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第四十一話 翡翠館の紅玉
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時刻は昼過ぎ――。
孫笑山ことわしは、王都・東安の花街――彩花の中を移動していた。
もちろん、徒歩で移動しているわけではない。
本来は政府の高官たちが使うような馬車に乗りながら、わしは彩花の大通りの中を移動しているのだ。
西京や田舎の花街とは打って変わり、道ですれ違う妓女やそこら辺の妓楼の2階の欄干から見える妓女の質は圧倒的に高い。
当たり前と言えば当たり前だった。
この彩花こそ、華秦国でも最大規模の男の楽園なのだから。
そしてわしが向かっている場所は、この彩花の中でも男にとって最高の快楽を与えてくれる妓楼の1つだった。
妓楼の名前は翡翠館。
わしのお目当ての妓女がいる老舗の妓楼だ。
やがて馬車は翡翠館の前で止まった。
わしは荷物袋を持った従者とともに降り、冷やかしの客を追い払う門番の男衆に心づけを渡して中へと入る。
やはり、ここの雰囲気はいつ来ても堪らんわ。
大きな中庭に通じている小道を通って本館である建物に入ると、そこは豪華な装飾品に彩られた吹き抜けの大広間だ。
その大広間の真ん中には、両の目に翡翠が埋め込まれている巨大な龍の形をした彫像が設置されている。
しかし、特質すべきは龍の形をした彫像の上にある天井だった。
その天井の部分だけは高価な硝子製になっていて、一定の時刻になると太陽の光や月明かりが神々しく当たるような凝った演出がされているのだ。
最近では2週間に1度は必ず来ているとはいえ、それでも心身が躍ってしまう。
常連のわしでさえそうなのだから、初めて翡翠館を訪れた男などは必ず1度は大広間で固まってしまうことが多い。
無理もなかった。
すでに大広間のあちこちには、夜に備えて万全の化粧と煌びやかな衣装に身を包んだ妓女たちがいるのだ。
しかも顔や身なりを見るだけでも男心をくすぐるのに、それに加えて妓女たちは男たちをさらに興奮させるために香木を焚いた煙を衣服にあてている。
女に耐性のない初心な男などは、末永く翡翠館に金を落とし続ける上客になるのは間違いない。
だが、わしにとっては他の妓女などどうでもよかった。
わしがこの翡翠館で会いたいのはただ1人。
いや、今日に限っては2人か。
などと思っていると、わしの目の前に腰を低くした男がやってきた。
「これは笑山さま、ようこそお越しいただきました」
前もって手紙で来ることを伝えていたので、上客であるわしが来たと同時に男は深く頭を下げた。
翡翠館の番頭である。
「紅玉を連れて来い。それと妓主もだ。今日は2人に大事な用件がある」
番頭が現れるなり、わしは挨拶や世間話など無視して要求を伝えた。
しばし呆然となった番頭だったが、すぐに笑みを取り繕って返答する。
「それでは一度、主人に伺いを立てますので別室へとご案内しましょう」
いらん、とわしは番頭の言葉を跳ねのける。
「他の客や妓女たちにも、それをすることでわしの存在を知らしめたいからな。ここへ2人とも連れて来てくれ。それとも、2人を連れて来るだけでも金がいるか?」
わしは従者が持っている荷物袋の中に手を入れると、その中にあった1枚のモノを取り出して番頭に渡す。
「こ、これは!」
番頭は渡されたモノを見て、あまりの驚きに腰を抜かしそうになっただろう。
「それをもっと欲しかったら余計なことを言わずにさっさと2人を連れて来い! この孫笑山があらためて話があるとな!」
直後、番頭は慌てて奥の部屋へと駆けていく。
今日この翡翠館に来たのは、以前からずっと考えていたあのことを実行するためだった。
ちょうど龍信の一件で、東安に来ることになったことも大きい。
それでも、あのことを成就させるためには孫家の当主にならなければ話にもならなかった。
だが、今のわしは紛れもない西京を中心に幅広く商業を行う孫家の当主。
ようやく、あのことを申し出せるほどの莫大な資産を手に入れたのだ。
ならば、他の上客に先を越される前に話をつけなければならない。
ほどしばらくすると、大広間に2人の男女が現れた。
1人は猿顔をした小柄な男――翡翠館の妓主である魯大観だ。
そして大観の横にいるのは、天女と呼べるほどの絶世の美女だった。
墨を流したような、背中まで伸びている艶やかな光沢を放つ黒髪。
高級な白磁と見間違わんばかりの色白の肌。
どんな男も虜にする豊満な胸とは対照的に、色彩豊かな高価な衣裳の上からでも分かるしなやかな肢体。
顔立ちは当然ながら恐ろしく整っており、全身からは生半可な男などまったく寄せつけないほどの美の迫力を醸し出している。
そんな美女こと紅玉は、わしを見るなり妖艶な笑みを見せる。
「お久しゅうございます、孫笑山さま」
相変わらず、その口から漏れる声さえも男を興奮させる甘露のようだ。
などと本人を前にしたことで、さらにあのことへの欲求が高まったときである。
「それで、孫笑山さま。私どもをわざわざここへ呼んだ理由は何でございましょう? 紅玉を希望したいようでしたら、あいにくと今日は先約がございます。茶を飲むぐらいにはお時間はありますが……」
大観が両手を揉みながら尋ねてくる。
「身請けだ」
わしは単刀直入に自分の要求を告げた。
「紅玉を身請けしたい。いくらだ?」
ざわざわ、と大広間の中がざわめき出す。
一方の大観は片眉を少しだけ動かしただけで、それ以外は表の顔である好好爺の表情を崩さなかった。
「孫笑山さま、あなたさまもご承知の通りこの紅玉は翡翠館……いえ、彩花の頂点に立っている妓女と評判が高い。その紅玉を身請けしたいとのことですが、さすがに軽い額では応じれませんよ」
「だったら、これで足りるか?」
わしは従者から荷物袋を奪い取ると、その中身を一気に床にぶち撒けた。
ジャラジャラジャラジャラジャラジャラジャラジャラッ!
大広間にいた人間たちが、それを見て盛大に息を呑むのをわしは明確に感じた。
「言っておくが、これで足りなければもっと用意できるぞ。何せわしこの度、正式に孫家の当主となったのだからな」
わしの足元には、誰もが目も眩むほどの大量の金貨が散らばっていた。
孫笑山ことわしは、王都・東安の花街――彩花の中を移動していた。
もちろん、徒歩で移動しているわけではない。
本来は政府の高官たちが使うような馬車に乗りながら、わしは彩花の大通りの中を移動しているのだ。
西京や田舎の花街とは打って変わり、道ですれ違う妓女やそこら辺の妓楼の2階の欄干から見える妓女の質は圧倒的に高い。
当たり前と言えば当たり前だった。
この彩花こそ、華秦国でも最大規模の男の楽園なのだから。
そしてわしが向かっている場所は、この彩花の中でも男にとって最高の快楽を与えてくれる妓楼の1つだった。
妓楼の名前は翡翠館。
わしのお目当ての妓女がいる老舗の妓楼だ。
やがて馬車は翡翠館の前で止まった。
わしは荷物袋を持った従者とともに降り、冷やかしの客を追い払う門番の男衆に心づけを渡して中へと入る。
やはり、ここの雰囲気はいつ来ても堪らんわ。
大きな中庭に通じている小道を通って本館である建物に入ると、そこは豪華な装飾品に彩られた吹き抜けの大広間だ。
その大広間の真ん中には、両の目に翡翠が埋め込まれている巨大な龍の形をした彫像が設置されている。
しかし、特質すべきは龍の形をした彫像の上にある天井だった。
その天井の部分だけは高価な硝子製になっていて、一定の時刻になると太陽の光や月明かりが神々しく当たるような凝った演出がされているのだ。
最近では2週間に1度は必ず来ているとはいえ、それでも心身が躍ってしまう。
常連のわしでさえそうなのだから、初めて翡翠館を訪れた男などは必ず1度は大広間で固まってしまうことが多い。
無理もなかった。
すでに大広間のあちこちには、夜に備えて万全の化粧と煌びやかな衣装に身を包んだ妓女たちがいるのだ。
しかも顔や身なりを見るだけでも男心をくすぐるのに、それに加えて妓女たちは男たちをさらに興奮させるために香木を焚いた煙を衣服にあてている。
女に耐性のない初心な男などは、末永く翡翠館に金を落とし続ける上客になるのは間違いない。
だが、わしにとっては他の妓女などどうでもよかった。
わしがこの翡翠館で会いたいのはただ1人。
いや、今日に限っては2人か。
などと思っていると、わしの目の前に腰を低くした男がやってきた。
「これは笑山さま、ようこそお越しいただきました」
前もって手紙で来ることを伝えていたので、上客であるわしが来たと同時に男は深く頭を下げた。
翡翠館の番頭である。
「紅玉を連れて来い。それと妓主もだ。今日は2人に大事な用件がある」
番頭が現れるなり、わしは挨拶や世間話など無視して要求を伝えた。
しばし呆然となった番頭だったが、すぐに笑みを取り繕って返答する。
「それでは一度、主人に伺いを立てますので別室へとご案内しましょう」
いらん、とわしは番頭の言葉を跳ねのける。
「他の客や妓女たちにも、それをすることでわしの存在を知らしめたいからな。ここへ2人とも連れて来てくれ。それとも、2人を連れて来るだけでも金がいるか?」
わしは従者が持っている荷物袋の中に手を入れると、その中にあった1枚のモノを取り出して番頭に渡す。
「こ、これは!」
番頭は渡されたモノを見て、あまりの驚きに腰を抜かしそうになっただろう。
「それをもっと欲しかったら余計なことを言わずにさっさと2人を連れて来い! この孫笑山があらためて話があるとな!」
直後、番頭は慌てて奥の部屋へと駆けていく。
今日この翡翠館に来たのは、以前からずっと考えていたあのことを実行するためだった。
ちょうど龍信の一件で、東安に来ることになったことも大きい。
それでも、あのことを成就させるためには孫家の当主にならなければ話にもならなかった。
だが、今のわしは紛れもない西京を中心に幅広く商業を行う孫家の当主。
ようやく、あのことを申し出せるほどの莫大な資産を手に入れたのだ。
ならば、他の上客に先を越される前に話をつけなければならない。
ほどしばらくすると、大広間に2人の男女が現れた。
1人は猿顔をした小柄な男――翡翠館の妓主である魯大観だ。
そして大観の横にいるのは、天女と呼べるほどの絶世の美女だった。
墨を流したような、背中まで伸びている艶やかな光沢を放つ黒髪。
高級な白磁と見間違わんばかりの色白の肌。
どんな男も虜にする豊満な胸とは対照的に、色彩豊かな高価な衣裳の上からでも分かるしなやかな肢体。
顔立ちは当然ながら恐ろしく整っており、全身からは生半可な男などまったく寄せつけないほどの美の迫力を醸し出している。
そんな美女こと紅玉は、わしを見るなり妖艶な笑みを見せる。
「お久しゅうございます、孫笑山さま」
相変わらず、その口から漏れる声さえも男を興奮させる甘露のようだ。
などと本人を前にしたことで、さらにあのことへの欲求が高まったときである。
「それで、孫笑山さま。私どもをわざわざここへ呼んだ理由は何でございましょう? 紅玉を希望したいようでしたら、あいにくと今日は先約がございます。茶を飲むぐらいにはお時間はありますが……」
大観が両手を揉みながら尋ねてくる。
「身請けだ」
わしは単刀直入に自分の要求を告げた。
「紅玉を身請けしたい。いくらだ?」
ざわざわ、と大広間の中がざわめき出す。
一方の大観は片眉を少しだけ動かしただけで、それ以外は表の顔である好好爺の表情を崩さなかった。
「孫笑山さま、あなたさまもご承知の通りこの紅玉は翡翠館……いえ、彩花の頂点に立っている妓女と評判が高い。その紅玉を身請けしたいとのことですが、さすがに軽い額では応じれませんよ」
「だったら、これで足りるか?」
わしは従者から荷物袋を奪い取ると、その中身を一気に床にぶち撒けた。
ジャラジャラジャラジャラジャラジャラジャラジャラッ!
大広間にいた人間たちが、それを見て盛大に息を呑むのをわしは明確に感じた。
「言っておくが、これで足りなければもっと用意できるぞ。何せわしこの度、正式に孫家の当主となったのだからな」
わしの足元には、誰もが目も眩むほどの大量の金貨が散らばっていた。
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