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1 マリアは聞いていた。
しおりを挟む夏の日差しが和らぐ庭園の木陰。
そこには、夫と息子の姿だけがあるはずだった。
彼女は、マリア・ミオヴェル。
今日こそ、息子ライアンの声を聞ける。
そう信じていた。
この時間は、家族のティータイム。
かつては三人で過ごす、当たり前で、穏やかな午後だった。
けれどここ数か月、マリアはその輪から外れていた。
錬金術師として研究に没頭していたから。
そして何より――音を取り戻すために。
「やっと、完成したのよ!」
思わず声がこぼれる。
マリアはドレスの裾を掴み、走った。
この奇跡を、一秒でも早く伝えたかった。
彼女は十年前、流行り病の後遺症で聴力を失った。
世界は突然、静止したかのように無音になった。
けれど今日。
自らの錬金術によって作り上げた“補聴器”が、再び世界を開いた。
音が、戻ったのだ。
胸が高鳴る。
心臓の鼓動さえ、愛おしいほどに大きく聞こえる。
だが――
庭園の入口で、マリアの足は止まった。
そこには、夫イーサンと息子ライアン。
そして、美しい女性と、幼い女の子。
女性はソレーヌ・バーモット伯爵夫人。
ミオベル商店の大口の取引先。
イーサンとソレーヌは手を取り合い、
息が触れ合うほどの距離で向き合っていた。
マリアの胸の奥で、何かが静かにひび割れる。
「イーサン……」
名を呼ぶと、夫はゆっくり振り向いた。
「なんで来たんだ?」
刃のような声だった。
マリアは言葉を失う。
「まあ、そんな言い方しないで。奥様が可哀そうよ?」
ソレーヌは夫の腕を軽く撫でた。
「妻は聞こえないから大丈夫だ」
「そうだよ。平気だよ」
イーサンとライアンの言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。
――もう、聞こえるのに。
今すぐ言いたかった。
音を取り戻した、と。
けれど、その前にライアンが無邪気に続ける。
「僕ね、ソレーヌさんがママになってほしい。
そうしたらエミリアは僕の妹になるよね」
「もう少し待ったら、そうなるぞ」
「やったー!」
マリアの存在など、最初から無かったかのように。
「……二人は、何を話しているの?」
声は、かすれた。
ソレーヌは静かに微笑む。
「奥様が来たから帰るわね。また会いましょう」
そう言って、ライアンの頭を撫でる。
「ライアンお兄ちゃま、またあそぼうね」
「うん、エミリア……またね」
母と娘はそのまま去っていった。
「あ~あ、ママが来たから、エミリアが帰っちゃった」
「またすぐ会えるさ」
「次は、人形劇に誘ってあげようよ」
あまりにも自然な親子の会話。
――マリアは思い出していた。
かつて、小さな手で必死に手話をしてくれた息子の姿を。
「ねぇ、ライアン聞いて……」
「あ、ヴァイオリンの時間だ。
パパ、早くママに話してね」
一瞬だけマリアを見て、ライアンは走り去った。
胸に、ぽっかり穴が開く。
マリアが視線で問いかけると、
イーサンは手話で告げた。
<俺の部屋に来てくれ>
「……わかったわ」
それでも、すぐには動けなかった。
春の風が、そっと黒髪を撫でる。
――優しいのは、風だけだった。
*
執務室で、イーサンは机の前に立ち、腕を組み、ゆっくりと話し出す。
マリアは唇の動きを読めるのだ。
「補聴器の研究は、進んでいるのか?」
「……いいえ」
嘘だった。
けれど、真実を語る理由が、もう見つからなかった。
「研究は、もういいだろう。
別のものに切り替えたほうがいい」
(私が聞こえない方が、あなたには都合がいいのね)
「店の資金繰りも、楽じゃない」
(私は十分に、あなたを支えてきたはずなのに)
無駄な議論はしない。
それが、これまでのマリアだった。
イーサンは、彼女が従うと信じて疑わない。
「分かったか?」
「……ええ」
頷くしかなかった。
イーサンは書類を差し出す。
「離婚、してほしい」
「……離婚?」
「ああ。君とはもう何年も、夫婦じゃない」
マリアは唇を噛みしめる。
ライアンを身籠ってから、夫婦ではなくなった。
研究室のある別邸で、過ごす時間が多かった。
だから。
わかっていた。
女として夫にはもう、愛されていないと。
「これからは、ビジネスパートナーでいい」
十年。
積み重ねたすべてが、否定される。
――捨てられる。
その事実が、ようやく胸に落ちてきた。
(愛してたのは、私だけだった)
マリアは初めて、イーサンを憎いと思った。
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