HYDROMANCER

もしかしてポコ

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エピソード2

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◆『記者、過去の闇に触れる』

午前3時、都内某所のネットカフェ。

天野深夜(あまの しんや)は、暗い個室の中で、無音のノートパソコンを開いていた。白い画面に打たれる文字は、事件記事ではなく、自らの備忘録。

『連続未解決失踪事件、2007~現在。共通点:記録なし、発見なし、動機不明。共通地域:港区~北品川。』

コーヒーの紙コップからは、ぬるくなった苦味だけが口内に残る。天野は眉間に皺を寄せた。

「……やはり“あの名前”が引っかかるな」

彼が手にしたのは、かつて刑事として関わった一件の記録。資料の端に書かれていた名——「九条 瞬」。

そのときは“参考人”扱い。だが今、天野の視点では、あまりにも“奇妙な一致”が多すぎた。

画面には、過去に失踪した人物の名が並ぶ。

——白川美帆/29歳/育児カウンセラー
——渡辺幸雄/43歳/警備会社勤務
——高橋圭介/31歳/自営業

共通するのは、「最後に誰かに相談していた」「占い」「心の悩み」。

「……すべて、九条堂に辿り着く」

彼は、フォルダを切り替えた。

そこには、かつて九条を撮影した唯一の証拠画像があった。薄暗いビルの地下入口、白い暖簾、ぼやけた後ろ姿。

「やっぱり、お前はただの“占い師”なんかじゃない……」

天野は立ち上がり、革のジャケットを羽織る。コーヒーを飲み干し、ゆっくりと部屋を出る。

——数時間後、九条堂前。

天野は建物を見上げる。古びたビル、湿った空気。風が吹き、白い暖簾がふわりと揺れた。

「さて、九条瞬。お前の“正義”に、俺の“事実”をぶつけに行くとしようか」

彼の手には、小型レコーダーと古い名刺。

その名刺には、記者としての所属名の他に、手書きでこう書かれていた。

——『君は、真実を知る覚悟があるか?』

天野深夜は、鈴の音とともに、九条の世界へと足を踏み入れた。

◆『探り合いの座卓』

九条堂、午前11時。

湿度55%、香は沈香。空気は乾いているが、思考は湿っていた。

九条は机の前に座り、穏やかな笑みを浮かべるでもなく、沈黙を保っていた。

鈴の音がして、扉が開く。

「失礼します。……予約していた天野です」

「どうぞ。……その名、以前も聞いたような気がしますが」

「かもしれませんね。仕事柄、いろんな所に名前を残してますから」

天野は笑いながらも、視線は九条の手元、香炉、本棚、天井の換気口まで順に観察する。

「今日は、どのようなご相談を?」

「悩み、というより“好奇心”ですかね。……ある人物に興味がありまして」

「どんな人物ですか?」

「“人を殺さない殺人者”みたいな」

九条は一瞬だけ目を細めた。

「寓話のようですね。そんな存在が本当にいると?」

「たまに、いますよ。記録も、証拠も、遺体も残さず、人を“消す”人間って」

九条は手元の香をかすかにいじった。煙がわずかに流れを変える。

「興味深い話です。記者の勘というやつですか?」

「ええ、そう。記者ってのは“匂い”で動くもんなんですよ。香りと同じでね。目に見えないけど、確かに存在する」

「なるほど……では、その“匂い”に導かれて、ここへ?」

「そうなります」

二人の間に、静かな時間が流れる。

『ほら出た、静かに詰める手。さて、どこで“切り返す”つもり?』

「私からも一つ、聞いても?」と九条。

「どうぞ」

「その“好奇心”、どこまで突き詰めるつもりですか? それによっては、戻れなくなることもある」

「……覚悟の上ですよ。むしろ、それを確かめに来たんです」

天野はゆっくりと、小型レコーダーを机の上に置いた。録音はしていない。

「これは、取材じゃない。俺個人の問いです。……“君は何者か”ってね」

九条は初めて、ほんのわずかに口角を上げた。

「……なら、お話ししましょう。“私”の定義の一部を」

『探り合いの座卓』


「これは、取材じゃない。俺個人の問いです。……“君は何者か”ってね」

九条は初めて、ほんのわずかに口角を上げた。

「……なら、お話ししましょう。“私”の定義の一部を」

「聞かせてもらいましょうか。嘘でも本音でもいい。君の“言葉”が聞きたい」

九条は静かに、香炉の火を少し強めた。煙がゆっくりと昇る。

「私は、“止まってしまったもの”を観察する者です。そして、必要ならば、それを“流す”役割を担っています」

「流す……か。やっぱり君は、誰かの流れを“終わらせる”側だ」

「終わらせるのではなく、“終わっている”ことを確認するだけです。手を添えるだけ。……時に、穏やかに。時に、沈黙のまま」

天野は眉をひそめた。

「それ、君自身の哲学? それとも……誰かからの影響か」

九条は少しだけ視線を上げた。香の香気の中で、何かが遠くから戻ってきたような気配があった。

「……昔、ある人間が“ただ観ていた”だけで、すべてが壊れていくのを見たことがあります」

「誰だ、それは」

「……天野さん、今日はあなたの番です。あなたはなぜ“個人の問い”を持って、ここに来た?」

しばらく沈黙が流れた。

天野は懐から、一枚の古びた写真を取り出した。

そこには、若い女性が子どもを抱いて微笑んでいる。

「……この人は、俺の妹です。七年前、自宅から姿を消した。残された赤ん坊は保護されたが……妹は、今も行方不明」

「事件には、ならなかった?」

「不審死の線で動いたが、証拠不十分で“自主失踪”扱いにされた。……だが、俺は知ってる。あいつは、消されたんだ」

九条の目が、ほんのわずかに細くなる。

「そして、妹が通っていた“カウンセリングルーム”——その最後の記録が、お前だった」

天野の声が低く、静かに濡れていた。

「だから俺は知りたい。“君”が何者なのか。“誰”を、何のために選んでるのか」

九条はゆっくりと手を組み替えた。香の煙がやや低く流れた。

「あなたの妹の件。……記憶にはあります。ただし、その“観察”は完了しなかった。彼女は、自ら“止まり”ました」

「……どういう意味だ」

「自分を“止める”者には、私は関与しません。私が介在するのは、“止まったのに流れてしまう者”だけです」

天野の拳が、机の下で静かに震えた。

「……それは、ただの言い逃れだ」

「そうかもしれません。ですが、真実は時に“不在の構造”としてしか語れない」

「つまり、君は“彼女を見ていた”けど、何もしなかったと?」

「はい。彼女は、誰の手も借りず、沈んでいった」

天野は目を閉じ、深く呼吸をした。そして、低く言った。

「……それでも俺は、君を追う」

九条は頷いた。

「それもまた、“流れ”です」

部屋には、また沈香の香りだけが残った。

◆『鏡像の記録』

翌日、午後。九条は帳面を開いていた。

観察対象No.0225:天野深夜
【状態】:情報干渉前。危険中位。共鳴可能性:未定
【特性】:追跡型。内的倫理の強固なフレームを持つが、過去の喪失により歪曲。
【動機】:妹の失踪。自責と救済衝動が交錯。倫理探求と加害欲の接触点が見られる。

九条は、その文字の並びを静かに見つめながら、香を新たに調合した。

雨香を薄く、白檀と鳶香を重ね、少しだけラベンダーを混ぜる。目的は、“記憶の投影”を強調するため。

「彼は……鏡だな。私の否定形」

『ふぅん。じゃあ、君も“喪失”してたの?』

「……していない。“喪失”の定義を、私の中では“外部に感情が割かれること”と定めている。私は、感情を差し出さない」

『でもさ、それ、ちゃんと“本気でそう思ってる”時点で、逆に執着ってやつなんじゃない?』

九条は帳面を閉じた。そして机の奥の引き出しから、もう一冊の“黒の帳”を取り出した。

そこには、手書きのラベルがある。

【記録外対象:監視継続中】

ページをめくると、天野の名前がすでに記載されていた。

観察対象補記:
・言語の選び方に特徴あり。
・香に反応はするが、誘導されにくい。
・“問い返す”傾向が強く、情報逆収集の可能性。

九条は静かに指を止めた。

「……“私を観察する者”は、私にとって例外だ。だが、例外の扱いをどう定義するかは、まだ未決」

『つまり迷ってる。ねぇ、いっそ“壊して”みる? そしたら、もっと楽になるよ』

「彼は、まだ止まっていない。……動いている間は、私は待つ」

ふと、九条の視線が横の棚に向かう。

そこには、天野が去った後に机に残した名刺が置かれていた。手書きのメモとともに。

『君は、真実を知る覚悟があるか?』

「逆に問おう。……彼に、“壊れる覚悟”はあるのか」

九条は香を手に取り、静かに焚き始めた。

その煙の中に、次なる“対話の布石”が、静かに形をなしていった。

◆『調査の果てに』

午後5時過ぎ。冬の陽は早く、空はすでに薄墨色に染まりかけていた。

九条は、天野深夜の過去を精査するために、都心の古い新聞資料館へと足を運んでいた。彼が訪れることは稀だが、今回はあえて“公共”の場を選んだ。

理由は一つ。——天野の動線を“なぞる”ためである。

彼が過去に書いた記事、扱った事件、その記録の中に彼自身の“構造”が刻まれていると九条は考えていた。

古いスクラップの中、九条の視線が一枚の紙に吸い寄せられる。

【2016年12月 記事抜粋】
『児童心理カウンセラー、院内での突然死。本人は勤務前、診療記録に“許される”とだけ記したメモを残していた。』

記者:天野深夜

——“許される”。

九条は静かに目を伏せる。

『やっぱり君さ、誰かが“正当化の言葉”使ってるとき、すぐ反応するよね』

「言葉は“構造の出口”だ。意味より、選ばれた理由が重要」

九条がファイルを閉じようとしたとき、隣の席から声が聞こえた。

「……それ、読みますか? 同じ事件の別角度のやつ、ここにありますけど」

青年の声だった。見ると、年齢は20代前半。眼鏡をかけ、分厚い紙袋を抱えていた。手元には同じ事件のスピンオフ記事を挟んだ資料束。

「ご親切にどうも。関心があるのですか?」

「はい……あの事件、ちょっと、僕にとって……参考になるというか」

「参考?」

「人が“死を選ぶ理由”って、なんであれ知っておきたくて。たとえそれが……他人の不幸でも」

九条は、その言葉に軽く反応する。目の奥で、観察が始まっていた。

(対象候補:未確認。目的:死の理解/模倣願望か)

「あなたは、学生ですか?」

「いえ……半分。通信で心理学を学んでて、でももう一方で自分なりの“記録”をしてます」

「記録、とは?」

「……人の“終わりの言葉”を、収集しています」

九条は微かに息を止めた。香が焚かれているわけでもないのに、空気が変質するような感覚があった。

「それは、どうして?」

「“自分がまだ止まってない”って確かめるためです」

(観察対象候補 No.0226——仮名不明。目的:自己安定のための死の記録)

『うわ……来たね。また“同じ匂い”のやつ。ほら、選びな? 君、好きでしょ、こういう“静かな異常者”』

九条は、名刺を取り出して手渡した。

「よろしければ、後日、私の処へ来ていただけませんか。“話すだけで整理されること”もあります」

青年は数秒間ためらったあと、頷いた。

「……行きます。聞いてもらえるなら、話してみたいです」

九条はその瞳を見つめながら、帳面にもう一つのページが増える音を確かに聞いた気がした。
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