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3 孤独
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マリアは耳が聞こえることを隠したまま、離婚の相談を切り出した。
それは嘘というより、まだ誰にも触れさせたくない“防壁”だった。
「なるほど、夫人には離婚の意志があるのですね。ただ……財産争いは避けられません」
ポートマン卿の声は、現実的な響きを帯びていた。
「親権も難しい問題です。ご主人は社会的な地位を築いておられる。
貴方は研究者として優秀ですが、子育てへの不安を指摘される可能性もあります」
マリアの指先が、膝の上で小さく強張る。
「大切な息子です。財産はいりません!」
「ライアン君の意思も確認されるでしょう。……彼が、貴方を選ぶかどうか」
「……よく話せば、きっと私を選んでくれます」
ポートマン卿は、すぐには答えなかった。
少し考えてから、うなずいた。
「可能性はあります。そのための準備をしましょう」
その一言が、マリアの背中をそっと支えた。
「それにしても――この離婚協議書は酷いですね」
眉をひそめる。
「夫人に対する尊厳も、思いやりも、まるで感じられない」
マリアに残されるのは、研究室のある別宅のみ。
長年支えた商会も、財産も、何ひとつ残らない内容だった。
「ご主人と……ソレーヌ夫人との関係は本当ですか?」
「夫は、はっきりとは言いません。息子から聞いた話だけです」
「なるほど……。その件も調べましょう。
それまでは、離婚の了承はしないでください」
穏やかな声は、マリアの胸を少しだけ軽くした。
「ありがとうございます、ポートマン卿」
「私は法律家として当然のことをしているだけです」
事務所を出る。
扉を閉めたあと、マリアは小さく息を吸った。
――大丈夫かもしれない。
そう思えたのは、久しぶりだった。
* * *
「最近出かけているようだね?」
本邸の廊下でイーサンが言った。
「ええ、研究材料を買い付けに行ってるの」
「余計な金は、使わないで欲しいな」
「じゃあもう、研究はやめていいの?」
イーサンは驚いた顔で「え? なぜ?」と返した。
聞こえるようになってから、マリアの反応は早い。
だが、それを悟られてはいけない。
「唇の動きが早くても、読めるのよ?」
イーサンは、慌てたように首を振った。
「マリア、誤解しないで」
媚びるような声に、背中がぞわりとした。
イーサンは話題を変える。
「そうだ、今度のライアンの誕生日だが、外食することになったんだ」
毎年、家で祝ってきた。
マリアがケーキを焼く日だった。
「どうして? 嫌よ……」
「ライアンが、そうしたいそうだ。まさか、君も来たいのか?」
「ママはダメだよ!」
背後から、ライアンの声。
「だってエミリアとソレーヌ・ママもくるんだから!
それに食べてるとき、ママはカチャカチャと大きな音出すから。嫌なんだ」
一瞬、耳まで熱くなった。
そんなこと、気づいていなかった。
「私は……行かないわ」
「ああ、そうしてくれ」
それで会話は終わった。
ライアンは、もうソレーヌを“ママ”と呼んでいる。
その事実が、胸に重く沈んだ。
* * *
──翌日。
マリアは再びポートマン卿の事務所を訪れた。
落ち着いた空間に、午後の光が、床に落ちている。
席に着くと、ポートマン卿はすぐに書類を取り出した。
「ソレーヌ夫人も離婚訴訟を起こしています。理由は夫の浮気。そして、双子の親権を求めていますが――認められる可能性は低い。彼女は無職、収入の当てがない」
「養育費が欲しくて、娘のエミリアだけでも引き取りたいのね?」
「その通りです。けれど、離婚後、ソレーヌ夫人はミオヴェルの店に雇用されるようです」
マリアは小さく息をついた。
「……それを理由に娘を引き取る。離婚が成立したら、イーサンと再婚するのかしら」
「したたかですよね、彼女。この一年で、貴方のご主人から相当な額を引き出しています」
「夫との関係はどうでしょう?」
ポートマン卿は少しだけ表情を曇らせた。
「あくまで表向きは“友人”としての関係です。しかし――」
差し出される書類。
邸宅、別荘、宝石、ドレス。
紙の上の数字が、イーサンの裏切りを雄弁に語っていた。
彼の素早い調査が、マリアは気になった。
「夫とソレーヌ夫人を、以前から調べていたのですね?」
「守秘義務があるので、詳しくお答えできません。しかし、私はあなたの味方です」
「ええ、信用しているわ」
マリアは書類の束を受け取った。
「夫に、商会は譲ります。あの家は出てほしい。買った別荘にでも住めばいいわ。
貯金は折半で。ソレーヌ夫人に使った分は、差し引いてもらいます」
「親権は?」
「……欲しいです。難しいかもしれないけど、諦めたくない」
「そうですか」
彼は、余計な慰めの言葉を口にしなかった。
けれど、その沈黙が――不思議と心を支えてくれる。
マリアは、ふと彼を見る。
誠実な人。
きっと、良い夫、良い父親になるだろう。
「……ポートマン卿。ご結婚は?」
「まだ、予定もありません」
「そうでしたか……失礼しました」
「いいえ。この歳ですから、よく聞かれます」
彼の微笑みは、うっすらと寂しい影を落としていた。
これほどの人なら、きっと多くの令嬢に慕われたはず。
長男としての責任を背負い、孤独に慣れてしまっている。
その姿が、マリアにはどこか自分と重なって見えた。
それは嘘というより、まだ誰にも触れさせたくない“防壁”だった。
「なるほど、夫人には離婚の意志があるのですね。ただ……財産争いは避けられません」
ポートマン卿の声は、現実的な響きを帯びていた。
「親権も難しい問題です。ご主人は社会的な地位を築いておられる。
貴方は研究者として優秀ですが、子育てへの不安を指摘される可能性もあります」
マリアの指先が、膝の上で小さく強張る。
「大切な息子です。財産はいりません!」
「ライアン君の意思も確認されるでしょう。……彼が、貴方を選ぶかどうか」
「……よく話せば、きっと私を選んでくれます」
ポートマン卿は、すぐには答えなかった。
少し考えてから、うなずいた。
「可能性はあります。そのための準備をしましょう」
その一言が、マリアの背中をそっと支えた。
「それにしても――この離婚協議書は酷いですね」
眉をひそめる。
「夫人に対する尊厳も、思いやりも、まるで感じられない」
マリアに残されるのは、研究室のある別宅のみ。
長年支えた商会も、財産も、何ひとつ残らない内容だった。
「ご主人と……ソレーヌ夫人との関係は本当ですか?」
「夫は、はっきりとは言いません。息子から聞いた話だけです」
「なるほど……。その件も調べましょう。
それまでは、離婚の了承はしないでください」
穏やかな声は、マリアの胸を少しだけ軽くした。
「ありがとうございます、ポートマン卿」
「私は法律家として当然のことをしているだけです」
事務所を出る。
扉を閉めたあと、マリアは小さく息を吸った。
――大丈夫かもしれない。
そう思えたのは、久しぶりだった。
* * *
「最近出かけているようだね?」
本邸の廊下でイーサンが言った。
「ええ、研究材料を買い付けに行ってるの」
「余計な金は、使わないで欲しいな」
「じゃあもう、研究はやめていいの?」
イーサンは驚いた顔で「え? なぜ?」と返した。
聞こえるようになってから、マリアの反応は早い。
だが、それを悟られてはいけない。
「唇の動きが早くても、読めるのよ?」
イーサンは、慌てたように首を振った。
「マリア、誤解しないで」
媚びるような声に、背中がぞわりとした。
イーサンは話題を変える。
「そうだ、今度のライアンの誕生日だが、外食することになったんだ」
毎年、家で祝ってきた。
マリアがケーキを焼く日だった。
「どうして? 嫌よ……」
「ライアンが、そうしたいそうだ。まさか、君も来たいのか?」
「ママはダメだよ!」
背後から、ライアンの声。
「だってエミリアとソレーヌ・ママもくるんだから!
それに食べてるとき、ママはカチャカチャと大きな音出すから。嫌なんだ」
一瞬、耳まで熱くなった。
そんなこと、気づいていなかった。
「私は……行かないわ」
「ああ、そうしてくれ」
それで会話は終わった。
ライアンは、もうソレーヌを“ママ”と呼んでいる。
その事実が、胸に重く沈んだ。
* * *
──翌日。
マリアは再びポートマン卿の事務所を訪れた。
落ち着いた空間に、午後の光が、床に落ちている。
席に着くと、ポートマン卿はすぐに書類を取り出した。
「ソレーヌ夫人も離婚訴訟を起こしています。理由は夫の浮気。そして、双子の親権を求めていますが――認められる可能性は低い。彼女は無職、収入の当てがない」
「養育費が欲しくて、娘のエミリアだけでも引き取りたいのね?」
「その通りです。けれど、離婚後、ソレーヌ夫人はミオヴェルの店に雇用されるようです」
マリアは小さく息をついた。
「……それを理由に娘を引き取る。離婚が成立したら、イーサンと再婚するのかしら」
「したたかですよね、彼女。この一年で、貴方のご主人から相当な額を引き出しています」
「夫との関係はどうでしょう?」
ポートマン卿は少しだけ表情を曇らせた。
「あくまで表向きは“友人”としての関係です。しかし――」
差し出される書類。
邸宅、別荘、宝石、ドレス。
紙の上の数字が、イーサンの裏切りを雄弁に語っていた。
彼の素早い調査が、マリアは気になった。
「夫とソレーヌ夫人を、以前から調べていたのですね?」
「守秘義務があるので、詳しくお答えできません。しかし、私はあなたの味方です」
「ええ、信用しているわ」
マリアは書類の束を受け取った。
「夫に、商会は譲ります。あの家は出てほしい。買った別荘にでも住めばいいわ。
貯金は折半で。ソレーヌ夫人に使った分は、差し引いてもらいます」
「親権は?」
「……欲しいです。難しいかもしれないけど、諦めたくない」
「そうですか」
彼は、余計な慰めの言葉を口にしなかった。
けれど、その沈黙が――不思議と心を支えてくれる。
マリアは、ふと彼を見る。
誠実な人。
きっと、良い夫、良い父親になるだろう。
「……ポートマン卿。ご結婚は?」
「まだ、予定もありません」
「そうでしたか……失礼しました」
「いいえ。この歳ですから、よく聞かれます」
彼の微笑みは、うっすらと寂しい影を落としていた。
これほどの人なら、きっと多くの令嬢に慕われたはず。
長男としての責任を背負い、孤独に慣れてしまっている。
その姿が、マリアにはどこか自分と重なって見えた。
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