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第五話     幻闘、そして――

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 伊織はごくりと生唾を飲み込む。

 浪人姿の男が闘う意志を示した直後、周囲を威圧いあつするような怒気が消えたのだ。

 それだけではない。

 鬼のようだった形相ぎょうそうからけわしさが消えた。

 そして喜怒哀楽きどあいらくがまったくない無心の表情になると、二刀の切っ先をゆるやかに地面へと下ろしていく。

(あ……あ……ああああ……)

 直後、伊織は全身の力が抜けて両膝から崩れ落ちた。

 武術に関しての素人だったならば、今の浪人姿の男が取った構えを見て、およそ今から闘う人間の構えとは思えなかっただろう。

 それほど浪人姿の男の構えは、全身のりきみが抜けた姿だったからだ。

 そして伊織は武術の素人でもなく、宮本武蔵を心の師として尊敬していたからこそ、浪人姿の男が本物の宮本武蔵だと確信したのである。

 相手に対して感情をき出しにしない冷静な顔つき。

 二刀を下段に構えていながらも無駄な力みが一切ない理想的な脱力。

 まるで天と地の間で一本に繋がれているようなじくのあるたたずまい。

 それは宮本武蔵の自画像――【宮本武蔵みやもとむさし肖像しょうぞう】の中に描かれている宮本武蔵の姿と瓜二うりふたつだったのだ。

(本物だ……本物の宮本武蔵だ)

 伊織は胸の奥から込み上げる喜びを必死に抑えながら、明星みょうじょうあおぎ見るように浪人姿の男――宮本武蔵を見つめた。

 一方、武蔵と対峙しているアルバートは明らかに動揺し始めた。

 おそらく、これまで闘ってきた相手の中にここまで敵意と闘気を身の内に抑えた相手はいなかったのだろう。

 武蔵は困惑こんわくしているアルバートに冷静な口調で言った。

「さあ、好きなように来い。ただし、この武蔵に対して何の策も駆使くしせずいどむようならば――」

 武蔵は左手に持っていた大刀の切っ先をアルバートの顔に向ける。

「〝斬らず〟に殺す……他の奴らも同じくな」

 恐ろしいほど淡々とした物言いに、伊織は未だかつてないほどの戦慄せんりつを覚えた。

 アルバートと名乗った騎士は一対一の勝負をいどんだものの、武蔵の周りには依然いぜんとしてアルバートと同じ屈強な騎士たちが控えている。

 ここで武蔵がアルバートとの勝負に打ち勝ったとしても、それこそ他の騎士たちは死に物狂いで武蔵に向かっていくに違いない。

 では、そのことに対して武蔵は「卑怯ひきょうだ」とののしるだろうか? 

 答えはいなである。

 武蔵はアルバート以外の騎士たちも、勝負の範疇はんちゅうに入れているだろう。

 なぜなら武蔵が生きていた時代の武芸者は一対一の死合いに勝利したとしても、その負けた相手の身内や弟子たちに報復ほうふくされることも度々たびたびあったからだ。

 伊織の脳裏に武蔵の伝説的なエピソードの一つが浮かんでくる。

 かつて武蔵は京都一乗寺下がり松において、八十名近い吉岡一門と死闘を繰り広げ勝利を収めた。

 しかしそれは名目人めいもくにんであった吉岡清十郎せいじゅうろうの子、吉岡又七郎またしちろうを不意打ちに近い形で斬り、混乱の極み達した状況に乗じてその場から逃走したとされている。

 それほど多勢たぜい無勢ぶぜいあやういのだ。

 ましてや京都一乗寺下がり松は逃走しやすい屋外であったが、今いるここは地理的状況が皆無な異世界の城の中なのである。

 いくら天下無双の宮本武蔵とはいえ、逃げようと思っても簡単に逃げられるとは思えない。

 加えてこの場にはアリーゼという本物の魔法使いもいるのだ。

 たとえ武蔵がアルバートや他の騎士たちと勝負して勝ちを収めたとしても、間違いなく武蔵の前にアリーゼが立ちはだかるに違いなかった。

(どうやって、この場を乗り切るの?)

 書物や映像の中ではない、生身の宮本武蔵がどうやって絶体絶命の窮地きゅうちを乗り越えるのか。

 伊織が固唾かたずを呑んで武蔵の動向に注目したときであった。

(……ううっ)

 伊織は苦悶くもんの表情を浮かべるなり、両手で頭を押さえた。

 突然、鈍器で頭を殴られたような頭痛が伊織を襲ったのである。

 それだけではない。

 頭痛が強くなるにつれて、目の前の光景が二重映像のように見えてきた。

 正しくは〝二人の武蔵〟と〝二人のアルバート〟が見えてきたのである。

 けれども二人の武蔵と二人のアルバートは四人とも鮮明な姿というわけではなかった。

 脱力した構えを取っている生身の武蔵の前に現れたもう一人の武蔵は、まるで白煙で輪郭りんかくを構成されたような武蔵の姿だったのだ。

 アルバートのほうも同様であった。

 長槍を中段に構えている生身のアルバートの前には、同じく白煙で輪郭を構成されたようなもう一人のアルバートが現れている。

(何これ……)

 頭痛を少しでも和らげようと歯を食いしばる中、伊織の視界に映っていた二人の武蔵と二人のアルバートに動きがあった。

 いや、正確には白煙の武蔵と白煙のアルバートだけに動きがあったのだ。

 いきなり白煙のアルバートが床を滑るような歩法から、白煙の武蔵の胴体目掛けて空気を切り裂くほどの鋭い突きを放つ。

 対して白煙の武蔵は、落ち着いた動きで左に身体を開いて突きをかわすと、そのまま間合いを詰めて白煙のアルバートの顔面に左手に持っていた大刀による突きを繰り出した。

 視界を保つために空いていた、兜の目のスリットの中に突きを受けた白煙のアルバートは、そのまま身体をよろけさせながら膝から崩れ落ちる。

(……え?)

 異様な光景はさらに続いた。

 突きを繰り出した状態で静止していた白煙の武蔵と、床にうつ伏せに倒れて静止していた白煙のアルバートがまるで時間を巻き戻したように再び元の立ち合いの状態に戻っていたのである。

 このような不思議な攻防は幾度も続いた。

 白煙のアルバートが長槍を用いた突き、薙ぎ、打ちなど千変万化せんぺんばんかの攻撃をしていくものの、白煙の武蔵はこれらの攻撃を絶妙な足捌あしさばきや身体のひねりを使って躱し、相手が態勢を崩した一瞬の隙を狙って反撃していく。

 けれども生身の武蔵と生身のアルバートはまったく動かない。

 あくまでも白煙の武蔵と白煙のアルバートのみが、尋常ならざるほどの高度な攻防を繰り広げていたのだ。

 何度目の攻防が行われたときだろうか。

 やがて生身のアルバートに動きがあった。

 生身のアルバートは長槍を床に落とすと、腰にたずえていた長剣をすらりと抜き放ったのだ。

 同時に今ほどまで見えていた白煙の武蔵と白煙のアルバートが、文字通り煙のように空中に霧散むさんしていく。

 それは日本刀と違って両刃が特徴的な、ロングソードと呼ばれる長剣であった。

 刃渡り百センチはあるであろう、斬りつけるというよりは叩きつけるという印象の西洋剣である。

「まさか、これほどの使い手とは……出し惜しみしているわけにはいかんな」

 言うなり、アルバートは「本気でいかせてもらう」と長剣を正眼せいがんに構えた。

「我は王国を守りし剣なり。我は王国をおびかす、すべての敵をほふる者。我の前にすべての敵は無力なり。我は高貴にして善行なる剣なり。聖なる神よ、我に悪を打ち破る偉大な力を与えたもう」

 そしてアルバートが抑揚よくようをつけた呪文のような言葉を口にすると、アルバートの臍下へそしたから九センチの場所――下丹田が綺羅星きらぼしのようなまばゆいい光を放った。

 その光から漏れ出た黄金色の燐光りんこうは、やがて螺旋らせんを描きながらアルバートの全身を包んでいく。

 武蔵は驚いたように両目を見開いた。
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