アメジストの軌跡

JEDI_tkms1984

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序章篇

1 暗黒の時代-2-

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「ああ、無事だったのね!」
 古い住居が立ち並ぶ一角にさしかかったところで、蒼い顔をした女性がソーマを見つけて走ってきた。
「あ、ああ、ただいま」
 その勢いに押されて、彼は半歩退く。
 長髪を革紐で束ねた女性は周囲の目も気にせずにソーマを抱きしめた。
「母さん、やめろって! みんな見てるだろ!」
「だって心配だったもの。艦が飛んでいくのを見たから、あなたたちに何かあったんじゃないかしら、って気が気じゃなかったわ」
「心配ないって。そのへんはちゃんと弁えてるさ」
 母親を不安がらせないように、ソーマは努めて冷静に答える。
「シェイド君も無事でよかったわ。うちの子が迷惑をかけなかったかしら?」
 ソーマの母は目尻の涙を拭って言った。
「いえ、なにも……というかソーマにはいつもお世話になってますし……」
 シェイドはちらりと彼を見た。
 肩越しに振り返ったソーマは、
“余計なことは言うなよ?”
 と目で訴えていた。
 この人は心配性だな、とシェイドは思った。
 プラトウに限らずこの国の人間なら、生きていくことが危険と隣り合わせなのは百も承知だ。
 外に出れば猛獣に襲われるかもしれないし、人気のないところに行けば野盗の餌食になるかもしれない。
 家にこもっていても目に見えない疫病からは逃れられない。
 そしてそのどちらにいても、今は戦争の只中だ。
 自分の住んでいる町がいつ戦闘地域になってもおかしくはない。
 敵や味方が倫理的に戦ってくれればよいが、そうでなければ予告のない空爆によって命を落としかねない。
 いずれにしても戦禍に巻き込まれることには変わりないから、いちいち心配していてはきりがないのだ。
「シェイド君のお母さんもあなたを待っているわ。早く帰ってあげなさい」
 ソーマの母は彼の肩を軽く叩いた。
「はい、そうします。それじゃソーマ、また明日ね」
「ああ、気を付けて帰れよ」
 気恥ずかしさから、ソーマが赤くなった頬を隠しながら見送る。
 ここからシェイドの家はそう遠くない。
 ゆっくり歩いても10分もかからない距離だ。
 しかし住居が無秩序に建てられているために途中、何度か曲がりくねった道を進まなければならず、初めて来る者は実際よりも遠くに感じてしまう。
「あ……」
 ふと首筋に手をあてた彼は、わずかな痛みに気付いた。
(さっき洞窟の中で擦りむいたかな?)
 指先にうっすら血が付いているのを認めたシェイドは、人の姿がまばらになるのを待ち、もう一度首のあたりに触れた。
 指先がアメジスト色に輝き、そこから発生した光の粒子が傷口に吸い込まれていく。
 手を離すと傷はすっかり塞がっており、薄桃色の出血の跡だけが残った。
 取り出したハンカチで拭うと少しだけ赤く染まったが痛みはなく、傷の感触もない。
「これでいいかな」
 麻袋を担ぎなおし、シェイドは家路を急いだ。
 あちこちが剥がれ落ちた石造りの家。
 粗末な木の扉を開けると、眼前に険しい表情の女性が立っている。
「ただいま」
 彼女はシェイドの姿を認めた途端、にわかに表情を綻ばせた。
「おかえりなさい」
 母親は子への愛情表現として真っ先に抱擁を思いつくらしい。
 やや乱れた栗色の髪を整えることもしないで、彼女はシェイドの背を抱いた。
「今日も無事に戻ってきてくれたわね……」
「大袈裟だよ、母さん。石集めなんて毎日やってるじゃないか」
「それでも不安なのよ。あなたが遠いところに行って、もう二度と帰ってこないんじゃないかって――そう思ってしまうの」
 それを聞いた彼は、ソーマの母親が心配性ではないことに気付いた。
 子を想う親はきっと誰でも同じなのだ。
 たとえちょっとした散歩であっても、家に戻るまで身を案じ続けてくれているのだ。
 そう考えた彼は、ついさっき自分がしたことが間違いではなかったと確認した。
「石集めといえば、今月は好調だよ。ソーマとも話してたんだけど、余分は来月に回せばしばらくゆっくりできそうだって」
 成果を褒めてほしそうにシェイドは身を乗り出して言った。
 彼女は土埃をかぶった髪を撫でながら、
「ごめんね、男の子に産まなければこんな想いをさせずに済んだのに……」
 かすれるような声でそう囁いた。
「それは言わないって約束じゃないか」
 でも、と後ろめたさを隠さない母を彼は制した。
 重要なのは誰の子として産まれるか、にある。
 貴族の子は貴族に、平民の子は平民にしかなれない。
 産まれた瞬間から生き方を決定される世界に於いて、性別は意味のない飾りも同然だった。
「シェイド……」
 そんな境遇を嘆くこともなく、懸命に生きるひた向きさに彼女は落涙しかけたが、息子の些細な変化を見つけて表情を固くした。
 ほんの小さな違和感だが、こうして接触するとよく分かる。
「あなた、魔法を使ったわね?」
 しまった、とシェイドは思ったがもう遅い。
 あからさまな動揺に母は大息した。
「魔法はダメって言ったじゃない。特に外では絶対に使わないで」
「で、でも……」
「軍に目をつけられたら引き込まれるわ。あなたの魔力を見破られたら、彼らが放っておくワケがないもの」
「ごめん、でも母さんに心配かけたくなかったんだ。怪我してるって分かったら――」
「シェイド……」
「それに魔力を持ってないって思われたら笑われるよ」
「兵士にされるよりずっとマシよ。あなたは戦争に行くためにワケじゃないわ。お願いだから約束して」
 温和そうなこの女性は一転、強い口調でシェイドに迫った。
 この約束だけは決して破ってはいけない、と彼女は何度も言い聞かせた。
「分かった、もう使わないよ。うん、約束する」
 まだ不満そうな彼はしかし母に従うことにした。
「それと、もうひとつ――」
 シェイドは袖をまくり上げ、左手首にはめている銀製の腕輪を見せた。
「これも外しちゃダメなんだよね? お守りみたいなものだって」
「ええ、そうよ。よく覚えているわね」
 母は我が子の頭を三度撫でた。
 こうしている間、彼女は最も安らぎを感じることができた。
 過酷な環境の中で、それでも生き続けなければならない彼女にとって、愛する者と結婚し、育てることが何にも勝る幸せだった。
 もうこれ以上、彼女が望むものはなかった。
 夫と死別した今となっては、シェイドだけが唯一の心の支えだったのだ。
 注ぐ愛情は無限だ。
 自分の全てを捧げてでも、この子を守りたいと彼女は心に誓った。
「母さん、ぼくは母さんの子で幸せだよ……」
 母に頭を撫でられている時、彼は決まってこう言う。
 掌の温もりを通して彼女の寂しさを感じるからだ。
 世界にたったひとりの母親。
 その無限の愛情に育まれ、彼の命はいま、どの瞬間よりも輝いていた。




 シェイド・D・ルーヴェライズ。
 この漆黒のコートを羽織った少年は、13歳にしてはあまりにも幼すぎた。
 自分が置かれている状況も、この国のことも、世界のこともほとんど知らない。
 善というものは理解できても、悪というものは理解できていない。
 そもそも悪という存在が存在していることすら、シェイドは分かっていない。
 彼は幼くて、真っ白だった。そして、誰よりも優しかった。
 きっと何色にも染まるから――。
 運命は彼を利用しようとした。
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