1 / 11
第一話 前世の記憶、胸に重く
しおりを挟む
―アゼラン侯爵家の次女として十九年を過ごしてきた私は、その光景をどこか遠い他人事のように眺めていた。
三か月後にはウォータル伯爵家のグスタビオと婚礼を挙げる約束がある。
それは貴族の娘として当然の“幸福”。けれど風が古家を揺らすような軋み音が、胸の奥で消えもせず鳴り続けている。
この世界にはインターネットやスマホ、大衆雑誌も車も無い退屈な世界。女は十八までにより強い血筋へ嫁ぎ、後継ぎを産むことが最良とされる。
何世代も継がれていく慣習。贅沢と引き換えに差し出す自由。貴族であるということは、そういう重荷を静かに抱くことなのだと、幼いころから教え込まれてきた。
前世の名は香帆(かほ)。遠い東の島国、日本で生きた女性だ。
たいていの者は幼い日に前世の記憶を霧のように忘れてしまうというが、私の記憶は消え損ねた。目覚めれば、いつも二つの時間が重なっている。香帆として味わった痛みが、ローゼリアの心に影を落としている。
前世、香帆の婚約者――涼也(りょうや)は、姉・響子の学友のひとりだった。初めて会った日、微笑みかける彼に、私は魅入られたように恋をした。
五年かけてようやく彼との婚約に至った。それなのに、姉がアメリカから戻ったその日から、涼也の視線は私を素通りし、姉の姿を追い続けた。
響子は少し名の売れたアイドルだったが有名俳優との不倫関係がスクープされ、父によってアメリカに留学させられていたのだ。
復活の足場に涼也の人脈と資金を求め、甘い声で彼を操った。涼也はそれを「浮気ではない。初恋の人への尽力」だと言い張り、私には「協力するのが妹の務めだ」と言った。
涼也を信じて私は受け入れた。それからは全てに於いて彼は姉を優先し私の目の前でも好意を隠さなかった。
約束はいつもキャンセルされた。連絡があるのはまだマシな方で、待ち合わせのお店でスマホを握りしめて何時間も涼也を待つこともあった。
二人は恋人のように振舞い、泣いて縋る私に『お前の愛は重過ぎて鬱陶しいんだよ』と涼也はますます私を邪険に扱った。やがて姉とホテルから朝帰りしている所をスクープされた。
我慢も限界で、私の中に激しい嫉妬と怒りが吹き荒れた。
記事について姉は『彼は私の大切な人』とコメントを出した。
それを見た父は「いっそ響子が家を継ぎ、涼也君と結婚してくれれば」と呟き私の心を抉った。父の秘書として私は随分会社に貢献してきたのに。何もしていない姉が全てを奪っていく ──許せなかった。
問いただす私に、涼也は不機嫌な顔で答えた。
「誤解だ。撮影が長引いたから迎えに来て欲しいと頼まれたんだ。眠気に襲われて危険だからホテルに別々に泊まったんだ」
虚しい言い訳だった。姉の掌から涼也を救い出すすべを、私はもう持っていなかった。
――嘘つき。もういいわ。終わりにしましょう。
指から抜いた婚約指輪を、彼のベッドの上に置いた。
半同棲だった部屋の荷物を運び出し、車のシートを倒して仰いだ夜空は、私の心とうらはらに冷たく澄んでいた。
涼也は追いかけてくれるだろうか? まだそう考える自分が惨めで……無性に泣けた。
自分の弱さを呪いながら、私は声が出ないほど泣き続けた。
――あの夜涙は枯れてしまったのだろう。ローゼリアとして涙を流した記憶はない。
グスタビオは誠実で優しい人だ。最初、あの夜の痛みを抱えたまま彼と共に人生を歩んでいくのは躊躇われた。
けれど私は誓った。――今度こそ、幸せになる。奪われるだけの私では終わらない。グスタビオと二人で光の射す方へ歩いてみせる、と。
青空の下、遠くで教会の鐘が静かに鳴った。新しい季節とともに、それは私の胸を震わせた。
三か月後にはウォータル伯爵家のグスタビオと婚礼を挙げる約束がある。
それは貴族の娘として当然の“幸福”。けれど風が古家を揺らすような軋み音が、胸の奥で消えもせず鳴り続けている。
この世界にはインターネットやスマホ、大衆雑誌も車も無い退屈な世界。女は十八までにより強い血筋へ嫁ぎ、後継ぎを産むことが最良とされる。
何世代も継がれていく慣習。贅沢と引き換えに差し出す自由。貴族であるということは、そういう重荷を静かに抱くことなのだと、幼いころから教え込まれてきた。
前世の名は香帆(かほ)。遠い東の島国、日本で生きた女性だ。
たいていの者は幼い日に前世の記憶を霧のように忘れてしまうというが、私の記憶は消え損ねた。目覚めれば、いつも二つの時間が重なっている。香帆として味わった痛みが、ローゼリアの心に影を落としている。
前世、香帆の婚約者――涼也(りょうや)は、姉・響子の学友のひとりだった。初めて会った日、微笑みかける彼に、私は魅入られたように恋をした。
五年かけてようやく彼との婚約に至った。それなのに、姉がアメリカから戻ったその日から、涼也の視線は私を素通りし、姉の姿を追い続けた。
響子は少し名の売れたアイドルだったが有名俳優との不倫関係がスクープされ、父によってアメリカに留学させられていたのだ。
復活の足場に涼也の人脈と資金を求め、甘い声で彼を操った。涼也はそれを「浮気ではない。初恋の人への尽力」だと言い張り、私には「協力するのが妹の務めだ」と言った。
涼也を信じて私は受け入れた。それからは全てに於いて彼は姉を優先し私の目の前でも好意を隠さなかった。
約束はいつもキャンセルされた。連絡があるのはまだマシな方で、待ち合わせのお店でスマホを握りしめて何時間も涼也を待つこともあった。
二人は恋人のように振舞い、泣いて縋る私に『お前の愛は重過ぎて鬱陶しいんだよ』と涼也はますます私を邪険に扱った。やがて姉とホテルから朝帰りしている所をスクープされた。
我慢も限界で、私の中に激しい嫉妬と怒りが吹き荒れた。
記事について姉は『彼は私の大切な人』とコメントを出した。
それを見た父は「いっそ響子が家を継ぎ、涼也君と結婚してくれれば」と呟き私の心を抉った。父の秘書として私は随分会社に貢献してきたのに。何もしていない姉が全てを奪っていく ──許せなかった。
問いただす私に、涼也は不機嫌な顔で答えた。
「誤解だ。撮影が長引いたから迎えに来て欲しいと頼まれたんだ。眠気に襲われて危険だからホテルに別々に泊まったんだ」
虚しい言い訳だった。姉の掌から涼也を救い出すすべを、私はもう持っていなかった。
――嘘つき。もういいわ。終わりにしましょう。
指から抜いた婚約指輪を、彼のベッドの上に置いた。
半同棲だった部屋の荷物を運び出し、車のシートを倒して仰いだ夜空は、私の心とうらはらに冷たく澄んでいた。
涼也は追いかけてくれるだろうか? まだそう考える自分が惨めで……無性に泣けた。
自分の弱さを呪いながら、私は声が出ないほど泣き続けた。
――あの夜涙は枯れてしまったのだろう。ローゼリアとして涙を流した記憶はない。
グスタビオは誠実で優しい人だ。最初、あの夜の痛みを抱えたまま彼と共に人生を歩んでいくのは躊躇われた。
けれど私は誓った。――今度こそ、幸せになる。奪われるだけの私では終わらない。グスタビオと二人で光の射す方へ歩いてみせる、と。
青空の下、遠くで教会の鐘が静かに鳴った。新しい季節とともに、それは私の胸を震わせた。
216
あなたにおすすめの小説
忘れるにも程がある
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたしが目覚めると何も覚えていなかった。
本格的な記憶喪失で、言葉が喋れる以外はすべてわからない。
ちょっとだけ菓子パンやスマホのことがよぎるくらい。
そんなわたしの以前の姿は、完璧な公爵令嬢で第二王子の婚約者だという。
えっ? 噓でしょ? とても信じられない……。
でもどうやら第二王子はとっても嫌なやつなのです。
小説家になろう様、カクヨム様にも重複投稿しています。
筆者は体調不良のため、返事をするのが難しくコメント欄などを閉じさせていただいております。
どうぞよろしくお願いいたします。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
甘そうな話は甘くない
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
「君には失望したよ。ミレイ傷つけるなんて酷いことを! 婚約解消の通知は君の両親にさせて貰うから、もう会うこともないだろうな!」
言い捨てるような突然の婚約解消に、困惑しかないアマリリス・クライド公爵令嬢。
「ミレイ様とは、どなたのことでしょうか? 私(わたくし)には分かりかねますわ」
「とぼけるのも程ほどにしろっ。まったくこれだから気位の高い女は好かんのだ」
先程から散々不満を並べ立てるのが、アマリリスの婚約者のデバン・クラッチ侯爵令息だ。煌めく碧眼と艶々の長い金髪を腰まで伸ばした長身の全身筋肉。
彼の家門は武に長けた者が多く輩出され、彼もそれに漏れないのだが脳筋過ぎた。
だけど顔は普通。
10人に1人くらいは見かける顔である。
そして自分とは真逆の、大人しくか弱い女性が好みなのだ。
前述のアマリリス・クライド公爵令嬢は猫目で菫色、銀糸のサラサラ髪を持つ美しい令嬢だ。祖母似の容姿の為、特に父方の祖父母に溺愛されている。
そんな彼女は言葉が通じない婚約者に、些かの疲労感を覚えた。
「ミレイ様のことは覚えがないのですが、お話は両親に伝えますわ。それでは」
彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。
(漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう)
この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。
カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。
逆行転生した侯爵令嬢は、自分を裏切る予定の弱々婚約者を思う存分イジメます
黄札
恋愛
侯爵令嬢のルーチャが目覚めると、死ぬひと月前に戻っていた。
ひと月前、婚約者に近づこうとするぶりっ子を撃退するも……中傷だ!と断罪され、婚約破棄されてしまう。婚約者の公爵令息をぶりっ子に奪われてしまうのだ。くわえて、不貞疑惑まででっち上げられ、暗殺される運命。
目覚めたルーチャは暗殺を回避しようと自分から婚約を解消しようとする。弱々婚約者に無理難題を押しつけるのだが……
つよつよ令嬢ルーチャが冷静沈着、鋼の精神を持つ侍女マルタと運命を変えるために頑張ります。よわよわ婚約者も成長するかも?
短いお話を三話に分割してお届けします。
この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。
“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件
大井町 鶴
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。
彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。
(ひどいわ……!)
それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。
幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。
心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。
そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。
そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。
かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。
2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。
切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さくら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
【完結】運命の赤い糸が見えるようになりまして。
櫻野くるみ
恋愛
伯爵令嬢のアリシアは目を瞬かせていた。
なぜなら、突然赤い糸が見えるようになってしまったからだ。
糸は、幼馴染のジェシカの小指からびろーんと垂れていて——。
大切な幼馴染のために、くっつけおばさん……もとい、くっつけ令嬢になることを決意したアリシア。
自分の小指に赤い糸が見えないことを気にかけつつも、周囲の幸せのために行動を始める。
すると、アリシア本人にも——?
赤い糸が見えるようになったアリシアが、ハッピーエンドを迎えるお話です。
完結しました。
小説家になろう様にも投稿しています。
あの、初夜の延期はできますか?
木嶋うめ香
恋愛
「申し訳ないが、延期をお願いできないだろうか。その、いつまでとは今はいえないのだが」
私シュテフイーナ・バウワーは今日ギュスターヴ・エリンケスと結婚し、シュテフイーナ・エリンケスになった。
結婚祝の宴を終え、侍女とメイド達に準備された私は、ベッドの端に座り緊張しつつ夫のギュスターヴが来るのを待っていた。
けれど、夜も更け体が冷え切っても夫は寝室には姿を見せず、明け方朝告げ鶏が鳴く頃に漸く現れたと思ったら、私の前に跪き、彼は泣きそうな顔でそう言ったのだ。
「私と夫婦になるつもりが無いから永久に延期するということですか? それとも何か理由があり延期するだけでしょうか?」
なぜこの人私に求婚したのだろう。
困惑と悲しみを隠し尋ねる。
婚約期間は三ヶ月と短かったが、それでも頻繁に会っていたし、会えない時は手紙や花束が送られてきた。
関係は良好だと感じていたのは、私だけだったのだろうか。
ボツネタ供養の短編です。
十話程度で終わります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる