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第1章:喪失
赦す者の復讐:俺がもっと強くなるまでは、そう長くはかからない
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雨が降っていた。
当然だ。空まで、この日を最悪にしようと決めたかのようだった。
エリアスは、安っぽい合板の棺桶に雨水がポタポタと落ちていくのをぼんやりと見つめていた。棺はゆっくりと地面に降ろされていく。取っ手は金属じゃなく、どこかのスーツケースから引っぺがしてきたようなプラスチック製。
これがアリアの棺だなんて。まるで…ただの粗大ゴミだ。
「塵は塵に、灰は灰に――」
神父が、何の感情もなく定型文を口にしていた。エリアスと同じくらい退屈そうな顔で。…まあ、こんな場面に何度も立ち会ってれば、そりゃあ飽きもするか。
エリアスは、穴の周りに立っている人々を数えた。十二人。アリアに別れを言いに来たのは、たったの十二人。ほとんどが近所の顔見知り。隣のアパートのガルシア夫人は、彼よりも大声で泣いていた。そして、あとは誰だか分からない人たち。きっと、無料の葬式に顔を出して、少しでも自分がマシに思えるようにしているだけの人たち。
たった十二人。世界でいちばん優しい少女のために。
神父が話すのをやめた。場に、奇妙な沈黙が流れる。みんなが、彼を見ている。
――ああ、次は自分の番か。
「僕は…えっと…」
言葉が出てこなかった。昨夜、あれほど頭の中で練習したはずなのに。アリアがどれだけ素晴らしい子だったか、勇敢だったか、こんなみじめな最期なんてふさわしくないって、ちゃんと言うつもりだったのに。
でも今、みんなの視線を浴びた瞬間、何も考えられなくなった。
「彼女は…バラの絵を描くのが好きでした。」
――なんだそれ。もっとマシなこと言えよ、エリアス。
「本物のバラを見たことはなかったんです。ただ…写真でだけ。だから、いつも絵に描いてました。」彼の声は、小さな子供みたいに震えていた。「赤いバラ、白いバラ、黄色いバラ…。アパート中、彼女の絵でいっぱいで。まるで…窓みたいだって言ってたんです…」
続きが出てこなかった。視界が滲み、喉が詰まって、呼吸すらうまくできない。
「もっと綺麗な場所に繋がる、窓だって。」
誰かが「アーメン」とつぶやいた。他の人も、それに倣って口をそろえる。そして、一人、また一人と立ち去っていった。「お悔やみ申し上げます」「きっと、今は良い場所にいる」そんな意味のない言葉と共に。
やがて、残ったのはエリアスとガルシア夫人だけだった。
「少し、一緒にいてあげましょうか、ミホ?」
彼は首を振った。アリアと二人きりでいたかった。最後の、たった一度だけでいい。
夫人は、足を引きずりながら去っていった。墓地の門がきしむ音が遠くで鳴り、それから訪れたのは――静寂。
雨が葉を叩く音と、遠くの街の低いざわめきだけが聞こえていた。
エリアスはポケットから、一枚の紙を取り出した。アリアが亡くなる三日前に描いた、最後の絵だ。赤いバラ。花びらは不揃いで、線も弱々しい。もうクレヨンを握る力すらなかったのかもしれない。その下には「エリアスへ」と、斜めに書かれた文字。
手元に残しておきたかった。でも、同時に――彼女と一緒に、持っていってもらいたかった。
彼は、棺の上に身を乗り出した。すでに土がかぶせられていた。墓掘り人たちは急いで埋めたらしい。さっさと終えて帰りたかったのだろう。
「はい、アリア。」
紙を手放す。雨風にあおられながら、それはふわりと舞い、やがて濡れた土の上に落ちた。インクは、すでに滲み始めていた。
彼は、墓の隣の地面に腰を下ろした。ズボンが濡れることなんて、どうでもよかった。どうせこれ一着しかないスーツだし、中古で買った葬式用のやつだ。もう二度と着ることもないだろう。
「クソ…アリア…。なんで、こんな…」
独り言なんて、もう気にもならなかった。
「どうすりゃいいんだよ…なぁ…。君がいないなんて、どうやって生きていけっていうんだよ…」
あの最後の会話を、彼はまだ覚えていた。彼女の口元に耳を近づけなきゃ聞こえないくらい、弱っていた時。
「エリアス…天国には、本物のバラ…あるかな?」
――なんて答えたんだっけ?
ああ、そうだ。
「たくさんあるよ、アリア。君のためだけの庭園がある。」
そして、彼女は微笑んだ。痛みだらけなのに、それでも彼を安心させようとして。
「私がいなくなっても…バカなことしないって、約束して?」
「…約束する。」
また、嘘をついた。彼女が逝ってから、もう何度もバカなことをしたし、きっとこれからもする。
彼は携帯を取り出して、彼女の写真を見た。多くはなかった。カメラ付きの携帯なんて高かったから。でも、いくつかだけはあった。舌を出してふざけるアリア。絵を見せて誇らしげなアリア。色鉛筆を握ったまま、ボロいソファで眠るアリア。
最後の写真では、彼女がどれだけ痩せていたかがはっきりと分かる。まるで壊れそうな小鳥みたいに、細くて脆かった。
あのヘリックスの連中が、殺した小鳥だ。
怒りが込み上げる。熱くて、馴染み深い感情。エリアスは拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
あいつらは知ってた。自分たちの薬なんか、効かないって。くだらない粉末を、絶望した家族に売って金を稼いでた。
子供たちが死んでいく間、あいつらは笑って金を数えてた。
今、アリアは冷たい土の中にいて、あいつらはふかふかのベッドで眠ってる。
「ぶっ潰してやる…」歯を食いしばりながら、呟く。「全員、ぶっ潰してやる…」
でも、心の奥では分かっていた。これはただの言葉。何ができる?金も力もない、ただの十六歳のガキが。
あいつらは、手の届かないところにいる。弁護士や、買収された政治家たちに守られてる。
彼は「誰でもない者」だった。価値なんてない。
アリアが、この世界では「価値がない」とされたのと、同じように。
当然だ。空まで、この日を最悪にしようと決めたかのようだった。
エリアスは、安っぽい合板の棺桶に雨水がポタポタと落ちていくのをぼんやりと見つめていた。棺はゆっくりと地面に降ろされていく。取っ手は金属じゃなく、どこかのスーツケースから引っぺがしてきたようなプラスチック製。
これがアリアの棺だなんて。まるで…ただの粗大ゴミだ。
「塵は塵に、灰は灰に――」
神父が、何の感情もなく定型文を口にしていた。エリアスと同じくらい退屈そうな顔で。…まあ、こんな場面に何度も立ち会ってれば、そりゃあ飽きもするか。
エリアスは、穴の周りに立っている人々を数えた。十二人。アリアに別れを言いに来たのは、たったの十二人。ほとんどが近所の顔見知り。隣のアパートのガルシア夫人は、彼よりも大声で泣いていた。そして、あとは誰だか分からない人たち。きっと、無料の葬式に顔を出して、少しでも自分がマシに思えるようにしているだけの人たち。
たった十二人。世界でいちばん優しい少女のために。
神父が話すのをやめた。場に、奇妙な沈黙が流れる。みんなが、彼を見ている。
――ああ、次は自分の番か。
「僕は…えっと…」
言葉が出てこなかった。昨夜、あれほど頭の中で練習したはずなのに。アリアがどれだけ素晴らしい子だったか、勇敢だったか、こんなみじめな最期なんてふさわしくないって、ちゃんと言うつもりだったのに。
でも今、みんなの視線を浴びた瞬間、何も考えられなくなった。
「彼女は…バラの絵を描くのが好きでした。」
――なんだそれ。もっとマシなこと言えよ、エリアス。
「本物のバラを見たことはなかったんです。ただ…写真でだけ。だから、いつも絵に描いてました。」彼の声は、小さな子供みたいに震えていた。「赤いバラ、白いバラ、黄色いバラ…。アパート中、彼女の絵でいっぱいで。まるで…窓みたいだって言ってたんです…」
続きが出てこなかった。視界が滲み、喉が詰まって、呼吸すらうまくできない。
「もっと綺麗な場所に繋がる、窓だって。」
誰かが「アーメン」とつぶやいた。他の人も、それに倣って口をそろえる。そして、一人、また一人と立ち去っていった。「お悔やみ申し上げます」「きっと、今は良い場所にいる」そんな意味のない言葉と共に。
やがて、残ったのはエリアスとガルシア夫人だけだった。
「少し、一緒にいてあげましょうか、ミホ?」
彼は首を振った。アリアと二人きりでいたかった。最後の、たった一度だけでいい。
夫人は、足を引きずりながら去っていった。墓地の門がきしむ音が遠くで鳴り、それから訪れたのは――静寂。
雨が葉を叩く音と、遠くの街の低いざわめきだけが聞こえていた。
エリアスはポケットから、一枚の紙を取り出した。アリアが亡くなる三日前に描いた、最後の絵だ。赤いバラ。花びらは不揃いで、線も弱々しい。もうクレヨンを握る力すらなかったのかもしれない。その下には「エリアスへ」と、斜めに書かれた文字。
手元に残しておきたかった。でも、同時に――彼女と一緒に、持っていってもらいたかった。
彼は、棺の上に身を乗り出した。すでに土がかぶせられていた。墓掘り人たちは急いで埋めたらしい。さっさと終えて帰りたかったのだろう。
「はい、アリア。」
紙を手放す。雨風にあおられながら、それはふわりと舞い、やがて濡れた土の上に落ちた。インクは、すでに滲み始めていた。
彼は、墓の隣の地面に腰を下ろした。ズボンが濡れることなんて、どうでもよかった。どうせこれ一着しかないスーツだし、中古で買った葬式用のやつだ。もう二度と着ることもないだろう。
「クソ…アリア…。なんで、こんな…」
独り言なんて、もう気にもならなかった。
「どうすりゃいいんだよ…なぁ…。君がいないなんて、どうやって生きていけっていうんだよ…」
あの最後の会話を、彼はまだ覚えていた。彼女の口元に耳を近づけなきゃ聞こえないくらい、弱っていた時。
「エリアス…天国には、本物のバラ…あるかな?」
――なんて答えたんだっけ?
ああ、そうだ。
「たくさんあるよ、アリア。君のためだけの庭園がある。」
そして、彼女は微笑んだ。痛みだらけなのに、それでも彼を安心させようとして。
「私がいなくなっても…バカなことしないって、約束して?」
「…約束する。」
また、嘘をついた。彼女が逝ってから、もう何度もバカなことをしたし、きっとこれからもする。
彼は携帯を取り出して、彼女の写真を見た。多くはなかった。カメラ付きの携帯なんて高かったから。でも、いくつかだけはあった。舌を出してふざけるアリア。絵を見せて誇らしげなアリア。色鉛筆を握ったまま、ボロいソファで眠るアリア。
最後の写真では、彼女がどれだけ痩せていたかがはっきりと分かる。まるで壊れそうな小鳥みたいに、細くて脆かった。
あのヘリックスの連中が、殺した小鳥だ。
怒りが込み上げる。熱くて、馴染み深い感情。エリアスは拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
あいつらは知ってた。自分たちの薬なんか、効かないって。くだらない粉末を、絶望した家族に売って金を稼いでた。
子供たちが死んでいく間、あいつらは笑って金を数えてた。
今、アリアは冷たい土の中にいて、あいつらはふかふかのベッドで眠ってる。
「ぶっ潰してやる…」歯を食いしばりながら、呟く。「全員、ぶっ潰してやる…」
でも、心の奥では分かっていた。これはただの言葉。何ができる?金も力もない、ただの十六歳のガキが。
あいつらは、手の届かないところにいる。弁護士や、買収された政治家たちに守られてる。
彼は「誰でもない者」だった。価値なんてない。
アリアが、この世界では「価値がない」とされたのと、同じように。
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