錬金術師マリア・ミオヴェルの再婚

ミカン♬

文字の大きさ
1 / 19

1 マリアは聞いていた。

しおりを挟む
 
 夏の日差しが和らぐ庭園の木陰。
 そこには、夫と息子の姿だけがあるはずだった。

 彼女は、マリア・ミオヴェル。
 今日こそ、息子ライアンの声を聞ける。
 そう信じていた。

 この時間は、家族のティータイム。
 かつては三人で過ごす、当たり前で、穏やかな午後だった。

 けれどここ数か月、マリアはその輪から外れていた。

 錬金術師として研究に没頭していたから。
 そして何より――音を取り戻すために。

「やっと、完成したのよ!」

 思わず声がこぼれる。
 マリアはドレスの裾を掴み、走った。
 この奇跡を、一秒でも早く伝えたかった。

 彼女は十年前、流行り病の後遺症で聴力を失った。
 世界は突然、静止したかのように無音になった。

 けれど今日。
 自らの錬金術によって作り上げた“補聴器”が、再び世界を開いた。

 音が、戻ったのだ。

 胸が高鳴る。
 心臓の鼓動さえ、愛おしいほどに大きく聞こえる。

 だが――

 庭園の入口で、マリアの足は止まった。

 そこには、夫イーサンと息子ライアン。
 そして、美しい女性と、幼い女の子。

 女性はソレーヌ・バーモット伯爵夫人。
 ミオベル商店の大口の取引先。

 イーサンとソレーヌは手を取り合い、
 息が触れ合うほどの距離で向き合っていた。

 マリアの胸の奥で、何かが静かにひび割れる。

「イーサン……」

 名を呼ぶと、夫はゆっくり振り向いた。

「なんで来たんだ?」

 刃のような声だった。

 マリアは言葉を失う。

「まあ、そんな言い方しないで。奥様が可哀そうよ?」

 ソレーヌは夫の腕を軽く撫でた。

「妻は聞こえないから大丈夫だ」
「そうだよ。平気だよ」

 イーサンとライアンの言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。

 ――もう、聞こえるのに。

 今すぐ言いたかった。
 音を取り戻した、と。

 けれど、その前にライアンが無邪気に続ける。

「僕ね、ソレーヌさんがママになってほしい。
 そうしたらエミリアは僕の妹になるよね」

「もう少し待ったら、そうなるぞ」

「やったー!」

 マリアの存在など、最初から無かったかのように。


「……二人は、何を話しているの?」

 声は、かすれた。

 ソレーヌは静かに微笑む。

「奥様が来たから帰るわね。また会いましょう」

 そう言って、ライアンの頭を撫でる。

「ライアンお兄ちゃま、またあそぼうね」
「うん、エミリア……またね」

 母と娘はそのまま去っていった。

「あ~あ、ママが来たから、エミリアが帰っちゃった」
「またすぐ会えるさ」
「次は、人形劇に誘ってあげようよ」

 あまりにも自然な親子の会話。

 ――マリアは思い出していた。
 かつて、小さな手で必死に手話をしてくれた息子の姿を。

「ねぇ、ライアン聞いて……」

「あ、ヴァイオリンの時間だ。
 パパ、早くママに話してね」

 一瞬だけマリアを見て、ライアンは走り去った。

 胸に、ぽっかり穴が開く。

 マリアが視線で問いかけると、
 イーサンは手話で告げた。

 <俺の部屋に来てくれ>

「……わかったわ」

 それでも、すぐには動けなかった。

 春の風が、そっと黒髪を撫でる。

 ――優しいのは、風だけだった。

 *

 執務室で、イーサンは机の前に立ち、腕を組み、ゆっくりと話し出す。

 マリアは唇の動きを読めるのだ。

「補聴器の研究は、進んでいるのか?」

「……いいえ」

 嘘だった。

 けれど、真実を語る理由が、もう見つからなかった。

「研究は、もういいだろう。
 別のものに切り替えたほうがいい」

(私が聞こえない方が、あなたには都合がいいのね)

「店の資金繰りも、楽じゃない」

(私は十分に、あなたを支えてきたはずなのに)

 無駄な議論はしない。
 それが、これまでのマリアだった。

 イーサンは、彼女が従うと信じて疑わない。

「分かったか?」

「……ええ」

 頷くしかなかった。

 イーサンは書類を差し出す。

「離婚、してほしい」

「……離婚?」

「ああ。君とはもう何年も、夫婦じゃない」

 マリアは唇を噛みしめる。

 ライアンを身籠ってから、夫婦ではなくなった。
 研究室のある別邸で、過ごす時間が多かった。

 だから。

 わかっていた。

 女として夫にはもう、愛されていないと。
 

「これからは、ビジネスパートナーでいい」

 十年。
 積み重ねたすべてが、否定される。

 ――捨てられる。

 その事実が、ようやく胸に落ちてきた。


(愛してたのは、私だけだった)

 マリアは初めて、イーサンを憎いと思った。

しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

断罪される一年前に時間を戻せたので、もう愛しません

天宮有
恋愛
侯爵令嬢の私ルリサは、元婚約者のゼノラス王子に断罪されて処刑が決まる。 私はゼノラスの命令を聞いていただけなのに、捨てられてしまったようだ。 処刑される前日、私は今まで試せなかった時間を戻す魔法を使う。 魔法は成功して一年前に戻ったから、私はゼノラスを許しません。

虐げられた令嬢は、耐える必要がなくなりました

天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私アニカは、妹と違い婚約者がいなかった。 妹レモノは侯爵令息との婚約が決まり、私を見下すようになる。 その後……私はレモノの嘘によって、家族から虐げられていた。 家族の命令で外に出ることとなり、私は公爵令息のジェイドと偶然出会う。 ジェイドは私を心配して、守るから耐える必要はないと言ってくれる。 耐える必要がなくなった私は、家族に反撃します。

『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。 けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。 誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。

聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)

蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。 聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。 愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。 いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。 ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。 それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。 心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。

貴方のことなんて愛していませんよ?~ハーレム要員だと思われていた私は、ただのビジネスライクな婚約者でした~

キョウキョウ
恋愛
妹、幼馴染、同級生など数多くの令嬢たちと愛し合っているランベルト王子は、私の婚約者だった。 ある日、ランベルト王子から婚約者の立場をとある令嬢に譲ってくれとお願いされた。 その令嬢とは、新しく増えた愛人のことである。 婚約破棄の手続きを進めて、私はランベルト王子の婚約者ではなくなった。 婚約者じゃなくなったので、これからは他人として振る舞います。 だから今後も、私のことを愛人の1人として扱ったり、頼ったりするのは止めて下さい。

夏の眼差し

通木遼平
恋愛
 伯爵令嬢であるティナの婚約者とティナの妹が恋仲になり、ティナは婚約を解消することになる。婚約者に対して特に思い入れはなかったが、姉妹の婚約のすげ替えについての噂と勝手なことばかり言う妹に気疲れしたティナは、昔から彼女を気にかけてくれていたイライザ夫人の紹介で夫人の孫娘リネットの話し相手として雇われることになった。  家から離れ、リネット共に穏やかな日々を過ごすティナは、リネットの従兄であるセオドアと出会う。 ※他サイトにも掲載しています

【完結】白い結婚はあなたへの導き

白雨 音
恋愛
妹ルイーズに縁談が来たが、それは妹の望みでは無かった。 彼女は姉アリスの婚約者、フィリップと想い合っていると告白する。 何も知らずにいたアリスは酷くショックを受ける。 先方が承諾した事で、アリスの気持ちは置き去りに、婚約者を入れ換えられる事になってしまった。 悲しみに沈むアリスに、夫となる伯爵は告げた、「これは白い結婚だ」と。 運命は回り始めた、アリスが辿り着く先とは… ◇異世界:短編16話《完結しました》

今から婚約者に会いに行きます。〜私は運命の相手ではないから

毛蟹
恋愛
婚約者が王立学園の卒業を間近に控えていたある日。 ポーリーンのところに、婚約者の恋人だと名乗る女性がやってきた。 彼女は別れろ。と、一方的に迫り。 最後には暴言を吐いた。 「ああ、本当に嫌だわ。こんな田舎。肥溜めの臭いがするみたい。……貴女からも漂ってるわよ」  洗練された都会に住む自分の方がトリスタンにふさわしい。と、言わんばかりに彼女は微笑んだ。 「ねえ、卒業パーティーには来ないでね。恥をかくのは貴女よ。婚約破棄されてもまだ間に合うでしょう?早く相手を見つけたら?」 彼女が去ると、ポーリーンはある事を考えた。 ちゃんと、別れ話をしようと。 ポーリーンはこっそりと屋敷から抜け出して、婚約者のところへと向かった。

処理中です...