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第六十話    宮本武蔵の死に戻り

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(これは忍びが使う〝分身の術〟か?)

 武蔵はまばたきをすることも忘れ、二人に分裂したトーガを見る。

 しかし、あろうことかトーガの分裂は二人のみにとどまらなかった。

 何と二人に分裂ぶんれつしたトーガは一呼吸する間に四人になり、やがて信じられないことに四人から十六人へと増えていったのだ。

 武蔵は激しく仰天ぎょうてんしたと同時に、元の世界で忍びの者が使っていた〝分身の術〟を頭に思い浮かべた。

 かつて武蔵は自分の命を狙ってきた忍びの者と闘ったことがある。

 そのとき、忍びの者は大勢の人間を動員する〝分身の術〟を使ってきた。

 最初はトーガも忍びの者と同様の〝分身の術〟を使ったのかと思ったが、武蔵はすぐにそんなことは出来ないという結論を出した。

 トーガが使った技は断じて〝分身の術〟などという小賢こざかしいものではない。

 なぜなら元の世界の忍びの者が使ってきた〝分身の術〟は本当に身体が分かれるものではなく、霧の濃い場所や白煙を用いた視覚が不利になる状況で相手の混乱を誘うものだったからだ。

 理屈は単純である。

 自分と声質が似ている者を周囲に何人も配置させておき、白煙などを使ったあとはあたかも自分が分身して周りから取り囲んでいると敵に思わせるのだ。

 他にも武蔵は本物の双子ふたごや三つ子を使った、別の〝分身の術〟を使う忍びの者と闘ったこともあった。

 けれども関ヶ原せきがはらの合戦や吉岡一門との乱戦をくぐり抜けてきた武蔵にとって、忍びが使う攪乱技かくらんわざなどおそるるに足りなかった。

 そのときの武蔵はすぐに技の本質を見破ると、気配と音を頼りにすべての敵を斬り殺したのである。

 それゆえにトーガが使った技は〝分身の術〟であるはずがなかった。

 この場には自分とトーガの二人しか存在していないのだ。

 そのような場所で大勢の人間の手を借りる〝分身の術〟など使えるはずがない。

 だとすると、考えられることは一つしかなかった。

(まさか、これも〈硬気功こうきこう〉と同じ〈外丹法がいたんほう〉の派生技か?)

「その通り。〈箭疾歩せんしつほ〉の派生技――〝繚乱りょうらん〟という」 

 十六人のトーガが一斉いっせいに同じ言葉を口にする。

「相手に消えたと錯覚さっかくさせるほどの高速移動によって、感覚と距離を狂わせるのが〈箭疾歩せんしつほ〉のみょう……だが、その〈箭疾歩せんしつほ〉の速度は極めるにつれて〝真の分身〟が可能になる。このように自分の身体が増えたように見えるほどな」

 次の瞬間、十六人のトーガは武蔵に襲いかかった。

 普通の兵法者ならば戦慄せんりつして一歩も動けなかっただろう。

 しかし、そこは数多あまたの修羅場をくぐり抜けてきた武蔵である。

 負の感情を瞬時に下丹田げたんでんに封じ込め、ゴブリンたちと闘ったときに発動させた〈吉岡〉の状態になった。

 視界が大きく広がり、多人数に対応するように意識が鮮明になっていく。

 もはや余計な考えは無用だった。

 十六人全員が本物のトーガだろうと関係ない。

 全員、一人残らず斬る。

 その一念をもって武蔵は全力で駆け出した。

 武蔵は最初に近づいてきた三人のトーガに立て続けに剣を振るった。

 闇夜にきらめく銀色の閃光が三人のトーガの身体を切り裂く。

 けれども三人のトーガの身体から鮮血せんけつは吹き出ない。

 まるで陽炎かげろうのように消え去ったのみである。

 それでも武蔵は迫り来る残りのトーガの群れに刀を走らせた。

〝気〟を込めた大刀が残りのトーガたちの身体を切り裂いていく。

 だが、やはりまったく手応えを感じない。

 武蔵の必殺の斬撃は、姿むなしく斬ったにすぎなかった。

 無駄だ、と不意に後方から力強い声が聞こえてきた。

「〈聴剄ちょうけい〉を使えない今のお前に俺の本体は斬れん。そして〈箭疾歩せんしつほ〉も使えないお前は、俺の次の攻撃をまともに受けることになる」

 武蔵が慌てて振り返ると、そこには両手を胸前で大きく交差させた構えのトーガがいた。

 この構えは、と武蔵はハッと気づく。

 トーガの二刀構えは円明流えんめいりゅうの技の中でも、獲物えものを襲わんと虎が爪を立てる様に見立てた〈虎爪こそう〉の構えにそっくりだったのだ。

 だが、武蔵の表情にあせりの色はない。

 もしも本当に〈虎爪こそう〉の技ならば、トーガが繰り出してくる攻撃は手に取るように分かる。

 トーガは構えたまま間合いを詰め、そのまま交差した両手を力の限り同時にぎ払ってくるだろう。

 もちろん、それは武蔵が編み出した円明流えんめいりゅうの〈虎爪こそう〉だった場合だ。

 そしてトーガが繰り出そうとした技は円明流えんめいりゅうの〈虎爪こそう〉ではなかった。

「〈発剄はっけい〉――〝斬月ざんげつ〟」

 トーガは低くつぶやいた瞬間、その場から一歩も動かずに両腕をぎ払った。

 するとぎ払われた二刀からうなりを上げて光の刃がほとばしる。

 比喩ひゆではない。

 本当に目に見えるほどの二つの光の刃が放たれてきたのだ。

「ば、馬鹿な!」

 咄嗟とっさに武蔵は自身の二刀で光の刃を防ぐ構えを取ったものの、光の刃は刀もろとも無慈悲むじひに武蔵の身体を「×」の字に切り裂いた。

「――――ッ」

 四つに分断された武蔵の身体からは、大量の鮮血と臓腑ぞうふが飛び散った。

 ドチャッ、という生々なまなましい音ともに武蔵の身体だった肉の塊が地面へと広がる。

(死ぬ? 俺がこんなところで?)

 薄れゆく意識の中、武蔵は肉体のしんから凍りつくような実感を味わった。

 言いようのない〝死〟の痙攣けいれんが頭の中までめぐる。

 同時に武蔵はトーガの持つ尋常じんじょうならざる技の数々をうらやんだ。

 元の世界には存在しなかった〈外丹法がいたんほう〉の妙技みょうぎ

 その技の数々を会得えとくできたならば、この異世界の武のいただきを目指せるはずだ。

 いや、会得えとくしなければ目指すことすらも不可能だろう。

 だからこそ、武蔵は死の間際まぎわにおいて強く願った。

 この神秘的しんぴてき妙技みょうぎをすべて会得えとくしたい。

 そして弟子の伊織にもその技を円明流えんめいりゅうの剣技とともに伝え、この異世界において〝宮本武蔵の他に並ぶ者なし〟と言われるほどの剣名を広めていきたい、と。

 だが武蔵の願いもむなしく意識は完全に無くなり、その魂は冥府めいふへといざなわれることに――ならなかった。

 武蔵はカッと両目を見開く。

 それは一瞬の出来事だった。

 五体を四つに切断された武蔵の肉体が、時を巻き戻されたかのように一瞬で元の身体に戻ったのである。

 武蔵は狼狽ろうばいしながら周囲を見渡す。

 目がくらむような鮮血も、くその匂いを放っていた臓腑ぞうふ綺麗きれいに消え去っていた。

「これでだ」

 トーガは真剣な表情を浮かべながら言った。

 武蔵は額に脂汗あぶらあせきつつ、二刀を下段に構えていたトーガに顔を向ける。

「先ほども言ったが、この蓬莱山ほうらいざんでは現世うつしよの常識など通用しない。ここでは普通には死ねんのだ。それこそ何十、何百、何千回だろうと死んでもよみがえる」

 トーガは左手に持っていた大刀の切っ先を武蔵に突きつける。

「そしてお前が元の世界に帰るには、この蓬莱山ほうらいざんの管理者となった俺の許可が必要になる。むろん、そんな許可など簡単には与えんがな」

 武蔵は無意識に八相はっそうの構えを取る。

 それだけではない。

じつの心を道として、兵法を正しく広く明らかに行い――」

 武蔵は〈げん〉を唱えて自分をふるい立たせようとした。

「大きなるところを思い一つにてくうを道とし、道をくうとす。これすなわち、気の境地なり。これすなわち――天理の境地きょうちなり」

 そして武蔵が〈げん〉を唱え終わったとき、下丹田げたんでんの位置に目をくらませるほどの黄金色の光球が出現した。

 目に見えた光球からは火の粉を思わせる黄金色の燐光りんこう噴出ふんしゅつし、あっという間に黄金色の燐光りんこうは光のうずとなって武蔵の全身を覆い尽くしていく。

 闘う気概きがいを見せた武蔵を見て、トーガはうれしそうに口の端を鋭角にした。

「そうだ、今のお前には闘う以外の選択肢などない。開眼かいがんせよ、宮本武蔵! この俺のあとぐべき〈勇者の卵〉の素質を見せてみろ!」

 その後、トーガは何度となく武蔵を殺し続けた。

 剣術で、天理で、魔法で、〈外丹法がいたんほう〉で。

 もちろん、武蔵も黙って殺されるような真似はしなかった。

 半生はんせいついやしてみ出し、研究し、工夫し、鍛錬した円明流えんめいりゅうのすべての技を開放してトーガに立ち向かったのだ。

 それでも、しか会得えとくしていない武蔵はトーガに殺され続けた。

 毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日――。


 そして――10
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