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エピソード3
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◆『記録者の来訪』
午後3時、九条堂。
静かな雨が屋根を叩き、水音が室内へと溶け込んでいた。香は今日、特に抑えた調合——白檀と雨香の割合を半々にし、思考を曇らせない強度に留めていた。
九条は帳面を閉じ、扉の方へ目を向けた。
鈴が鳴った。
青年が入ってきた。昨日、資料館で出会った、あの“死の記録者”。
「こんにちは……あの、約束通り、来ました」
「ようこそ。……名前を、伺っても?」
「朝比奈です。朝比奈 透(あさひな とおる)」
「朝比奈さん、どうぞ、おかけください」
青年はやや緊張した様子で席につき、指先を擦り合わせていた。その動きは癖というより、“冷えた体を確認している”ようにも見えた。
「今日、お持ちいただいたものはありますか?」
「はい……これ」
朝比奈は封筒を取り出した。中には、折りたたまれた紙が数十枚。手書きで綴られた言葉たち。すべて、人が死の直前に残したとされる“最期の言葉”だった。
「私は、これを集めてる。……誰もいらないって言うけど、私は、どうしても忘れたくない」
「忘れたくない……それは、なぜでしょう?」
「……自分が、止まってしまわないようにです。これを読むと、動いていないと、って思える」
「つまり、他人の“終わり”を記録することで、自分の“継続”を確かめる……」
「はい。変ですか?」
「異常ではありません。ただ、“非常に緻密な自己保存”です」
九条は一枚の紙を手に取る。
《『誰か、見ていてくれたなら、それだけでよかった』》
その筆跡は震えていた。九条の指先が微かに止まる。
「……この言葉には、映像がある。記録以上に、“沈黙”の音が聴こえる」
朝比奈は少しだけ笑った。その笑みはどこか、九条に似ていた。
「先生、聞いてくれますか。僕が最初に“記録”を始めた日のこと」
「……ぜひ、話してください」
香が揺れ、水音が響く。
そして、朝比奈 透の“記録の起源”が、静かに語られ始めた——。
◆『記録の起源』
「……僕の家族、五人家族だったんです。父、母、姉、弟、そして僕」
「でも、姉が——自殺したんです。高校三年の春、首を吊って」
九条は動かずに聞いていた。香の煙だけがゆらゆらと揺れていた。
「彼女は、何も言わなかった。ただ、机の上に“短冊みたいな紙”を置いてて」
朝比奈の目がどこか遠くを見る。
「そこに書かれてたのが、最初の言葉でした」
《『誰か、見ていてくれたなら、それだけでよかった』》
「……それ、今でも覚えてます。いや、忘れられなかった。家族は“何で”って泣いたけど、僕は……“そうだ”って思ったんです」
「“誰も見てなかった”。見てるふりはしても、姉の“本当”を見てなかった」
「だから思った。次は、誰かの“最期”を、ちゃんと記録しようって。せめて一人でも、“見ていた”って残すために」
九条はわずかに頷いた。
「記録とは、救済ではない。だが、世界との断絶を“数秒だけ遅らせる”力はある」
「そう信じてるから、僕は今でも、拾い続けてるんです。紙で、言葉で、忘れないように」
「……あなたの記録は、あなた自身の境界ですね」
「はい。僕は、消えたくない。……消したくもない」
九条は立ち上がり、香の火を静かに弱めた。
「朝比奈さん。あなたのような人間は、希少です。まだ“止まっていない”。ゆえに、私はあなたを観察します」
「……怖いことですか、それは」
「いいえ。意味のあることです」
九条は帳面を開き、新たなページに文字を記した。
観察対象 No.0226:朝比奈 透
【目的】:記録による“生”の保持
【特性】:傾聴・記録・自己沈静/記録行為の宗教性の兆候あり
【状況】:交差前段階。潜在変化観察中
香の煙の向こうで、朝比奈の瞳が小さく、しかし確かに揺れていた。
◆『疑念の起点』
翌朝、朝比奈透の遺体が発見された。
場所は多摩川沿いの河川敷。季節外れの冷たい雨の中、傘も所持品もなく、仰向けに倒れた姿で。
彼の表情は穏やかで、まるで静かに眠っているかのようだった。口元には微かな笑みの名残があったとも、一部の警察関係者は証言している。
死因は溺死。肺には水が入っており、時間的には未明、雨が降り出す直前の可能性が高い。
だが争った痕跡もなく、衣服は乱れておらず、ポケットに入っていたスマートフォンにはロックがかけられたまま、最後の通信記録は前日夕方の“未送信メモ”のみだった。
警察は、遺体の傍に落ちていたノートの断片に注目した。
《見届けてくれる誰かがいれば、それでよかった》
文字は本人の筆跡と一致。死後に濡れたにもかかわらず、インクはほとんど滲んでいなかった。紙は防水加工されており、意図的に“読まれること”を前提にしていたようだった。
傍らには、もう一枚、未使用の紙が折りたたまれて残っていた。
まるで“まだ語られていない言葉”が、そこにあったかのように。
——自殺。
そう結論づけるには、状況が整いすぎていた。
「……整然としすぎている。こんなに“綺麗な死”は、普通じゃない」
「同感だ。痕跡がなさすぎる。足跡も乱れもない。自ら歩いてここへ来て、そのまま倒れたのか?」
「いや……この体勢、自然に倒れたにしては……仰向けで両手が胸元にある。死に際、そんなふうに構えるか?」
「誰かが“整えた”可能性は?」
「検証中だ。……念のため、交友関係をすべて洗い直す」
「記者が一人いたな。天野深夜」
「……ああ、確か“九条瞬”とも接触していたと記録されている」
『疑われた者』
天野深夜は、警視庁捜査一課の尋問室にいた。
蛍光灯の白い光が、冷たく頭上から彼を照らしていた。
「あなたが彼と最後に接触した人物ですね」
「“接触”というほどの関係じゃない。偶然、取材中に出会っただけです」
「それにしては、彼の部屋に“あなたの名刺”が残っていた。『真実を知る覚悟はあるか?』という手書きの文とともに」
「……それは、彼自身が持っていた言葉です。俺が書いたわけじゃない」
「あなた、最近“九条瞬”という人物と接触していますね?」
「……ああ。調査対象として個人的に追っていた」
「朝比奈透の遺体が発見された場所は?」
「多摩川の河川敷だろ?」
「どうして知ってるんですか。報道はまだされていない」
「……それは……」
天野は黙った。
「つまり、あなたは現場を知っていた?」
「いや、それは……聞いたんだ、内部から。旧知の刑事がいる」
「証明できますか?」
「……連絡すれば」
「してください。あとで連絡先を教えてください」
天野の拳が微かに震えた。脳裏には、あの沈香の香りと、九条の冷徹な瞳が浮かぶ。
「“あいつ”じゃないのか?」
「誰のことです?」
「……九条だ。奴が、なにか……」
「証拠は?」
「ない……。だが、あいつは——人間じゃない目をしていた」
刑事はメモを取りながら呟く。
「“人間じゃない目”。なるほど。詩的ですが、証拠にはなりません」
◆『観察の終点』
九条堂。香は濃く、記録帳のページが静かに一つ閉じられる。
観察対象 No.0226:朝比奈 透
【観察終了】:記録の終端を確認。沈静化完了
【最終記述】:記録者に必要だったのは“見届ける者”ではなかった。“終わり”を選ぶための、静かな許可だった。
『ほんと、君ってやつは……見抜いたフリして、結局“終わらせる”のが好きなんじゃない?』
「彼は止まった。私は、その流れに従っただけだ」
『でもさ、天野にはどう見えるかな。……ああいう男は、自分が“正義の側”だと思ってる分、崩れるのも早いよ?』
「それは、彼次第だ。彼が“流れる”か、“止まる”か」
『止まるまで待つつもり? それとも……』
「まだだ。彼は、境界線に足をかけただけだ」
九条は帳面を閉じ、朝比奈の最期の言葉を思い返す。
《見ていてくれたなら、それだけでよかった》
「私は見ていた。だが、“止めなかった”」
香の煙が立ち上る。その香りは沈静ではなく、静かなる“忘却”を意図していた。
九条は棚の奥から、小さな試験管のような容器を取り出し、細いピンセットで微細な黒い繊維を摘み上げた。
それは、朝比奈の衣服から採取した、彼にしかわからない“終わりの証”だった。
「……次の観察は、もっと深く沈む」
『楽しみだね、次は誰が壊れるかな?』
煙の中に、確かな気配があった。
“崩壊”は始まっている。だが、誰もそれに気づいていない。
まだ、誰も。
◆『沈香の迷路』
警視庁・尋問室。午後5時過ぎ。
部屋の空気はぬるく重く、天井の換気音だけが静かに響いていた。
天野深夜は椅子に座り、両手を組んでいた。だが手の甲には、見えない汗がにじんでいた。
目の前に座るのは、捜査一課の刑事・石原。そして今回、新たに同行してきた人物がいた。
「こちら、捜査一課・特別事案担当、春原礼司(すのはら れいじ)警部補です」
石原が紹介すると、春原は軽く会釈した。
30代前半、黒縁の眼鏡をかけ、神経質そうな雰囲気だが、目の奥は異様なほど鋭い。
「天野さん、少し話を整理させてください。あなたは朝比奈透さんと面識があった」
「ああ……間違いない。だが、親しかったわけじゃない。彼が“死の言葉”を集めてるって話してて、それが印象に残ってた」
「その言葉の一つが、遺書として現場に残されていた」
「……あいつは、最後まで“記録者”だったのかもしれない」
春原が割って入った。
「あなた、最近“九条瞬”という人物に会ってますね」
「調べたか」
「当然です。あの男、妙にクリーンすぎる。前歴も異常なし、指紋も不明瞭。“現実にいるはずなのに、存在が薄すぎる”」
天野がうなずく。
「奴は人間じゃない。俺は、あいつの目を見たんだ……あんな“目”、見たことがない」
石原がメモを取りながら口を開く。
「“人間じゃない目”というのは、証拠としては使えない。だが、証言としては興味深い」
春原は腕を組んで天井を見上げた。
「仮に九条が関わっていたとして、どうやって朝比奈を殺す? 自殺に見せかけ、証拠も残さず、遺書まで用意して」
天野が吐き捨てるように言った。
「“香り”だ。あいつの占い処は、香が満ちている。思考を鈍らせ、感情を撹乱する……まるで麻酔みたいに」
「催眠、か?」
「……違う。“静かな強制”だ。本人に選ばせるように見せかけて、すでに道は一本しか残されてない」
春原がゆっくりと視線を戻す。
「なるほど。“選ばせる罠”か。……興味深い」
「信じるのか?」
「信じる、ではなく、可能性のひとつとして“並べる”だけです。……だが私も、彼の顔写真すら出てこない経歴には、引っかかっていました」
石原が資料を机に置いた。
「過去の未解決失踪事件。十件。共通点:全員が『心の問題』で誰かに相談していた」
春原が資料をめくりながら呟いた。
「……偶然の一致としては、多すぎるな」
天野は机を見つめたまま低く言った。
「俺は、もう一度、あいつに会いに行く。……直接、引きずり出してやる」
春原の口元がわずかに動いた。
「構いませんよ。ただし——今度は我々も、“外から見張らせて”もらいます」
香りの届かない場所から。
三人の視線が交錯したその瞬間、室内の空気が、ふと沈香の残り香のように揺れた気がした。
午後3時、九条堂。
静かな雨が屋根を叩き、水音が室内へと溶け込んでいた。香は今日、特に抑えた調合——白檀と雨香の割合を半々にし、思考を曇らせない強度に留めていた。
九条は帳面を閉じ、扉の方へ目を向けた。
鈴が鳴った。
青年が入ってきた。昨日、資料館で出会った、あの“死の記録者”。
「こんにちは……あの、約束通り、来ました」
「ようこそ。……名前を、伺っても?」
「朝比奈です。朝比奈 透(あさひな とおる)」
「朝比奈さん、どうぞ、おかけください」
青年はやや緊張した様子で席につき、指先を擦り合わせていた。その動きは癖というより、“冷えた体を確認している”ようにも見えた。
「今日、お持ちいただいたものはありますか?」
「はい……これ」
朝比奈は封筒を取り出した。中には、折りたたまれた紙が数十枚。手書きで綴られた言葉たち。すべて、人が死の直前に残したとされる“最期の言葉”だった。
「私は、これを集めてる。……誰もいらないって言うけど、私は、どうしても忘れたくない」
「忘れたくない……それは、なぜでしょう?」
「……自分が、止まってしまわないようにです。これを読むと、動いていないと、って思える」
「つまり、他人の“終わり”を記録することで、自分の“継続”を確かめる……」
「はい。変ですか?」
「異常ではありません。ただ、“非常に緻密な自己保存”です」
九条は一枚の紙を手に取る。
《『誰か、見ていてくれたなら、それだけでよかった』》
その筆跡は震えていた。九条の指先が微かに止まる。
「……この言葉には、映像がある。記録以上に、“沈黙”の音が聴こえる」
朝比奈は少しだけ笑った。その笑みはどこか、九条に似ていた。
「先生、聞いてくれますか。僕が最初に“記録”を始めた日のこと」
「……ぜひ、話してください」
香が揺れ、水音が響く。
そして、朝比奈 透の“記録の起源”が、静かに語られ始めた——。
◆『記録の起源』
「……僕の家族、五人家族だったんです。父、母、姉、弟、そして僕」
「でも、姉が——自殺したんです。高校三年の春、首を吊って」
九条は動かずに聞いていた。香の煙だけがゆらゆらと揺れていた。
「彼女は、何も言わなかった。ただ、机の上に“短冊みたいな紙”を置いてて」
朝比奈の目がどこか遠くを見る。
「そこに書かれてたのが、最初の言葉でした」
《『誰か、見ていてくれたなら、それだけでよかった』》
「……それ、今でも覚えてます。いや、忘れられなかった。家族は“何で”って泣いたけど、僕は……“そうだ”って思ったんです」
「“誰も見てなかった”。見てるふりはしても、姉の“本当”を見てなかった」
「だから思った。次は、誰かの“最期”を、ちゃんと記録しようって。せめて一人でも、“見ていた”って残すために」
九条はわずかに頷いた。
「記録とは、救済ではない。だが、世界との断絶を“数秒だけ遅らせる”力はある」
「そう信じてるから、僕は今でも、拾い続けてるんです。紙で、言葉で、忘れないように」
「……あなたの記録は、あなた自身の境界ですね」
「はい。僕は、消えたくない。……消したくもない」
九条は立ち上がり、香の火を静かに弱めた。
「朝比奈さん。あなたのような人間は、希少です。まだ“止まっていない”。ゆえに、私はあなたを観察します」
「……怖いことですか、それは」
「いいえ。意味のあることです」
九条は帳面を開き、新たなページに文字を記した。
観察対象 No.0226:朝比奈 透
【目的】:記録による“生”の保持
【特性】:傾聴・記録・自己沈静/記録行為の宗教性の兆候あり
【状況】:交差前段階。潜在変化観察中
香の煙の向こうで、朝比奈の瞳が小さく、しかし確かに揺れていた。
◆『疑念の起点』
翌朝、朝比奈透の遺体が発見された。
場所は多摩川沿いの河川敷。季節外れの冷たい雨の中、傘も所持品もなく、仰向けに倒れた姿で。
彼の表情は穏やかで、まるで静かに眠っているかのようだった。口元には微かな笑みの名残があったとも、一部の警察関係者は証言している。
死因は溺死。肺には水が入っており、時間的には未明、雨が降り出す直前の可能性が高い。
だが争った痕跡もなく、衣服は乱れておらず、ポケットに入っていたスマートフォンにはロックがかけられたまま、最後の通信記録は前日夕方の“未送信メモ”のみだった。
警察は、遺体の傍に落ちていたノートの断片に注目した。
《見届けてくれる誰かがいれば、それでよかった》
文字は本人の筆跡と一致。死後に濡れたにもかかわらず、インクはほとんど滲んでいなかった。紙は防水加工されており、意図的に“読まれること”を前提にしていたようだった。
傍らには、もう一枚、未使用の紙が折りたたまれて残っていた。
まるで“まだ語られていない言葉”が、そこにあったかのように。
——自殺。
そう結論づけるには、状況が整いすぎていた。
「……整然としすぎている。こんなに“綺麗な死”は、普通じゃない」
「同感だ。痕跡がなさすぎる。足跡も乱れもない。自ら歩いてここへ来て、そのまま倒れたのか?」
「いや……この体勢、自然に倒れたにしては……仰向けで両手が胸元にある。死に際、そんなふうに構えるか?」
「誰かが“整えた”可能性は?」
「検証中だ。……念のため、交友関係をすべて洗い直す」
「記者が一人いたな。天野深夜」
「……ああ、確か“九条瞬”とも接触していたと記録されている」
『疑われた者』
天野深夜は、警視庁捜査一課の尋問室にいた。
蛍光灯の白い光が、冷たく頭上から彼を照らしていた。
「あなたが彼と最後に接触した人物ですね」
「“接触”というほどの関係じゃない。偶然、取材中に出会っただけです」
「それにしては、彼の部屋に“あなたの名刺”が残っていた。『真実を知る覚悟はあるか?』という手書きの文とともに」
「……それは、彼自身が持っていた言葉です。俺が書いたわけじゃない」
「あなた、最近“九条瞬”という人物と接触していますね?」
「……ああ。調査対象として個人的に追っていた」
「朝比奈透の遺体が発見された場所は?」
「多摩川の河川敷だろ?」
「どうして知ってるんですか。報道はまだされていない」
「……それは……」
天野は黙った。
「つまり、あなたは現場を知っていた?」
「いや、それは……聞いたんだ、内部から。旧知の刑事がいる」
「証明できますか?」
「……連絡すれば」
「してください。あとで連絡先を教えてください」
天野の拳が微かに震えた。脳裏には、あの沈香の香りと、九条の冷徹な瞳が浮かぶ。
「“あいつ”じゃないのか?」
「誰のことです?」
「……九条だ。奴が、なにか……」
「証拠は?」
「ない……。だが、あいつは——人間じゃない目をしていた」
刑事はメモを取りながら呟く。
「“人間じゃない目”。なるほど。詩的ですが、証拠にはなりません」
◆『観察の終点』
九条堂。香は濃く、記録帳のページが静かに一つ閉じられる。
観察対象 No.0226:朝比奈 透
【観察終了】:記録の終端を確認。沈静化完了
【最終記述】:記録者に必要だったのは“見届ける者”ではなかった。“終わり”を選ぶための、静かな許可だった。
『ほんと、君ってやつは……見抜いたフリして、結局“終わらせる”のが好きなんじゃない?』
「彼は止まった。私は、その流れに従っただけだ」
『でもさ、天野にはどう見えるかな。……ああいう男は、自分が“正義の側”だと思ってる分、崩れるのも早いよ?』
「それは、彼次第だ。彼が“流れる”か、“止まる”か」
『止まるまで待つつもり? それとも……』
「まだだ。彼は、境界線に足をかけただけだ」
九条は帳面を閉じ、朝比奈の最期の言葉を思い返す。
《見ていてくれたなら、それだけでよかった》
「私は見ていた。だが、“止めなかった”」
香の煙が立ち上る。その香りは沈静ではなく、静かなる“忘却”を意図していた。
九条は棚の奥から、小さな試験管のような容器を取り出し、細いピンセットで微細な黒い繊維を摘み上げた。
それは、朝比奈の衣服から採取した、彼にしかわからない“終わりの証”だった。
「……次の観察は、もっと深く沈む」
『楽しみだね、次は誰が壊れるかな?』
煙の中に、確かな気配があった。
“崩壊”は始まっている。だが、誰もそれに気づいていない。
まだ、誰も。
◆『沈香の迷路』
警視庁・尋問室。午後5時過ぎ。
部屋の空気はぬるく重く、天井の換気音だけが静かに響いていた。
天野深夜は椅子に座り、両手を組んでいた。だが手の甲には、見えない汗がにじんでいた。
目の前に座るのは、捜査一課の刑事・石原。そして今回、新たに同行してきた人物がいた。
「こちら、捜査一課・特別事案担当、春原礼司(すのはら れいじ)警部補です」
石原が紹介すると、春原は軽く会釈した。
30代前半、黒縁の眼鏡をかけ、神経質そうな雰囲気だが、目の奥は異様なほど鋭い。
「天野さん、少し話を整理させてください。あなたは朝比奈透さんと面識があった」
「ああ……間違いない。だが、親しかったわけじゃない。彼が“死の言葉”を集めてるって話してて、それが印象に残ってた」
「その言葉の一つが、遺書として現場に残されていた」
「……あいつは、最後まで“記録者”だったのかもしれない」
春原が割って入った。
「あなた、最近“九条瞬”という人物に会ってますね」
「調べたか」
「当然です。あの男、妙にクリーンすぎる。前歴も異常なし、指紋も不明瞭。“現実にいるはずなのに、存在が薄すぎる”」
天野がうなずく。
「奴は人間じゃない。俺は、あいつの目を見たんだ……あんな“目”、見たことがない」
石原がメモを取りながら口を開く。
「“人間じゃない目”というのは、証拠としては使えない。だが、証言としては興味深い」
春原は腕を組んで天井を見上げた。
「仮に九条が関わっていたとして、どうやって朝比奈を殺す? 自殺に見せかけ、証拠も残さず、遺書まで用意して」
天野が吐き捨てるように言った。
「“香り”だ。あいつの占い処は、香が満ちている。思考を鈍らせ、感情を撹乱する……まるで麻酔みたいに」
「催眠、か?」
「……違う。“静かな強制”だ。本人に選ばせるように見せかけて、すでに道は一本しか残されてない」
春原がゆっくりと視線を戻す。
「なるほど。“選ばせる罠”か。……興味深い」
「信じるのか?」
「信じる、ではなく、可能性のひとつとして“並べる”だけです。……だが私も、彼の顔写真すら出てこない経歴には、引っかかっていました」
石原が資料を机に置いた。
「過去の未解決失踪事件。十件。共通点:全員が『心の問題』で誰かに相談していた」
春原が資料をめくりながら呟いた。
「……偶然の一致としては、多すぎるな」
天野は机を見つめたまま低く言った。
「俺は、もう一度、あいつに会いに行く。……直接、引きずり出してやる」
春原の口元がわずかに動いた。
「構いませんよ。ただし——今度は我々も、“外から見張らせて”もらいます」
香りの届かない場所から。
三人の視線が交錯したその瞬間、室内の空気が、ふと沈香の残り香のように揺れた気がした。
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