21 / 43
20
しおりを挟む獣人旅館は静寂な闇に包まれていた。
歩くには行燈の灯りだけが頼りで、リュウの部屋から出た僕は、おずおずと廊下を歩いている。ひとりぼっちだと、なんだか心細い。
「イナリに迎えに来てもらえばよかったな……」
ここは魔界だ。
バケモノが現れたらどうしよう。
そう思い、僕はぶるっと肩を振るわせた。
それでも、リュウから人間界に帰る許可が下りたので、どうしたって運ぶ足も速くなる。
「うぅ、怖い……さっさと帰ろう」
そうぼやきながら、僕はロビーに足を踏み入れると受付に手を置いた。
だが、イナリの姿はない。
おや、どこにいったのかな?
と思い、首を振って辺りを見回す。
やはり、誰もいない。
「おかしいな」
首を傾けていると……。
ぴょん、と受付に小柄な動物が飛び乗ってきた。
「わあぁ!」
思わず、僕は叫んだ。
心臓が飛び跳ね、でーんと尻餅をついてしまう。
「イテテ……」
すると小動物は、コンコンと笑う。
聞き覚えのある声だった。男なのにお姉さんのような口調でしゃべる狐人。
「え? あなた、イナリなの?」
「はい。びっくりさせて申し訳ありません、アヤ様」
なんと、イナリは子ぎつねになっていた。
黄金色のモフモフとした皮毛、大きな尻尾にツンとした耳、それに愛くるしい目を細め、僕のことを見つめている。
「なんだイナリか……でも、なんで狐に?」
「もともと私は狐なんです。深夜零時を回りましたので、一度、元の姿に戻り、コンディションを整えていたのです。妖気も蓄えたいですからね」
「ふぅん、なんかよくわからないけど、すごいな」
コンコン、と笑うイナリは、喉を震わせるように話した。
「ところでアヤ様。人間界に帰っても良いと、リュウ様は許可してくれましたか?」
「うん、自由にしていいって。あと、また召喚してほしいならイナリに頼めといっていた」
「おお、それはおめでとうございます」
「あんまり嬉しくないけど……」
「リュウ様は、アヤ様のことを好きになったみたいですねえ。ああ、やれやれ、男を召喚した時はどうなることかと思いましたが、やはり私の目に狂いはなかった。アヤ様の先祖はおそらく……」
言葉を切るイナリは、くるっと横を向いた。もふっとした金色の尻尾を踊らせて、
「いや、やめておきましょう……」
と、やけに無情なことをいった後、さらにつづけた。
「アヤ様は人間界に帰還したら、もう二度と獣人旅館には召喚してこないでしょうから、ルーツを教えたところで無用なことですね……」
うーん、と僕は思案してから、いや、といって首を振った。
「また来てもいいけど」
僕の答えを聞いた瞬間、イナリは軽快に跳ねて喜んだ。
予想外の幸運なのか?
期待通りの展開なのか?
彼の心境は定かではないが、どちらにしても、僕はイナリの手のなかで踊っているような、そんな錯覚があった。
「本当ですか?」イナリは訊く。
「うん」
「ありがとうございます。では、召喚してほしいときは、そうですね。またあの仏間でお参りしてください」
「わかった」
コンコン、とイナリは目を細めて笑う。その仕草が可愛らしい。
「では、祭壇にて魔法陣を描きますゆえ、しばらくここでお待ちください」
「わかった」
「決して覗いてはいけませんよ……」
「なにそれ? 鶴の恩返し? いや、狐か」
コンコン、と笑うとイナリは、ぴょんと受付から飛んだ。
着地する姿は、獣の特性を活かした柔軟性があってかっこいい、ずっと狐の姿でもいいのに。
「ふぅ……これで帰れるな……」
ロビーで待たされた僕は、とりあえずソファに座る。
ふと、壁に掛けられた水墨画を見つめた。
墨で描かれた竜が、爛々と瞳を輝かせ、天空に舞う。
「まさか、これがリュウの真の姿なのか?」
好奇心が湧きあがる僕は、導火線に火がついたように駆け寄ると、まじまじと鑑賞した。
「すごい……」
水墨画の大きさは、縦は二メートル、横は一メートルほど。
山河と朧雲のなかに竜が舞う、黒と白で表現された芸術の世界。墨の濃淡、ぼかされたグラデーション、走る筆の強弱が、繊細かつダイナミックな印象を与える。
静寂のなか、ふと隣にあった本棚に目を移す。
重厚感のあるアンティークな本棚だった。
ロビーの待合で時間潰しのため、用意されているのだろう。
並べられている小説は、どれも古書だ。
一冊抜いて、読んでみる。
芥川の作品だった。
ぱらっと最後のほうまでめくる。
発行日を見て驚いた。一九二〇年と載っているではないか。
さらに頁をぱらぱらとめくっていく。
すると、はらりと一枚の紙片が落ちた。
「なんだろう?」
はっとした僕はセピア色の紙を拾い、折り目を開いて読んだ。
親愛なるリュウ様へ
召喚して頂き、ありがとうございます。
初めのころは、戸惑ってばかりでしたが、
あなたに愛されれば、愛されるほど、
もっと獣人旅館に居たい思いが強くなります。
ですが、私は人間界に帰らなければいけません。
許嫁がいるのです。
近々、婚礼が控えております。
お許しください、リュウ様。
それでも、また召喚してくださるのでしたら、
私は心からあなたに奉仕します。
この手記は読まれなくも、別にいいのです。
ただ、私がいたことを残したくて、小説に挟みます。
私は百年に一人の生贄。
未練を持つのはよくありません。お互いに。
それでは、くれぐれも内密にしてくださいませ。
和香
「こ、これは!?」
僕の頭に衝撃が走った。
手記の作者は、和香。その名前に覚えがあった。たしか、祖母の話に登場した人物だったような、そんな気がして記憶を探っていると、はっと思い出した。
「和香さんは、僕の高祖母だ……」
するとそのとき、廊下のほうから一匹の狐がやってきた。
四つ足で歩く姿が可愛らしい。
僕のところまで近づくと、ぺたりと腰を落とした。
「アヤ様、魔法陣が描けましたゆえ、いつでも召喚できます」
「……」
僕は沈黙してしまった。
ふいに下を向いて、手記を丁寧に折りたたんでから、浴衣の懐にしまう。はあ、とため息を吐いてから、ゆっくりと顔をあげ、
「僕は、やっぱり……」
とイナリに声をかける。
「どうしました? アヤ様」
「明日、帰ろうかな……」
細い狐目が、大きく開かれた。
「おお! それは嬉しい!」
コンコン、と笑うイナリは、ぴょんと僕の胸に飛びこんできた。
「わっ!」
あわてた僕だったが、腕を曲げて抱っこしてやる。
丸まった子ぎつねは、まるでぬいぐるみのような感触で、モフモフとした毛皮をなでると気持ちがいい。思わずぎゅっと抱きしめると、温もりを感じた。
「か、かわいい……」
と、僕は頬が緩んだ。
すりすり、とイナリは鼻先を僕の胸に擦りつけた。
「その笑顔をリュウ様に見せてあげてください。きっと喜びます」
僕はそのまま笑顔で返した。すると、イナリはさらに、
「じゃあ、今日はこのまま一緒に寝ましょう」
「はあ?」
「私もぜひアヤ様の添い寝を堪能したいのです」
「……ふぅ、やれやれ」
僕は、すっとイナリを床に置いた。
はあはあ、と呼吸を荒くする狐のイナリ。
うーん、百歩譲って動物と寝るのはいいとして、イナリは変身を解けば大人の男、もしも襲われたら敵わない。したがって、一緒に寝るのは、ちょっと考えられない。
イナリは狐だけあって侮れない狡猾な男である。ああん、そんなに可愛いく尻尾を振らないでほしい……かわいいから、やめて!
「アヤ様、私にも癒しをください!」
「やだよー」
僕はぺろっと舌を出して踵を返し、自分の和室へと足を向けた。
「コーン!」
イナリの雄叫びが獣人旅館に響いていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
832
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる