胡蝶、泥の夢

音﨑@もち

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Ⅰ.優しくて寂しい君

黄昏、母と子

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「そっか、仕方ないわよね。お父様、お母様、大丈夫よ。」
そう言って微笑んだハンナを、両親は泣きながら強く抱きしめた。
「ああ……ハンナ……!」
ごめんね、ごめんねと繰り返す母につられて泣きそうになって唇が震える。けれど、懸命に笑顔を作った。
「何があるのかわからないけれど……きっと、上手くやるわ。」
その姿を見た父は眉を下げた。
「ハンナ……。お前は周りを思いやれる、いい子に育ってくれたね。……でも、親にまで気を使う必要はないんだよ。」
そう言われたとたん、ハンナは喉の辺りのつっかえがなくなり、堰を切ったように泣き出した。
「お父様っ、お母様……!嫌よ、こわい……!」
両親は滅多に見ないハンナの辛さに心を締め付けられ、悔しさを噛み殺しながら優しく抱きしめていた。



貴族の娘を、10歳になったら帝国に差し出せ____。
そんな命が王から出されたのは、5年前のことだ。
強大な力を振りかざす王室に、貴族すらも逆らえず、娘を差し出すしかないのだという。
巷では、帝都郊外の高い壁に囲まれた謎の施設に差し出された娘は連れて行かれるという噂がまことしやかに囁かれている。
両親はハンナが知ることのないように、色々と手を回していたようだが、領民は誰でも知っている噂。ハンナの耳に入らないようにすることは、不可能だった。

たまたまその話を知ったのは初夏、曇りの日だった。
「お嬢様ももう10歳になられるのですって。あんなに心優しくて賢い子、素敵な淑女レディに成長されるでしょうねぇ。どうにかしてあげたいものだけど……。」
「……あの王様の言うことだから仕方ないのよ。貴族でさえ抗えないと言うし。
お嬢様の成長する姿、見たかったけれど……寂しくなるわね。領主様にはお嬢様しかお子様がいないし……。どうなってしまうのかしら。」
ドミニクの家の近く、パン屋のおばさんの家の前で聞こえてしまった話。ハンナはその場で凍りつき、影から耳をそばだててしまった。しばらく立ち聞きしていると、なんのことを話しているのか分かった。分かってしまった。
なぜだか誰にも話せずに、秋まで一人で抱え込んでしまった。



両親に話をされてから、ハンナは一人で過ごしたいと言って屋敷の裏手から出て行くことが多くなった。誰かといると、着々と迫る春を思い起こしてさらに絶望を深くするようだった。これ以上、思い出をつくりたくなかった。
裏手から出ると、屋敷の美しい庭園が広がっているがそれには目もくれず、曲がって屋敷の横、芝生を突っ切り、木の柵の戸を開けて出る。
向日葵は屋敷の前方にだけ咲いており、後ろには林がある。
林に入り、あるかどうかもわかりにくい小道を行く。ハンナの足どりに迷いはなかった。夏も終わり秋に近づき、柔らかくなり始めた日差しが木の葉に透けて、優しい影を落としている。
少しすると開けた場所に出た。

小さな庭園が、そこにはあった。
____息を呑む程美しい庭園が。

ちょろちょろと人工の細い川が流れ、そこに小さな橋が架かっている。色鮮やかな花々が咲き乱れ、心地よい香りが満ちている。
ハンナは顔をほころばせた。いつ、何度来ても、ここはとても綺麗で、落ち着く。
ここは、ハンナのための秘密の庭園だった。5歳の誕生日を迎えたとき、両親からプレゼントされたのだ。
誰も知らないハンナだけの秘密の庭よ。すてきでしょう?と母が微笑んだのを覚えている。
小川に架かる橋を渡り、庭園の奥、白い柱に群青色のドーム型の屋根をした東屋に入る。ここはこの庭園でも特にお気に入りの場所だ。読書をしたり、お昼寝をしたり。母と父と3人でお茶をしたこともあった。
腰掛けて、ふう、とため息をつく。
もうすぐ、ハンナの誕生日だ。10歳を、迎えてしまうのか。
膝を抱えて、顎を膝に乗せる。
「……時は流れ行くもの。私のためだけに止まってはくれないわ。____誰のためにだって。そうやって、廻っていくのだわ。」
目を閉じ、ゆらゆらと前後に揺れながら、自分に言い聞かせる。
そう。こうして、うじうじしている間にも時間は流れていくのだ。無駄にしてはいけない。正しくも、どこか寂しげな考えだ。
分かっているはずなのだが、どうしていいか分からない。それがたまらなく悔しい。
ごろんと横になって、庭を眺める。ああ、そういえばもうすぐ薔薇の季節か。誕生日の頃には綺麗だろうなぁと思って、ハンナは目を閉じた。

柔らかくて温かい手が、頭を撫でている。あぁ、好きな歌を優しい声が歌っている。なんて心地良いのだろう。
ハンナはとても幸せな気分で目を覚ました。母の膝の上で眠っていた。
「……お母様」
母は、それに気がついたものの歌うのはやめずに、にこにこと笑っている。
もう、夕暮れだった。秋にもなると肌寒い。
オレンジ色がかった庭は、寂しげにも暖かにも見えた。
筆で描いたかのような雲が闇色に染まって流れていく。

歌い終わると、母はしばらく黙ってハンナと同じように空を眺めていた。
旋律の消えた庭は、急に温度がなくなったようで、ハンナは虚無感と寂しさが押し寄せるのを感じた。
「……ハンナ」
母は目を閉じて、一呼吸おいてから語りかけた。
「あなたの名前の意味を知っている?」
「ううん、知らない」
身を起こして母を見つめる。優しげで、真面目さをたたえた、森のような色の瞳にハンナは吸い込まれそうな感覚になる。
「神の恩寵、という意味よ」
「おんちょう……?」
ハンナが首を傾げると、ええ、と微笑んで頷く。
「神様の愛や、恵みのことよ。
あなたは神様が恵んでくださった、大切な娘だからね。そして、あなたの生きる道に神様の愛がたくさん降り注ぎますように、と願いを込めたのよ。」
母が何を言わんとしているのか、ハンナにはわかった。
「……うん」
「____最初は本当に申し訳なくて、あなたは貴族なんかより、庶民の家に生まれたほうが幸せだったんじゃないかって思っていたわ。だから、なんとか国にばれないように養子に出そうとしたこともあったの。
でも、私たちはそこまで強くなれなかった。ただのわがままだわ。少しでも一緒にいたかった。我が子の一番の幸せを願わなければならないのに……。」
そこまで言って顔を覆ってしまった母に、ハンナは自分がどれだけ愛されているのか知った。
ああ、私はこんな親のもとに生まれて、こんなに愛されて、本当に幸せだ。
「試練は、それを乗り越えられる者にしか訪れないというわ。だから、前向きにならなくちゃよね。親なんだから、もっと頼れるようにならないと。
ハンナ。その名の通り必ず、必ず。神様の愛が注ぐ日がくるわ。」
強く頷いたハンナの手を取って、庭を出て歩き出す。
「私、お母様のところに生まれて幸せよ。……こんなに愛されているのだもの」
母は小さく開けた口を震わせて、目を潤ませる。
「ああ、もう……本当に、もう……やだわ」
ついに泣き出してしまった母にハンナは眉を下げた。
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