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3 マリリン
しおりを挟むセレン様は……まるで狂気そのものを纏っておられた。
無理もない。
かつては王女殿下の恋人であり、この国が誇るソードマスター。
それほどの方が、今は呪われ、死を待つ身なのだから。
赤い髪に、力強い藍の瞳。
けれど、その美しい右顔の半分には黒い呪文が刻まれ、まるで闇そのもののように見えた。
……けれど、私も人のことは言えない。
あの時ベールを掴み取られた瞬間、確かに驚いたけれど──
セレン様の方がもっと驚かれていた。
「首が飛ぶかも」って思ったけど……無事でよかった。
『勝手に好きに過ごせ』
そう言われた私は、心に決めた。
セレン様の最後を見届けよう。
──それが、私にできる精一杯のことだ。
そして一年後、修道院で静かに生涯を終えよう。
けれど……セレン様の言葉はいつも鋭く、心を刺した。
「目障りなゴブリンめ! さっさと実家に帰れ!」
もう帰る場所のない私には、何よりも辛い言葉だった。
いっそ修道院に行った方が、セレン様も喜ぶのではないだろうか。
最初の決心は、脆く崩れそうになった。
想像以上に、苦しい毎日だった。
そして私は、男性と暮らすことがどういうことか、何も知らなかった。
セレン様はいつもお酒を手放さず、酔えば私に物を投げつけた。
けれど、それらは不思議と当たらない。
当たらないたびに、セレン様は苛立ち、ますます怒鳴った。
料理が気に入らないと言っては、テーブルごとひっくり返し、
掃除を終えた端からわざと汚して歩かれた。
それでも──夜になると。
セレン様は一人で部屋の隅にうずくまり、
黒い呪文が広がる体を抱きしめて震えていた。
……その姿を見るたび、私は出ていけなかった。
怖かったのに、置いて行けなかった。
ただ黙って、できる限り彼の目に触れぬよう家事をこなし、
そうして二ヶ月が過ぎたころ。
深夜、セレン様は酒の匂いを纏って、私の部屋に入ってこられた。
眠っていた私の顔に枕を押しつけ、そのまま布団の上に覆いかぶさってこられたのだ。
「顔は隠しておけ……体は、人間だよな?」
息が止まりそうだった。
けれど──私は妻だ。
ならば、拒む理由などない。
そう思って、力を抜いた。
セレン様の手が夜着に触れた瞬間、彼は突然「うっ!」と呻き、
慌てて手を引っ込めた。
「なんだ……? 手が……痺れる。俺は……妻を抱くこともできないのか?」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
“妻”と、仰ったのだ。
「おい! お前、自分で服をぬ……ぬ……ぬ、ぬ……!? なぜ言えないんだぁあ!」
「……?」
どうやら“脱げ”と言いたいらしい。
でも、そんなこと……恥ずかしくてできない。
「くそっ! お前は何なんだよ! 務めを果たせないなら、出て行け!」
怒鳴り散らしたセレン様は、そのまま自室へ戻って行かれた。
怖かった。けれど……不思議と涙は出なかった。
(……これがきっと、最初で最後の機会だったかもしれない)
私を抱こうなんて人、この先もう現れない。
そう思うと、胸の奥が空っぽになった。
それから数日後。
パンを焼こうとして、小麦粉が足りないことに気づいた。
「……少しくらいなら、出ても大丈夫よね」
そう呟き、私は市場通りへ出かけた。
雑貨屋のヘンリーさんが週に二度、食材を届けてくれるのだけれど、
たまにこうして自分で買いに行くこともある。
「あれ、奥様? 小麦粉を忘れていましたか。すみませんねぇ」
「いえ、大丈夫です」
小麦粉と一緒に、パン屋で焼きたてのパンを買い、
ふと、スイーツ店の前で足を止めた。
(来月は……私の誕生日。十六歳になるんだわ。ケーキ……買えるといいな)
そんな事考えながら、私は屋敷へ急いだ。
──今日、セレン様には黙って出てきた。
私は鍵を持たされていない。
だから、前に一度、セレン様に締め出されたことがあるのだ。
朝まで扉は閉じたまま、あの夜の寒さが忘れられない。
『チッ! 出ていったと思ったのに』
朝、玄関を開けてくださったセレン様は、舌打ちされた。
思い出すたび、胸がきゅっと締め付けられる。
また締め出されないよう、私は走っていた。
すると、見つけた。
フードを深く被り、こちらへ歩いてくるセレン様の姿を。
(……どうしよう、また鍵を掛けられたかも)
足を止めると、セレン様が私に気づき、駆け寄ってきた。
「お前……戻ってきたのか」
「すみません。小麦粉を買いに行ってました」
「……そうか。俺は酒を買いに行く」
そう言って、彼は私に鍵を渡してくださった。
その鍵は、ほんのり温かかった。
「お預かりします。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
「ああ」
短い会話。
それだけなのに、胸の奥が少し温かくなった。
屋敷に戻ると、まだ酒はたっぷりあった。
「違うお酒を探しに行かれたのかしら……?」
けれどセレン様は、手ぶらで帰ってこられた。
夕食の時間、パンを一口食べて、彼はすぐに顔をしかめた。
「いつもよりマズいな。野良犬にでも食わせておけ」
料理をひっくり返されなかっただけでも、ほっとした。
「……申し訳ございません」
パン屋のパンがマズイだなんて……
きっと本当は、嫌いじゃないのだと思いたかった。
──私の焼いたパンを。
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