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エピソード4
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◆『観察の器、欺瞞の香炉』
九条堂——
香は変わっていた。以前よりも深く、複雑で、層をなしていた。白檀、沈香、そしてほのかに鉄のような苦みを伴う調香。
九条は椅子に座り、帳面を閉じていたが、その指先はわずかに震えていた。
「……尾行、二名。張り込み一、位置固定。捜査ではなく、探査か」
彼は微笑むでもなく、静かに呟いた。
『あらら、ついにバレた? 君が“見られる側”になるなんて、何年ぶり?』
「……彼らは、私の“隠された構造”を突いてくる。『私が関与しない限界線』——それが、私の盲点だった」
『苦手だもんな。“自由意思の他者”ってやつ』
「だが、それがあるからこそ、私は“変化”できる。観察は、内にも向けられるべきだ」
九条は香の分量を調整した。新たな調香は、自身の“精神域”にすら影響を与えるよう練り込まれていた。
「自己修正のための香。恐怖ではなく、静かな超越——」
彼は机にあった一枚のファイルを開く。
《観察対象:No.0194 “アカツチ・カイリ”》
【肩書】:民間宗教団体《黎祷の環(れいとうのわ)》幹部
【初回相談日】:3ヶ月前
【言動記録】:精神誘導術への異常な理解、同調型洗脳発言多数
【特徴】:香を用いた集団心理制御に興味。朝比奈と接触歴あり。
「……君だったか」
彼は静かに指を滑らせ、ひとつの語を囲む。
《朝比奈:被接触記録あり》
——警視庁、春原のデスク。
「天野さん、先に出ててください。……少し気になる資料を見つけた」
天野が席を外すと、春原は端末を叩いた。
「“黎祷の環”……朝比奈透がこの団体に出入りしていたという情報、ほんとか……」
調べが進むと、確かに彼が“相談者”として訪れた宗教系団体の中にこの名が含まれていた。登記上は合法な精神療法支援団体。しかし——
「代表者“アカツチ・カイリ”、職歴不詳。活動歴3年。香の使用、催眠状態での説法、記録者との接触……」
春原は立ち上がる。
「九条、お前……まさか、こいつらを“装置”として使ったのか?」
——九条堂、再び。
九条は香の調香を終えた。
「“香を媒介とした他者誘導”は、私の中では実験段階だった。だが……カイリのような“信者の中で神格を演じる者”がいれば——」
『実行犯は“彼”にして、君は“観ていただけ”になる。綺麗だねぇ。まるで無関係な顔』
「私は“選んだ”だけだ。彼らが“進んだ”。それだけ」
記録帳に記された。
観察補記:
・No.0194 アカツチ・カイリ → No.0226 朝比奈透に対し“精神誘導接触”実施
・観察者:九条瞬 → 第三者観察環境への構造導入、成功
・評価:行動誘導による自己消滅誘発。間接処理成功
香炉に立ちのぼる煙が、九条の表情を覆い隠した。
彼はもう、自分の“意思”すらも観察する段階へと進化しつつあった。
そしてこの先、天野と春原が“真実”へたどり着くたびに、それは九条をさらに“進化”させる燃料となる——。
◆『鏡の奥、揺らぐ線』
——十年前。
場所は都内某所。静まり返ったアパートの一室に、若き日の九条がいた。
まだ香は使っていなかった。ただ、黒い帳面と鋭い目だけが彼の武器だった。
「……また、救えなかったか」
つぶやきながら、彼は机の上の診療記録を閉じた。
そのとき——
「久しぶり、九条」
声がした。
女だった。細身で、黒髪をまとめ上げ、白い手袋を外しながらこちらに微笑んでいた。
「霧島 澪(きりしま みお)……」
「まだ“観察”してるの? 変わらないね、あなた」
「君は、まだ“共感”などという不確かなものに頼っているのか?」
「不確かでも、人の奥に触れるには“感覚”が必要なのよ。あなたはいつも“見ている”だけ。触れようとしない」
「私は“壊さない”ために距離を取っているだけだ」
「でも、その距離は、あなた自身を守るための盾にもなってる。……違う?」
九条は沈黙した。
霧島は歩み寄り、机の上の帳面を指でなぞった。
「彼女は、“誰かに見られたかった”だけ。あなたの帳面の中でなく、“誰かの呼吸の中”にいたかったのよ」
「……彼女は自分から離れていった」
「違う。あなたが踏み込まなかった。彼女はずっと、待ってたのよ」
「……私は、私を越えられない」
「あなたは、“壊されたくない”だけ。誰かに見透かされるのが怖い。だから、記録するだけで終わらせてる」
「……」
「それじゃ、“観察”じゃなくて、“逃避”よ、九条」
その言葉に、彼の眉が微かに動いた。
霧島は一歩下がって、息を吐いた。
「……ごめん。私は、あなたのやり方を否定したいわけじゃない。ただ……あなたが、もっと“触れて”くれる人だったら、彼女は——」
そしてこの日を境に、九条は香を使い始める。
「構造を嗅覚化し、感情から距離を取ることで“観察”を拡張する」——それが彼の答えだった。
『沈黙を破る音』
——さらに数年後。
九条堂ではない、小さな山間の集会所。
「お前が“香”を用い始めた理由、聞いたよ。面白いな」
そう言ったのは、男だった。
色白で童顔だが、口調は冷たく、目は異様に大人びていた。
名前は霜崎 柊(しもざき しゅう)。彼は、精神催導の実験者として非公式に活動しており、九条とはかつて共同研究を一度だけ行った経緯がある。
「霧島に言われたんだって? “限界がある”って。……それで逃げたか。らしくないな、九条」
「私は、私の構造を完成させたかった。恐れではなく、形式の洗練だ」
「形式なんてものに逃げるなよ。お前が見てるのは“現象”じゃなくて、“自分”だろ?」
「香は境界だ。意図と現象を制御する膜だ」
「膜ってのはな、時に“遮断”にもなる。見たくないものから目を逸らす道具にもなる」
「お前、ずっとそうだった。“観察者”を気取って、誰とも真正面から関わらなかった」
「……私は、それが正しいと信じている」
霜崎はため息をついた。
「信じるのは自由さ。でもな、それで“壊れない人間”なんていない」
「お前がいくら観察しても、自分の内側に踏み込まない限り、“真実”は手に入らないんだよ」
九条は返答しなかった。
彼はただ、目を閉じたまま香炉に手を添えていた。
その手は、わずかに震えていた。
◆『黎祷の環へ』
——現在、深夜。
東京都西部、山林に囲まれた旧温泉地の廃施設。元は宿泊施設だったというその建物は、今はカルト宗教団体《黎祷の環》の集会所として使われている。
「ここが……“環”の巣か」
春原礼司が静かに双眼鏡を下ろした。隣では天野深夜が地図を確認している。
「裏手に抜け道がある。“儀式用の香炉”を持ち込んでるって噂、聞いたことあるか?」
「ああ。香を使って、“感応の間”と呼ばれる空間を作ってるらしい。……そこに、九条の香と似た成分が検出された」
「つまり、奴の“影”がもう、ここにあるってことだな」
「連中は協力者か、それとも“駒”か……目的は?」
「何にせよ、あいつはすでに“場”を作ってる。俺たちが動くたびに、その香りの中に導かれてる気がしてならない」
施設の入口には“祈りは香に乗って”と書かれた看板がぶら下がっていた。雨に濡れてもなお、墨文字は鮮明だった。
「中に入るには、身分を偽るしかない。俺が信者を装って入る。お前は外でモニタリングを——」
「いや、俺も行く」
「天野……お前は顔が割れてる可能性がある。香にやられるかもしれない」
「それでも行く。……俺はもう、あいつの輪の外にはいられない。目を逸らした時点で、俺も“観察される側”だ」
春原はため息をつき、手にしていた資料を畳んだ。
「わかった。ただし、危険を感じたらすぐに出る。約束しろ」
「……できるかどうかは、あいつ次第だ」
「はあ……相変わらずお前は、危ういところで踏み込む」
「じゃあ、行こう。“観察される前に、観察してやる”」
ふたりは夜闇の中へ消えていった。
『微香の渦中』
内部は静かだった。香の匂いが淡く漂い、空気は微かに粘性を帯びている。
「——ごきげんよう。新たな“光の探求者”ですね」
ふたりの前に現れたのは、淡い灰色のローブを纏った若い男。目元には化粧のような粉が塗られている。瞳は濁りなく、しかし焦点がどこにも定まっていなかった。
「こちらへ。まずは“導香の間”で心を開いていただきます」
天野がぼそりと呟く。
「“導香”だと……? こいつら、本気で香で意識を操作してやがる」
春原が口元を隠しながら囁く。
「分析班の仮説が当たりかもしれん。九条の香は、ここで実験的に“配布”されてる可能性がある。……まさか、こんな大規模に」
「まるで“洗礼”みたいな言い方だな」
ふたりは促されるまま、円形の部屋へと通された。中央には巨大な香炉。周囲には座布団が規則的に並べられ、五、六人の信者が目を閉じて座っていた。
「感じますか? 心の霧が、香によって“晴れていく”のを……」
信者の一人が恍惚とした表情でそう言った。
その言葉と同時に、天野の指先が震えた。心の奥に、あの忌まわしい記憶が蘇ってくる。
(……くる。あの香り——九条の空気だ。思考が……じわじわ、掴まれていく)
春原もわずかに眉をひそめた。
「長居は危険だ。……“香の芯”を突き止めて、すぐに出るぞ。これ以上吸えば、俺たちも“教義”に染まりかねない」
「いや……逆に、この香の中で、俺は“あいつの形”を思い出せる気がする」
「天野——」
「平気だ。……いや、平気じゃない。だが、感じる。あいつがどこかで、今まさに、俺を見ている」
二人の間に、揺れる香煙。
その奥に、確かに“誰か”の気配があった。
まだ、姿は見えない。
だが、その香りは、確かに——“九条 瞬”そのものだった。
◆『供物の香、契約の影』
——過去、三年前。
深夜の山間にある、打ち捨てられた寺院跡。その中央の大広間に、香が満ちていた。
九条瞬は静かに歩を進める。その目の前で、香炉の煙が螺旋を描いて立ち昇っている。
「……来ると思っていたよ」
奥の座に佇むのは、アカツチ・カイリ。
30代前半、細身でありながら柔らかな威圧感を纏った男。瞳は細く、笑っているように見えながら、その奥には一切の熱がなかった。
「お前が“観察者”か。香に頼る異端者だと聞いたが……想像以上に“気配”が薄い」
「君の香の配合に興味があってね。……あれは、香ではない。“構造の鍵”だ」
カイリは一度、空を仰ぐ。
「俺たちが信じているのは“調律された意識”だ。混沌の中から一音を取り出し、それを教義に変える。……それが《黎祷の環》の本質だ」
「君の“教義”に構造的整合性はない。ただ、構成要素としては優秀だ。……利用価値はある」
「はは、初対面の相手に“利用する”とはね。ずいぶん正直な観察者だ」
「私には、“共感”や“善意”は不要だ。結果と変化だけが、観察の対象だ」
カイリは立ち上がり、香炉の前に膝をついた。
「ならば試そう。“我々の香”が、あなたにとってどれほどの器か……」
九条は目を細める。
「香に込められた“意志”が弱ければ、私は嗅ぎ分ける。それが毒か、祈りか、支配か……そして、誰のための“終点”かも」
「……終点、か。あなたは終わりを愛するのか?」
「否。終わりに“触れる人間”に興味がある」
香煙がゆるやかに交わる。
——その夜、契約は交わされた。
九条は《黎祷の環》を“仕組まれた装置”として記録した。
観察対象No.0194 アカツチ・カイリ
【状態】:信仰的従属/指導者的威圧による構造制御可能
【契約内容】:香の供給と拡張空間の創出による“群体精神構造”の観察実験場化
九条は香炉の火をゆっくりと閉じた。
「彼らは“自ら進んで迷路に入る”。私はただ、その煙の流れを……見届けるだけだ」
その目に、何の揺らぎもなかった。
九条堂——
香は変わっていた。以前よりも深く、複雑で、層をなしていた。白檀、沈香、そしてほのかに鉄のような苦みを伴う調香。
九条は椅子に座り、帳面を閉じていたが、その指先はわずかに震えていた。
「……尾行、二名。張り込み一、位置固定。捜査ではなく、探査か」
彼は微笑むでもなく、静かに呟いた。
『あらら、ついにバレた? 君が“見られる側”になるなんて、何年ぶり?』
「……彼らは、私の“隠された構造”を突いてくる。『私が関与しない限界線』——それが、私の盲点だった」
『苦手だもんな。“自由意思の他者”ってやつ』
「だが、それがあるからこそ、私は“変化”できる。観察は、内にも向けられるべきだ」
九条は香の分量を調整した。新たな調香は、自身の“精神域”にすら影響を与えるよう練り込まれていた。
「自己修正のための香。恐怖ではなく、静かな超越——」
彼は机にあった一枚のファイルを開く。
《観察対象:No.0194 “アカツチ・カイリ”》
【肩書】:民間宗教団体《黎祷の環(れいとうのわ)》幹部
【初回相談日】:3ヶ月前
【言動記録】:精神誘導術への異常な理解、同調型洗脳発言多数
【特徴】:香を用いた集団心理制御に興味。朝比奈と接触歴あり。
「……君だったか」
彼は静かに指を滑らせ、ひとつの語を囲む。
《朝比奈:被接触記録あり》
——警視庁、春原のデスク。
「天野さん、先に出ててください。……少し気になる資料を見つけた」
天野が席を外すと、春原は端末を叩いた。
「“黎祷の環”……朝比奈透がこの団体に出入りしていたという情報、ほんとか……」
調べが進むと、確かに彼が“相談者”として訪れた宗教系団体の中にこの名が含まれていた。登記上は合法な精神療法支援団体。しかし——
「代表者“アカツチ・カイリ”、職歴不詳。活動歴3年。香の使用、催眠状態での説法、記録者との接触……」
春原は立ち上がる。
「九条、お前……まさか、こいつらを“装置”として使ったのか?」
——九条堂、再び。
九条は香の調香を終えた。
「“香を媒介とした他者誘導”は、私の中では実験段階だった。だが……カイリのような“信者の中で神格を演じる者”がいれば——」
『実行犯は“彼”にして、君は“観ていただけ”になる。綺麗だねぇ。まるで無関係な顔』
「私は“選んだ”だけだ。彼らが“進んだ”。それだけ」
記録帳に記された。
観察補記:
・No.0194 アカツチ・カイリ → No.0226 朝比奈透に対し“精神誘導接触”実施
・観察者:九条瞬 → 第三者観察環境への構造導入、成功
・評価:行動誘導による自己消滅誘発。間接処理成功
香炉に立ちのぼる煙が、九条の表情を覆い隠した。
彼はもう、自分の“意思”すらも観察する段階へと進化しつつあった。
そしてこの先、天野と春原が“真実”へたどり着くたびに、それは九条をさらに“進化”させる燃料となる——。
◆『鏡の奥、揺らぐ線』
——十年前。
場所は都内某所。静まり返ったアパートの一室に、若き日の九条がいた。
まだ香は使っていなかった。ただ、黒い帳面と鋭い目だけが彼の武器だった。
「……また、救えなかったか」
つぶやきながら、彼は机の上の診療記録を閉じた。
そのとき——
「久しぶり、九条」
声がした。
女だった。細身で、黒髪をまとめ上げ、白い手袋を外しながらこちらに微笑んでいた。
「霧島 澪(きりしま みお)……」
「まだ“観察”してるの? 変わらないね、あなた」
「君は、まだ“共感”などという不確かなものに頼っているのか?」
「不確かでも、人の奥に触れるには“感覚”が必要なのよ。あなたはいつも“見ている”だけ。触れようとしない」
「私は“壊さない”ために距離を取っているだけだ」
「でも、その距離は、あなた自身を守るための盾にもなってる。……違う?」
九条は沈黙した。
霧島は歩み寄り、机の上の帳面を指でなぞった。
「彼女は、“誰かに見られたかった”だけ。あなたの帳面の中でなく、“誰かの呼吸の中”にいたかったのよ」
「……彼女は自分から離れていった」
「違う。あなたが踏み込まなかった。彼女はずっと、待ってたのよ」
「……私は、私を越えられない」
「あなたは、“壊されたくない”だけ。誰かに見透かされるのが怖い。だから、記録するだけで終わらせてる」
「……」
「それじゃ、“観察”じゃなくて、“逃避”よ、九条」
その言葉に、彼の眉が微かに動いた。
霧島は一歩下がって、息を吐いた。
「……ごめん。私は、あなたのやり方を否定したいわけじゃない。ただ……あなたが、もっと“触れて”くれる人だったら、彼女は——」
そしてこの日を境に、九条は香を使い始める。
「構造を嗅覚化し、感情から距離を取ることで“観察”を拡張する」——それが彼の答えだった。
『沈黙を破る音』
——さらに数年後。
九条堂ではない、小さな山間の集会所。
「お前が“香”を用い始めた理由、聞いたよ。面白いな」
そう言ったのは、男だった。
色白で童顔だが、口調は冷たく、目は異様に大人びていた。
名前は霜崎 柊(しもざき しゅう)。彼は、精神催導の実験者として非公式に活動しており、九条とはかつて共同研究を一度だけ行った経緯がある。
「霧島に言われたんだって? “限界がある”って。……それで逃げたか。らしくないな、九条」
「私は、私の構造を完成させたかった。恐れではなく、形式の洗練だ」
「形式なんてものに逃げるなよ。お前が見てるのは“現象”じゃなくて、“自分”だろ?」
「香は境界だ。意図と現象を制御する膜だ」
「膜ってのはな、時に“遮断”にもなる。見たくないものから目を逸らす道具にもなる」
「お前、ずっとそうだった。“観察者”を気取って、誰とも真正面から関わらなかった」
「……私は、それが正しいと信じている」
霜崎はため息をついた。
「信じるのは自由さ。でもな、それで“壊れない人間”なんていない」
「お前がいくら観察しても、自分の内側に踏み込まない限り、“真実”は手に入らないんだよ」
九条は返答しなかった。
彼はただ、目を閉じたまま香炉に手を添えていた。
その手は、わずかに震えていた。
◆『黎祷の環へ』
——現在、深夜。
東京都西部、山林に囲まれた旧温泉地の廃施設。元は宿泊施設だったというその建物は、今はカルト宗教団体《黎祷の環》の集会所として使われている。
「ここが……“環”の巣か」
春原礼司が静かに双眼鏡を下ろした。隣では天野深夜が地図を確認している。
「裏手に抜け道がある。“儀式用の香炉”を持ち込んでるって噂、聞いたことあるか?」
「ああ。香を使って、“感応の間”と呼ばれる空間を作ってるらしい。……そこに、九条の香と似た成分が検出された」
「つまり、奴の“影”がもう、ここにあるってことだな」
「連中は協力者か、それとも“駒”か……目的は?」
「何にせよ、あいつはすでに“場”を作ってる。俺たちが動くたびに、その香りの中に導かれてる気がしてならない」
施設の入口には“祈りは香に乗って”と書かれた看板がぶら下がっていた。雨に濡れてもなお、墨文字は鮮明だった。
「中に入るには、身分を偽るしかない。俺が信者を装って入る。お前は外でモニタリングを——」
「いや、俺も行く」
「天野……お前は顔が割れてる可能性がある。香にやられるかもしれない」
「それでも行く。……俺はもう、あいつの輪の外にはいられない。目を逸らした時点で、俺も“観察される側”だ」
春原はため息をつき、手にしていた資料を畳んだ。
「わかった。ただし、危険を感じたらすぐに出る。約束しろ」
「……できるかどうかは、あいつ次第だ」
「はあ……相変わらずお前は、危ういところで踏み込む」
「じゃあ、行こう。“観察される前に、観察してやる”」
ふたりは夜闇の中へ消えていった。
『微香の渦中』
内部は静かだった。香の匂いが淡く漂い、空気は微かに粘性を帯びている。
「——ごきげんよう。新たな“光の探求者”ですね」
ふたりの前に現れたのは、淡い灰色のローブを纏った若い男。目元には化粧のような粉が塗られている。瞳は濁りなく、しかし焦点がどこにも定まっていなかった。
「こちらへ。まずは“導香の間”で心を開いていただきます」
天野がぼそりと呟く。
「“導香”だと……? こいつら、本気で香で意識を操作してやがる」
春原が口元を隠しながら囁く。
「分析班の仮説が当たりかもしれん。九条の香は、ここで実験的に“配布”されてる可能性がある。……まさか、こんな大規模に」
「まるで“洗礼”みたいな言い方だな」
ふたりは促されるまま、円形の部屋へと通された。中央には巨大な香炉。周囲には座布団が規則的に並べられ、五、六人の信者が目を閉じて座っていた。
「感じますか? 心の霧が、香によって“晴れていく”のを……」
信者の一人が恍惚とした表情でそう言った。
その言葉と同時に、天野の指先が震えた。心の奥に、あの忌まわしい記憶が蘇ってくる。
(……くる。あの香り——九条の空気だ。思考が……じわじわ、掴まれていく)
春原もわずかに眉をひそめた。
「長居は危険だ。……“香の芯”を突き止めて、すぐに出るぞ。これ以上吸えば、俺たちも“教義”に染まりかねない」
「いや……逆に、この香の中で、俺は“あいつの形”を思い出せる気がする」
「天野——」
「平気だ。……いや、平気じゃない。だが、感じる。あいつがどこかで、今まさに、俺を見ている」
二人の間に、揺れる香煙。
その奥に、確かに“誰か”の気配があった。
まだ、姿は見えない。
だが、その香りは、確かに——“九条 瞬”そのものだった。
◆『供物の香、契約の影』
——過去、三年前。
深夜の山間にある、打ち捨てられた寺院跡。その中央の大広間に、香が満ちていた。
九条瞬は静かに歩を進める。その目の前で、香炉の煙が螺旋を描いて立ち昇っている。
「……来ると思っていたよ」
奥の座に佇むのは、アカツチ・カイリ。
30代前半、細身でありながら柔らかな威圧感を纏った男。瞳は細く、笑っているように見えながら、その奥には一切の熱がなかった。
「お前が“観察者”か。香に頼る異端者だと聞いたが……想像以上に“気配”が薄い」
「君の香の配合に興味があってね。……あれは、香ではない。“構造の鍵”だ」
カイリは一度、空を仰ぐ。
「俺たちが信じているのは“調律された意識”だ。混沌の中から一音を取り出し、それを教義に変える。……それが《黎祷の環》の本質だ」
「君の“教義”に構造的整合性はない。ただ、構成要素としては優秀だ。……利用価値はある」
「はは、初対面の相手に“利用する”とはね。ずいぶん正直な観察者だ」
「私には、“共感”や“善意”は不要だ。結果と変化だけが、観察の対象だ」
カイリは立ち上がり、香炉の前に膝をついた。
「ならば試そう。“我々の香”が、あなたにとってどれほどの器か……」
九条は目を細める。
「香に込められた“意志”が弱ければ、私は嗅ぎ分ける。それが毒か、祈りか、支配か……そして、誰のための“終点”かも」
「……終点、か。あなたは終わりを愛するのか?」
「否。終わりに“触れる人間”に興味がある」
香煙がゆるやかに交わる。
——その夜、契約は交わされた。
九条は《黎祷の環》を“仕組まれた装置”として記録した。
観察対象No.0194 アカツチ・カイリ
【状態】:信仰的従属/指導者的威圧による構造制御可能
【契約内容】:香の供給と拡張空間の創出による“群体精神構造”の観察実験場化
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