61 / 64
第六十一話 武蔵、開眼!
しおりを挟む
「トーガ殿! 本日も一手ご指南いただきたい!」
そう高らかに叫んだのは、滝壺の横の地面に立っていた武蔵である。
「何度言えば分かる!」
すぐに武蔵のはるか頭上からよく通る声が返ってきた。
「俺は指南などしてはいない! ただ、お前を殺しているにすぎん!」
「それだけで十分です!」
武蔵は喉が張り裂けんばかりの声量で返事をする。
「〈聴剄〉を使えば分かりますぞ! これまでにトーガ殿が俺に技を習得させんがために、わざと力の流れを見やすくして技を出してくれていたことが!」
ほう、とトーガは感心したように頷いた。
「ようやく〈聴剄〉を会得することができたか! お前は力の流れを操ることにかけては天賦の才があるものの、逆に力そのものを大きく多方面に広げて維持することの才が薄かった……ちなみに今はどんな感じだ!」
武蔵は「不思議な感覚としか言えませぬ!」と大声で答えた。
嘘偽りのない事実である。
普段は身体から一寸(約3センチ)ほどの広さで纏っていた〝気〟を、今の武蔵は見上げるほど頭上にいたトーガまで広げていた。
こうなると両目を閉じていても分かる。
すべてではないものの、トーガが考えている一部のことをだ。
本当に不思議な感覚であった。
〈聴剄〉を使っていると、その広げていた〝気〟の範囲内にいる者の一部の考えが文字として頭の中に浮かんでくるのだ。
同時に武蔵は思った。
おそらく、これは普通の〈聴剄〉ではないかもしれない。
「そうだ! 最初の段階の〈聴剄〉は力の範囲内にいる生物の気配や動向しか分からないが、今のお前のようにさらに上の段階の〈聴剄〉を使えるようになると相手の考えすら明確に読み取れるようになる!」
トーガはニヤリと笑って言葉を続けた。
「それこそ〈聴剄〉の派生技――〝読心〟だ……そして、さらに修練を積んでいくと波長の合う者同士と言葉を介さずに頭の中で会話が可能になる!」
などとトーガは口にした。
だが、肝心の武蔵には上手く伝わらなかったようだ。
武蔵は「トーガ殿、誠に申し訳ありませぬ!」と大声を上げる。
「滝の音のせいであまり聞き取れませなんだ!」
トーガは見るからに肩を落とした。
――この未熟者め!
直後、武蔵の脳内に叱咤の文字がはっきりと浮かんでくる。
武蔵は気恥ずかしくなり大きくうな垂れた。
しかし、この場所で離れた相手の声を聞き取るには多少の無理があった。
正確な時刻こそ分からなかったが、日の光を燦々と降り注いでいる太陽が真上にあるということは昼頃なのだろう。
そして、ここは森の中の開けた場所ではない。
荘厳な滝がある渓谷の一角である。
滝口からは大量の水飛沫を上げた水が滝壺へと流れ落ちていた。
その滝の音のせいで武蔵はトーガの声を上手く聞き取れなかったのだ。
しかもトーガは武蔵のはるか頭上の滝口の近くにいるので、滝の音と相まって余計に声が聞き取り難くなっていた。
何せ滝壺近くの苔生した地面に立っていた武蔵から見て、トーガがいる滝口までは十六丈(約50メートル)はあるのだ。
これでは満足に声を聞き取れないのも仕方ない。
と、普通の人間ならば思うに違いなかった。
しかし、トーガから言わせればそんなものは何の言い訳にもならないという。
大勢の人間で埋め尽くされている街中。
敵味方の叫声であふれ返っている戦場。
そのような声自体が上手く働かない場所などにおいて、特定の敵の察知や味方への伝達を効率よく行わなければならないことなど多々ある。
そして、それは巨大な滝がある渓谷だろうと同じだ。
武人としての矜持(プライド)があるのならば、常に音だけに頼らず〈聴剄〉を使って周囲のすべてに敏感になれ。
それだけではない。
常在戦場――常日頃から戦場にいるような心構えでいろ。
この10年の間にトーガから幾度となく指摘されたことである。
「いつまで落ち込んでいるつもりだ、武蔵! 早くこちらに上って来い!」
武蔵はハッと我に返った。
「今すぐに!」
快活に返事をした武蔵は、瞬時に両足に〝気〟を込めて地面を蹴る。
すると武蔵の身体は一跳躍で二間(約3.6メートル)の高さを飛び、そのまま滝の横の断崖を駆け上った。
むろん、手などは一切使わない。
武蔵は断崖から突き出ている岩を足掛かりに、まるで飛翔するかの如く滝口へと昇っていく。
それは文字通り〝飛びながら翔る〟の体現だった。
武蔵は瞬く間に滝壺から滝口まで移動すると、仁王立ちしていたトーガの前に降り立つ。
「〈箭疾歩〉の派生技である〝飛翔〟も中々に様になってきたな。最初の頃の何度も昇っては落ちを繰り返して死んでいたときとは大違いだ」
「これもトーガ殿との闘いのおかげです」
武蔵は感慨深く頭を下げた。
〈箭疾歩〉の派生技――〝飛翔〟。
高速移動で分身を作り出す攪乱技の〝繚乱〟と違い、〝飛翔〟は足場の悪い場所を安全に移動する歩行技に分類される。
上手く使えば垂直に近い断崖を手を使わずに駆け上ることはもちろんのこと、川や毒の沼地なども身体をつけることなく移動する水面歩行も可能だ。
そして今の武蔵が使える〈外丹法〉は〈箭疾歩〉だけではない。
この10年の間にあらかたの〈外丹法〉を使えるようになっていた。
それもすべてはトーガとの実戦を越えた闘いの恩恵に他ならない。
トーガが一つ一つの技の詳細を説明しながら殺してくれたおかげで、神技とも呼べる〈外丹法〉がどうすれぱ使えるのか肉体で分かることが出来たのだ。
これにはひたすらに感謝しかなかった。
おかげで10年前とは比較にならないほど闘いの幅が広がったのだ。
「それで? この10年の間にお前が俺に抱いたのは感謝だけか?」
「いいえ、滅相もない」
武蔵は真剣な眼差しで即答した。
「この切りの良い節目をもって、トーガ殿との別れと致したく存じます」
武蔵の堂々とした物言いに、トーガは「ほう」と嬉しそうに微笑んだ。
「俺に一太刀を浴びせられる工夫がついたか?」
武蔵は力強く「はい」と頷く。
「よかろう……ならば来い!」
トーガは武蔵の視線を真っ向から受け止めながら、長刀と大刀の二刀をそれぞれの手の掌上から顕現させた。
天理の究極形――〈色即是空〉。
魔法の終極形――〈空即是色〉。
トーガの二天一流《にてんいちりゅう》を支える、恐るべき天魔法の二本柱だ。
武蔵は二刀流となったトーガを見て、自身の刀もすらりと抜き放つ。
大刀である〈無銘・金重〉は当然のこと、かつてギガントエイプに叩き折られたはずの小刀も颯爽と抜いて見せる。
武蔵が抜いた小刀は折れてはいなかった。
なぜかこの蓬莱山では、現世で折られたはずの小刀も完全に元通りになっていたのだ。
そしてそれを武蔵が知ったのは10年前のことであり、10年経った今では当たり前のように元通りになった小刀と大刀の二刀流でトーガに挑んでいる。
あれから何万回死んだのだろうか。
トーガと同じく二刀構えになった武蔵は、ふと懐かしさのあまり両目を閉じた。
こうして目を閉じれば走馬灯のように浮かんでくる。
挑んでは殺され、殺されては挑んだ苛烈な死闘の日々。
悔しさなどとっくの昔に捨て去った。
代わりに拾ったのは、絶対にトーガの技をモノにしたいという兵法者の欲だ。
やがてその情念が実を結んだのか、10年経った今では十分ではないが天理も魔法も〈外丹法〉も一通りは扱えるようになった。
それゆえに今となってはトーガの力量の深さに尊敬の念を抱き、同時にトーガと剣を交えられる喜びを心から感じている。
トーガはふっと笑みをこぼした。
「余計な雑念に支配されている限り、俺に一太刀を浴びせられることなど永遠に不可能だぞ」
「むろん、それは嫌と言うほど承知しております」
そう言うと武蔵は静かに両目を開けた。
「む……」
その武蔵の目を見たトーガは低く唸る。
武蔵の目の光からは、相手に勝ちたいという我執が消えていたからだ。
いや、消えていたのは我執だけではなかった。
是が非でも相手に勝ちたい。
自分だけが強くありたい。
何としてでも負けたくない。
兵法者ならば誰でも持つ、勝負への我欲すらも消えていたのである。
無心であった。
もしくは一切のわだかまりがなく、澄み切った心境とも言えただろう。
どちらにせよ、今の武蔵は心身ともに依然とは比べ物にならないほどの高みに達していた。
それは武蔵の目の光から以外でも十二分に見て取れる。
いつの間にか武蔵は独特の構えを取っていた。
感情を剥き出しにしない冷静な顔つき。
二刀を下段に構えていながらも、無駄な力みが一切ない理想的な脱力状態。
武蔵の肉体を中心に、天と地が光の柱で繋がっているような軸のある佇まい。
以前にアルビオン城でアルバートと相対したときにも取った構えであった。
しかし、あのときの構えと今の構えは違う。
見た目は同じ構えに見えても中身が恐ろしく変化している。
アルバートと闘ったときには、武蔵はこの構えでは完全に後の先(カウンター)を取るしか出来なかった。
言い換えればこの構えでは後の先(カウンター)しか出来ないというのが過去の武蔵の見解であったのだ。
だが、今の武蔵はこの構えからでも他に二つの先を取れるようになっていた。
先の先(相手が動作を起こす前に攻撃する)。
追の先(相手が攻撃してきたあとに反撃する)。
などと呼ばれている二つの先である。
「たかが10年でよくぞここまで」
トーガは武蔵の構えを見て破顔すると、すぐに武蔵と同じ無心になる。
そんなトーガを見ても武蔵は心を揺らさず、ありのままのトーガを受け入れた。
剣術、体術、天理、魔法、〈外丹法〉、どれもトーガが上なのは変わらない。
とはいえ、そこで勝つか負けるかを考えて心を乱すなど愚の骨頂。
ゆえに武蔵は何にも囚われない無心となった。
ただ、ひたすらに心技体を磨いてきた宮本武蔵という兵法者を信じる。
その一念のみを貫く一振りの刀と化したのだ。
どれほどの時が経っただろうか。
互いに一歩も動かず自然に溶け込んでいた中、やがて一陣の強風が吹き荒れた。
その強風に乗って、無数の桜の花びらが二人の間に舞い落ちてくる。
やがて最後の桜の花びらの一枚が地面に落ちたとき――二人の姿が一瞬にして消えた。
同時に鋭い空烈音が何度も鳴り響く。
このとき、この場に第三者がいたら驚愕しただろう。
誰もいない場所に土埃と無数の桜の花びらが舞い、空気を切り裂く不気味な音がずっと鳴り続けていたからだ。
だが、そんな不思議な光景もすぐに終わりが来た。
ザッ、と地面を滑る音が二つすると、トーガと武蔵の姿がその場に現れた。
しかし、二人の立ち位置はまったく逆になっている。
そればかりか二人は互いに背を向けた状態で、六間(約十メートル)まで間合いが遠のいていた。
よく見れば構えも最初とは異なっている。
二人とも最初は二刀を下段に構えていたのだが、姿を現してからの二人は身体を前傾にさせながら二刀を振り切ったように大きく両腕を広げていたのだ。
「武蔵……見事だ」
トーガは前方を見つめながら呟く。
次の瞬間、トーガの着流しに「×」の字の亀裂が走った。
続けて傷口から大量の鮮血が噴出する。
「円明流――」
武蔵もトーガに背を向けた状態で唸るように呟いた。
「〈直通二剣〉」
やがて武蔵の目から熱い涙が流れ落ちる。
それは長年の悲願を達成させた、虎の歓喜の涙であった――。
そう高らかに叫んだのは、滝壺の横の地面に立っていた武蔵である。
「何度言えば分かる!」
すぐに武蔵のはるか頭上からよく通る声が返ってきた。
「俺は指南などしてはいない! ただ、お前を殺しているにすぎん!」
「それだけで十分です!」
武蔵は喉が張り裂けんばかりの声量で返事をする。
「〈聴剄〉を使えば分かりますぞ! これまでにトーガ殿が俺に技を習得させんがために、わざと力の流れを見やすくして技を出してくれていたことが!」
ほう、とトーガは感心したように頷いた。
「ようやく〈聴剄〉を会得することができたか! お前は力の流れを操ることにかけては天賦の才があるものの、逆に力そのものを大きく多方面に広げて維持することの才が薄かった……ちなみに今はどんな感じだ!」
武蔵は「不思議な感覚としか言えませぬ!」と大声で答えた。
嘘偽りのない事実である。
普段は身体から一寸(約3センチ)ほどの広さで纏っていた〝気〟を、今の武蔵は見上げるほど頭上にいたトーガまで広げていた。
こうなると両目を閉じていても分かる。
すべてではないものの、トーガが考えている一部のことをだ。
本当に不思議な感覚であった。
〈聴剄〉を使っていると、その広げていた〝気〟の範囲内にいる者の一部の考えが文字として頭の中に浮かんでくるのだ。
同時に武蔵は思った。
おそらく、これは普通の〈聴剄〉ではないかもしれない。
「そうだ! 最初の段階の〈聴剄〉は力の範囲内にいる生物の気配や動向しか分からないが、今のお前のようにさらに上の段階の〈聴剄〉を使えるようになると相手の考えすら明確に読み取れるようになる!」
トーガはニヤリと笑って言葉を続けた。
「それこそ〈聴剄〉の派生技――〝読心〟だ……そして、さらに修練を積んでいくと波長の合う者同士と言葉を介さずに頭の中で会話が可能になる!」
などとトーガは口にした。
だが、肝心の武蔵には上手く伝わらなかったようだ。
武蔵は「トーガ殿、誠に申し訳ありませぬ!」と大声を上げる。
「滝の音のせいであまり聞き取れませなんだ!」
トーガは見るからに肩を落とした。
――この未熟者め!
直後、武蔵の脳内に叱咤の文字がはっきりと浮かんでくる。
武蔵は気恥ずかしくなり大きくうな垂れた。
しかし、この場所で離れた相手の声を聞き取るには多少の無理があった。
正確な時刻こそ分からなかったが、日の光を燦々と降り注いでいる太陽が真上にあるということは昼頃なのだろう。
そして、ここは森の中の開けた場所ではない。
荘厳な滝がある渓谷の一角である。
滝口からは大量の水飛沫を上げた水が滝壺へと流れ落ちていた。
その滝の音のせいで武蔵はトーガの声を上手く聞き取れなかったのだ。
しかもトーガは武蔵のはるか頭上の滝口の近くにいるので、滝の音と相まって余計に声が聞き取り難くなっていた。
何せ滝壺近くの苔生した地面に立っていた武蔵から見て、トーガがいる滝口までは十六丈(約50メートル)はあるのだ。
これでは満足に声を聞き取れないのも仕方ない。
と、普通の人間ならば思うに違いなかった。
しかし、トーガから言わせればそんなものは何の言い訳にもならないという。
大勢の人間で埋め尽くされている街中。
敵味方の叫声であふれ返っている戦場。
そのような声自体が上手く働かない場所などにおいて、特定の敵の察知や味方への伝達を効率よく行わなければならないことなど多々ある。
そして、それは巨大な滝がある渓谷だろうと同じだ。
武人としての矜持(プライド)があるのならば、常に音だけに頼らず〈聴剄〉を使って周囲のすべてに敏感になれ。
それだけではない。
常在戦場――常日頃から戦場にいるような心構えでいろ。
この10年の間にトーガから幾度となく指摘されたことである。
「いつまで落ち込んでいるつもりだ、武蔵! 早くこちらに上って来い!」
武蔵はハッと我に返った。
「今すぐに!」
快活に返事をした武蔵は、瞬時に両足に〝気〟を込めて地面を蹴る。
すると武蔵の身体は一跳躍で二間(約3.6メートル)の高さを飛び、そのまま滝の横の断崖を駆け上った。
むろん、手などは一切使わない。
武蔵は断崖から突き出ている岩を足掛かりに、まるで飛翔するかの如く滝口へと昇っていく。
それは文字通り〝飛びながら翔る〟の体現だった。
武蔵は瞬く間に滝壺から滝口まで移動すると、仁王立ちしていたトーガの前に降り立つ。
「〈箭疾歩〉の派生技である〝飛翔〟も中々に様になってきたな。最初の頃の何度も昇っては落ちを繰り返して死んでいたときとは大違いだ」
「これもトーガ殿との闘いのおかげです」
武蔵は感慨深く頭を下げた。
〈箭疾歩〉の派生技――〝飛翔〟。
高速移動で分身を作り出す攪乱技の〝繚乱〟と違い、〝飛翔〟は足場の悪い場所を安全に移動する歩行技に分類される。
上手く使えば垂直に近い断崖を手を使わずに駆け上ることはもちろんのこと、川や毒の沼地なども身体をつけることなく移動する水面歩行も可能だ。
そして今の武蔵が使える〈外丹法〉は〈箭疾歩〉だけではない。
この10年の間にあらかたの〈外丹法〉を使えるようになっていた。
それもすべてはトーガとの実戦を越えた闘いの恩恵に他ならない。
トーガが一つ一つの技の詳細を説明しながら殺してくれたおかげで、神技とも呼べる〈外丹法〉がどうすれぱ使えるのか肉体で分かることが出来たのだ。
これにはひたすらに感謝しかなかった。
おかげで10年前とは比較にならないほど闘いの幅が広がったのだ。
「それで? この10年の間にお前が俺に抱いたのは感謝だけか?」
「いいえ、滅相もない」
武蔵は真剣な眼差しで即答した。
「この切りの良い節目をもって、トーガ殿との別れと致したく存じます」
武蔵の堂々とした物言いに、トーガは「ほう」と嬉しそうに微笑んだ。
「俺に一太刀を浴びせられる工夫がついたか?」
武蔵は力強く「はい」と頷く。
「よかろう……ならば来い!」
トーガは武蔵の視線を真っ向から受け止めながら、長刀と大刀の二刀をそれぞれの手の掌上から顕現させた。
天理の究極形――〈色即是空〉。
魔法の終極形――〈空即是色〉。
トーガの二天一流《にてんいちりゅう》を支える、恐るべき天魔法の二本柱だ。
武蔵は二刀流となったトーガを見て、自身の刀もすらりと抜き放つ。
大刀である〈無銘・金重〉は当然のこと、かつてギガントエイプに叩き折られたはずの小刀も颯爽と抜いて見せる。
武蔵が抜いた小刀は折れてはいなかった。
なぜかこの蓬莱山では、現世で折られたはずの小刀も完全に元通りになっていたのだ。
そしてそれを武蔵が知ったのは10年前のことであり、10年経った今では当たり前のように元通りになった小刀と大刀の二刀流でトーガに挑んでいる。
あれから何万回死んだのだろうか。
トーガと同じく二刀構えになった武蔵は、ふと懐かしさのあまり両目を閉じた。
こうして目を閉じれば走馬灯のように浮かんでくる。
挑んでは殺され、殺されては挑んだ苛烈な死闘の日々。
悔しさなどとっくの昔に捨て去った。
代わりに拾ったのは、絶対にトーガの技をモノにしたいという兵法者の欲だ。
やがてその情念が実を結んだのか、10年経った今では十分ではないが天理も魔法も〈外丹法〉も一通りは扱えるようになった。
それゆえに今となってはトーガの力量の深さに尊敬の念を抱き、同時にトーガと剣を交えられる喜びを心から感じている。
トーガはふっと笑みをこぼした。
「余計な雑念に支配されている限り、俺に一太刀を浴びせられることなど永遠に不可能だぞ」
「むろん、それは嫌と言うほど承知しております」
そう言うと武蔵は静かに両目を開けた。
「む……」
その武蔵の目を見たトーガは低く唸る。
武蔵の目の光からは、相手に勝ちたいという我執が消えていたからだ。
いや、消えていたのは我執だけではなかった。
是が非でも相手に勝ちたい。
自分だけが強くありたい。
何としてでも負けたくない。
兵法者ならば誰でも持つ、勝負への我欲すらも消えていたのである。
無心であった。
もしくは一切のわだかまりがなく、澄み切った心境とも言えただろう。
どちらにせよ、今の武蔵は心身ともに依然とは比べ物にならないほどの高みに達していた。
それは武蔵の目の光から以外でも十二分に見て取れる。
いつの間にか武蔵は独特の構えを取っていた。
感情を剥き出しにしない冷静な顔つき。
二刀を下段に構えていながらも、無駄な力みが一切ない理想的な脱力状態。
武蔵の肉体を中心に、天と地が光の柱で繋がっているような軸のある佇まい。
以前にアルビオン城でアルバートと相対したときにも取った構えであった。
しかし、あのときの構えと今の構えは違う。
見た目は同じ構えに見えても中身が恐ろしく変化している。
アルバートと闘ったときには、武蔵はこの構えでは完全に後の先(カウンター)を取るしか出来なかった。
言い換えればこの構えでは後の先(カウンター)しか出来ないというのが過去の武蔵の見解であったのだ。
だが、今の武蔵はこの構えからでも他に二つの先を取れるようになっていた。
先の先(相手が動作を起こす前に攻撃する)。
追の先(相手が攻撃してきたあとに反撃する)。
などと呼ばれている二つの先である。
「たかが10年でよくぞここまで」
トーガは武蔵の構えを見て破顔すると、すぐに武蔵と同じ無心になる。
そんなトーガを見ても武蔵は心を揺らさず、ありのままのトーガを受け入れた。
剣術、体術、天理、魔法、〈外丹法〉、どれもトーガが上なのは変わらない。
とはいえ、そこで勝つか負けるかを考えて心を乱すなど愚の骨頂。
ゆえに武蔵は何にも囚われない無心となった。
ただ、ひたすらに心技体を磨いてきた宮本武蔵という兵法者を信じる。
その一念のみを貫く一振りの刀と化したのだ。
どれほどの時が経っただろうか。
互いに一歩も動かず自然に溶け込んでいた中、やがて一陣の強風が吹き荒れた。
その強風に乗って、無数の桜の花びらが二人の間に舞い落ちてくる。
やがて最後の桜の花びらの一枚が地面に落ちたとき――二人の姿が一瞬にして消えた。
同時に鋭い空烈音が何度も鳴り響く。
このとき、この場に第三者がいたら驚愕しただろう。
誰もいない場所に土埃と無数の桜の花びらが舞い、空気を切り裂く不気味な音がずっと鳴り続けていたからだ。
だが、そんな不思議な光景もすぐに終わりが来た。
ザッ、と地面を滑る音が二つすると、トーガと武蔵の姿がその場に現れた。
しかし、二人の立ち位置はまったく逆になっている。
そればかりか二人は互いに背を向けた状態で、六間(約十メートル)まで間合いが遠のいていた。
よく見れば構えも最初とは異なっている。
二人とも最初は二刀を下段に構えていたのだが、姿を現してからの二人は身体を前傾にさせながら二刀を振り切ったように大きく両腕を広げていたのだ。
「武蔵……見事だ」
トーガは前方を見つめながら呟く。
次の瞬間、トーガの着流しに「×」の字の亀裂が走った。
続けて傷口から大量の鮮血が噴出する。
「円明流――」
武蔵もトーガに背を向けた状態で唸るように呟いた。
「〈直通二剣〉」
やがて武蔵の目から熱い涙が流れ落ちる。
それは長年の悲願を達成させた、虎の歓喜の涙であった――。
0
あなたにおすすめの小説
スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
最強剣士が転生した世界は魔法しかない異世界でした! ~基礎魔法しか使えませんが魔法剣で成り上がります~
渡琉兎
ファンタジー
政権争いに巻き込まれた騎士団長で天才剣士のアルベルト・マリノワーナ。
彼はどこにも属していなかったが、敵に回ると厄介だという理由だけで毒を盛られて殺されてしまった。
剣の道を極める──志半ばで死んでしまったアルベルトを不憫に思った女神は、アルベルトの望む能力をそのままに転生する権利を与えた。
アルベルトが望んだ能力はもちろん、剣術の能力。
転生した先で剣の道を極めることを心に誓ったアルベルトだったが──転生先は魔法が発展した、魔法師だらけの異世界だった!
剣術が廃れた世界で、剣術で最強を目指すアルベルト──改め、アル・ノワールの成り上がり物語。
※アルファポリス、カクヨム、小説家になろうにて同時掲載しています。
「キヅイセ。」 ~気づいたら異世界にいた。おまけに目の前にはATMがあった。異世界転移、通算一万人目の冒険者~
あめの みかな
ファンタジー
秋月レンジ。高校2年生。
彼は気づいたら異世界にいた。
その世界は、彼が元いた世界とのゲート開通から100周年を迎え、彼は通算一万人目の冒険者だった。
科学ではなく魔法が発達した、もうひとつの地球を舞台に、秋月レンジとふたりの巫女ステラ・リヴァイアサンとピノア・カーバンクルの冒険が今始まる。
異世界転移からふざけた事情により転生へ。日本の常識は意外と非常識。
久遠 れんり
ファンタジー
普段の、何気ない日常。
事故は、予想外に起こる。
そして、異世界転移? 転生も。
気がつけば、見たことのない森。
「おーい」
と呼べば、「グギャ」とゴブリンが答える。
その時どう行動するのか。
また、その先は……。
初期は、サバイバル。
その後人里発見と、自身の立ち位置。生活基盤を確保。
有名になって、王都へ。
日本人の常識で突き進む。
そんな感じで、進みます。
ただ主人公は、ちょっと凝り性で、行きすぎる感じの日本人。そんな傾向が少しある。
異世界側では、少し非常識かもしれない。
面白がってつけた能力、超振動が意外と無敵だったりする。
爺さんの異世界建国記 〜荒廃した異世界を農業で立て直していきます。いきなりの土作りはうまくいかない。
秋田ノ介
ファンタジー
88歳の爺さんが、異世界に転生して農業の知識を駆使して建国をする話。
異世界では、戦乱が絶えず、土地が荒廃し、人心は乱れ、国家が崩壊している。そんな世界を司る女神から、世界を救うように懇願される。爺は、耳が遠いせいで、村長になって村人が飢えないようにしてほしいと頼まれたと勘違いする。
その願いを叶えるために、農業で村人の飢えをなくすことを目標にして、生活していく。それが、次第に輪が広がり世界の人々に希望を与え始める。戦争で成人男性が極端に少ない世界で、13歳のロッシュという若者に転生した爺の周りには、ハーレムが出来上がっていく。徐々にその地に、流浪をしている者たちや様々な種族の者たちが様々な思惑で集まり、国家が出来上がっていく。
飢えを乗り越えた『村』は、王国から狙われることとなる。強大な軍事力を誇る王国に対して、ロッシュは知恵と知識、そして魔法や仲間たちと協力して、その脅威を乗り越えていくオリジナル戦記。
完結済み。全400話、150万字程度程度になります。元は他のサイトで掲載していたものを加筆修正して、掲載します。一日、少なくとも二話は更新します。
大学生活を謳歌しようとしたら、女神の勝手で異世界に転送させられたので、復讐したいと思います
町島航太
ファンタジー
2022年2月20日。日本に住む善良な青年である泉幸助は大学合格と同時期に末期癌だという事が判明し、短い人生に幕を下ろした。死後、愛の女神アモーラに見初められた幸助は魔族と人間が争っている魔法の世界へと転生させられる事になる。命令が嫌いな幸助は使命そっちのけで魔法の世界を生きていたが、ひょんな事から自分の死因である末期癌はアモーラによるものであり、魔族討伐はアモーラの私情だという事が判明。自ら手を下すのは面倒だからという理由で夢のキャンパスライフを失った幸助はアモーラへの復讐を誓うのだった。
異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~
宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。
転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。
良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。
例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。
彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!?
※小説家になろう様にも掲載しています。
最強の異世界やりすぎ旅行記
萩場ぬし
ファンタジー
主人公こと小鳥遊 綾人(たかなし あやと)はある理由から毎日のように体を鍛えていた。
そんなある日、突然知らない真っ白な場所で目を覚ます。そこで綾人が目撃したものは幼い少年の容姿をした何か。そこで彼は告げられる。
「なんと! 君に異世界へ行く権利を与えようと思います!」
バトルあり!笑いあり!ハーレムもあり!?
最強が無双する異世界ファンタジー開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる