前世の記憶なんていらなかった……

ミカン♬

文字の大きさ
10 / 11

第十話 ――幸せになると決めた 

しおりを挟む
 風が秋色へと変わりはじめた午後、庭園の噴水はきらめき、空高く羊雲がたなびいていた。

 ハーシェル・ニルカート伯爵令息――かつて滝川涼也だった男が領地に幽閉されたという知らせが届いてから、胸の奥でざわめいていた“香帆”の影は、霧のように薄らいでいった。 

 私は父に、ハーシェルが語った〈王になる〉という軽率な野望の言葉を正直に伝えた。それは貴族として、いや、この国の娘としての義務だった。父は長い沈黙ののち、硬い声で「国家に叛意ありと見なされても仕方あるまい」と言い、ニルカート家へ正式な抗議状を送った。

 私はその機を逃さず切り出した。
「お父様、私にも疑いが及ぶ前に、カナディア国へ身を移したほうが良いと思うのです」
 父は深く頷き、「レイチルに相談しよう」と言ったあと、力なく笑った。

「お前にハーシェルとの婚約を押しつけたこと……許してくれるか」
 その背には長女の婚家、次女の進路、そして末娘の奔放と、重圧がかかっていることだろう。

「はい。守ってくださると、信じています」
 私の言葉に父は、久しぶりに温かな眼差しを返した。

 * * *

 ミゼットとグスタビオの挙式当日。青の尖塔を擁する聖堂の祭壇にはたくさんの白百合が飾られ、強い香りが式場を満たしていた。

 本来ならその場に立つはずだったのは私。しかし今、参列者の視線は冷たく私を避け、噂は私の耳にも届いた。

 ――無理やり婚約者を奪い、妹に返した悪女。

 そんな中、レイチルと義兄コールマン侯爵は左右に立ち、私を守ってくれた。

 父はもう一つの策を巡らせていた。デミアン・スキュアート伯爵への正式な招待状である。

 かつて“保留”にした縁談の、唯一残った糸を確かめるために。

 聖堂の入り口で再会した彼は、深い紺の礼服に身を包み、眼鏡のフレームを細い銀に替えていた。以前よりも薄くなったレンズ越しにのぞくオッドアイは、優しく澄んで見えた。

 私の視線に伯爵は「あ、やはり……ふ、不快ですか」と慌てて眼鏡を押えた。
 私は微笑み、「美しい瞳に、とてもお似合いです」と囁いた。彼の顔がぱっと明るくなる。――その純粋な輝きに私の好意は深まる。


 やがてパイプオルガンが鳴り、花嫁ミゼットが純白のヴェールを揺らして入場した。誰もが息を呑む美しさだった。けれど私の横を通り過ぎるとき、彼女は勝ち誇った笑みを向け――次の瞬間、私の左手に光る特大のダイヤをとらえ、大きな瞳を見開いた。


 挙式前、デミアン伯爵から受け取ったばかりの指輪。光を束ねたような大粒の石は、彼の家宝だという。
「わ、私の愛の証です。どうか――受け取ってください」

 箱を開けた途端、姉は「家宝を気軽に差し出すなんて」と眉をひそめ、義兄は豪快に笑った。
 けれど私は、伯爵の手の震えと真剣な瞳を見て、静かに首を縦に振ったのだ。

「ありがとうございます。私に似合いますか? どうぞ確かめてください」

 伯爵は息を呑みながら私の指に指輪をすべらせた。その瞬間、彼の目尻が濡れるほどの笑顔でほころんだ。

「か、必ず、幸せにします」
「はい、私も貴方を幸せにしたいと思います」

 義兄は肩を叩き、「やったな、デミアン!」と祝福の声を上げ、姉も「リアは幸せになるわ」と私を抱きしめた。



 花嫁のミゼットに壇上のグスタビオは幸福な微笑みを保ち続けた。かつて私に向けられていた誠実なまなざし。けれど不思議と胸は痛まなかった。

 視線を横へ戻せば、伯爵は花嫁の華やかさにも目を向けず、ただこちらを見守っている。薄く光るレンズの奥で、二つの瞳が優しく揺れた。こみ上げる胸の想い──私はもう彼に恋をしている。


 聖堂に響く祝福の鐘の中で、私は新たに決意する。

 ――過去に囚われ、奪われまいと誰かの影に怯える人生は、今この鐘と共に終わらせる。

 私はローゼリア・アゼラン。明日はカナディアへの国境を越える。


 外へ出ると、空はもう秋の色をしていた。私はダイヤの輝きを掌で確かめ、そっと祈る。

 ――どうかデミアン様と共に幸せになりますように。



しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

忘れるにも程がある

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたしが目覚めると何も覚えていなかった。 本格的な記憶喪失で、言葉が喋れる以外はすべてわからない。 ちょっとだけ菓子パンやスマホのことがよぎるくらい。 そんなわたしの以前の姿は、完璧な公爵令嬢で第二王子の婚約者だという。 えっ? 噓でしょ? とても信じられない……。 でもどうやら第二王子はとっても嫌なやつなのです。 小説家になろう様、カクヨム様にも重複投稿しています。 筆者は体調不良のため、返事をするのが難しくコメント欄などを閉じさせていただいております。 どうぞよろしくお願いいたします。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

甘そうな話は甘くない

ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
「君には失望したよ。ミレイ傷つけるなんて酷いことを! 婚約解消の通知は君の両親にさせて貰うから、もう会うこともないだろうな!」 言い捨てるような突然の婚約解消に、困惑しかないアマリリス・クライド公爵令嬢。 「ミレイ様とは、どなたのことでしょうか? 私(わたくし)には分かりかねますわ」 「とぼけるのも程ほどにしろっ。まったくこれだから気位の高い女は好かんのだ」 先程から散々不満を並べ立てるのが、アマリリスの婚約者のデバン・クラッチ侯爵令息だ。煌めく碧眼と艶々の長い金髪を腰まで伸ばした長身の全身筋肉。 彼の家門は武に長けた者が多く輩出され、彼もそれに漏れないのだが脳筋過ぎた。 だけど顔は普通。 10人に1人くらいは見かける顔である。 そして自分とは真逆の、大人しくか弱い女性が好みなのだ。 前述のアマリリス・クライド公爵令嬢は猫目で菫色、銀糸のサラサラ髪を持つ美しい令嬢だ。祖母似の容姿の為、特に父方の祖父母に溺愛されている。 そんな彼女は言葉が通じない婚約者に、些かの疲労感を覚えた。 「ミレイ様のことは覚えがないのですが、お話は両親に伝えますわ。それでは」 彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。 (漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう) この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。  カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。

逆行転生した侯爵令嬢は、自分を裏切る予定の弱々婚約者を思う存分イジメます

黄札
恋愛
侯爵令嬢のルーチャが目覚めると、死ぬひと月前に戻っていた。 ひと月前、婚約者に近づこうとするぶりっ子を撃退するも……中傷だ!と断罪され、婚約破棄されてしまう。婚約者の公爵令息をぶりっ子に奪われてしまうのだ。くわえて、不貞疑惑まででっち上げられ、暗殺される運命。 目覚めたルーチャは暗殺を回避しようと自分から婚約を解消しようとする。弱々婚約者に無理難題を押しつけるのだが…… つよつよ令嬢ルーチャが冷静沈着、鋼の精神を持つ侍女マルタと運命を変えるために頑張ります。よわよわ婚約者も成長するかも? 短いお話を三話に分割してお届けします。 この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。

“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件

大井町 鶴
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。 彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。 (ひどいわ……!) それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。 幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。 心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。 そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。 そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。 かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。 2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。 切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さくら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

【完結】運命の赤い糸が見えるようになりまして。

櫻野くるみ
恋愛
伯爵令嬢のアリシアは目を瞬かせていた。 なぜなら、突然赤い糸が見えるようになってしまったからだ。 糸は、幼馴染のジェシカの小指からびろーんと垂れていて——。 大切な幼馴染のために、くっつけおばさん……もとい、くっつけ令嬢になることを決意したアリシア。 自分の小指に赤い糸が見えないことを気にかけつつも、周囲の幸せのために行動を始める。 すると、アリシア本人にも——? 赤い糸が見えるようになったアリシアが、ハッピーエンドを迎えるお話です。 完結しました。 小説家になろう様にも投稿しています。

宝箱の中のキラキラ ~悪役令嬢に仕立て上げられそうだけど回避します~

よーこ
ファンタジー
婚約者が男爵家の庶子に篭絡されていることには、前々から気付いていた伯爵令嬢マリアーナ。 しかもなぜか、やってもいない「マリアーナが嫉妬で男爵令嬢をイジメている」との噂が学園中に広まっている。 なんとかしなければならない、婚約者との関係も見直すべきかも、とマリアーナは思っていた。 そしたら婚約者がタイミングよく”あること”をやらかしてくれた。 この機会を逃す手はない! ということで、マリアーナが友人たちの力を借りて婚約者と男爵令嬢にやり返し、幸せを手に入れるお話。 よくある断罪劇からの反撃です。

処理中です...