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第16話   ゲスト・オファー

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「それでは今週の診察はここまでにしましょう。来週もこの時間に外来という名のメールをたくさん読みますから楽しみにしてくださいね。それでは本日もお疲れ様でした」

〈上里円清のボイス・クリニック〉の台本を最後まで読み終えると、パーソナリティであった円清のヘッドホンにディレクターの野太い声が聞こえてきた。

『OKです。お疲れ様でした、上里さん』

 すかさず円清はカフを操作してマイクをOFFにする。

「はあ……」

 今日も無事にラジオ収録が終わった。

 肩肘を張っていた円清は、首の骨を鳴らしながら椅子の背もたれに身体を預けた。

「最近、疲れが溜まっているようですね。大丈夫ですか?」

 対面の席に座っていた構成作家が、心配そうな顔で尋ねてくる。

「最近というか今日だな。朝一からアニメの収録。午後からはドラマCDの収録。そして夜のラジオ収録とさすがに喉も体調も限界だ」

「上里さんが弱音を吐くなんて珍しい。よっぽど疲れているんですね」

「喉から血が出るほどな」

 大きく伸びをすると、円清は机の上に置いていたペットボトルのキャップを外した。

 半分ほど残っていたお茶を一気に飲み干す。

 ベテラン声優である円清が愚痴をこぼしたのも無理からぬことだった。

 午前十時から収録したアニメではメインキャラの一人だったため、最初から最後まで喋りっぱなしだったのだ。

 それはドラマCDも同様であった。

「喉から血が出る? またまた、そんな大げさな」

 円清は両腕を緩く組んで溜息を吐いた。

 まだ二十代半ばという若さの構成作家は声優業について何も分かっていない。

 声優の大事な収入源であるアニメのアフレコやドラマCDの収録が過酷を極めるということを。

 特にアニメのアフレコにかかる時間は平均して五、六時間。

 仮に午前十時から五、六時間もスタジオに篭って収録する場合、基本的に昼食を取るための昼休みはもらえない。

 それゆえに朝食を取り忘れると空腹で演技に集中できなくなる。

  加えてアニメや洋画の収録ではワード数に関係なく声優全員にギャラが発生する。

 つまり一言二言だけ喋ればいい脇役の声優と、数時間も喋り続けなければならないメインキャラの声優もランクが同じならば同額のギャラが支払われるのだ。

 だが、それは一向に構わない。

 今さら日本俳優連合が決めた制度にケチをつける円清ではなかった。

 それでも一日中収録をするのは芸歴二十五年を迎えた円清でも少々辛い。

 肉体的に疲労すると声帯にも多大な影響を及ぼし、最悪の場合は声がまったく出ない事態やうがいをしたときに血が混じっていることも鷹揚にしてあったからだ。

「とにかく今日は早く帰って休みたいよ」

 円清は隣の席に置いていたバッグから手鏡を取り出した。

 鏡に映る自分の顔には今朝剃ったはずの髭が薄っすらと生えている。

 現在の時刻は午後十時過ぎ。

 同世代の声優の中には夜のラジオ収録を終えた後でもゲームをするために徹夜する剛の者もいたが、規則正しい生活がモットーの円清にとって徹夜は厳禁だった。

「ええ~、十時なんて宵の口じゃないですか。これからスタッフ全員で居酒屋にでも飲みに行きましょうよ」

「行きたいのは山々なんだけど……明日も早いしな」

「明日も朝一からアニメのアフレコですか?」

「いや、明日は洋画の吹き替えだ。それが終わったら新宿でイベント」

「マジっすか? さすが人気声優の上里さん。稼ぎまくりですね」

「稼がないといけない理由があるんだよ」

 今はまだギャラの安い構成作家がぐっと身を乗り出してきた。

「稼がないといけない理由って何です? マンションの購入資金とか? 円清さんほどの声優になればギャラも相当高いんでしょうね」

「君は金のことしか頭にないの?」

「何言っているんですか。金は命の次に大事なものですよ。金がないと家賃も払えないし、生活費も間々ならない。それに肝心の風俗にも通えなくなるじゃないですか」

「君はまず風俗通いを止めなさい。金が幾らあっても足りないだろ」

「そう言う上里さんこそスキューバー・ダイビングなんてお金のかかる趣味を持っているじゃありませんか。信じられないですよ。海で泳ぐために何十万もつぎ込むなんて」

「何なら君もやるか? Cカードの取り方からハンドサインまで全部教えるぞ」

「遠慮しておきます。俺はカナヅチなもんで」

「あっそ」

 やおら立ち上がると、円清は私物が入っていたバッグを手に持った。

「あれ? 本当に帰っちゃうんですか?」

「体調管理も声優の大事な仕事でね。君も若さにかまけて無茶するなよ」

 円清は鉄扉を開けて副調整室へと入り、もう顔馴染みになったミキサーやディレクター、アシスタント・ディレクター、プロデューサーに挨拶して外の通路へ出る。

 通路の窓からは東京のネオン豊かな夜の光景が見下ろせた。

「さて、事務所から何か連絡はあるかな」

 円清はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

 切っていた電源をつける。

 アニメのアフレコや洋画のアテレコを行うスタジオは、音の鳴る物の持ち込みは禁止だ。

 なので携帯電話やアクセサリーの類は前もって電源を切ったり外したりしなければならない。

 それはラジオの収録も例外ではなかった。

「お、メールが来てる」

 携帯電話の液晶画面には手紙のマークが表示されていた。

 差出人は事務所のデスクから。

 本文を見ると「大事な用件があるので至急折り返しの電話をお願いします」と書かれていた。

 円清は登録していた事務所の番号を選択して電話する。

 夜の十時にもかかわらず、三コールも鳴らないうちに相手は電話を取った。

『はい、〈オフィス・リング〉です』

「もしもし、春華ちゃん? 上里だけど何かあった?」

『あ、社長。今ラジオの収録が終わったんですね。お疲れ様です』

「お疲れなのはお互い様だろ」

 電話を取った相手は円清が経営する声優事務所――〈オフィス・リング〉のデスク担当をしている小林春華だ。

 声優のスケジュールを管理するマネージャとは違い、デスクの春華は〈オフィス・リング〉に所属している声優たちのギャラの交渉、請求、管理を請け負っている。

「それで大事な用件って何? 明日のスケジュールに変更でもあった?」

『いえ、明日はスケジュール通りに洋画の吹き替えとイベントです。変更はありません』

 ただ、と春華は電話の向こうで口ごもった。

「本当にどうしたの? 特に用件がないのなら帰って休みたいんだけど」

『すいません。ちゃんとお伝えします。実は社長に仕事の依頼があったんです』

「何だそんなことか。よほどの悪条件じゃなかったら引き受けるよ。アニメのアフレコ? 洋画の吹き替え? テレビのナレーション?」

『それが……ラジオ番組のゲスト出演依頼なんです』

「ラジオ番組のゲスト依頼? そんなこと普通の用件じゃないか。俺はてっきり事務所の誰かが事故にでも遭ったのかと心配しちゃったよ」

 円清はエレベーターの前で立ち止まり、カゴを呼ぶためにボタンを押した。

 一階で停止していたカゴが、円清のいる六階に向かって上がってくる。

「いいよ。先方さんにOKですって伝えて。ちなみに日にちは? 場所はどこ? 誰がパーソナリティをしている番組?」

『高校の放送部らしいんです』

「はあ?」

 一瞬、円清は春華が何を言っているのか理解に迷った。

「何それ? 高校の放送部がプロの声優を招いてどうするつもり?」

『すいません。私に言われても……ですが、話を聞いた限りでは顔出しのラジオ放送番組を収録するにあたって社長をゲストに招きたいそうなんです』

「それって〈上里円清のボイス・クリニック〉の公開録音をしたいってこと?」

 声優の仕事が多岐に渡るのは業界関係者やファンの間では周知の事実だ。

 アニメのアフレコ。

 洋画の吹き替え。

 ゲームのアテレコ。テレビのナレーションは言うに及ばず、ラジオ番組のパーソナリティや歌手活動に専念している声優も多い。

 中でも近年はユーチューブなどの普及に伴い、一定した音質で聴けるネットラジオの番組が非常に多くなった。

 またラジオ番組のパーソナリティを務める声優が、東京だけではなく地方の高校や大学に呼ばれて生放送や公開録音を行う需要も増えている。

『私も最初はそう思ったんですが、どうやら違うみたいなんです。あくまでも社長一人をゲストに招きたいと』

「顔出しで?」

『はい。先方さんはどうしても顔出しを希望しています』

 円清は頭上に疑問符を浮かべながら表示パネルを見つめる。

 誰も乗せていないカゴは四階を通過していた。

「悪いけど今回はお断りしてくれないかな。公開録音ならまだしも高校生が作るラジオ番組に出る暇はないよ。断る理由はそうだな……イベント続きで忙しいとでも言っといてくれ」

『そうですよね。それでは依頼のあった朝霧さんにはそのようにお伝えしておきます』

 直後、円清は瞳孔を拡大させた。

「ちょっと待って。春華ちゃん、今何て言った?」

『え? ですからお断りするよう伝えておくと』

「違う。依頼主の名前をもう一度言ってくれ」

『朝霧夜一さんという高校生の人ですが何か?』

 朝霧夜一。

 その名前を聞いた途端、円清は携帯電話を持っていた手に力を込めた。

「高校は? 相手がどこの高校に通っているかぐらいは聞いたんだろ?」

『は、はい。もちろん聞きましたけど』

「教えて。相手はどこの高校に通っていると言った?」

 カゴは五階を通り過ぎて円清が佇んでいる六階へと到着する。

『八天春学園という私立高校です』

 チーン、という甲高い音とともにドアが滑らかに開いた。
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