Silent Eyes

もしかしてポコ

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2【皮膚の記憶】【静寂の食卓】【微笑む空白】

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【皮膚の記憶】

 警視庁・第九解析係、捜査会議室。事件ファイルが山積みになったテーブルの上に、三件分の被害者写真が整然と並べられていた。どの写真にも、静寂と異常が同居するような奇妙な空気が漂っていた。

 無音の密室で耳を奪われた青年。
 ラベンダーの香りに包まれて埋められた女性教師。
 暗闇の中で“光を視線に注がれた”映像編集者。

 どれも直接的な痕跡や証拠は乏しいが、何かが繋がっている。そこには、明確な“意志”の連鎖が存在していた。

「この三件、すべてに『五感の遮断』という意図が感じられます」湊が指摘する。
「被害者の耳、鼻、目……すべて“閉じられていた”」

 木原舞は腕を組み、目を細めて頷いた。「犯人は順番に感覚を封じてる。“聴くこと”“嗅ぐこと”“視ること”。そして次は……」

「触れること」

 天瀬が低く呟いた。

 彼はホワイトボードに「感覚」の五文字を書き、その隣に記号を並べる。五芒星の中心に「Silent Eyes」の文字を添えて、円周に「聴」「嗅」「視」「触」「味」の漢字を配置する。

 峯村梢が椅子にもたれ、重たい口調で言う。「これはただの連続殺人じゃない。“操作された記憶”と“存在の剥奪”。……この一連の事件、儀式そのものよ」

「Silent Eyesは、“見ること”の拒否ではなく、むしろ“すべてを見尽くした末に、世界を閉じる”という思想なのかもしれない」天瀬の声には、微かに震えがあった。

 名取凛がPCを操作し、前回の現場で回収した映像に埋め込まれていた暗号画像を拡大表示する。
 そこには五芒星の中央に眼、そして外周には五つの感覚器官を象徴する印が刻まれていた。それぞれ、黒いインクで描かれ、見る者に得体の知れない不安を与える形をしていた。

「このパターン……。どこかで見たことがある」

 湊が別ファイルを開き、2003年の未解決事件ファイルを提示する。
「これです。20年前、廃教会で発見された奇妙な“無言の集団自殺事件”。その祭壇に描かれていたのが、これと同じ構図」

 空気が一気に重くなる。全員の視線が、無意識に天瀬へと向けられた。

 彼の妹・花織が失踪したのは、ちょうどその年の春だった。あの時も、何の前触れもなく、静かに消えた。



 「この犯人、事件をただ“模倣”してるわけじゃない。自分自身の信仰に基づいて、計画的に“感覚”を封印している」天瀬の声は低く、内側から滲むように重かった。

 木原は警視庁のデータベースから、同様の“儀式的感覚操作”事件を検索させた。ヒット数は少ないが、確かに全国各地で点のように散見されていた。中には、同じ図形や「目」の記号が現場に残されているものもあった。

 被害者たちは、共通して“都市の孤独”に身を置く人々だった。夜勤の警備員、独居老人、シェアハウスで孤立した若者——誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ静かに“感覚”を剥がされていく。

「次に狙われるのは、“触れること”が日常に深く関わっている人間」

 峯村が言う。「たとえば、セラピスト。あるいはマッサージ師、介護職、ベビーシッター……人と人の距離を日常的にゼロにする職業」

 その時、室内の電話が鳴った。

 通報だった。都内のタクシー運転手が警察に届け出たという。
「車内に“何か変な手触りの人形”が置かれていて、降りた女性客が“手の感覚がない”と泣き出したんです」

 天瀬たちはすぐに現場へ急行。タクシーのシートには、古びた布でできた“人形”が置かれていた。
 しかし、それはただの人形ではなかった。素材は人工皮膚に近く、指先には微細な電極のようなものが仕込まれていた。

 検査の結果、それが微弱な電気信号で“触覚麻痺”を引き起こす構造になっていることが判明した。

「これは、触れるという行為そのものを“沈黙させる”装置だ……」峯村が呟いた。

 名取が写真を拡大しながら補足する。「この人形の胸部分に、“Silent Eyes”の刻印があります。しかも、目のシンボルの代わりに“手の平”が浮かび上がってる」

 湊が震える声で言う。「触れることさえ……拒絶されたら、人は本当に“この世界”から切り離されてしまう」

 その夜、別の報告が届く。あるデイケア施設で、入所者十数人が同時に“皮膚感覚の喪失”を訴え、無言で壁に向かって座り込んだという。

 誰も、彼らに触れようとしなかった。

 触れることは、恐怖となり、祈りとなり、沈黙となって広がっていく。

 「次は、味覚……」

 天瀬の声が、暗がりに沈んだ。

【静寂の食卓】

 警視庁刑事部、地下の一室——特別解析班、第九係のオフィス。
 明かりを落としたフロアの一角では、峯村が新たに回収されたデイケア施設の映像をモニターに映し出していた。無言で壁に向かって座り込む老人たち。その誰の顔にも、感情と表情の“輪郭”が見当たらなかった。

 宮前湊と名取凛は、隣の卓上で事件の進行パターンを図式化していた。五感の順序。残された記号。空間の意味。
 「この配置、なにか宗教的な“祭壇”に似てる」湊がつぶやいた。

「崇拝ではなく、供犠ね。Silent Eyesは人間の感覚そのものを“神に捧げる儀式”として捉えてる……」峯村が応じた。

 警視庁本庁舎の上層階では、刑事部副参事官・鴨下利久が報道対応と内務調整に追われていた。
 「Silent Eyes」に関連すると噂される投稿がSNSで急増し、都市伝説や模倣犯の危険も同時多発的に浮上していた。

 しかし鴨下は苛立っていた。「この事件は“象徴性”が強すぎる。だからマスコミは噛みつきやすい。公安と組ませるべきだった」

 その一方で、特別解析班の存在を「“機能していない例外組織”」として、上層部に示す口実を作り始めていた。

 一方、天瀬誠司は執務室にこもっていた。妹・花織の記録映像、2003年の未解決事件の現場写真、そして最新の“触覚麻痺事件”の資料が、机の上に所狭しと並べられている。



「……五つの感覚。犯人は順にそれを封じている。そして、その封印が終わったとき……何かが“開く”気がする」

 天瀬は独り言のように呟き、ホワイトボードに図を描き始めた。五感を示す五角形。点線で結ばれた中央に、ひとつの“空白”が残る。

「この空白は、“人間”だ」

 そのまま会議室へと向かう。すでに木原舞が到着していた。彼女は新たに入手した報告書を開きながら言う。

「同一犯で間違いない。でも警察庁は“広域連続犯罪”として公安部との合同捜査を提示してきたわ。政治案件になる可能性を懸念してる」

「……つまり、我々の捜査は“監視”されることになる」

「副参事官・鴨下が背後で動いてる。彼は“正義”より“体裁”を守る男。木原、あなたもその意図をわかってるはず」

「ええ。私は捜査を止めない。けれど、組織の内圧がこれ以上高まれば——第九係は解体されかねない。あなたのやり方を守るには、私が“均衡”を取るしかないの」

 ふたりの目線が静かに交錯した。



 その頃、湊は名取凛と共に過去の“味覚操作”事例を分析していた。
 味覚は精神への浸透が最も難しい感覚だが、逆に“最も原初的な恐怖”と結びつく。

「幼児期の離乳、毒への本能的忌避、家族との記憶。味には“母胎の記憶”が染みついてるのよ」名取が言う。

「……もし犯人が味覚に触れるなら、それは“記憶そのもの”への最後の封印になる」

 湊はふと、過去の別事件を参照した。10年前、神奈川県で起きた“無味症パーティー事件”。被害者全員が“食事の味を感じない”と証言し、その後全員が昏睡状態に陥った。
 そこにも「Silent Eyes」に酷似した円形配置が使われていた。

「この犯人は、“感覚の破壊”を時間差で展開している」
「これは連鎖ではなく、共鳴。つまり……儀式の準備段階」



 その夜、天瀬は久しぶりに真壁聡の自宅を訪れた。
 元捜査一課管理官。今は引退し、盆栽と茶を楽しむ日々。

「お前、また妹の事件を追ってるな」

「ええ。Silent Eyes——あれは、単なる連続殺人じゃありません。人間という構造自体への攻撃です」

「昔の未解決案件が、今の事件とどう繋がってるか、見えてきたか?」

「点は線になりつつあります。花織が姿を消した春、同時に“味覚異常”で入院した子どもたちがいた。その一人が最近、再び消息を絶ちました」

「点が線になり、線が円になった時、その中心にいるのは“誰”だ?」

 天瀬はしばらく黙った。

「……おそらく、“あの春”に見落とした誰か。Silent Eyesの最初の観察者」



 その頃、別の都内飲食店で、女性客が食事後に倒れる事件が発生した。
 彼女は病院で「味がしない。何も感じない」と繰り返し呟いていた。

 皿には奇妙な印が残っていた。そこには“手”と“口”を繋ぐように描かれた黒い曲線。
 名取はその模様を見て凍りつく。「これ、胎児の神経図と酷似してる」

 犯人は、“生まれる前の沈黙”へと、被害者を戻そうとしているのだ。


【微笑む空白】

 薄闇の中、静かに呼吸するように揺れるカーテン。そこにひとりの人物がいた。

 影は、名を持たない。
 ただ、彼は「観察者」として、都市の隙間に潜んでいる。
 街の喧騒、電車の振動、人々の雑音、それらすべてが彼にとっては過剰な刺激だった。世界は“うるさすぎた”。

 彼は静寂を求めた。だが、ただの無音ではなかった。
 本当の沈黙とは、“感覚そのものを失うこと”——そこに至った者だけが触れる、純粋な“空白”。



 幼少期、彼の世界は他人とは違っていた。
 日常のあらゆる刺激が、彼の神経に直接突き刺さった。
 朝のチャイムは銃声に、先生の声は壁に叩きつけられる怒号に聞こえた。
 同級生の笑い声は嵐の轟きに変換され、給食の匂いは腐敗と変わらぬ悪臭に感じた。

 「なぜみんな笑えるんだ?」

 「どうしてこの音が平気でいられる?」

 彼は“観察”することで世界を理解した。他人がどう笑うか、どう怒るか、どう嘘をつくか。
 それを遠巻きに見つめることで、かろうじて自己の輪郭を保っていた。

 彼にとっての“安全地帯”は、誰にも話しかけられない図書室の隅と、母がくれたオルゴールだけだった。
 そこでは、すべての音が“許される沈黙”に変わった。

 「これだけが、本当の音だ」

 成長するにつれ、彼は「世界と接続しない方法」を選び続けた。
 だが、感覚は残酷だった。視ること、聴くこと、触れること、嗅ぐこと、そして——味わうこと。

 味覚だけは、最後まで彼の中に残った。
 どんなに耳を塞いでも、目を閉じても、味は舌の中から彼を“引き戻した”。

 「最後に残る感覚が、最も深く、人を壊す」



 都内の高級フレンチレストラン、その厨房に彼は忍び込む。
 目的はただひとつ。青年シェフ・秋田連吾との“最終対話”だ。

 かつて施設で、連吾は彼にスープを作ってくれた。
 その一匙に「希望」を託すようにして。

 「味がわかれば、生きる意味があるよ。そう言ったね」

 だが彼にとってそれは、暴力だった。
 “好意”という名を借りた侵入、“やさしさ”に擬態した支配。

 「それは、君の都合だ。私には、ただの『干渉』だった」

 用意したのは、神経過敏を引き起こす味覚改変剤。
 苦味は燃える鉄の味、酸味は皮膚が剥がれるような感触に変換される。

 スープを口にした瞬間、連吾はのたうち回った。
 口を開け、声にならない声をあげ、胃液と血を吐いた。

 「君はこれで、自分の“味”を知ったはずだ」

 彼は傍らでその様子を静かに眺めながら、紙片を差し出した。

 《味とは、生の記憶である。食とは、他者を自らの中に取り込む行為だ。》

 連吾は微かに目を動かし、彼を見た。そこには怒りも悲しみもなかった。ただ、理解できないものを見る眼差しだった。

 「わからなくていい。私も、君も、初めから違った」



 深夜、廃ビルの屋上。
 彼は都市の明かりを見下ろしていた。光の粒は、かつて自分を刺した感覚の象徴のように、遠くで点滅していた。

 上着の内ポケットから、一枚のフィルム写真を取り出す。
 それは花織——天瀬誠司の妹。

 彼女は他の誰とも違っていた。
 無理に話しかけず、手を伸ばすこともせず、ただ視線だけで“共にあること”を示した。
 彼女だけが、「観察されること」を拒まずにそこにいてくれた。

 「君の沈黙は、私の中にある」

 だからこそ、彼は知っていた。
 次に“封じられる”べきなのは、自分自身の感覚ではなく——彼女の“沈黙”だった。

 彼は背後のスピーカーに、オルゴール音源を繋ぎ、再生ボタンを押す。
 風に乗った旋律が、夜の都市に広がっていった。

 その音を聞きながら、彼はふと目を閉じた。

 「これが、最後の音になる」

 誰にも邪魔されない、誰にも触れられない静かな世界。
 そこに、花織の声が確かにあった気がした。

 彼の微笑みは、誰に向けたものでもなかった。





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