2 / 39
第一章
第一章 ~『後宮での日常』~
しおりを挟む雪華は約束通り、毎週のように戦地へと手紙を送った。趙炎からも返事があり、離れていても二人の愛は深まっていく。そう信じられるほどに充実した時間を過ごした。
だがある日を境に、趙炎からの返信の頻度が落ちる。最初は、たまたま手紙が遅れているだけだと自分に言い聞かせた。
だが手紙の届かない日々はしばらく続く。趙炎は面倒事を嫌うタイプなので、手紙を書くのが億劫になったのかもしれない。はたまた、仕事が多忙になり、手紙を書けない状況なのかもと納得しようとした。
一ヶ月。返信が届かなくなったことで、もしかすると趙炎の身に何か起きたのかもしれないと心配になった雪華は、現地の彼の様子を確認するために遣いを送る。無事でいて欲しい。その願いは最悪の形で裏切られた。
趙炎は浮気していたのだ。手紙が届かなくなったのも、新しい女に夢中になっていたからだった。
雪華の不安が現実のものとなり、冷たい怒りが胸の中でじわりと広がる。趙炎に裏切られたと知った以上、愛想も完全に尽きてしまった。
離縁しよう。そう決めた雪華は、彼が返ってくる予定の一年が過ぎるのを待った。
ただ何もしないと負の感情は蓄積されていくばかりだ。雪華はすべてを忘れるために趣味の水墨画に勤しんだ。
墨をすくい、軽く筆を動かすたびに、細い線が美しく広がる。特に動物の絵が得意で、墨の濃淡を絶妙に使い分けられた生き物たちは、まるで生きているかのような躍動感を放っていた。
浮気への怒りの爆発が芸術の才能を開花させたのである。その能力はやがて、後宮に招かれるほどに評価されるようになった。
後宮には皇族だけでなく、多くの人が暮らしている。威圧的な宦官から優しく穏やかな女官まで千差万別だ。そんな中でも、特に雪華に親切にしてくれたのが先代皇帝の妃であり、太妃の立場にある妲己だった。
妲己は後宮の一角にある太妃宮で静かに暮らしており、雪華を頻繁に呼び出しては、彼女の絵を求めた。
交流を重ねていく内に二人は絆を深め、まるで親友のような関係へと発展する。妲己との時間が生き甲斐となった雪華は、今日も後宮に顔を出し、筆を手に取っていた。
(妲己様はいつ見ても美しいですね)
目に映った妲己の姿に思わず心を奪われる。この世のものとは思えないほどの美しさを放っており、透き通るような白い肌は滑らかで、上品な紅の唇は微笑を浮かべるたびに華が咲いたようだった。
先代皇帝が妲己を寵愛した理由が一目で理解できる。それほどの美貌だった。
事実、妲己の部屋には、先代皇帝からの贈り物が多数残されている。象牙の彫刻に、青白磁の花瓶、折りたたまれた絹織物は愛の証だった。
「綺麗に描けているかしら?」
「モデルが素敵ですから」
「お世辞でも雪華に褒められて悪い気はしないわね」
寝台の上に腰掛ける妲己を、雪華は紙の上に表現していく。指先が繊細に筆を操り、墨が濃淡をつけることで、絵に生命を吹き込んでいく。
やがて雪華は筆をそっと置き、完成した絵をじっと見つめる。中央にはモデルである妲己と共に、一羽の小鳥が描かれている。
乾いた墨がモフモフとした柔らかい印象を捉えていた。雪華は自らの作品に満足し、そっと絵を持ち上げると、妲己に見せる。
「わぁ~、やっぱり雪華の絵は素敵ね」
「私の中でも、この絵はよく出来た方だと思います。モデルの妲己様とリア様が頑張ってくれたおかげですね」
カナリアのリア、雪華が飼っている小鳥であり、大切な家族の一員でもある。その美しい鳴き声を妲己も気に入り、絵のモデルになる時は一緒になることが多かった。
「この子、本当に大人しいわね」
「優しい子ですから。それにジッとしているようにと約束もしてありますので……」
「動物と意思の疎通ができるのよね。本当に便利な特技ね」
「おかげで動物たちと友人になれるので重宝しています」
動物の鳴き声にはそれぞれ特徴がある。その微妙な差異を感じ取り、相手の伝えたいことが何かを手に取るように感じ取れるのが雪華の特技だった。
この特技を知る者はほとんどいない。隠しているわけではないが、その数少ない相手が妲己であり、本当に心を開いた親友の証でもあった。
「この絵は飾っておくわね」
妲己は完成したばかりの絵を慎重に手に取ると、ゆっくりと立ち上がる。壁には既に幾つかの名画が並んでおり、その空いたスペースに雪華の水墨画を飾る。窓から差し込む陽光に優しく照らされる場所だった。
「ここがいいわね」
「そんな目立つ場所で構わないのですか?」
「雪華の絵にはそれだけの価値があるのよ」
「ですが、その隣の絵の迫力と比べると……」
雪華の視線の先には、伝説の怪物である九尾の狐が描かれた一枚が飾られている。威厳に満ちた狐は九本の尻尾を左右に広げ、見る者に本当に風を切っているかのような迫力を感じさせた。
「雪華の絵は繊細さが売りだもの。伝説上の怪物を描いた作品とは魅力が異なるだけで、あなたも負けてないわ」
妲己は褒めてくれるが、雪華自身、まだ隣の絵には力が及ばないと実力差を痛感していた。拳をギュッと握りしめ、改めて絵を見据える。
「この絵を見ていると、九尾の狐が実在したように思えてきますね」
「もし本当にいたら怖い?」
「いえ、恐くはありません。伝承だと、この国を他国の侵攻から守ってくれたそうですから……それに、私はどんな大きい狐でも相手が動物であれば仲良くなれる自信がありますので」
九尾の狐とはいえ、話しさえすれば心が通じ合えるはずだと、雪華は信じている。妲己は雪華のそういう純粋さを好ましく感じたのか、朗らかに微笑む。
「こんな良い娘を裏切るなんて、趙炎は本当に馬鹿な男よね……あ、そういえば、そろそろ彼が戦地に行ってから一年経つわね。屋敷にはいつ戻って来るの?」
「明日には帰るとの手紙がありました」
「それは楽しみね。どう対処するかは決まっているのよね?」
「はい。浮気の罪を償わせるつもりです」
裏切りを許容するほど、雪華は甘くない。泣いて謝られたとしても冷徹さを貫くつもりだった。
「離縁するの?」
「そのつもりです。ただ簡単にはいかないでしょうね。なにせ証拠がありませんから」
浮気の調査は小鳥のリアにお願いしており、動物の証言では証拠にならない。裏切りを証明するには、確固たる証拠を突きつける必要があった。
「雪華のことだもの。手は考えているのでしょう」
「色々と策を講じるつもりです」
「さすが私の親友。報復の結末がどうなるか見物ね」
楽しみにしていると妲己は微笑む。その瞳には期待と信頼が滲んでいたのだった。
43
あなたにおすすめの小説
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。
夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。
辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。
側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。
※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
reva
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する
3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
婚約者である王太子からの突然の断罪!
それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。
しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。
味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。
「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」
エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。
そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。
「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」
義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
悪役令嬢、記憶をなくして辺境でカフェを開きます〜お忍びで通ってくる元婚約者の王子様、私はあなたのことなど知りません〜
咲月ねむと
恋愛
王子の婚約者だった公爵令嬢セレスティーナは、断罪イベントの最中、興奮のあまり階段から転げ落ち、頭を打ってしまう。目覚めた彼女は、なんと「悪役令嬢として生きてきた数年間」の記憶をすっぽりと失い、動物を愛する心優しくおっとりした本来の性格に戻っていた。
もはや王宮に居場所はないと、自ら婚約破棄を申し出て辺境の領地へ。そこで動物たちに異常に好かれる体質を活かし、もふもふの聖獣たちが集まるカフェを開店し、穏やかな日々を送り始める。
一方、セレスティーナの豹変ぶりが気になって仕方ない元婚約者の王子・アルフレッドは、身分を隠してお忍びでカフェを訪れる。別人になったかのような彼女に戸惑いながらも、次第に本当の彼女に惹かれていくが、セレスティーナは彼のことを全く覚えておらず…?
※これはかなり人を選ぶ作品です。
感想欄にもある通り、私自身も再度読み返してみて、皆様のおっしゃる通りもう少しプロットをしっかりしてればと。
それでも大丈夫って方は、ぜひ。
婚約破棄されたので聖獣育てて田舎に帰ったら、なぜか世界の中心になっていました
かしおり
恋愛
「アメリア・ヴァルディア。君との婚約は、ここで破棄する」
王太子ロウェルの冷酷な言葉と共に、彼は“平民出身の聖女”ノエルの手を取った。
だが侯爵令嬢アメリアは、悲しむどころか——
「では、実家に帰らせていただきますね」
そう言い残し、静かにその場を後にした。
向かった先は、聖獣たちが棲まう辺境の地。
かつて彼女が命を救った聖獣“ヴィル”が待つ、誰も知らぬ聖域だった。
魔物の侵攻、暴走する偽聖女、崩壊寸前の王都——
そして頼る者すらいなくなった王太子が頭を垂れたとき、
アメリアは静かに告げる。
「もう遅いわ。今さら後悔しても……ヴィルが許してくれないもの」
聖獣たちと共に、新たな居場所で幸せに生きようとする彼女に、
世界の運命すら引き寄せられていく——
ざまぁもふもふ癒し満載!
婚約破棄から始まる、爽快&優しい異世界スローライフファンタジー!
地味だと婚約破棄されましたが、私の作る"お弁当"が、冷徹公爵様やもふもふ聖獣たちの胃袋を掴んだようです〜隣国の冷徹公爵様に拾われ幸せ!〜
咲月ねむと
恋愛
伯爵令嬢のエリアーナは、婚約者である王太子から「地味でつまらない」と、大勢の前で婚約破棄を言い渡されてしまう。
全てを失い途方に暮れる彼女を拾ったのは、隣国からやって来た『氷の悪魔』と恐れられる冷徹公爵ヴィンセントだった。
「お前から、腹の減る匂いがする」
空腹で倒れかけていた彼に、前世の記憶を頼りに作ったささやかな料理を渡したのが、彼女の運命を変えるきっかけとなる。
公爵領で待っていたのは、気難しい最強の聖獣フェンリルや、屈強な騎士団。しかし彼らは皆、エリアーナの作る温かく美味しい「お弁当」の虜になってしまう!
これは、地味だと虐げられた令嬢が、愛情たっぷりのお弁当で人々の胃袋と心を掴み、最高の幸せを手に入れる、お腹も心も満たされる、ほっこり甘いシンデレラストーリー。
元婚約者への、美味しいざまぁもあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる