灰の翼は自由を知らない

悠・A・ロッサ

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第二章 風を抱いて

第26話 沈黙の背中、風の名をして

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引っ越しの前夜だった。晩飯を買いに出ただけのつもりだった。
東都の仮拠点から数分。人気のない裏通り、深夜営業のコンビニの帰り道。
手には簡素なビニール袋、頭は別のことでいっぱいだった。

だから、その声は、ほんとうに不意を突いてきた。

「ふらふらしてると、また襲われるぞ」

晃は立ち止まり、振り返る。
街灯の下、出雲がいた。どこかの闇から滑り込んできたような気配だった。
薄手のスーツ。眼鏡の奥の目は、あいかわらず読めない。

「……また、お前が助けてくれるんじゃないのか」

皮肉混じりに言うと、出雲はわずかに口元を動かした。

「気まぐれに期待するな。……この前は例外だ。二度目はない」

冗談にも、警告にも聞こえた。だが晃はそれ以上言わなかった。

「何の用だ」

出雲は無言で、薄いケースを差し出してくる。

「SSDに苦労しているらしいな。復号キーだ。あとは関連施設の情報と南市中央医療センターのIDパス。警備の盲点も含めてある。期限は一週間だ」

晃はすぐには手を伸ばさなかった。

思わず、目を見た。

(……本気で、助けるつもりなのか?)

出雲は、何も言わずに立っていた。
街灯の下、その輪郭だけが妙にくっきりと見えた。

「……協力、ってことでいいのか?」

出雲は答えなかった。
そのまま、ケースを晃の胸に押しつける。

「名を出すな。それだけだ」

街灯の光が、出雲の眼鏡に反射する。
その奥の目は、ほんの一瞬だけ揺れていた。

迷いだ──晃は、そう思った。
この男が、何をどこまで背負っているのかは分からない。
それでも、今この場に立ったという事実だけは、信じてもいい気がした。

「蒼風は動いている。それにお前が加われば──あるいは、風向きは変わるかもしれない」

出雲が踵を返しかけたとき、晃は問いを投げた。

「お前はどうするんだ。また、切り捨てるだけなのか?」

足音が止まる。
出雲は振り返らなかった。
少しだけ、沈黙があった。

「……さあ、どうかな」

その声に、晃は息を呑んだ。
あいつは、あいつなりに揺れている。
変わることを恐れているのか、それとももう、戻れないと思っているのか──

(もし、どちらを選ぶとしても…)

晃は、胸の奥でそうつぶやいた。
お前の選択を、俺は見届ける。
たとえ、それがまた──切り捨てる側に立つとしても。

それを感じたのか、出雲は無言で背を向けた。
言葉の代わりに、足音だけが静かに遠ざかっていく。

晃は手に残されたケースを見つめた。
その重みは、なぜか少し、温かかった。

***

列車の揺れは穏やかだった。
晃は窓際の席に背を預け、遠ざかる東都の景色を黙って見ていた。

隣には沙耶がいた。
彼女は車窓の外に広がる朝焼けを見つめていたが、ふと気づいたように晃の横顔に目を向けた。

「……少しは、眠れた?」

晃は首を横に振った。

「いや……出雲の顔がちらついて、無理だった」

沙耶は苦笑した。

「お兄ちゃん、出雲さんのこと好きだよね」
「そうなのか……?そうかもな」

短いやり取りの後、ふたりはまた黙った。
でもその沈黙は、昨夜までのものとは違っていた。

互いの中に、それぞれの決意と痛みがあることを知っている。
それを確認するだけの、静かな時間だった。

出雲の背中が脳裏に浮かんだ。蒼風、奏、沙耶──それから、名前も知らない人々の声が、いくつも頭の中で反響する。思い出すのは、言い返せなかった一言や、握った手の震え。ひとつずつが重く、まだ胸のどこかで焼けている。

ここから先は、もう戻れない。
それでも行くしかない。そう決めたのは、自分だ。

ふと、誰かの視線を感じた。
斜め前の座席──そこに、奏がいた。
コートの襟を軽く立て、こちらを見ている。

「……また、監視ですか」

晃は皮肉っぽくそう言った。
奏は少し間を置いて、ゆっくりと頷いた。

「そうね。それが私の任務だった」

晃は隣の沙耶に軽く目配せした。
沙耶はわずかに頷いた。それだけだった。
晃は席を立ち、無言の了解を受け取るように、奏の隣に腰を下ろした。

「その任務が、どれだけ人を傷つけたか分かってますか」

晃の声音は鋭かった。抑えていたものが堰を切ったように、言葉の奥に怒りが滲んでいた。

「妹が、沙耶が、どんな目に遭ったか──あなた、知ってますか?」

その声に、奏は明らかに息を詰まらせた。
口を開きかけて、言葉が出ない。
わずかに視線を落とし、声もなく肩が震えた。

「……そうね。でも……私のせいで、晃くんも、沙耶ちゃんも、そして、密告によって矯正施設に送られたまま、帰ってこられなかった人がいたかもしれない。灰翼にいた、命を落とした子も……もしかしたら。……償いきれることではないと思ってる」

晃はその言葉に、しばらく黙っていた。

奏の声は震えていた。
自分の罪が、どれだけの命に影を落としたかを、自分の口で語っている。

その姿に、怒りと困惑がせめぎ合った。
許すには重すぎる。
けれど、目の前にいるのは、逃げずに向き合おうとしている人間だった。

晃は拳を握ったまま、言葉を探していた。

どうしようもなさの中で、人は誰かを裏切り、誰かにしがみついて、それでも生きようとする。
彼女もまた、そのひとりだった。

人間の弱さが、ひどく悲しかった。
けれど同時に──その弱さを、ここまで抱えて話す姿に、何かが揺さぶられていた。

「……どうしようもなかったって、言いましたよね」
「……ええ」
「なぜ? 家族のことで脅された?弱みでも握られたんですか?」
「……全部よ。四年前、カナンからの留学生と、不適切な関係を持った。それから、従わなければ家族が壊れると…」

晃は息を呑みかけたが、すぐに目を伏せた。

「……軽蔑するわよね。分かってる。私は──」
「……裏切られたってわかって、悲しくて、沙耶があんな目にあって、めちゃくちゃ腹が立った。だけど──俺は、あんたを裁ける立場じゃない。同じだから」

その一言に、奏が目を見開いた。

「正しくありたいのに、そうできない辛さは……俺も、ずっと味わってきたから」

晃は目をそらさずに言った。

「それに、あの時、救ってくれたのは──あなただった」

奏は、ほんの一瞬だけ笑おうとしたが、すぐに俯いた。
肩がわずかに震えていた。

「……ごめんなさい…ありがとう」

かすれた声だった。
それは、安堵でもない。ただ、ようやく呼吸を取り戻すような、弱い息だった。

晃はそれを見届けると、静かに立ち上がった。

彼の席に戻る前に、もう一度だけ、奏の隣に視線を落とした。

「……許したわけじゃない。でも、わかってます。俺は、あなたを見ている」

列車を降りたあと、奏はスマートフォンを見つめていた。
何かを打ちかけては消し、また打って──小さな躊躇が、画面の中に浮かんでは沈んでいく。

「……私にできることなんて、たぶん、ほんの少し」

誰にも届かないかもしれない。でも、それでもいい。
沈黙の向こうにいた人たちの声を、今度は、自分の言葉で繋ぎたい。

やがて、投稿ボタンが押された。
 
《私は知っています。施設の中で、何が行われていたのか──》
《そして、誰かが誰かを監視しなければならなかったあの空気の中で、どれだけの関係が壊れたかも──私は、忘れない》

数日後、南市の内情を暴露するその投稿は、静かに、けれど確実に波紋を広げ始めた。
最初は小さな声だった。誰かの引用、誰かの「いいね」、誰かの共鳴──それが、目に見えぬ流れとなり、じわじわと世論の地層を揺らしていく。

投稿者の名は、「@朱霞(あすか)」。
誰も知らないその名前が、やがてこの国の運命を変えるひとつの導火線になるとは、まだ誰も気づいていなかった。

***

その夜、静かな書斎の片隅で、一人の男がその投稿を見つめていた。

「……沈黙の中に、火が灯りだした」

蓮見瑛士──通称・蒼風。
かつては政治の中枢にいた男。だが、権力に取り込まれ、仲間を切り捨ててきた過去がある。
彼の脳裏に、あのときの光景が浮かぶ。
まだ若かった官僚が、記者会見で「言葉で人は変えられる」と語った翌週、その男は左遷された。蓮見は何も言えなかった。会見の原稿を見ていたのに、止めなかった。いや──止められなかった。

ただ、彼の退庁の背中を、誰にも言えずに見送るしかなかった。
 
(あのとき、言葉を信じきれなかったのは……俺のほうだった)

それから彼は『蒼風』の名で書き続けた。
誰にも届かないと知りながら、それでも言葉をやめなかった。
カナンに呑まれかけたこの国で、まだ『言葉』が通じる可能性を信じる、数少ない人間だった。

彼は黙って椅子を引き、端末に指を走らせた。
データの断片、選挙資料、ネットワーク図──全てが揃っていく。

「選挙と証拠があれば、まだ覆せる。……そう信じたい」

窓の外で、風が揺れる。
誰にも知られず、誰にも求められず、
それでもなお、火を受け継ぎ、広げる覚悟があった。

そして次の瞬間──彼は『拡散』を選んだ。

──風は吹いた。言葉が、国を揺らす音を連れて。

※この作品はライト文芸大賞にエントリー中です。

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5月末に完結予定で、毎日更新します。

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