれない本心”を最優先した結果が反映される。
ーーだから。人格なんて立派なものでは無いのかもしれない。
自分の心と体を保守する為に必要な、設定。失敗や責任を押し付ける存在が必要だった。
自分を良く理解し、責めない、拒絶しない。自分以外の存在が必要だった。
******
静とナツメが出会うきっかけは、父親。ナツメがまだ高校生の時。
懐石には、妻とは別の愛人がいた。
懐石は、仕事もそれ以外も有能である、とある男に目を付けた……つもりでいた。
ーー懐石に見つかる様に目の前に現れ、気にいる様仕組んだというのが真実。これに気付くのは、本人以外にはいない。
父親の男性の愛人。その存在には気付いたが、名前も顔も知らない。
ーーそれで良い。不幸の始まりになれば良いのに。
その願いは虚しく、妻、公認である事にも気付いた。
公認と言うのも、上部だけの表現。あくまで“共有”している事は伏せての付き合いだった。男と妻の間にも、性の関係はあった。
互いに関係があることも知りながら、それを共有しない事によるスリルとして楽しんでいたのだ。夫婦にデメリットリットのないスリルは、快楽でしかなかった。
両親が自由本望に過ごすのに対し、愛人の男は、自分の正体が息子であるナツメにバレない様にすることだけは徹底した。
それが、ナツメにも伝わってくる程に。
ーー隠すのが普通。大人の対応なんだろうけど……でも、優しい人なのには変わりない、よね?
それさえ特別に感じてしまうのは、ナツメが愛を知らないのを……彼が知っているから。
ーーアイツらから、全部絞り取ってやるよ。
愛人である静は、ナツメのその心情を理解し、利用した。
この快楽を、これ以上分配してたまるかと、必死だった。
皆が騙される愛情の正体は、違った。そこにはスリルも独占欲もない。
求めているのは2人の体では無く、流れ出てくる無限の金。
その全てを手に入れる事だった。
ーー目的は金。
静は、より多く自分に金を費やすように媚び続けて来たが、自分が2人に深く関わるほど金使いは減り、息子に流れる金が増えていく事に気が付いた。
皮肉にも、世間とは逆の動きを始めた……静にとって、理想のネグレクト。
放棄している罪悪感を感じさせない、息子の存在を邪魔とも感じない……求めたのは完璧な無関心でいられる環境。
求めるそれが加速し、実現を目指し、全てを金で実現させた2人。
契約を済ませたマンションに閉じ込め、現金だけを置いていく……ただ、それだけ。
『連絡は一切するな。自殺は絶対するな。金ならいくらでも振り込んでやる』
ナツメの口座の金額は、殆ど動かなかった。
ナツメが使わないのもあったが、引き落とされる金額は直ぐに補充され、残高表記には常に横並びの0が居座り続けた。
それでも、静に流れる金は増えなかった。
静の愛は、偽りでしかなかった。それなのに、2人は気付かず、快楽に中にいた。
偽りの愛。体と精神を貢ぎ続けた静には、世間でいう“愛”の形で返ってきていた。
一緒に過ごす時間、食事、プレゼント。
出費は全て2人側が負担。それについてくる無償の抱擁、キス、性行為。
ーーこんなオマケいらない、金だ。
現金。将来まであり続ける保証。それが……静の必要な愛。
ーーどう貰うなら、アンタらの要らない“アレ”を、頂こうかな。
全てを手に入れる為に、静はナツメに目を付けた。
***
高校を卒業したナツメは、美容に関する専門学に通い始めた。
関心を持った自分の意識に両親の存在が関係無いとは言い切れず、優位な立場がその感覚を産み、進学もスムーズにさせた。
心にも無い『父の仕事をする姿を見てきたので』の言葉と、難なく用意され支払われる入学金。落ちる理由もなく、難なく入学。
恵まれたビジュアルとツバキの猫被りにまんまと騙される学校側は、彼を歓迎した。ナツメの出席日数、単位が足りなくとも、咎めなかった。無名の生徒の努力や実力から目を逸らし、多数の声を無視して。
学校の名誉の為に利用した。有名会社の社長の息子の肩書きを武器に、有名業界へ送りこみ、就職活動を全力でバックアップした。
そんな彼の状況を、両親は知らない。学校に行って出費が増えた程度の情報だけだった。
誰よりも早く彼の進学に気付き、この状況まで仕向けたのが、静だった。
静は、偶然を装ってナツメと出会う事を成功させた。
神は静に味方などしていない。只々、安易だっただけ。
ーーいくらナツメが両親を嫌っていても、本質は両親らと変わりは無い。
手での上で転がすことなど、容易な事に過ぎなかった。
***
初現場は研修を兼ねたメイク・スタイリストのアシスタント。
本来雑務を任されるであろう経験値と客相手に、早速ヘアメイクを任されたナツメだった。
現実離れした指示と、先輩スタッフからの冷酷な視線。
流石に初心者のナツメでも違和感を感じ取り、動揺を見せる。
そんな彼に唯一優しく話しかけてくれるのが現場のリーダーであった静。
その優しさは自分への信頼へと認識しつつ、確認をとるも、第一声は、「ごめんね」と謝罪だった。
「今日のお客さん、凄く有名な人なんだけど……若い人なんだ」
「若いって……僕よりもですか?」
「正確にはわからないけど。一緒くらい、かな? “こういう現場”が初めての人でね。緊張するからって要望あったからさ」
「じゃあ、それこそなんで僕が……」
「技術より、メンタルケアを優先したんだ。お得意様にしたいからね。ナツ君、優しいから」
「そ、そんな理由で?」
『先生到着しましたー』
その声と共に、たくさんのスタッフで混雑する控え室に、作業そっちのけで優遇対応で案内されて来た男が入室。
ラフな作業着のスタッフと見間違う程、冴えない男。
その客人を場違いに思わせる、整った顔の2人が迎え入れた。
他のスタッフは手持ちの衣装を置いたり、静に耳打ちで何かを伝える等をして、退室していく。残ったのはナツメと、静と、先生と呼ばれた男だった。
「ーー村木薫先生。知ってる? 初めての顔出し取材だそうでね。我々の実力を信頼して依頼してくれたんだ、かっこよくしてあげて」
「よ、よろしくお願いします。き……村木、芳、です」
「よろしくお願いします。本日ヘアメイク担当する、なっ、ナツ、メ……です」
その男。村木薫は痩せこけていて、クマの目立つ男だった。歳が近いとは信じがたい風貌に、少しぎょっとしてしまう。
後はよろしく、と一言だけ残して去る静。衣装のコンセプトも何も指示がないまま、放置された2人だけが残される。
その気まずい空気が、言わずとも薫をドレッサー前へまで足を運ばせた。
「先生……お若いそうですね。おいくつか聞いても、良いですか?NGだったら、内緒で構わないんで」
「ははは、アイドルじゃないんですから。今、二十歳なんです。見えませんよね?」
「今年ですか? 僕も、もうすぐ二十歳なんです」
「あはは……もうすぐ、21です」
「あ、なるほど。じゃあ、僕が一個年下ですね」
白髪混じりの髪は張りがなく伸ばしっぱなし。
同様に伸びっぱなしの眉毛、無精髭。
後ろから見た顎の裏は肌荒れと髭の剃り残しが醜かった。
ーー汚い。触りたく無い。
「すみません……事前に床屋行ったほうが良いか聞いたんですけど、そのまま来てくれて良いです、って言われちゃいまして」
「え、誰にですか?」
「先程まで一緒にいた……柊さんです」
「マジですか。え?なんで……」
「ホントです! お風呂は、入って来たんで……ホント、申し訳ない」
見透かされた様に謝罪する薫は、目の前の鏡を見ていた。
鏡の中の薫と目が合うのと同時に、ナツメの顔も映り込んでいることに今更気付く。
先程の心の声は、確実に顔に出てしまっていただろう。
当たり前のこの現状さえ気まずさを理由に忘れていた自分が、情けなかった。
ーーせめて。ダメ元で良い、印象回復を図ろう。
「……先生。僕、今日ほぼ初めての仕事なんです」
ーー緊張によるしかめっ面。そう誤魔化すしか無い。
「知ってますよ。自分が、柊さんに頼んだんです」
「先生も初めてで緊張するだろうから、とは聞いたんですが……」
「あはは。自分なんかが着飾っても、そんな変わらないですから。新人さんの練習に使って下さいって頼んだんですよ。だから、ナツさんも気軽にどうぞ」
ーーナツさんって、馴れ馴れしい。
事前に指定された到着時間には、通常よりも余裕があった。
それにもにも関わらず、薫の到着は更に早かった。
本来この時間に“素人”に来られたら、問答無用で追い返される……1時間前到着だった。
ナツメにとっての初めての現場だから、と言うよりかは。
有名作家の村木薫先生様々の気遣いによる到着を優先した、と言った感じだろう。
壁越しに外にいるスタイリストの不機嫌さは伝わってくるが、それに薫が気付いていないのが救いだった。
「先生……髪って、今伸ばしてらっしゃいます?」
「いえいえ! 面倒で切って無かっただけです」
「せっかく長さあるので、これを生かして、部分的にさっぱりさせた方が良いかな、と」
「ベリーショートしか頼んだ事無いので……おまかせして良いですか?」
「わかりました。時間たっぷりありますし、少しカットもしていきますね」
「お願いしま……あ!」
首元にタオルを巻き、簡易ケープを巻く。
道具を鞄から取り出し、支度を進める中、薫が声を上げた。
「どうされました?」
「ああ…いや。何でも」
ーー首元に触れた手が、冷たかったのかもしれない。
自分の頬に当ててみるも、冷え性の手は事実冷たい。
それでも、タイミング的に反応は1テンポ遅く、それを察した薫は「大丈夫ですよ」と付け足した。
我慢する、平気と言ったリアクションとも、何か違う気がした。
鏡越しに愛想笑いで返すナツメ。
薫は体ごと振り返り、ナツメの手元を指差すも、言いかけた言葉を飲み込む。
ーーああ、これか。
その視線の先にあったのは、バリカンだった。
「刈り上げに抵抗ある様でしたら、やめときますけど」
「あのー……おまかせって言っといてあれなんですけど。相談が、あって」
「どうぞどうぞ。その方が助かります」
「俺、今回の撮影で初めて顔出しで。世間への性別も、初出しなんです」
「性別?」
「男である事を隠してたわけじゃ無いんですよ? ハッキリ言ってない、ってだけで。作品も、女性作者を匂わせて書いて来ちゃったんです……だから、その。何て言えば良いかなぁ~」
「……わかりました。読者さんが混乱しない様に、ですね。男性らしくも、美人に仕上げますよ」
「ハハハッ。こんなんでも、なんとかなりますかね~?」
ナツメは薫から少し離れ、自分の髪を束ねる。
頬を流れる髪は耳にかけ、白い額を露わにする。袖を捲り、そこから覗く肌も白。
薫の元に戻ってきたナツメがドレッサーのライトの範囲に入り込むと、その白色は眩しいほどだった。
高さの変わらない安い椅子。少し切るたびに確認する。
薫の視線まで腰を落とし、ナツメの顔はすぐ側に並ぶ。
「前髪変えるだけで、雰囲気、凄く変わるんですね」
「目元がくっきりして、眉毛が見えますからね」
「こう見ると……意外と、男前ですよね」
「ハハハ。そう思って貰えるなら、やり甲斐ありますね。頑張ります」
「……え? ハハハ、俺の話じゃ無いですよ!? ナツさんが、です」
「ええ!? あ、ありがとうございます……」
「ははは。素直な人で良かった。そんな事無い、なんて言われたら、落ち込んでました」
「ナツメのナは、ナルシストのナ、なんで」
「自分に自信があるのは、良い事ですよ」
「先生、褒め上手ですよね。他人に対して凄くポジティブ。見習いたいです」
「えと……ナツさんて、本名はナツメっていうんですか?」
ーーえ?
馴れ馴れしいと思った相手に、自分も調子に乗りすぎた……そう思った矢先の返事に、理解が追いつかない。
『本日ヘアメイク担当する、なっ、ナツ、メ……です』
緊張して名乗った名前は吃った記憶があった。
『よ、よろしくお願いします。き……村木、芳、です』
それは相手の薫も同様で、それが感染した感覚があったのを思い出す。
「……一応、カタカナでナツメって表記の名義で、やってます」
「あれ!? すみません、ナツさんだと思い込んでました。柊さんは、ナツって呼んでませんでしたっけ??」
「ああー。柊静、ですよね……呼んでますね。彼は良くしてくれてて、上司なんですけど」
「さっき自己紹介したばっかなのに……聞き間違えてたかなー? いや、俺が勝手に思い込ん出たかも」
「お気になさらずに。僕も緊張してましたから……」
「今日だけで何回かナツさんって呼びましたよね?! ホント、すみません……」
「いえいえ。大丈夫ですよ、本当」
「……自分は本名言いかけたし。ホント、申し訳ない」
ーーネガティブ、ウザ。
「さっきからしつこいなぁ……なーんて、思って無いんで」
ーーあ。
「うわ。思ってそう~~! ホント、調子に乗って、すみませんでした!」
「……ははは、冗談ですよ」
「良かった~! 自分も名前、カオルは本名なんで……先生より、カオルで呼んで貰えると、助かります」
「わかりました。カオル……さん、で」
「ハハハ。歳近いし、呼びやすい様に呼んで下さい」
ーー何で、笑った?
愛想笑いを忘れて言った本音の言葉に対して、カオルは笑って応えた。繰り返す謝罪の言葉はワントーン軽くなっていた。
『冗談ですよ』と返したナツメよりも。嫌味たらしく言った言葉に、先に冗談で返してきたのは、カオルじゃないか。
ーー調子に乗って、すみません、ね。
その言葉を肯定する意味を込めて、冗談だと返した言葉だった。その言葉に、安堵の意が混じる。
ーー村木薫。カオル……まただ。好きになるのは、いつも女みたいな名前の男。
今回ばかりは、見た目からして絶対ありえないと思ったこの男を、ナツメは好きになり始めていた。
叶わぬであろう静への好意より、初めて会ったこの男への可能性に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
***
髪を切り終わる。顔や首元の髪を全てはたき落とし、床に散らばった髪を片付け終わった。髪を乾かし、ヘアセットを考えたところで本来の到着予定の時間になった。
「お疲れ様です。セットの前に、メイクさん挟んだ方が良いですよね。聞いてきます」
「ああ! その……メイク、恥ずかしいから断っちゃったんけど。ナツメさんならお願いしてみようかな、なんて」
「え。僕ですか?」
「あ、いや……素人がごめん! 無理だよね、いきなりだし。メイクさん頼んで無いから、ヘアセットで良いと思うんだけど」
「時間的にメイクの人も来てるかもしれないんで。一応聞いてきます」
「ああ……他なら、頼まないで欲しい、かな」
「……じゃあ。勝手にやっちゃいましょうか」
「え?」
「やれずに終わるより、やって怒られまーす」
「大丈夫!? それ」
「カオルさんの御要望、って無敵の言い訳あるんで。よろしくです」
「は…はい!」
メイクといっても、女性とは訳が違う。
ファンデーションションで隠す……以前の問題だった。
下地を塗るにも塗れない、最悪に汚い肌環境をどうにかする所からだ。
眉毛は、欠如するどころか余分なほど伸び切っている為、それを整える。それ以外の無駄毛は排除する。
今まで安い髭剃りで剃られて来たであろう口元は黒ずんではいたが、最後に剃ったのはだいぶ前らしく、赤みや腫れは無い。
肌と毛根を温め、しっとり柔らかくする。思わず口の中に運びたくなる、滑らかに泡立てられたシェービングクリームが、顔を覆う。全てが馴染んだそれを、手入れの行き届いた剃刀で掬い取る様に。産毛ごと剃り落として行く。
綺麗に拭き取った顔面は、見違えるほど黒ずみを失い、肌に正気を取り戻した。
アップの撮影の可能性を考慮し、目立つクマをコンシーラーで隠し、肌色を自然に仕上げる。
明暗を補助する程度のメイクを施し、整えた眉毛が覗く程度に額を見せる。
正気を取り戻した髪から白髪は目立つ事なく隠れ、清潔感ある雰囲気に仕上がった。
カオルは用意された衣装に着替え、ナツメも元の髪を下ろした姿で鏡に並ぶ。
先程までの歪な歳の差は感じさせず、若さある成人男性2人の姿が並んでいた。
「……こんな感じでどうですか?」
「凄いや。おいくら万円の技術なの、これ」
「……さぁ?」
「知らないの!?」
「だから、初めてですもん」
「こわー……値段によっちゃ、2度と頼めなくなるじゃん。あんま有名にならないでね?」
「カオルさんこそ。他に浮気しないでね? またのご利用お待ちしておりまーす」
「ハハハ。いくらって言われても良い様に、バリバリ働いて稼いどきます!」
笑って、細くなったカオルの目尻に、睫毛が落ちる。
「あ、すみません。睫毛、目入っちゃ危ないんで。じっとしてて下さい」
「……うん。目、瞑るね」
そう言って目を瞑る。
お互いに顔が近付き、それが見えているナツメだけが恥ずかしくなり、焦る。
顔に張り付いた睫毛は取れず、焦る気持ちも相まって、剥がれない。
咄嗟に軽く唇を尖らせ、フッと息を吹きかけると、それはどこかに飛んで行った。
落ちたであろう先を見渡すも、見失ってしまう。
睫毛が付いていたという証明が無いとなると、何故か罪悪感が押し寄せる。
ーー触れてないし、唾も飛んで無い。でも、気色悪かっただろう。
「すみません、手間取っちゃって。取れましたんで」
そう声をかける前から、カオルは目を開けていた。
ーー気付かなかった。いつからだろう。
「ははは、ごめん。顔近いし、良い香りするから。ドキドキしちゃった」
「……そりゃ、失礼しました」
口元を手で押さえて平気な素振りで笑うも、照れている様子だった。
そして、自分と同じ、少し罪悪感も滲ませる顔だった。
「ナツメさんの彼女さんとか、大変そうだね。こんな綺麗な彼氏だとさ」
「……いませんけどね。理想高いし、困らせる様な人好きにならないですよ」
「……そっか。そんなもんか」
腕時計のついていない手首をさすり、眺め続けるカオル。
時間は撮影開始10分前。それを伝えようとするも、そのタイミングで静が部屋を再び訪れた。
静は、何かソワソワした状態のままのカオルを連れて行こうとする。
「カオルさん、時計つけてましたっけ? 無くされました?」
「……見えるの? これ」
「……え?」
『村木先生、スタジオ移動お願いしまーす』
「ごめん、冗談。時計つけて来て無いだけだから。ごめんね」
先程とは違って、寂しそうに冗談を告げるカオルには、違和感があった。
自分で作り上げたカオルの、その寂しげな顔さえ自分の作品である感覚なのか……去り際のその一瞬の顔に、別れが惜しいほど魅力を感じた。
廊下で待機していたスタッフも全員、カオルの後をついてスタジオへ向かう。
ーーなんだ、これ……ナルシズムと、なんか、違う。
その場に残されたのはナツメ1人。他人に聞かれる事のないこの空間が、そうさせた。曖昧な存在に、わざわざ声を出して、問いかける。
「……やっぱり? 僕もだよ。お互い惚れやすいよね……お前も、カオルさんの事、好きだよね? みんなも気に入ってくれると良いなぁ」
中学生の時に、こう名乗らなければいけなくなった。
両親が離婚したのだ。僕は母親の苗字を名乗る事になった。
離婚させまいと仕込んだトリックも虚しく、離婚を切り出されざまあ見ろと思ったが、アイツは無傷だった。
『別れたら愛しの息子が名前の事でイジメを受ける』
用意して置いた最終手段を使わなくとも、言って欲しかった言葉が返って来たのだから。
『君の為なんだ』
夫婦という肩書きを捨てて、男と女に戻っただけ。
会えばキスもセックスもする。むしろ面倒な責任と束縛から解放された2人は、幸せそうだった。
金は捨てるほどある。子供という繋ぎがなくても、離れない事を確信した2人は、無敵だ。
父親の名前は椿懐石。
化粧品会社として有名だった“TSUBAKI”の若社長。次期社長を見据えた息子の名前が、椿懐目だった。
顔の整った社長と、美人な直属社員が結婚して生まれた息子は、美男子だった。
名前負けしないその外面が、彼を壊していった。
鏡を見れば、母親から生まれてきたのは一目瞭然。事実だと思い知らされる。
性別が違うハンデを感じさせないほど、そっくりな顔。
ーー体に流れる母親のの血は濃厚過ぎて、何もかもが遺伝した。
鏡を見なければ良い、なんてアホみたいな助言を言われた所で、鏡を見るのが癖な所までが似ているという自分に反吐が出る。
手首を切っても、流れてくるのは母親の遺伝子が混ざった血。
それなのに、出てきた血は美しくて、魅了された。
痛みも、残った醜い傷も、美しいと賞賛される母親に似た顔も全て。愛おしいく感じる自己愛。
母親を嫌いでいる僕が、愛おしくてたまらない。この感覚までもが、母親の思い通りなのだ。
自覚するたび死にたくなるナツメを、自殺させない為の4つ人格が存在した。
虚言癖。設定のなりきり。多重人格。メンヘラかまってちゃん……何とでも言ってくれてもかまわなかった。
曖昧な言い方で、濁したかったから。
症状に個人差があると聞かされていても、それに病名をつけられるのが嫌だった。
治療と称して、探られるのが嫌だった。
ナツメの生き方全てが醜いのは自覚していた。理解出来ない奴に、見られたくない。
ーー所詮、他人の評価。僕はこれが美しいと思って、生きてる。
【ツバキ】
両親を嫌うナツメに代わって、苗字の椿を最大限に利用して上手い生き方を導いてくれた人格。
主人格の座を時には取り合い、譲り合う。上手く共存してきたが、両親が離婚して名乗れなくなった途端、たまに顔を出すだけの一人格にまで降格した。
猫被りの良い子ちゃん。礼儀正しくて、愛想も良くて、仲良くしてくれる友人と両親が大好きな良い子ちゃん……全てを完璧に演じきる、優秀な人格であると同時に、他の人格への精神負担を加速させる、一番厄介な人格。
【ナツメ】と【ナツ】
今はほぼメインの人格になったのが、“ナツメ”。それに良く似た人格の“ナツ”。互いでさえ区別が難しい、曖昧な存在の人格。
猫被りのツバキが自我を出し、少しわがままになった程度。大きな違いと言えば、性癖程度だった。
バイのナツメと、女嫌いでゲイのナツ。母親のは人間嫌い。自分を好きな人間以外大嫌い。好きになった人間へのセックス依存……それらを強く引き継ぎ、我慢しないのがナツ。それがナツメにも影響が出た結果、バイとなったのだった。
柊静という1人の男を、4人共有の恋人にしている。
【なっちゃん】
女性への性転換を希望している女性人格。
他の人格と比べ、唯一嫌われている人格で、ナツメに中では孤独。
何故なら、母親に一番似ているとされる存在だからだ。
静を一番気に入っていて、気に入られているであろう人格。
ノンケ寄りのバイである静の寝る相手が出来るのは、彼女だけ。静の相手を他の人格がする事は、彼女が絶対許さない。
人格の切り替えは、他人の指示は勿論、ナツメたちの意思でも上手く行くものでは無い。
結局。“世間体に抗いきれない本心”を最優先した結果が反映される。
ーーだから。人格なんて立派なものでは無いのかもしれない。
自分の心と体を保守する為に必要な、設定。失敗や責任を押し付ける存在が必要だった。
自分を良く理解し、責めない、拒絶しない。自分以外の存在が必要だった。
******
静とナツメが出会うきっかけは、父親。ナツメがまだ高校生の時。
懐石には、妻とは別の愛人がいた。
懐石は、仕事もそれ以外も有能である、とある男に目を付けた……つもりでいた。
ーー懐石に見つかる様に目の前に現れ、気にいる様仕組んだというのが真実。これに気付くのは、本人以外にはいない。
父親の男性の愛人。その存在には気付いたが、名前も顔も知らない。
ーーそれで良い。不幸の始まりになれば良いのに。
その願いは虚しく、妻、公認である事にも気付いた。
公認と言うのも、上部だけの表現。あくまで“共有”している事は伏せての付き合いだった。男と妻の間にも、性の関係はあった。
互いに関係があることも知りながら、それを共有しない事によるスリルとして楽しんでいたのだ。夫婦にデメリットリットのないスリルは、快楽でしかなかった。
両親が自由本望に過ごすのに対し、愛人の男は、自分の正体が息子であるナツメにバレない様にすることだけは徹底した。
それが、ナツメにも伝わってくる程に。
ーー隠すのが普通。大人の対応なんだろうけど……でも、優しい人なのには変わりない、よね?
それさえ特別に感じてしまうのは、ナツメが愛を知らないのを……彼が知っているから。
ーーアイツらから、全部絞り取ってやるよ。
愛人である静は、ナツメのその心情を理解し、利用した。
この快楽を、これ以上分配してたまるかと、必死だった。
皆が騙される愛情の正体は、違った。そこにはスリルも独占欲もない。
求めているのは2人の体では無く、流れ出てくる無限の金。
その全てを手に入れる事だった。
ーー目的は金。
静は、より多く自分に金を費やすように媚び続けて来たが、自分が2人に深く関わるほど金使いは減り、息子に流れる金が増えていく事に気が付いた。
皮肉にも、世間とは逆の動きを始めた……静にとって、理想のネグレクト。
放棄している罪悪感を感じさせない、息子の存在を邪魔とも感じない……求めたのは完璧な無関心でいられる環境。
求めるそれが加速し、実現を目指し、全てを金で実現させた2人。
契約を済ませたマンションに閉じ込め、現金だけを置いていく……ただ、それだけ。
『連絡は一切するな。自殺は絶対するな。金ならいくらでも振り込んでやる』
ナツメの口座の金額は、殆ど動かなかった。
ナツメが使わないのもあったが、引き落とされる金額は直ぐに補充され、残高表記には常に横並びの0が居座り続けた。
それでも、静に流れる金は増えなかった。
静の愛は、偽りでしかなかった。それなのに、2人は気付かず、快楽に中にいた。
偽りの愛。体と精神を貢ぎ続けた静には、世間でいう“愛”の形で返ってきていた。
一緒に過ごす時間、食事、プレゼント。
出費は全て2人側が負担。それについてくる無償の抱擁、キス、性行為。
ーーこんなオマケいらない、金だ。
現金。将来まであり続ける保証。それが……静の必要な愛。
ーーどう貰うなら、アンタらの要らない“アレ”を、頂こうかな。
全てを手に入れる為に、静はナツメに目を付けた。
***
高校を卒業したナツメは、美容に関する専門学に通い始めた。
関心を持った自分の意識に両親の存在が関係無いとは言い切れず、優位な立場がその感覚を産み、進学もスムーズにさせた。
心にも無い『父の仕事をする姿を見てきたので』の言葉と、難なく用意され支払われる入学金。落ちる理由もなく、難なく入学。
恵まれたビジュアルとツバキの猫被りにまんまと騙される学校側は、彼を歓迎した。ナツメの出席日数、単位が足りなくとも、咎めなかった。無名の生徒の努力や実力から目を逸らし、多数の声を無視して。
学校の名誉の為に利用した。有名会社の社長の息子の肩書きを武器に、有名業界へ送りこみ、就職活動を全力でバックアップした。
そんな彼の状況を、両親は知らない。学校に行って出費が増えた程度の情報だけだった。
誰よりも早く彼の進学に気付き、この状況まで仕向けたのが、静だった。
静は、偶然を装ってナツメと出会う事を成功させた。
神は静に味方などしていない。只々、安易だっただけ。
ーーいくらナツメが両親を嫌っていても、本質は両親らと変わりは無い。
手での上で転がすことなど、容易な事に過ぎなかった。
***
初現場は研修を兼ねたメイク・スタイリストのアシスタント。
本来雑務を任されるであろう経験値と客相手に、早速ヘアメイクを任されたナツメだった。
現実離れした指示と、先輩スタッフからの冷酷な視線。
流石に初心者のナツメでも違和感を感じ取り、動揺を見せる。
そんな彼に唯一優しく話しかけてくれるのが現場のリーダーであった静。
その優しさは自分への信頼へと認識しつつ、確認をとるも、第一声は、「ごめんね」と謝罪だった。
「今日のお客さん、凄く有名な人なんだけど……若い人なんだ」
「若いって……僕よりもですか?」
「正確にはわからないけど。一緒くらい、かな? “こういう現場”が初めての人でね。緊張するからって要望あったからさ」
「じゃあ、それこそなんで僕が……」
「技術より、メンタルケアを優先したんだ。お得意様にしたいからね。ナツ君、優しいから」
「そ、そんな理由で?」
『先生到着しましたー』
その声と共に、たくさんのスタッフで混雑する控え室に、作業そっちのけで優遇対応で案内されて来た男が入室。
ラフな作業着のスタッフと見間違う程、冴えない男。
その客人を場違いに思わせる、整った顔の2人が迎え入れた。
他のスタッフは手持ちの衣装を置いたり、静に耳打ちで何かを伝える等をして、退室していく。残ったのはナツメと、静と、先生と呼ばれた男だった。
「ーー村木薫先生。知ってる? 初めての顔出し取材だそうでね。我々の実力を信頼して依頼してくれたんだ、かっこよくしてあげて」
「よ、よろしくお願いします。き……村木、芳、です」
「よろしくお願いします。本日ヘアメイク担当する、なっ、ナツ、メ……です」
その男。村木薫は痩せこけていて、クマの目立つ男だった。歳が近いとは信じがたい風貌に、少しぎょっとしてしまう。
後はよろしく、と一言だけ残して去る静。衣装のコンセプトも何も指示がないまま、放置された2人だけが残される。
その気まずい空気が、言わずとも薫をドレッサー前へまで足を運ばせた。
「先生……お若いそうですね。おいくつか聞いても、良いですか?NGだったら、内緒で構わないんで」
「ははは、アイドルじゃないんですから。今、二十歳なんです。見えませんよね?」
「今年ですか? 僕も、もうすぐ二十歳なんです」
「あはは……もうすぐ、21です」
「あ、なるほど。じゃあ、僕が一個年下ですね」
白髪混じりの髪は張りがなく伸ばしっぱなし。
同様に伸びっぱなしの眉毛、無精髭。
後ろから見た顎の裏は肌荒れと髭の剃り残しが醜かった。
ーー汚い。触りたく無い。
「すみません……事前に床屋行ったほうが良いか聞いたんですけど、そのまま来てくれて良いです、って言われちゃいまして」
「え、誰にですか?」
「先程まで一緒にいた……柊さんです」
「マジですか。え?なんで……」
「ホントです! お風呂は、入って来たんで……ホント、申し訳ない」
見透かされた様に謝罪する薫は、目の前の鏡を見ていた。
鏡の中の薫と目が合うのと同時に、ナツメの顔も映り込んでいることに今更気付く。
先程の心の声は、確実に顔に出てしまっていただろう。
当たり前のこの現状さえ気まずさを理由に忘れていた自分が、情けなかった。
ーーせめて。ダメ元で良い、印象回復を図ろう。
「……先生。僕、今日ほぼ初めての仕事なんです」
ーー緊張によるしかめっ面。そう誤魔化すしか無い。
「知ってますよ。自分が、柊さんに頼んだんです」
「先生も初めてで緊張するだろうから、とは聞いたんですが……」
「あはは。自分なんかが着飾っても、そんな変わらないですから。新人さんの練習に使って下さいって頼んだんですよ。だから、ナツさんも気軽にどうぞ」
ーーナツさんって、馴れ馴れしい。
事前に指定された到着時間には、通常よりも余裕があった。
それにもにも関わらず、薫の到着は更に早かった。
本来この時間に“素人”に来られたら、問答無用で追い返される……1時間前到着だった。
ナツメにとっての初めての現場だから、と言うよりかは。
有名作家の村木薫先生様々の気遣いによる到着を優先した、と言った感じだろう。
壁越しに外にいるスタイリストの不機嫌さは伝わってくるが、それに薫が気付いていないのが救いだった。
「先生……髪って、今伸ばしてらっしゃいます?」
「いえいえ! 面倒で切って無かっただけです」
「せっかく長さあるので、これを生かして、部分的にさっぱりさせた方が良いかな、と」
「ベリーショートしか頼んだ事無いので……おまかせして良いですか?」
「わかりました。時間たっぷりありますし、少しカットもしていきますね」
「お願いしま……あ!」
首元にタオルを巻き、簡易ケープを巻く。
道具を鞄から取り出し、支度を進める中、薫が声を上げた。
「どうされました?」
「ああ…いや。何でも」
ーー首元に触れた手が、冷たかったのかもしれない。
自分の頬に当ててみるも、冷え性の手は事実冷たい。
それでも、タイミング的に反応は1テンポ遅く、それを察した薫は「大丈夫ですよ」と付け足した。
我慢する、平気と言ったリアクションとも、何か違う気がした。
鏡越しに愛想笑いで返すナツメ。
薫は体ごと振り返り、ナツメの手元を指差すも、言いかけた言葉を飲み込む。
ーーああ、これか。
その視線の先にあったのは、バリカンだった。
「刈り上げに抵抗ある様でしたら、やめときますけど」
「あのー……おまかせって言っといてあれなんですけど。相談が、あって」
「どうぞどうぞ。その方が助かります」
「俺、今回の撮影で初めて顔出しで。世間への性別も、初出しなんです」
「性別?」
「男である事を隠してたわけじゃ無いんですよ? ハッキリ言ってない、ってだけで。作品も、女性作者を匂わせて書いて来ちゃったんです……だから、その。何て言えば良いかなぁ~」
「……わかりました。読者さんが混乱しない様に、ですね。男性らしくも、美人に仕上げますよ」
「ハハハッ。こんなんでも、なんとかなりますかね~?」
ナツメは薫から少し離れ、自分の髪を束ねる。
頬を流れる髪は耳にかけ、白い額を露わにする。袖を捲り、そこから覗く肌も白。
薫の元に戻ってきたナツメがドレッサーのライトの範囲に入り込むと、その白色は眩しいほどだった。
高さの変わらない安い椅子。少し切るたびに確認する。
薫の視線まで腰を落とし、ナツメの顔はすぐ側に並ぶ。
「前髪変えるだけで、雰囲気、凄く変わるんですね」
「目元がくっきりして、眉毛が見えますからね」
「こう見ると……意外と、男前ですよね」
「ハハハ。そう思って貰えるなら、やり甲斐ありますね。頑張ります」
「……え? ハハハ、俺の話じゃ無いですよ!? ナツさんが、です」
「ええ!? あ、ありがとうございます……」
「ははは。素直な人で良かった。そんな事無い、なんて言われたら、落ち込んでました」
「ナツメのナは、ナルシストのナ、なんで」
「自分に自信があるのは、良い事ですよ」
「先生、褒め上手ですよね。他人に対して凄くポジティブ。見習いたいです」
「えと……ナツさんて、本名はナツメっていうんですか?」
ーーえ?
馴れ馴れしいと思った相手に、自分も調子に乗りすぎた……そう思った矢先の返事に、理解が追いつかない。
『本日ヘアメイク担当する、なっ、ナツ、メ……です』
緊張して名乗った名前は吃った記憶があった。
『よ、よろしくお願いします。き……村木、芳、です』
それは相手の薫も同様で、それが感染した感覚があったのを思い出す。
「……一応、カタカナでナツメって表記の名義で、やってます」
「あれ!? すみません、ナツさんだと思い込んでました。柊さんは、ナツって呼んでませんでしたっけ??」
「ああー。柊静、ですよね……呼んでますね。彼は良くしてくれてて、上司なんですけど」
「さっき自己紹介したばっかなのに……聞き間違えてたかなー? いや、俺が勝手に思い込ん出たかも」
「お気になさらずに。僕も緊張してましたから……」
「今日だけで何回かナツさんって呼びましたよね?! ホント、すみません……」
「いえいえ。大丈夫ですよ、本当」
「……自分は本名言いかけたし。ホント、申し訳ない」
ーーネガティブ、ウザ。
「さっきからしつこいなぁ……なーんて、思って無いんで」
ーーあ。
「うわ。思ってそう~~! ホント、調子に乗って、すみませんでした!」
「……ははは、冗談ですよ」
「良かった~! 自分も名前、カオルは本名なんで……先生より、カオルで呼んで貰えると、助かります」
「わかりました。カオル……さん、で」
「ハハハ。歳近いし、呼びやすい様に呼んで下さい」
ーー何で、笑った?
愛想笑いを忘れて言った本音の言葉に対して、カオルは笑って応えた。繰り返す謝罪の言葉はワントーン軽くなっていた。
『冗談ですよ』と返したナツメよりも。嫌味たらしく言った言葉に、先に冗談で返してきたのは、カオルじゃないか。
ーー調子に乗って、すみません、ね。
その言葉を肯定する意味を込めて、冗談だと返した言葉だった。その言葉に、安堵の意が混じる。
ーー村木薫。カオル……まただ。好きになるのは、いつも女みたいな名前の男。
今回ばかりは、見た目からして絶対ありえないと思ったこの男を、ナツメは好きになり始めていた。
叶わぬであろう静への好意より、初めて会ったこの男への可能性に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
***
髪を切り終わる。顔や首元の髪を全てはたき落とし、床に散らばった髪を片付け終わった。髪を乾かし、ヘアセットを考えたところで本来の到着予定の時間になった。
「お疲れ様です。セットの前に、メイクさん挟んだ方が良いですよね。聞いてきます」
「ああ! その……メイク、恥ずかしいから断っちゃったんけど。ナツメさんならお願いしてみようかな、なんて」
「え。僕ですか?」
「あ、いや……素人がごめん! 無理だよね、いきなりだし。メイクさん頼んで無いから、ヘアセットで良いと思うんだけど」
「時間的にメイクの人も来てるかもしれないんで。一応聞いてきます」
「ああ……他なら、頼まないで欲しい、かな」
「……じゃあ。勝手にやっちゃいましょうか」
「え?」
「やれずに終わるより、やって怒られまーす」
「大丈夫!? それ」
「カオルさんの御要望、って無敵の言い訳あるんで。よろしくです」
「は…はい!」
メイクといっても、女性とは訳が違う。
ファンデーションションで隠す……以前の問題だった。
下地を塗るにも塗れない、最悪に汚い肌環境をどうにかする所からだ。
眉毛は、欠如するどころか余分なほど伸び切っている為、それを整える。それ以外の無駄毛は排除する。
今まで安い髭剃りで剃られて来たであろう口元は黒ずんではいたが、最後に剃ったのはだいぶ前らしく、赤みや腫れは無い。
肌と毛根を温め、しっとり柔らかくする。思わず口の中に運びたくなる、滑らかに泡立てられたシェービングクリームが、顔を覆う。全てが馴染んだそれを、手入れの行き届いた剃刀で掬い取る様に。産毛ごと剃り落として行く。
綺麗に拭き取った顔面は、見違えるほど黒ずみを失い、肌に正気を取り戻した。
アップの撮影の可能性を考慮し、目立つクマをコンシーラーで隠し、肌色を自然に仕上げる。
明暗を補助する程度のメイクを施し、整えた眉毛が覗く程度に額を見せる。
正気を取り戻した髪から白髪は目立つ事なく隠れ、清潔感ある雰囲気に仕上がった。
カオルは用意された衣装に着替え、ナツメも元の髪を下ろした姿で鏡に並ぶ。
先程までの歪な歳の差は感じさせず、若さある成人男性2人の姿が並んでいた。
「……こんな感じでどうですか?」
「凄いや。おいくら万円の技術なの、これ」
「……さぁ?」
「知らないの!?」
「だから、初めてですもん」
「こわー……値段によっちゃ、2度と頼めなくなるじゃん。あんま有名にならないでね?」
「カオルさんこそ。他に浮気しないでね? またのご利用お待ちしておりまーす」
「ハハハ。いくらって言われても良い様に、バリバリ働いて稼いどきます!」
笑って、細くなったカオルの目尻に、睫毛が落ちる。
「あ、すみません。睫毛、目入っちゃ危ないんで。じっとしてて下さい」
「……うん。目、瞑るね」
そう言って目を瞑る。
お互いに顔が近付き、それが見えているナツメだけが恥ずかしくなり、焦る。
顔に張り付いた睫毛は取れず、焦る気持ちも相まって、剥がれない。
咄嗟に軽く唇を尖らせ、フッと息を吹きかけると、それはどこかに飛んで行った。
落ちたであろう先を見渡すも、見失ってしまう。
睫毛が付いていたという証明が無いとなると、何故か罪悪感が押し寄せる。
ーー触れてないし、唾も飛んで無い。でも、気色悪かっただろう。
「すみません、手間取っちゃって。取れましたんで」
そう声をかける前から、カオルは目を開けていた。
ーー気付かなかった。いつからだろう。
「ははは、ごめん。顔近いし、良い香りするから。ドキドキしちゃった」
「……そりゃ、失礼しました」
口元を手で押さえて平気な素振りで笑うも、照れている様子だった。
そして、自分と同じ、少し罪悪感も滲ませる顔だった。
「ナツメさんの彼女さんとか、大変そうだね。こんな綺麗な彼氏だとさ」
「……いませんけどね。理想高いし、困らせる様な人好きにならないですよ」
「……そっか。そんなもんか」
腕時計のついていない手首をさすり、眺め続けるカオル。
時間は撮影開始10分前。それを伝えようとするも、そのタイミングで静が部屋を再び訪れた。
静は、何かソワソワした状態のままのカオルを連れて行こうとする。
「カオルさん、時計つけてましたっけ? 無くされました?」
「……見えるの? これ」
「……え?」
『村木先生、スタジオ移動お願いしまーす』
「ごめん、冗談。時計つけて来て無いだけだから。ごめんね」
先程とは違って、寂しそうに冗談を告げるカオルには、違和感があった。
自分で作り上げたカオルの、その寂しげな顔さえ自分の作品である感覚なのか……去り際のその一瞬の顔に、別れが惜しいほど魅力を感じた。
廊下で待機していたスタッフも全員、カオルの後をついてスタジオへ向かう。
ーーなんだ、これ……ナルシズムと、なんか、違う。
その場に残されたのはナツメ1人。他人に聞かれる事のないこの空間が、そうさせた。曖昧な存在に、わざわざ声を出して、問いかける。
「……やっぱり? 僕もだよ。お互い惚れやすいよね……お前も、カオルさんの事、好きだよね? みんなも気に入ってくれると良いなぁ」
応援ありがとうございます!
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