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第二十四話 街災級のギガントエイプ
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「おい、いい加減に諦めろや」
敷地の一角で顔をうつむかせながら、体育座りをしていた伊織にルリが言った。
「……あなたたちは人でなしよ」
伊織は顔を上げずに低い声で呟いた。
あのな、とルリは面倒くさそうに鞘の柄頭で頭を掻く。
「ファングの旦那たちは何も間違ったことはしてへんで。間違ったことをしたのは、お前が連れてたオッサンのほうや。どこの世界にゴブリンやオークの群れに一人で突撃する馬鹿がおんねん」
「だからって、お師匠様を見捨てることないでしょう!」
伊織は顔を上げると、真っ赤にさせた目でルリを睨みつけた。
泣きすぎて目が充血しているのだ。
「うちに当たんのもお門違いやで。それにお前も気づいているとちゃうんか?」
ルリは伊織を見下ろしつつ、いたって冷静な顔で言い放った。
「正直、あのオッサンはとっくに殺されとるわ。五十匹のゴブリンに十匹のオークなんて、下手したら王国騎士団が部隊を編成して討伐する規模の数や。もう冒険者がどうこうするレベルとちゃう。だから、オッサンが出ていってすぐに門を閉めて土嚢を置いたんや」
ぎりっと伊織は歯を軋ませた。
現在、キメリエス修道院の出入り口の扉は固く閉ざされている。
それだけではない。
扉の内側には冒険者や修道女たちが用意した土嚢が積み重ねられていた。
ゴブリンやオークたちの侵入を少しでも遅らせるためである。
そしてすでに日は落ちて周囲は暗くなっていたため、キメリエス修道院の敷地内にはいくつもの篝火が焚かれていた。
「お師匠様は死なない……死ぬはずがない!」
伊織はゆっくりと立ち上がり、今度は自分がルリを見下ろしながら断言する。
「死ぬはずがないって……何でそう言い切れんねん。どう考えても死んどるに決まっとるやろ。それとも、あのオッサンが死なへん理由でもあるんかい」
「ある……だって、お師匠様はあの宮本武蔵なんだから!」
そうである。
日本史上において最強と謳われた剣聖であり、天下無双の宮本武蔵がこんなところで死ぬはずがない。
なぜなら、伊織は誰よりも知っていたからだ。
宮本武蔵は晩年に熊本県の霊厳洞で【五輪書】を書いたあと、遺言状とも言えた【独行道】を執筆して息を引き取ったことを。
正保二年(1645年)の五月十九日、享年六十二歳のことであった。
そんな武蔵の生涯を知っているからこそ、伊織は今の武蔵が死ぬはずはないと口にしたのだ。
今の武蔵はどう見ても二十代後半か三十代前半である。
舟島で佐々木小次郎を倒したのが二十九歳のときだから、おそらくその直後の武蔵が異世界に転移させられたのだろう。
そう考えると、すべての辻褄が合うのだ。
宮本武蔵が三十歳の頃から五十歳頃までの間、諸説はあったものの歴史の表舞台から消えていた事実がである。
だとしたら、こんな異世界の地で武蔵が死ぬはずはなかった。
きっと武蔵は生きているはずだ。
などと思った伊織に対して、ルリは呆れた表情を浮かべた。
「ミヤモトムサシってあのオッサンの名前か? だからなんやっちゅうねん。そんな誰も知らんオッサンの名前を出して、魔物が襲ってこんようになるんなら苦労ないわ」
その言葉に伊織はすかさず反応した。
「そうよ。お師匠様が出て行ってから、その魔物たちが襲ってくる気配が全然ないじゃない……っていうことは、まだお師匠様は生きて戦っているんだわ」
「はあ? そんなわけないやろうが。魔物共が未だに襲ってこんのは、うちらが急いで出入口の扉を閉めたからに決まっとるやろ。それに塀の上からでも分かるよう篝火をぎょうさん焚いとるさかい、魔物共もうかつに近寄れんだけや」
「でも――」
と、伊織がさらに食い下がろうとしたときだ。
伊織は唐突に咳き込んでしまった。
「何や、喉でも乾いたんか? ツレのオッサンをうちらが見捨てたからって、ガキみたいに大声を上げて泣きすぎるからやで」
しゃあないな、とルリは腰に下げていた水筒を伊織に渡そうとする。
「ほれ、飲めや」
最初こそ断ろうとした伊織だったが、さっきから喉が焼けそうなほど乾いて我慢できなかった。
「高いんじゃないの? はっきり言ってお金なんてないよ」
「一口で銀貨一枚……と、言いたいところやけど、今日のところは貸しにしといたるわ。お代は金ができたときにでも取り立てるさかい、早く一人前に稼げるようになれや。お嬢ちゃん」
「言っとくけど、変なところじゃ働かないからね。それに私には宮本伊織っていう名前があるの」
伊織は水筒を受け取ると、蓋を開けて中身を一気に飲み干す。
だが、はっきり言って全然足りなかった。
水筒の中には三口分ほどの水しか入っていなかったのだ。
「あ、すまんすまん。色々とバタついとったから、中身を〝補充〟するのをすっかり忘れとったわ」
そう言うとルリは左手の掌を上に向け、「ステータス・オープン」と口にした。
ルリの左手の掌上に、ステータスが顕現する。
「ちょっと待って……何それ?」
伊織は驚きと疑問が入り混じった表情で尋ねた。
「あん? 何ってステータスに決まっとるやろ」
ルリが小首を傾げている中、伊織は異様な形のステータスを見つめた。
綺麗に澄んだ水である。
ルリのステータスはクラスメイトたちが出したような半透明の板ではなく、液体の水そのものの形をしていたのだ。
それこそ小さなバケツに入れた量の水が、中身だけ空中にぷかぷかと浮いているようにしか見えない。
「いやいや、ステータスってこう半透明の板になっていて、自分の名前や職業欄があるやつでしょう……これみたいに」
と、伊織は右手の掌を上に向け「ステータス・オープン」と口にした。
伊織の右手の掌上に、天掌板が顕現する。
「右手の天掌板……お前、天理使いやったんか!」
最初こそ伊織の天掌板に驚いたルリだったが、すぐに眉根を寄せてじっと天掌板を見つめた。
「あん? お前それ、第一段階の〈練精化〉しただけの状態やないか。ステータスでも天掌板でも、第二段階の〈練気化〉まで練らんと実戦では使えへんで」
「れ、れんせいか? れんきか?」
「お前、マジかい……どこの天理使いに師事しとったんや。天掌板の〈練精化〉まで出来たっちゅうことは、それなりの師匠について天理の修行したんやろ?」
「え? いや、その……」
伊織はどう答えていいのか困ってしまった。
ルリの言っていることがまったく分からない。
「おいおい、ホンマに〈練精化〉も〈練気化〉のことも知らんのか……ちゅうことは最終段階の〈練神化〉のことも?」
「ごめん、分からない」
「嘘やろ。ステータスや天掌板の第一段階の〈練精化〉にしたって、普通に生きてたら出せるようになりましたって話ちゃうぞ」
「これが出せるのはそんなに凄いことなの?」
「凄いも何もSクラスの冒険者になる条件の一つやで。言っとくけど、どれだけ馬鹿みたいに任務をこなして実績を積み重ねても、ステータスや天掌板の〈練精化〉すら出来ない冒険者なんて星の数ほどおるんや。そんで、そういった冒険者はAクラスで高止まりになる」
ファングの旦那みたいにな、とルリは敷地内のある一角に視線を向ける。
すでにあらかたの修道女たちの避難は完了しており、外来者用の宿舎前には殿を務めようとしている冒険者たちだけの姿があった。
もちろん、その中には指揮官であるファングの姿もあった。
ファングは他の冒険者たちに色々と指示を出している。
「じゃあ、その変なステータスが出せているあなたもSクラスの冒険者になるんじゃないの? さっき自分で名乗ったときは、確かBクラスって言ってなかった?」
「お前、ちゃんと話を聞いてたか? うちは条件の一つやって言うやたろ。ステータスや天掌板が出せても、それに合わせて冒険者としての実績もないとSクラスへ昇格は出来んのや。つまりはそういうこっちゃ」
「ああ……ようするに、あなたは純粋に冒険者としての実績がないのね」
ルリは片方の眉をぴくんと動かすと、おもむろに左手の指の形を変化せた。
拳を握った状態で人差し指と親指だけをぴんと立てる。
ルリは左手を銃のような形にするなり、人差し指の照準を伊織の顔に合わせた。
「そう言えば、まだ喉が渇いとるんとちゃうか? ちゃんと飲ませたるさかい、大きく口を開けろや……まあ、口を開けんでもお見舞いしたるけどな」
ルリはにやりと笑うと、小声で「水指弾」と発した。
直後、ルリのステータスに変化があった。
水の形をしていたステータスから、小石程度の水弾が伊織の口へ目掛けて発射されたのだ。
「わっぷ!」
伊織は調子はずれな声を出して大きく仰け反り、そのまま地面に尻もちをついてしまった。
半開きだった口に水弾の直撃を受けたからである。
そして伊織の精神状態に変化があったからだろう。
伊織の天掌板が一人でにふっと消えた。
「どうや、ルリ様の水魔法の味は? 一切の混じりっ気なし、煮沸消毒もせんと飲める貴重な水やで。もっと欲しいなら遠慮せず言えや」
ただし、とルリは伊織を見下ろしながら言葉を続ける。
「発言には注意せえよ。うちの勘にさわることを言った場合、勝手に魔力が凝縮されて人間の頭ぐらい簡単に貫通するほどの威力になるで。ちなみに言うとくと、その状態に詠唱が加われば人間の頭なんぞ粉々になるからな」
せせら笑いながら説明したルリに対して、伊織は濡れている顔を拭くことも忘れて訊いた。
「それってやっぱり水魔法よね! しかも無詠唱だったんじゃない!」
怒りなどは微塵も込み上げてこない。
込み上げてきたのは、本物の魔法をこの目で見たという喜びであった。
「ちょう待てや。何で魔法を食らって喜んでんねん。気色悪いわ」
ルリは数歩だけ後退すると、「クローズド」と言ってステータスを消した。
「どうしてステータスを消したの? もっと魔法を見せてよ」
あほか、とルリは唾が飛び散るほどの勢いで叫んだ。
「ステータスを出しとる間は魔力をずっと消費するんやで。言いかえれば、大怪我して血がどばどば出ている状態に近い。そんなもん、そのうち魔力が枯渇してぶっ倒れるわ。それこそ普通の魔法使いなら一日五分ほどが限界なんや。まあ、修行を続けていけば持続する時間はもっと伸ばせるけどな」
などとルリが魔法の特徴について語ってくれたときである。
「あんたら、こんなところで何してるんッすか?」
血相を変えた赤猫が駆けつけてきた。
「何でもあらへん。ちいとばかし、このちぐはぐなお嬢ちゃんに世間の常識を教えとっただけや」
「そんなもんあとにするッすよ。もうあらかた修道女たちの避難は済んだッすから、あとは私らだけが逃げるだけッす」
ルリは大きく頷いた。
「そうやな。さっさとこんな危ない場所からはオサラバしようか。魔物共ももぬけの殻の場所にいつまでも留まるようなことはせんやろうし、人間の盗賊くずれに襲われるよりはずっと被害は少なくて済むやろうしな」
「でも、お師匠様がまだ――」
帰っていない、と伊織が二人に告げようとした直後であった。
ドオンッ――。
突如、伊織の言葉を吹き飛ばすほどの巨大な音が聞こえてきた。
三人は一斉に音がした方向へ顔を向けた。
音が聞こえたのは出入口の扉のほうである。
そして何度目の音が聞こえたときだろうか。
土嚢を積まれた出入口の扉が爆発した。
しかし実際に火薬か何かで爆発したように思えただけで、それは外側から何者かの凄まじい力によって扉が破壊された音だったのである。
『ウキャキャキャキャキャキャキャキャ――――ッ!』
大気を震わせるほどの鳴き声とともに、白と黒のまだら模様の巨大な塊が敷地内に飛び込んできた。
「おい、冗談やろ? あれってまさか街災級の……」
ルリが絶望に打ちひしがれたトーンで声を漏らしたとき、赤猫は「ギ、ギガントエイプッす」と同じく生気のなくした低い声で言った。
『ココダ! ココカラ美味ソウナ匂イガスルゾ! ウキャキャキャキャキャッ!』
篝火の生木の爆ぜる音に混じり、五メートルはあるギガントエイプと呼ばれた魔物の嬉々とした鳴き声が周囲に響き渡る。
伊織は圧倒的な恐怖に動くことすらできず、ただギガントエイプの異様な姿を直視していた。
本物の絶望というのは、こういうことなのだと頭の片隅で思いながら――。
敷地の一角で顔をうつむかせながら、体育座りをしていた伊織にルリが言った。
「……あなたたちは人でなしよ」
伊織は顔を上げずに低い声で呟いた。
あのな、とルリは面倒くさそうに鞘の柄頭で頭を掻く。
「ファングの旦那たちは何も間違ったことはしてへんで。間違ったことをしたのは、お前が連れてたオッサンのほうや。どこの世界にゴブリンやオークの群れに一人で突撃する馬鹿がおんねん」
「だからって、お師匠様を見捨てることないでしょう!」
伊織は顔を上げると、真っ赤にさせた目でルリを睨みつけた。
泣きすぎて目が充血しているのだ。
「うちに当たんのもお門違いやで。それにお前も気づいているとちゃうんか?」
ルリは伊織を見下ろしつつ、いたって冷静な顔で言い放った。
「正直、あのオッサンはとっくに殺されとるわ。五十匹のゴブリンに十匹のオークなんて、下手したら王国騎士団が部隊を編成して討伐する規模の数や。もう冒険者がどうこうするレベルとちゃう。だから、オッサンが出ていってすぐに門を閉めて土嚢を置いたんや」
ぎりっと伊織は歯を軋ませた。
現在、キメリエス修道院の出入り口の扉は固く閉ざされている。
それだけではない。
扉の内側には冒険者や修道女たちが用意した土嚢が積み重ねられていた。
ゴブリンやオークたちの侵入を少しでも遅らせるためである。
そしてすでに日は落ちて周囲は暗くなっていたため、キメリエス修道院の敷地内にはいくつもの篝火が焚かれていた。
「お師匠様は死なない……死ぬはずがない!」
伊織はゆっくりと立ち上がり、今度は自分がルリを見下ろしながら断言する。
「死ぬはずがないって……何でそう言い切れんねん。どう考えても死んどるに決まっとるやろ。それとも、あのオッサンが死なへん理由でもあるんかい」
「ある……だって、お師匠様はあの宮本武蔵なんだから!」
そうである。
日本史上において最強と謳われた剣聖であり、天下無双の宮本武蔵がこんなところで死ぬはずがない。
なぜなら、伊織は誰よりも知っていたからだ。
宮本武蔵は晩年に熊本県の霊厳洞で【五輪書】を書いたあと、遺言状とも言えた【独行道】を執筆して息を引き取ったことを。
正保二年(1645年)の五月十九日、享年六十二歳のことであった。
そんな武蔵の生涯を知っているからこそ、伊織は今の武蔵が死ぬはずはないと口にしたのだ。
今の武蔵はどう見ても二十代後半か三十代前半である。
舟島で佐々木小次郎を倒したのが二十九歳のときだから、おそらくその直後の武蔵が異世界に転移させられたのだろう。
そう考えると、すべての辻褄が合うのだ。
宮本武蔵が三十歳の頃から五十歳頃までの間、諸説はあったものの歴史の表舞台から消えていた事実がである。
だとしたら、こんな異世界の地で武蔵が死ぬはずはなかった。
きっと武蔵は生きているはずだ。
などと思った伊織に対して、ルリは呆れた表情を浮かべた。
「ミヤモトムサシってあのオッサンの名前か? だからなんやっちゅうねん。そんな誰も知らんオッサンの名前を出して、魔物が襲ってこんようになるんなら苦労ないわ」
その言葉に伊織はすかさず反応した。
「そうよ。お師匠様が出て行ってから、その魔物たちが襲ってくる気配が全然ないじゃない……っていうことは、まだお師匠様は生きて戦っているんだわ」
「はあ? そんなわけないやろうが。魔物共が未だに襲ってこんのは、うちらが急いで出入口の扉を閉めたからに決まっとるやろ。それに塀の上からでも分かるよう篝火をぎょうさん焚いとるさかい、魔物共もうかつに近寄れんだけや」
「でも――」
と、伊織がさらに食い下がろうとしたときだ。
伊織は唐突に咳き込んでしまった。
「何や、喉でも乾いたんか? ツレのオッサンをうちらが見捨てたからって、ガキみたいに大声を上げて泣きすぎるからやで」
しゃあないな、とルリは腰に下げていた水筒を伊織に渡そうとする。
「ほれ、飲めや」
最初こそ断ろうとした伊織だったが、さっきから喉が焼けそうなほど乾いて我慢できなかった。
「高いんじゃないの? はっきり言ってお金なんてないよ」
「一口で銀貨一枚……と、言いたいところやけど、今日のところは貸しにしといたるわ。お代は金ができたときにでも取り立てるさかい、早く一人前に稼げるようになれや。お嬢ちゃん」
「言っとくけど、変なところじゃ働かないからね。それに私には宮本伊織っていう名前があるの」
伊織は水筒を受け取ると、蓋を開けて中身を一気に飲み干す。
だが、はっきり言って全然足りなかった。
水筒の中には三口分ほどの水しか入っていなかったのだ。
「あ、すまんすまん。色々とバタついとったから、中身を〝補充〟するのをすっかり忘れとったわ」
そう言うとルリは左手の掌を上に向け、「ステータス・オープン」と口にした。
ルリの左手の掌上に、ステータスが顕現する。
「ちょっと待って……何それ?」
伊織は驚きと疑問が入り混じった表情で尋ねた。
「あん? 何ってステータスに決まっとるやろ」
ルリが小首を傾げている中、伊織は異様な形のステータスを見つめた。
綺麗に澄んだ水である。
ルリのステータスはクラスメイトたちが出したような半透明の板ではなく、液体の水そのものの形をしていたのだ。
それこそ小さなバケツに入れた量の水が、中身だけ空中にぷかぷかと浮いているようにしか見えない。
「いやいや、ステータスってこう半透明の板になっていて、自分の名前や職業欄があるやつでしょう……これみたいに」
と、伊織は右手の掌を上に向け「ステータス・オープン」と口にした。
伊織の右手の掌上に、天掌板が顕現する。
「右手の天掌板……お前、天理使いやったんか!」
最初こそ伊織の天掌板に驚いたルリだったが、すぐに眉根を寄せてじっと天掌板を見つめた。
「あん? お前それ、第一段階の〈練精化〉しただけの状態やないか。ステータスでも天掌板でも、第二段階の〈練気化〉まで練らんと実戦では使えへんで」
「れ、れんせいか? れんきか?」
「お前、マジかい……どこの天理使いに師事しとったんや。天掌板の〈練精化〉まで出来たっちゅうことは、それなりの師匠について天理の修行したんやろ?」
「え? いや、その……」
伊織はどう答えていいのか困ってしまった。
ルリの言っていることがまったく分からない。
「おいおい、ホンマに〈練精化〉も〈練気化〉のことも知らんのか……ちゅうことは最終段階の〈練神化〉のことも?」
「ごめん、分からない」
「嘘やろ。ステータスや天掌板の第一段階の〈練精化〉にしたって、普通に生きてたら出せるようになりましたって話ちゃうぞ」
「これが出せるのはそんなに凄いことなの?」
「凄いも何もSクラスの冒険者になる条件の一つやで。言っとくけど、どれだけ馬鹿みたいに任務をこなして実績を積み重ねても、ステータスや天掌板の〈練精化〉すら出来ない冒険者なんて星の数ほどおるんや。そんで、そういった冒険者はAクラスで高止まりになる」
ファングの旦那みたいにな、とルリは敷地内のある一角に視線を向ける。
すでにあらかたの修道女たちの避難は完了しており、外来者用の宿舎前には殿を務めようとしている冒険者たちだけの姿があった。
もちろん、その中には指揮官であるファングの姿もあった。
ファングは他の冒険者たちに色々と指示を出している。
「じゃあ、その変なステータスが出せているあなたもSクラスの冒険者になるんじゃないの? さっき自分で名乗ったときは、確かBクラスって言ってなかった?」
「お前、ちゃんと話を聞いてたか? うちは条件の一つやって言うやたろ。ステータスや天掌板が出せても、それに合わせて冒険者としての実績もないとSクラスへ昇格は出来んのや。つまりはそういうこっちゃ」
「ああ……ようするに、あなたは純粋に冒険者としての実績がないのね」
ルリは片方の眉をぴくんと動かすと、おもむろに左手の指の形を変化せた。
拳を握った状態で人差し指と親指だけをぴんと立てる。
ルリは左手を銃のような形にするなり、人差し指の照準を伊織の顔に合わせた。
「そう言えば、まだ喉が渇いとるんとちゃうか? ちゃんと飲ませたるさかい、大きく口を開けろや……まあ、口を開けんでもお見舞いしたるけどな」
ルリはにやりと笑うと、小声で「水指弾」と発した。
直後、ルリのステータスに変化があった。
水の形をしていたステータスから、小石程度の水弾が伊織の口へ目掛けて発射されたのだ。
「わっぷ!」
伊織は調子はずれな声を出して大きく仰け反り、そのまま地面に尻もちをついてしまった。
半開きだった口に水弾の直撃を受けたからである。
そして伊織の精神状態に変化があったからだろう。
伊織の天掌板が一人でにふっと消えた。
「どうや、ルリ様の水魔法の味は? 一切の混じりっ気なし、煮沸消毒もせんと飲める貴重な水やで。もっと欲しいなら遠慮せず言えや」
ただし、とルリは伊織を見下ろしながら言葉を続ける。
「発言には注意せえよ。うちの勘にさわることを言った場合、勝手に魔力が凝縮されて人間の頭ぐらい簡単に貫通するほどの威力になるで。ちなみに言うとくと、その状態に詠唱が加われば人間の頭なんぞ粉々になるからな」
せせら笑いながら説明したルリに対して、伊織は濡れている顔を拭くことも忘れて訊いた。
「それってやっぱり水魔法よね! しかも無詠唱だったんじゃない!」
怒りなどは微塵も込み上げてこない。
込み上げてきたのは、本物の魔法をこの目で見たという喜びであった。
「ちょう待てや。何で魔法を食らって喜んでんねん。気色悪いわ」
ルリは数歩だけ後退すると、「クローズド」と言ってステータスを消した。
「どうしてステータスを消したの? もっと魔法を見せてよ」
あほか、とルリは唾が飛び散るほどの勢いで叫んだ。
「ステータスを出しとる間は魔力をずっと消費するんやで。言いかえれば、大怪我して血がどばどば出ている状態に近い。そんなもん、そのうち魔力が枯渇してぶっ倒れるわ。それこそ普通の魔法使いなら一日五分ほどが限界なんや。まあ、修行を続けていけば持続する時間はもっと伸ばせるけどな」
などとルリが魔法の特徴について語ってくれたときである。
「あんたら、こんなところで何してるんッすか?」
血相を変えた赤猫が駆けつけてきた。
「何でもあらへん。ちいとばかし、このちぐはぐなお嬢ちゃんに世間の常識を教えとっただけや」
「そんなもんあとにするッすよ。もうあらかた修道女たちの避難は済んだッすから、あとは私らだけが逃げるだけッす」
ルリは大きく頷いた。
「そうやな。さっさとこんな危ない場所からはオサラバしようか。魔物共ももぬけの殻の場所にいつまでも留まるようなことはせんやろうし、人間の盗賊くずれに襲われるよりはずっと被害は少なくて済むやろうしな」
「でも、お師匠様がまだ――」
帰っていない、と伊織が二人に告げようとした直後であった。
ドオンッ――。
突如、伊織の言葉を吹き飛ばすほどの巨大な音が聞こえてきた。
三人は一斉に音がした方向へ顔を向けた。
音が聞こえたのは出入口の扉のほうである。
そして何度目の音が聞こえたときだろうか。
土嚢を積まれた出入口の扉が爆発した。
しかし実際に火薬か何かで爆発したように思えただけで、それは外側から何者かの凄まじい力によって扉が破壊された音だったのである。
『ウキャキャキャキャキャキャキャキャ――――ッ!』
大気を震わせるほどの鳴き声とともに、白と黒のまだら模様の巨大な塊が敷地内に飛び込んできた。
「おい、冗談やろ? あれってまさか街災級の……」
ルリが絶望に打ちひしがれたトーンで声を漏らしたとき、赤猫は「ギ、ギガントエイプッす」と同じく生気のなくした低い声で言った。
『ココダ! ココカラ美味ソウナ匂イガスルゾ! ウキャキャキャキャキャッ!』
篝火の生木の爆ぜる音に混じり、五メートルはあるギガントエイプと呼ばれた魔物の嬉々とした鳴き声が周囲に響き渡る。
伊織は圧倒的な恐怖に動くことすらできず、ただギガントエイプの異様な姿を直視していた。
本物の絶望というのは、こういうことなのだと頭の片隅で思いながら――。
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