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第一話 春の肖像
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誰かが、私のことを天才だなんて呼んだ。絵には貴族から買い手がついたし、十七で国の芸術賞を取った。
――あの頃。
片目を失明するとか、私が「呪われた画家」として疎まれるようになるとか、そんなことは想像していなかった。
***
カーテンから柔らかい日差しが差し込んで、アトリエの空気はうたた寝しそうなくらい暖かい。広い庭からは小鳥の囀りが聞こえる。そんな穏やかな午後――私は一人キャンバスに向かって、死に物狂いで筆を走らせていた。
青ベースの背景に、白い絵の具を大きく置く。細筆に切り替えて、作ったばかりの黄色を薄く乗せていく。春にしか咲かない、小さな黄色い花。キャンバスの中で花びらを咲かせ、ほのかな優しさをまとわせる。
テンポよく、そしてとにかく早く。筆を動かしていると、自分がどこにいるのかすら忘れてしまいそうになる。筆先の黄色が少し白みがかって、境界がいい感じにぼやけて――。
「ルリネ、いるかな?」
玄関のベルが大きな音を立てて鳴り、それと同時に低い声が私を呼んだ。思わずぎょっとして時計を見ると、もうアトリエに籠ってから五時間も経っている。
午後三時……そういえば、約束の時間だった。
「はい、います!」
パレットや油壷を横にどかし、急いでシャツを着替える。ばたばたと音を立てて廊下に出たら、一目散に玄関へ。
「こんにちは、アウリス様。遅れて申し訳ございません」
扉を開けた先にいたのは、目を惹く青い貴族服をまとった男性――アウリス・アムレート様だ。アウリス様は私を見るなり、その長い睫毛を伏せて微笑む。肩まである白い髪は軽く風になびいて、青い瞳は水面みたいに澄んでいる。この人を見ていると、キャンバスから出てきたみたいだなぁ、なんて思ってしまう。こんなに綺麗な輪郭を思うように描けたら、きっといい絵になるんだろうな。
「大丈夫だよ。また絵を描いていたんだろう、焦らせてしまってごめんね」
落ち着く声と穏やかな表情に、周りの貴族から人気だなんて噂にも納得してしまう。彼は私と四歳差、まだ二十三歳。それでこんなに大人の余裕があるなんて、貴族社会ってやっぱり大変なんだろう。
ただ、人間誰しも欠点はある。
「……なんで絵を描いてたって分かったんですか」
「あはは、君は本当に可愛いね。綺麗な髪が汚れていたら、誰でも目についてしまうだろう?」
平気でそういうことをおっしゃるのが、アウリス様の良くないところだ。私が嫌そうな顔をしているのを確認して、彼はまた笑いを堪えきれなくなっている。いつもいつも、この人はこうやって愉悦に浸っている気がする。
「……鏡を見てきます」
待っているね、という声をあとに洗面台へと急ぐ。鏡に映った私の水色の髪は、見事に黄色い斑点で彩られていた。……なんだろう、この恥辱は。
絵の具を落とした後、来客用の部屋でアウリス様と向かい合う。
何を隠そう、この家自体も彼から借りているものだ。
――アウリス・アムレート。有力貴族である彼は、私のパトロンである。
一見完璧でも少し胡散臭いこの方に、最初は気を許すことができなかった。
私の絵が売れるようになって、孤児院から出られるようになったあと。彼と出会ったのは、学生美術展の会場だった。毎回私の絵を褒めてくれるアウリス様とはよく話すようになり、いくつか依頼ももらった。
芸術賞をもらったあと、私は仕事として肖像画の注文を受けることにした。貴族や商人、それから仲の良い友達の家族まで。たくさんの契約書と一緒に、将来の可能性だって広がっていく気がした。
最初の依頼の真っただ中、完成間近の肖像を小脇に抱えていた帰り道。
通り魔に遭った私は、見知らぬ人物に呪いをかけられた。
――呪文とともに杖を突き付けられた右目は、白くなってもう完全に見えない。
最初の依頼主である貴族はそれに怒って、私を解雇した。「呪われた画家め」と吐き捨てられた私に、たまたま交渉のため屋敷に来ていたアウリス様がこう言った。
「――そこまでにしてください。ルリネ・プリュネルは僕の画家です」
***
「さて、今後の依頼について説明するよ。ルリネが次に向かうのは、僕の友達の屋敷だね」
アウリス様から地図を受け取り、ゆっくりと開く。赤い丸で囲われた屋敷は相当大きく、かなりの貴族が住んでいることが見て取れた。
「お友達、ですか。どんな関係で?」
「まあそうだね――悪口を言ったり言われたり、ってところかな」
それって本当にお友達なんですか、と口走ると、アウリス様はまた楽しそうに笑いを零した。
「友達とは言ったけれど、仲良しとは言っていないからね」、らしい。どういうことだろう。
「それはそうと、君の近況を聞きたくてね。最近はどうだい?」
「そうですね……絵は少し調子が戻ってきました。依頼はこなさないといけないですし、いつまでもくよくよしているわけにはいかないので」
「偉いね、さすが僕の画家だ」
「それまだ言うんですか」
私は呪いを解かなければいけない。
信頼してくれる人のために、自分自身のために。
アウリス様を見送ったのち、またアトリエの扉を開ける。油絵の具の匂いと、大量に積まれたキャンバスやスケッチブック。
筆を握りなおして、新しく一本赤い線を引く。
――どんな困難があったって、私は負けない。
――あの頃。
片目を失明するとか、私が「呪われた画家」として疎まれるようになるとか、そんなことは想像していなかった。
***
カーテンから柔らかい日差しが差し込んで、アトリエの空気はうたた寝しそうなくらい暖かい。広い庭からは小鳥の囀りが聞こえる。そんな穏やかな午後――私は一人キャンバスに向かって、死に物狂いで筆を走らせていた。
青ベースの背景に、白い絵の具を大きく置く。細筆に切り替えて、作ったばかりの黄色を薄く乗せていく。春にしか咲かない、小さな黄色い花。キャンバスの中で花びらを咲かせ、ほのかな優しさをまとわせる。
テンポよく、そしてとにかく早く。筆を動かしていると、自分がどこにいるのかすら忘れてしまいそうになる。筆先の黄色が少し白みがかって、境界がいい感じにぼやけて――。
「ルリネ、いるかな?」
玄関のベルが大きな音を立てて鳴り、それと同時に低い声が私を呼んだ。思わずぎょっとして時計を見ると、もうアトリエに籠ってから五時間も経っている。
午後三時……そういえば、約束の時間だった。
「はい、います!」
パレットや油壷を横にどかし、急いでシャツを着替える。ばたばたと音を立てて廊下に出たら、一目散に玄関へ。
「こんにちは、アウリス様。遅れて申し訳ございません」
扉を開けた先にいたのは、目を惹く青い貴族服をまとった男性――アウリス・アムレート様だ。アウリス様は私を見るなり、その長い睫毛を伏せて微笑む。肩まである白い髪は軽く風になびいて、青い瞳は水面みたいに澄んでいる。この人を見ていると、キャンバスから出てきたみたいだなぁ、なんて思ってしまう。こんなに綺麗な輪郭を思うように描けたら、きっといい絵になるんだろうな。
「大丈夫だよ。また絵を描いていたんだろう、焦らせてしまってごめんね」
落ち着く声と穏やかな表情に、周りの貴族から人気だなんて噂にも納得してしまう。彼は私と四歳差、まだ二十三歳。それでこんなに大人の余裕があるなんて、貴族社会ってやっぱり大変なんだろう。
ただ、人間誰しも欠点はある。
「……なんで絵を描いてたって分かったんですか」
「あはは、君は本当に可愛いね。綺麗な髪が汚れていたら、誰でも目についてしまうだろう?」
平気でそういうことをおっしゃるのが、アウリス様の良くないところだ。私が嫌そうな顔をしているのを確認して、彼はまた笑いを堪えきれなくなっている。いつもいつも、この人はこうやって愉悦に浸っている気がする。
「……鏡を見てきます」
待っているね、という声をあとに洗面台へと急ぐ。鏡に映った私の水色の髪は、見事に黄色い斑点で彩られていた。……なんだろう、この恥辱は。
絵の具を落とした後、来客用の部屋でアウリス様と向かい合う。
何を隠そう、この家自体も彼から借りているものだ。
――アウリス・アムレート。有力貴族である彼は、私のパトロンである。
一見完璧でも少し胡散臭いこの方に、最初は気を許すことができなかった。
私の絵が売れるようになって、孤児院から出られるようになったあと。彼と出会ったのは、学生美術展の会場だった。毎回私の絵を褒めてくれるアウリス様とはよく話すようになり、いくつか依頼ももらった。
芸術賞をもらったあと、私は仕事として肖像画の注文を受けることにした。貴族や商人、それから仲の良い友達の家族まで。たくさんの契約書と一緒に、将来の可能性だって広がっていく気がした。
最初の依頼の真っただ中、完成間近の肖像を小脇に抱えていた帰り道。
通り魔に遭った私は、見知らぬ人物に呪いをかけられた。
――呪文とともに杖を突き付けられた右目は、白くなってもう完全に見えない。
最初の依頼主である貴族はそれに怒って、私を解雇した。「呪われた画家め」と吐き捨てられた私に、たまたま交渉のため屋敷に来ていたアウリス様がこう言った。
「――そこまでにしてください。ルリネ・プリュネルは僕の画家です」
***
「さて、今後の依頼について説明するよ。ルリネが次に向かうのは、僕の友達の屋敷だね」
アウリス様から地図を受け取り、ゆっくりと開く。赤い丸で囲われた屋敷は相当大きく、かなりの貴族が住んでいることが見て取れた。
「お友達、ですか。どんな関係で?」
「まあそうだね――悪口を言ったり言われたり、ってところかな」
それって本当にお友達なんですか、と口走ると、アウリス様はまた楽しそうに笑いを零した。
「友達とは言ったけれど、仲良しとは言っていないからね」、らしい。どういうことだろう。
「それはそうと、君の近況を聞きたくてね。最近はどうだい?」
「そうですね……絵は少し調子が戻ってきました。依頼はこなさないといけないですし、いつまでもくよくよしているわけにはいかないので」
「偉いね、さすが僕の画家だ」
「それまだ言うんですか」
私は呪いを解かなければいけない。
信頼してくれる人のために、自分自身のために。
アウリス様を見送ったのち、またアトリエの扉を開ける。油絵の具の匂いと、大量に積まれたキャンバスやスケッチブック。
筆を握りなおして、新しく一本赤い線を引く。
――どんな困難があったって、私は負けない。
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