錬金術師マリア・ミオヴェルの再婚

ミカン♬

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2 もう情けはかけない。

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「君は妻としての務めも、母としての責任も果たさない。
 研究にしか能のない女だ。これ以上夫婦でいる必要なんてないだろう?」 

 マリアは、喋り続ける夫の顔を見ながら思い出していた。

 イーサンとは孤児院で出会った。

 ――二十年前。
 マリアは錬金術師の老人、ピサン・ミオヴェルに引き取られようとしていた。

 そのマリアの手を、イーサンが掴んだ。

『マリアと離れるなんて嫌だ! 僕も一緒に連れて行って!
 ねえ、お願いだよ! マリア』

 同い年だが、弟のような甘えん坊のイーサン。
 マリアは、ピサンに頼んで二人一緒に引き取ってもらった。

 ピサンは二人を養子ではなく、《弟子》として迎え、錬金術を教えた。

 才能があったのはマリア。
 凡才と思われたイーサンは、後に商才を開花させた。

 結婚し、息子ライアンも生まれた。
 それだけで、永遠に幸せが続くと思っていたのに。

 ――音を取り戻した瞬間、マリアの幸せは壊れてしまった。


「ほら、これにさっさとサインしてくれ」

 傲慢な態度。

(恩知らず……)

 マリアは、その書類を手に取った。

「少し考えさせて。財産のこともあるし」

 努めて穏やかに言うと、イーサンは頷いた。

「ああ、君の財産はライアンに継がせて欲しい。一人息子だからな」

「私、まだ生きてますけど?」

「生前贈与だよ。ライアンは俺が引き取る」

 この人は、本気だ。
 マリアはそう思った。

「納得するまで、書類にサインはしないわ。時間をちょうだい」

 毅然と告げたマリアに、イーサンは一瞬たじろいだ。

「あ、ああ……早く頼むよ」

 マリアは返事もせずに部屋を出る。
 廊下に扉が重く閉じる音だけが響いた。

 昨日までの彼女ならきっと泣いていた。
 でも今日はちがう。

 昼下がりの庭園で、彼らの会話を聞いてしまったから。

(財産もライアンも渡すものですか!)


 ミオヴェル商会は、イーサンが作った。
 けれど、主力商品を生み出したのはマリアだ。
 それは夫婦の共有財産である。

 それから、流行り病で亡くなったピサンの遺産。
 マリアだけに残された、大切なもの。

(奪わせないわ)

 思考の隅で浮かぶ名、――ソレーヌ。

 伯爵夫人で、四歳の双子の母。

 まさか彼女が、イーサンと……。

 ライアンまでも巻き込んで……
 ――許せなかった。

(イーサン、あなたが私を裏切るのなら、もう情けはかけない)



 その夜。
 マリアは息子の部屋を訪ねた。

「ママ? どうしたの?」

「ねえライアン。もし、パパとママが別々に暮らすことになったら……ライアンはどっちと暮らす?」

「パパがいい」

「そう……パパの方が好きなのね」

「だって僕、妹がほしい」

「……妹?」

「パパには、僕が言ったのは内緒だよ?」

 ライアンは得意げに話した。
 マリアとイーサンが離婚したらソレーヌの娘“エミリア”が、ライアンの妹になるのだと。

「僕、妹が欲しいし、優しいソレーヌさんが大好きなんだ」

 無垢な声は、マリアを必要ないと切り捨てていた。

「……ママのことも好きって、言ってほしいな」

「……嫌いじゃないけど……」

「ライアンがパパと行ってしまったら、ママは寂しいわ」

「ママは仕事ばっかりで、別邸にいつも一人じゃないか。だから平気でしょう?」

 マリアは喉を詰まらせ、言い返せなかった。

 家のことは使用人に任せていた。
 補聴器の完成のために研究室に籠りっきりだった。

 家庭はもうずっと前から、少しずつ壊れていたのだ。


「……もういい? 僕、眠いよ」

「おやすみライアン。ママはあなたが大好きよ」

 父親と同じ人参色の髪にキスを落とし、マリアは静かに部屋を出た。

 扉を閉めた途端──涙があふれた。
 自分にも非はある。
 けれど、悔しかった。

 夫は……もういい。
 だが――ライアンだけは、渡せない。

 泣いている時間なんて、もうない。
 行動しなければ、すべてを失う。

 彼女の中に決意の炎が灯った。

(――私は戦う。母として。女として)


 ***


 数日後。
 マリアは弁護士事務所の扉を開けた。

 迎えてくれたのは、若くして名を馳せる弁護士――カリス・ポートマン卿だった。
 三十にも満たぬ若さでありながら、落ち着いた空気をまとい、穏やかな声が人を安心させる。

 茶色に近い赤毛を後ろで括りつけ、
 品の良いスーツを着こなしている。

 事務所は清潔感にあふれ、棚の書類などは綺麗に整頓されており、几帳面な性格がうかがえた。

 初対面の彼に、マリアは好感を抱いた。


 忙しい彼が、マリアの依頼を快く受けてくれた。

 ポートマン卿には六人の弟妹がいる。
 両親を早くに亡くし、長男として家族を支えてきた。
 その中で、一番下の妹もまた、耳が聞こえないのだ。

 ──だからこそ、マリアの事情を他人事とは思えなかったのだろう。


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