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第一話 前世の記憶、胸に重く
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―アゼラン侯爵家の次女として十九年を過ごしてきた私は、その光景をどこか遠い他人事のように眺めていた。
三か月後にはウォータル伯爵家のグスタビオと婚礼を挙げる約束がある。
それは貴族の娘として当然の“幸福”。けれど風が古家を揺らすような軋み音が、胸の奥で消えもせず鳴り続けている。
この世界にはインターネットやスマホ、大衆雑誌も車も無い退屈な世界。女は十八までにより強い血筋へ嫁ぎ、後継ぎを産むことが最良とされる。
何世代も継がれていく慣習。贅沢と引き換えに差し出す自由。貴族であるということは、そういう重荷を静かに抱くことなのだと、幼いころから教え込まれてきた。
前世の名は香帆(かほ)。遠い東の島国、日本で生きた女性だ。
たいていの者は幼い日に前世の記憶を霧のように忘れてしまうというが、私の記憶は消え損ねた。目覚めれば、いつも二つの時間が重なっている。香帆として味わった痛みが、ローゼリアの心に影を落としている。
前世、香帆の婚約者――涼也(りょうや)は、姉・響子の学友のひとりだった。初めて会った日、微笑みかける彼に、私は魅入られたように恋をした。
五年かけてようやく彼との婚約に至った。それなのに、姉がアメリカから戻ったその日から、涼也の視線は私を素通りし、姉の姿を追い続けた。
響子は少し名の売れたアイドルだったが有名俳優との不倫関係がスクープされ、父によってアメリカに留学させられていたのだ。
復活の足場に涼也の人脈と資金を求め、甘い声で彼を操った。涼也はそれを「浮気ではない。初恋の人への尽力」だと言い張り、私には「協力するのが妹の務めだ」と言った。
涼也を信じて私は受け入れた。それからは全てに於いて彼は姉を優先し私の目の前でも好意を隠さなかった。
約束はいつもキャンセルされた。連絡があるのはまだマシな方で、待ち合わせのお店でスマホを握りしめて何時間も涼也を待つこともあった。
二人は恋人のように振舞い、泣いて縋る私に『お前の愛は重過ぎて鬱陶しいんだよ』と涼也はますます私を邪険に扱った。やがて姉とホテルから朝帰りしている所をスクープされた。
我慢も限界で、私の中に激しい嫉妬と怒りが吹き荒れた。
記事について姉は『彼は私の大切な人』とコメントを出した。
それを見た父は「いっそ響子が家を継ぎ、涼也君と結婚してくれれば」と呟き私の心を抉った。父の秘書として私は随分会社に貢献してきたのに。何もしていない姉が全てを奪っていく ──許せなかった。
問いただす私に、涼也は不機嫌な顔で答えた。
「誤解だ。撮影が長引いたから迎えに来て欲しいと頼まれたんだ。眠気に襲われて危険だからホテルに別々に泊まったんだ」
虚しい言い訳だった。姉の掌から涼也を救い出すすべを、私はもう持っていなかった。
――嘘つき。もういいわ。終わりにしましょう。
指から抜いた婚約指輪を、彼のベッドの上に置いた。
半同棲だった部屋の荷物を運び出し、車のシートを倒して仰いだ夜空は、私の心とうらはらに冷たく澄んでいた。
涼也は追いかけてくれるだろうか? まだそう考える自分が惨めで……無性に泣けた。
自分の弱さを呪いながら、私は声が出ないほど泣き続けた。
――あの夜涙は枯れてしまったのだろう。ローゼリアとして涙を流した記憶はない。
グスタビオは誠実で優しい人だ。最初、あの夜の痛みを抱えたまま彼と共に人生を歩んでいくのは躊躇われた。
けれど私は誓った。――今度こそ、幸せになる。奪われるだけの私では終わらない。グスタビオと二人で光の射す方へ歩いてみせる、と。
青空の下、遠くで教会の鐘が静かに鳴った。新しい季節とともに、それは私の胸を震わせた。
三か月後にはウォータル伯爵家のグスタビオと婚礼を挙げる約束がある。
それは貴族の娘として当然の“幸福”。けれど風が古家を揺らすような軋み音が、胸の奥で消えもせず鳴り続けている。
この世界にはインターネットやスマホ、大衆雑誌も車も無い退屈な世界。女は十八までにより強い血筋へ嫁ぎ、後継ぎを産むことが最良とされる。
何世代も継がれていく慣習。贅沢と引き換えに差し出す自由。貴族であるということは、そういう重荷を静かに抱くことなのだと、幼いころから教え込まれてきた。
前世の名は香帆(かほ)。遠い東の島国、日本で生きた女性だ。
たいていの者は幼い日に前世の記憶を霧のように忘れてしまうというが、私の記憶は消え損ねた。目覚めれば、いつも二つの時間が重なっている。香帆として味わった痛みが、ローゼリアの心に影を落としている。
前世、香帆の婚約者――涼也(りょうや)は、姉・響子の学友のひとりだった。初めて会った日、微笑みかける彼に、私は魅入られたように恋をした。
五年かけてようやく彼との婚約に至った。それなのに、姉がアメリカから戻ったその日から、涼也の視線は私を素通りし、姉の姿を追い続けた。
響子は少し名の売れたアイドルだったが有名俳優との不倫関係がスクープされ、父によってアメリカに留学させられていたのだ。
復活の足場に涼也の人脈と資金を求め、甘い声で彼を操った。涼也はそれを「浮気ではない。初恋の人への尽力」だと言い張り、私には「協力するのが妹の務めだ」と言った。
涼也を信じて私は受け入れた。それからは全てに於いて彼は姉を優先し私の目の前でも好意を隠さなかった。
約束はいつもキャンセルされた。連絡があるのはまだマシな方で、待ち合わせのお店でスマホを握りしめて何時間も涼也を待つこともあった。
二人は恋人のように振舞い、泣いて縋る私に『お前の愛は重過ぎて鬱陶しいんだよ』と涼也はますます私を邪険に扱った。やがて姉とホテルから朝帰りしている所をスクープされた。
我慢も限界で、私の中に激しい嫉妬と怒りが吹き荒れた。
記事について姉は『彼は私の大切な人』とコメントを出した。
それを見た父は「いっそ響子が家を継ぎ、涼也君と結婚してくれれば」と呟き私の心を抉った。父の秘書として私は随分会社に貢献してきたのに。何もしていない姉が全てを奪っていく ──許せなかった。
問いただす私に、涼也は不機嫌な顔で答えた。
「誤解だ。撮影が長引いたから迎えに来て欲しいと頼まれたんだ。眠気に襲われて危険だからホテルに別々に泊まったんだ」
虚しい言い訳だった。姉の掌から涼也を救い出すすべを、私はもう持っていなかった。
――嘘つき。もういいわ。終わりにしましょう。
指から抜いた婚約指輪を、彼のベッドの上に置いた。
半同棲だった部屋の荷物を運び出し、車のシートを倒して仰いだ夜空は、私の心とうらはらに冷たく澄んでいた。
涼也は追いかけてくれるだろうか? まだそう考える自分が惨めで……無性に泣けた。
自分の弱さを呪いながら、私は声が出ないほど泣き続けた。
――あの夜涙は枯れてしまったのだろう。ローゼリアとして涙を流した記憶はない。
グスタビオは誠実で優しい人だ。最初、あの夜の痛みを抱えたまま彼と共に人生を歩んでいくのは躊躇われた。
けれど私は誓った。――今度こそ、幸せになる。奪われるだけの私では終わらない。グスタビオと二人で光の射す方へ歩いてみせる、と。
青空の下、遠くで教会の鐘が静かに鳴った。新しい季節とともに、それは私の胸を震わせた。
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