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エピソード5
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◆『嗅覚の教義』
——現在。
円形の部屋。天野と春原が“導香の間”に座してから、すでに五分が経過していた。
「……空気が、変わってきたな」
天野が呟いた。
「意識が……細かく振動してる。音じゃない、香の粒子が……内側に響いてくる」
春原も額に微かな汗を浮かべながら頷く。
「脳が外部からの“リズム”を探し始めてる。これは思った以上に危険だ」
そのとき、空間に音もなく現れたのは、ローブ姿の案内者とは明らかに異質な存在。
アカツチ・カイリ。
「ごきげんよう。“探求者”のおふたりへ、ようこそ《黎祷の環》へ」
低く、湿り気を含んだ声。天野は即座に身を固くする。
「……お前が、この教団の主か」
カイリは微笑を絶やさず、ゆっくりと香炉の中央へと進む。
「私はただ、香と共にある者。“導かれた者”と共に、均整の霧を歩いているだけです」
「均整……?」
「すべての感情と記憶に、余剰と不足があります。それを、香によって調律する。それが我々の祈り」
春原が食い気味に問い返す。
「ならば、その“調律”で人を殺すのか? 朝比奈透——彼の死も、お前の香の調律の結果か」
カイリはわずかに目を伏せた。
「彼は……境界に立っていた。私の香は、彼に選ばせただけです。選ぶ権利を与える——それが香の力であり、私の責務です」
「選ばせた? それは“誘導”じゃないのか!」
天野が立ち上がりかけた。
だが、香が急に濃くなる。鼻腔をついて、記憶の底に眠っていた“ある光景”が引きずり出された——妹が最後に残したノート、その中の言葉、静かな笑顔。
「っ……やめろ……!」
春原が天野を押さえる。
「落ち着け、香が作用してる。幻覚じゃない、“再構築”だ」
カイリは静かに言う。
「あなたが本当に知りたいのは、“誰が壊したか”ではない。“どうして壊れたか”でしょう?」
天野は歯を食いしばった。
「……その問いに、あいつはいつも“答えない”んだ」
カイリはふっと笑った。
「ならば、私がお見せしましょう。あなたの“終点”に向かう道を」
香が部屋を満たす。春原の目が鋭く細まる。
「こいつは……ただのカルトじゃない。“設計された迷宮”だ」
その時、彼の耳元に微かに、だが確かに響いた。
——“君は今、観察されている”——
春原の心臓が一拍、遅れて鳴った。
◆『設計者たちの静謐』
——同時刻、九条堂。
窓の外では雨が静かに降り続いていた。九条瞬は、香炉の炎を整えながら、帳面のページを一つめくる。
「春原と天野……導香の間に入ったか。予想より早いタイミングだ」
机の上には《黎祷の環》の内部設計図と、香成分の配合リストが広がっていた。
——その香は、記憶の奥底を再生する“再構築型幻香”。個人の“最も壊れた記憶”を中心に、感情を誘導する。
『君、ほんと優しいよね。“壊す”んじゃなくて、“自分で崩れさせる”設計にしてるんだから』
「介入せずに変化を見るのが、私の原則だ。選ぶのは常に、対象自身であるべきだ」
『でもそれって、ある意味で一番残酷じゃない? 自分の内側から崩れていくって……誰よりも深く傷つくやつだよ』
「誰かに壊されるより、自ら崩れるほうが、本質に近づける。自己認識こそが、観察の核心だ」
そのとき、机の端の通信香炉が淡く灯り始めた。
香の揺らぎを通して届いたのは、男の声——アカツチ・カイリだった。
「……聞こえるか、観察者。香は深く入り始めた。お前の望む“揺らぎ”は、もう始まっている」
「進行は予定より早いな。天野は強靭だ。だが、彼の“未処理の喪失”は構造を歪める起点になる。君はそれを“火種”にした」
「ふふ、彼の妹の記憶は見事だった。あれは——もう、儀式の器だ。何もしなくても、彼は“問い”に自ら落ちていく」
「君の教義は“装置”として完成した。だが、注意しろ。君がその中心にいる限り、君もまた“対象”に含まれる」
「……構わない。私はこの信仰を導く主ではない。私は“共鳴体”だ。香の中に身を投じ、そこで崩れるなら、それでいい」
九条の目が細くなる。指先が帳面の角を無意識に撫でていた。
「“共鳴”は崩壊の予兆にもなる。……君は、まだ観察の意味を誤解している。対象を揺らすために存在するのではない。……そこに“在り続ける”ために、観察者はある」
「ならば、お前はどうする? 観察者であり続けるには、どこまで沈む覚悟がある?」
「……では、私もまた“記録者”から“観察対象”へ、足を踏み入れる準備をしよう」
「面白い。お前が壊れる瞬間を、私も見届けよう」
通信香炉の煙がふっと消える。
九条は静かに立ち上がった。ゆっくりと空間を見渡し、深く息を吐く。
「香は、境界だ。だが、今日からそれを“内側”へ向けよう」
香炉の炎が、ゆっくりと紫へと変化していった。その煙は、かすかに九条自身の胸元へと引き寄せられていた。
◆『そして沈む影』
——導香の間。香が濃密に漂い、空間は外界との境界を完全に失っていた。
天野深夜の意識は、静かに沈んでいく。
(……俺は……ここで、何を……)
香の奥に、微かに揺れる記憶の灯火。
“お兄ちゃん、もし私がいなくなったら——”
——声。
妹の声だ。あの子の名は、天野 朱音(あまの あかね)。
(……ちがう、それは……それは、あの日——)
幻視が始まる。朱音の部屋。机の上のノート。白い光。誰かの背中。
「やめろ……やめてくれ……!」
天野は膝をつき、両手で頭を抱える。香が脳の奥まで入り込み、記憶を剥き出しにしていく。
——そのときだった。
「まだ、苦しいか」
九条瞬の声。
いつの間に現れたのか、九条がそこにいた。
香の煙の中から、まるで“現実”そのものを歪めて立ち現れた。
「お前……どうしてここに……」
「お前が、ここに“沈んだ”からだ」
「ふざけるな……お前が、俺を……ここに……」
天野が拳を握る。だが、体は動かない。意識だけが怒りと恐怖に震えていた。
「怒っているのか? 哀しいのか? それとも——」
九条の声が、急に熱を帯びる。
「お前の中に“生き残った罪”があるから、今も朱音の最期を、繰り返し見ているんだ」
「やめろ……っ!!」
天野が叫ぶ。
そして——九条が、歩み寄った。
その瞳には、理性でも憐れみでもない。混乱、興奮、絶望、そして何より——喜びすら混ざった“なにか”が宿っていた。
「君の“終点”を、この手で確認する。私は今、観察者ではなく、実行者だ」
その瞬間、九条は天野の首を素手で掴んだ。
「……あ……が……」
「これは……私が……なぜ、こんなに……」
九条の目が揺れる。狂気と困惑が入り混じる。
「感情……? 違う……これは何だ。これは……喜びか、恐れか、哀しみか……!? 理性が……答えない……」
天野の爪が、九条の腕を掴む。
しかし、その力は弱々しかった。
「お前が……っ、誰かを殺すだと……っ……!」
「殺している……私が、か……これは、記録できない。構造が……崩れる……!」
その手は、もはや“行為”ではなく“衝動”だった。
「私は……人間ではない。今、私は……怪物だ……」
天野の目から涙が一筋流れた。
「……朱音……ごめん……」
そして、体から力が抜けた。
九条はなおも天野の喉元を押さえながら、何かを確認するように、ただ、息を詰めていた。
「……これが……人を殺すという行為……私が……」
彼の口元が、微かに震えた。
それは、笑いか、恐怖か、自己否定か。もう誰にも、本人にすらも、わからなかった。
◆『意志の内乱』
——導香の間・別室。
春原礼司は沈香の渦の中で、ひとり目を閉じていた。
だが次第に、何かが自分の中で“ずれている”ことに気づく。
「……これは……俺の思考じゃない」
思考が、香のリズムに呼応して揺れている。
“心の奥に誰かがいる”。そんな感覚。
(ちがう……俺は俺だ。俺の意志でここにいる)
目を開いた。
目の前の空間が、歪んで見えた。
(いや、違う。“見せられてる”のか?)
立ち上がろうとした瞬間——
「春原さん」
声。
振り返ると、そこに“自分自身”が立っていた。
もうひとりの春原。
「やめておけよ。ここまで来て、真実なんて見ても意味がない」
「……幻覚か」
「違う。“導かれた意志”だ。お前はもう操作されてる。気づいてないだけで、ずっと前からな」
春原は額に手をやった。
心臓が異様な鼓動を刻んでいる。
「そんなはずはない……俺は……冷静に……」
「じゃあなぜ今、九条の香に“安心”している? なぜ、あの教義に“少しの納得”を覚えている?」
「それは……構造が理にかなってるから——」
「それが“最も危険”なんだよ!」
叫びが空間を揺らした。
もう一人の自分が、自分の肩を掴む。
「お前は、自分で思っているより、ずっと弱い。論理で武装してるだけで、根は空白だ」
「黙れ……」
「今、天野がどこにいるか、知ってるか?」
その言葉で、春原の顔色が変わった。
「天野……」
(感じろ。彼がいるなら、何かが……何かが“おかしい”)
春原は懐の通信端末を取り出した。だが、電波は届いていない。
(くそ……まさか)
彼は部屋を飛び出した。
だが扉を開けた先、香がさらに濃密に充満していた。
視界が揺れ、足元が不安定になる。
「……クソ……九条……お前……お前、どこまで……!」
そのとき——
“喉を押さえる音”
“崩れ落ちる音”
かすかに聞こえた。
春原の脳内に、焼き付くようにノイズが走った。
「やめろ……やめてくれ……!」
彼の中で、何かが壊れた。
香に呑まれる直前、彼は叫んだ。
「俺は! 操作なんかされない……っ、俺は……俺だ……!」
◆『仮面の葬送』
——導香の間、天野深夜の遺体の横で、春原礼司は静かに目を覚ました。
脳裏には、霞がかった夢のような記憶が揺れていた。胸の奥に重いものが沈んでいる。目を開けた瞬間、それが何なのか思い出した。
「……天野……?」
声は掠れ、呼吸とともに震えていた。
空気はまだ香の名残を漂わせている。甘く、微かに鉄のような匂い。
天野の体は動かない。首にくっきりと残る掴まれた痕。唇は、何かを言いかけて止まったような形に歪んでいた。
「違う……そんな……」
春原は膝をついた。震える指先が、恐る恐る天野の頬へと伸びる。
「生きてるわけ、ないよな……こんな……」
その手は途中で止まり、空を切った。
(俺は……何もできなかった。いや、それ以上に——)
記憶が断続的に蘇る。九条の姿。あの煙のように揺れる笑み。朱音の名前。短剣の冷たさ。
「俺は……見てただけだった。何も止められなかった……!」
遠くから、サイレンの音が聞こえ始める。それは警告の音ではなく、裁きの音のように響いていた。
◆『崩壊の転写』
黎祷の環・本堂。
九条瞬は最後の香を調香していた。机の上には、黒革の帳面、血痕の付いた短剣、そして香の設計図。
「これは……私にとって“過去”だ。構造としては完成していたが、もう私には……意味がない」
集められた信徒たちは沈黙のまま、彼の言葉を聞いていた。
「この帳面には、全てが記されている。殺害のための工程、心理の誘導法、香による暗示のタイミングと分量、記録者の観察と分類……」
九条はそれらをひとつの木箱に納めると、幹部たちの前に置いた。
「私はもう、“記録”しない。ここから先の“構築”はお前たちのものだ」
「……これは、遺産ですか?」
「違う。“遺棄”だ。私は観察者でも設計者でもない。ただの、器だった。だが、器は割れるべきだ」
「これで……我々は自由になるのですか」
九条は首を横に振った。
「自由などない。ただ、構造の責任が君たちに転写されただけだ」
そして彼は最後に言った。
「この香と記録が、君たちの“終わり”を導くのか、“始まり”となるのか……それすら、私はもう知るつもりはない」
◆『空洞の裁き』
——数日後。
警察の強制捜査により、《黎祷の環》は壊滅した。
本堂、地下聖堂、儀式の記録部屋、すべての区画から押収された品々。
儀式道具は血や香が染みつき、使用の形跡がはっきりと残されていた。
調香文書の中には、人の精神状態に応じた“個別配合表”があった。
そして“観察ノート”と呼ばれる帳面。
それは、九条瞬という人物の存在を立証し、同時に彼が“設計者”であった痕跡を最も鮮明に残していた。
——だが、九条本人の行方は、杳として知れなかった。
——拘置所。
春原礼司は尋問室にいた。手錠をかけられたまま、テーブルに座っている。
「あなたが目撃した人物、“九条瞬”の姿は?」
「……確かに見た。でも、それが現実だったのか、香に誘導された幻だったのか……今でも、わからない」
「あなたが手にした刃は、九条が用意したと?」
「ええ……だが、選んで振るったのは俺だ。あれは俺の手だった」
「ならば責任はあなたにある」
「ええ。……だが、後悔はしていない。あれは……俺の意志だった」
尋問官が黙ってメモを取る。
春原は壁の一点を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「俺は、あいつの“終点”じゃない。“始点”になる」
その言葉は、かすかに震えながらも、確かな芯を持って響いた。
そしてその目に、失われていた光が、ゆっくりと戻りつつあった。
——現在。
円形の部屋。天野と春原が“導香の間”に座してから、すでに五分が経過していた。
「……空気が、変わってきたな」
天野が呟いた。
「意識が……細かく振動してる。音じゃない、香の粒子が……内側に響いてくる」
春原も額に微かな汗を浮かべながら頷く。
「脳が外部からの“リズム”を探し始めてる。これは思った以上に危険だ」
そのとき、空間に音もなく現れたのは、ローブ姿の案内者とは明らかに異質な存在。
アカツチ・カイリ。
「ごきげんよう。“探求者”のおふたりへ、ようこそ《黎祷の環》へ」
低く、湿り気を含んだ声。天野は即座に身を固くする。
「……お前が、この教団の主か」
カイリは微笑を絶やさず、ゆっくりと香炉の中央へと進む。
「私はただ、香と共にある者。“導かれた者”と共に、均整の霧を歩いているだけです」
「均整……?」
「すべての感情と記憶に、余剰と不足があります。それを、香によって調律する。それが我々の祈り」
春原が食い気味に問い返す。
「ならば、その“調律”で人を殺すのか? 朝比奈透——彼の死も、お前の香の調律の結果か」
カイリはわずかに目を伏せた。
「彼は……境界に立っていた。私の香は、彼に選ばせただけです。選ぶ権利を与える——それが香の力であり、私の責務です」
「選ばせた? それは“誘導”じゃないのか!」
天野が立ち上がりかけた。
だが、香が急に濃くなる。鼻腔をついて、記憶の底に眠っていた“ある光景”が引きずり出された——妹が最後に残したノート、その中の言葉、静かな笑顔。
「っ……やめろ……!」
春原が天野を押さえる。
「落ち着け、香が作用してる。幻覚じゃない、“再構築”だ」
カイリは静かに言う。
「あなたが本当に知りたいのは、“誰が壊したか”ではない。“どうして壊れたか”でしょう?」
天野は歯を食いしばった。
「……その問いに、あいつはいつも“答えない”んだ」
カイリはふっと笑った。
「ならば、私がお見せしましょう。あなたの“終点”に向かう道を」
香が部屋を満たす。春原の目が鋭く細まる。
「こいつは……ただのカルトじゃない。“設計された迷宮”だ」
その時、彼の耳元に微かに、だが確かに響いた。
——“君は今、観察されている”——
春原の心臓が一拍、遅れて鳴った。
◆『設計者たちの静謐』
——同時刻、九条堂。
窓の外では雨が静かに降り続いていた。九条瞬は、香炉の炎を整えながら、帳面のページを一つめくる。
「春原と天野……導香の間に入ったか。予想より早いタイミングだ」
机の上には《黎祷の環》の内部設計図と、香成分の配合リストが広がっていた。
——その香は、記憶の奥底を再生する“再構築型幻香”。個人の“最も壊れた記憶”を中心に、感情を誘導する。
『君、ほんと優しいよね。“壊す”んじゃなくて、“自分で崩れさせる”設計にしてるんだから』
「介入せずに変化を見るのが、私の原則だ。選ぶのは常に、対象自身であるべきだ」
『でもそれって、ある意味で一番残酷じゃない? 自分の内側から崩れていくって……誰よりも深く傷つくやつだよ』
「誰かに壊されるより、自ら崩れるほうが、本質に近づける。自己認識こそが、観察の核心だ」
そのとき、机の端の通信香炉が淡く灯り始めた。
香の揺らぎを通して届いたのは、男の声——アカツチ・カイリだった。
「……聞こえるか、観察者。香は深く入り始めた。お前の望む“揺らぎ”は、もう始まっている」
「進行は予定より早いな。天野は強靭だ。だが、彼の“未処理の喪失”は構造を歪める起点になる。君はそれを“火種”にした」
「ふふ、彼の妹の記憶は見事だった。あれは——もう、儀式の器だ。何もしなくても、彼は“問い”に自ら落ちていく」
「君の教義は“装置”として完成した。だが、注意しろ。君がその中心にいる限り、君もまた“対象”に含まれる」
「……構わない。私はこの信仰を導く主ではない。私は“共鳴体”だ。香の中に身を投じ、そこで崩れるなら、それでいい」
九条の目が細くなる。指先が帳面の角を無意識に撫でていた。
「“共鳴”は崩壊の予兆にもなる。……君は、まだ観察の意味を誤解している。対象を揺らすために存在するのではない。……そこに“在り続ける”ために、観察者はある」
「ならば、お前はどうする? 観察者であり続けるには、どこまで沈む覚悟がある?」
「……では、私もまた“記録者”から“観察対象”へ、足を踏み入れる準備をしよう」
「面白い。お前が壊れる瞬間を、私も見届けよう」
通信香炉の煙がふっと消える。
九条は静かに立ち上がった。ゆっくりと空間を見渡し、深く息を吐く。
「香は、境界だ。だが、今日からそれを“内側”へ向けよう」
香炉の炎が、ゆっくりと紫へと変化していった。その煙は、かすかに九条自身の胸元へと引き寄せられていた。
◆『そして沈む影』
——導香の間。香が濃密に漂い、空間は外界との境界を完全に失っていた。
天野深夜の意識は、静かに沈んでいく。
(……俺は……ここで、何を……)
香の奥に、微かに揺れる記憶の灯火。
“お兄ちゃん、もし私がいなくなったら——”
——声。
妹の声だ。あの子の名は、天野 朱音(あまの あかね)。
(……ちがう、それは……それは、あの日——)
幻視が始まる。朱音の部屋。机の上のノート。白い光。誰かの背中。
「やめろ……やめてくれ……!」
天野は膝をつき、両手で頭を抱える。香が脳の奥まで入り込み、記憶を剥き出しにしていく。
——そのときだった。
「まだ、苦しいか」
九条瞬の声。
いつの間に現れたのか、九条がそこにいた。
香の煙の中から、まるで“現実”そのものを歪めて立ち現れた。
「お前……どうしてここに……」
「お前が、ここに“沈んだ”からだ」
「ふざけるな……お前が、俺を……ここに……」
天野が拳を握る。だが、体は動かない。意識だけが怒りと恐怖に震えていた。
「怒っているのか? 哀しいのか? それとも——」
九条の声が、急に熱を帯びる。
「お前の中に“生き残った罪”があるから、今も朱音の最期を、繰り返し見ているんだ」
「やめろ……っ!!」
天野が叫ぶ。
そして——九条が、歩み寄った。
その瞳には、理性でも憐れみでもない。混乱、興奮、絶望、そして何より——喜びすら混ざった“なにか”が宿っていた。
「君の“終点”を、この手で確認する。私は今、観察者ではなく、実行者だ」
その瞬間、九条は天野の首を素手で掴んだ。
「……あ……が……」
「これは……私が……なぜ、こんなに……」
九条の目が揺れる。狂気と困惑が入り混じる。
「感情……? 違う……これは何だ。これは……喜びか、恐れか、哀しみか……!? 理性が……答えない……」
天野の爪が、九条の腕を掴む。
しかし、その力は弱々しかった。
「お前が……っ、誰かを殺すだと……っ……!」
「殺している……私が、か……これは、記録できない。構造が……崩れる……!」
その手は、もはや“行為”ではなく“衝動”だった。
「私は……人間ではない。今、私は……怪物だ……」
天野の目から涙が一筋流れた。
「……朱音……ごめん……」
そして、体から力が抜けた。
九条はなおも天野の喉元を押さえながら、何かを確認するように、ただ、息を詰めていた。
「……これが……人を殺すという行為……私が……」
彼の口元が、微かに震えた。
それは、笑いか、恐怖か、自己否定か。もう誰にも、本人にすらも、わからなかった。
◆『意志の内乱』
——導香の間・別室。
春原礼司は沈香の渦の中で、ひとり目を閉じていた。
だが次第に、何かが自分の中で“ずれている”ことに気づく。
「……これは……俺の思考じゃない」
思考が、香のリズムに呼応して揺れている。
“心の奥に誰かがいる”。そんな感覚。
(ちがう……俺は俺だ。俺の意志でここにいる)
目を開いた。
目の前の空間が、歪んで見えた。
(いや、違う。“見せられてる”のか?)
立ち上がろうとした瞬間——
「春原さん」
声。
振り返ると、そこに“自分自身”が立っていた。
もうひとりの春原。
「やめておけよ。ここまで来て、真実なんて見ても意味がない」
「……幻覚か」
「違う。“導かれた意志”だ。お前はもう操作されてる。気づいてないだけで、ずっと前からな」
春原は額に手をやった。
心臓が異様な鼓動を刻んでいる。
「そんなはずはない……俺は……冷静に……」
「じゃあなぜ今、九条の香に“安心”している? なぜ、あの教義に“少しの納得”を覚えている?」
「それは……構造が理にかなってるから——」
「それが“最も危険”なんだよ!」
叫びが空間を揺らした。
もう一人の自分が、自分の肩を掴む。
「お前は、自分で思っているより、ずっと弱い。論理で武装してるだけで、根は空白だ」
「黙れ……」
「今、天野がどこにいるか、知ってるか?」
その言葉で、春原の顔色が変わった。
「天野……」
(感じろ。彼がいるなら、何かが……何かが“おかしい”)
春原は懐の通信端末を取り出した。だが、電波は届いていない。
(くそ……まさか)
彼は部屋を飛び出した。
だが扉を開けた先、香がさらに濃密に充満していた。
視界が揺れ、足元が不安定になる。
「……クソ……九条……お前……お前、どこまで……!」
そのとき——
“喉を押さえる音”
“崩れ落ちる音”
かすかに聞こえた。
春原の脳内に、焼き付くようにノイズが走った。
「やめろ……やめてくれ……!」
彼の中で、何かが壊れた。
香に呑まれる直前、彼は叫んだ。
「俺は! 操作なんかされない……っ、俺は……俺だ……!」
◆『仮面の葬送』
——導香の間、天野深夜の遺体の横で、春原礼司は静かに目を覚ました。
脳裏には、霞がかった夢のような記憶が揺れていた。胸の奥に重いものが沈んでいる。目を開けた瞬間、それが何なのか思い出した。
「……天野……?」
声は掠れ、呼吸とともに震えていた。
空気はまだ香の名残を漂わせている。甘く、微かに鉄のような匂い。
天野の体は動かない。首にくっきりと残る掴まれた痕。唇は、何かを言いかけて止まったような形に歪んでいた。
「違う……そんな……」
春原は膝をついた。震える指先が、恐る恐る天野の頬へと伸びる。
「生きてるわけ、ないよな……こんな……」
その手は途中で止まり、空を切った。
(俺は……何もできなかった。いや、それ以上に——)
記憶が断続的に蘇る。九条の姿。あの煙のように揺れる笑み。朱音の名前。短剣の冷たさ。
「俺は……見てただけだった。何も止められなかった……!」
遠くから、サイレンの音が聞こえ始める。それは警告の音ではなく、裁きの音のように響いていた。
◆『崩壊の転写』
黎祷の環・本堂。
九条瞬は最後の香を調香していた。机の上には、黒革の帳面、血痕の付いた短剣、そして香の設計図。
「これは……私にとって“過去”だ。構造としては完成していたが、もう私には……意味がない」
集められた信徒たちは沈黙のまま、彼の言葉を聞いていた。
「この帳面には、全てが記されている。殺害のための工程、心理の誘導法、香による暗示のタイミングと分量、記録者の観察と分類……」
九条はそれらをひとつの木箱に納めると、幹部たちの前に置いた。
「私はもう、“記録”しない。ここから先の“構築”はお前たちのものだ」
「……これは、遺産ですか?」
「違う。“遺棄”だ。私は観察者でも設計者でもない。ただの、器だった。だが、器は割れるべきだ」
「これで……我々は自由になるのですか」
九条は首を横に振った。
「自由などない。ただ、構造の責任が君たちに転写されただけだ」
そして彼は最後に言った。
「この香と記録が、君たちの“終わり”を導くのか、“始まり”となるのか……それすら、私はもう知るつもりはない」
◆『空洞の裁き』
——数日後。
警察の強制捜査により、《黎祷の環》は壊滅した。
本堂、地下聖堂、儀式の記録部屋、すべての区画から押収された品々。
儀式道具は血や香が染みつき、使用の形跡がはっきりと残されていた。
調香文書の中には、人の精神状態に応じた“個別配合表”があった。
そして“観察ノート”と呼ばれる帳面。
それは、九条瞬という人物の存在を立証し、同時に彼が“設計者”であった痕跡を最も鮮明に残していた。
——だが、九条本人の行方は、杳として知れなかった。
——拘置所。
春原礼司は尋問室にいた。手錠をかけられたまま、テーブルに座っている。
「あなたが目撃した人物、“九条瞬”の姿は?」
「……確かに見た。でも、それが現実だったのか、香に誘導された幻だったのか……今でも、わからない」
「あなたが手にした刃は、九条が用意したと?」
「ええ……だが、選んで振るったのは俺だ。あれは俺の手だった」
「ならば責任はあなたにある」
「ええ。……だが、後悔はしていない。あれは……俺の意志だった」
尋問官が黙ってメモを取る。
春原は壁の一点を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「俺は、あいつの“終点”じゃない。“始点”になる」
その言葉は、かすかに震えながらも、確かな芯を持って響いた。
そしてその目に、失われていた光が、ゆっくりと戻りつつあった。
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