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13章
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呼ばれた者
【13章】
まるでこのためにあつらえたかのような喫茶店の中から見張ろうと思い、中谷はそうした。
入店から既に一時間半が経ち、大正時代を思わせる仄明るい店内で、壁掛け時計は十八時を指している。二杯目のブレンドコーヒーはまだ熱い湯気を漂わせているが、灰皿に積もった煙草の燃えさしは、素知らぬ顔で過ぎてゆく時間を司って白々しく、与えられた領域を埋め尽くしていた。
ここで家を見張っていれば、有賀に会えるだろう。そう念じながら、中谷はR市内のビジネスホテルのWeb予約を済ませる。突然に家へ押し掛けるのは、いくら緊急のこととはいえ気が引けた。目と鼻の先まで追いかけてきた今、有賀の失踪は中谷同様、一時的な精神の疲労を癒すための、一世一代の雲隠れだったのかもしれないと思えた。善良な気質と緻密な思考回路を持っていた有賀が巨大な存在感を示す書籍に夢中になり、都会の喧噪から身を引いて穏やかに研究に没頭したいと考えたとしたら、確かにMは理想に近いと思える。あの憎悪すべき書籍に限った話でなければ、中谷自身でさえ喜んでこうした環境に身を置くだろう。
そう、あのアパートの204号室をノックしたとしたら、以前より少し痩せた、しかし元来の平常な精神状態の有賀が出迎えてくれるかもしれない。この町へ移り住んだ彼は"DYRUGELNEHD"の読解に疲れるたびに視線を上げ、豊かな自然と涼しい風、清澄な山の空気を目の当たりにし、少しずつ浄化されていたのかもしれない。そうだとしたら、そんな人当たりの良さを取り戻した有賀と遭遇するのであれば、喫茶店から見かけた彼を追いかける方が良い。そうしようと中谷は思っている。
しかし――しかし、そうでなかったら――有賀の部屋に、"DYRUGELNEHD"の挿し絵を再現するようなものがあったら? おぞましくも神秘の最奥の実験風景を掘り起こし、この郊外の町でその実践を試みている痕跡を認めてしまったら? 幻惑のようで写実的であったその昇華還元作用の手順を会得するために、悪霊の権化たる狂気の稲妻を弄ぶ、その現場を目の当たりにしてしまったとしたら?
かくして中谷はうなだれて頭を掻いた。隙間風じみた無意識が訪れ、新しく煙草をくわえたとき、目の前にライターが差し出され、見慣れた指使いで点火した。
「ヨウ、中谷。待たせた?」
「蓮華ハイム 204号室」は、一種の基地局のような場所になっていた。フラスコめいたガラス容器と電熱板、複雑なモーターと数十本に及ぶ壜――フラスコと同様に液体が入っている――、ジャンクパーツを組み合わせたであろう、Wi-Fiルータを思わせる機械とそれに繋がるPC。真っ黒な画面に白いテキストが下から上へ目まぐるしく流れてゆき、重力に逆らう滝のようだった。それらのほかにもネットワークケーブルや単純な銅線、真鍮の物体や銀色に艶めく手の平大の円錐など、気が振れたとしか考えられない、それでいて一貫した目的を偲ばせる品々が整然と置かれていた。
喫茶店での邂逅から後のことは、模糊とした印象の嵐に紛れて、中谷には今いち判然としない。魚眼カメラ越しに見たかのように歪む部屋の記憶は、R市のビジネスホテルに横たわる彼に何ら達成感らしきものを与えずにいる。覚えているのは、追跡の労が報われた安堵感、双眸の奥に見えた光、かきむしる腕と蚯蚓腫れ、奇妙な革の装丁、電子盤のような緻密さで何かが書かれた数枚の画用紙、唸るファンが吐き出す温い風、液体に浮かぶ粒、そして壁に貼られた地図。二人は換気扇の下で共に一服し、何かを話した。
顔のない人物の影だけが脳裏に残り、有賀の形をしたそれはすべての所作にぎくしゃくとした痙攣を伴っていて、覚悟していたはずの恐怖という鋸刃を喉元へ突き立てる。鈍い刃がじっくりと中谷の精神に痛々しい溝を刻み、固い冷たさが食い込んでゆく。
「思い出しても思いダしても」
有賀らしき男の声がする。
「お前に渡シた信号の元が見つからない。どうやら、魔術師トして未熟だったからこそ、叡智を完全に送ってしまっていたんだロうな」
抑揚を欠き、不自然なところでしゃくりあげるような声。
「事故だったんダよ、あの場所では。交流は相互でアッたはずだが、不用意に静電気が走ったあのトき……その衝撃でお前ノ存在が剥がれ落ちただケだ。ここで……ここデ門が見ツかッタ以上、返してモらう必要があったけれど、お前も向こう側を見テ、イズレここまで来るから、準備に集中スべきだった。神ノ電気は、消えルことはナイから」
劣化した古いスピーカーを通しているかのような、不快な韻律でその男は言葉らしく声を発し、暗がりから聞こえる水音じみた舌打ちを頻発する。
かけようとしていた言葉は出なかった。言うべくもない。既に食われていた。静かに少しずつゆるやかに歪んでいったのだろう。狂人の発する暴力的な躁も、廃人が垂らす毒々しい鬱も、壁を通り抜けて響く蝉の歌のように、ゆっくりと有賀の存在を満たしたのだ。
部屋の情景が更に暗くなる。燃え尽きた煙草は灰も残らず消えた。「蓮華ハイム」全体が小刻みに震え、まるでラクダの背に立っているように感じた。背後から見られているような感覚がして振り返ったが、そこには控えめな冷蔵庫があるだけだった。中からダンカン氏の持つ鉛筆の摩擦音が聞こえる。隣に視線を戻すと、五体の輪郭を保って制止する火花が立っており、それは白く光っていた。白く輝く熱い枝が迫ってきた。
換気扇の下で目覚めた。交流は成立した後だった。有賀のしようとしていることがすべて解り、部屋に居並ぶ装置の役割を知っていた。灰皿には紛れもなく灰が溜まっていた。火花ではなく、僅かに震える有賀が立っており、冷蔵庫からは鈍い動作音が聞こえていた。
「渡し合っタ……神の電流だ。俺も細カイ部分を思い出セたよ。Rの放送局へ周波数帯を沿ワせるより、衛星通信へノ道を探るのが良いナ。空気中の銀を集めるフロー。道を塗リ固める手段。歓迎のゴ用意を……」
声が遠ざかる。視界の霞みが増した。いくつかの天体から光芒降り注ぐ野原の情景。空中に磔にされた男の影が見えた。時間はその周囲を一瞬ずつ過ぎてゆくが、その営みでさえも巨大なガラスの輪郭に内包されていた。幻覚に溺れながらも中谷は「蓮華ハイム」から脱し、それを追うものはなかった。
R市のビジネスホテルの一室で、中谷は寝返りを打つ。有賀の部屋にあった地図が、Mから更に山間へ向かう先の田園地帯を示していたことが無性に想起される。どうすべきか分からないが、このまま帰るつもりはなかった。
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【13章】
まるでこのためにあつらえたかのような喫茶店の中から見張ろうと思い、中谷はそうした。
入店から既に一時間半が経ち、大正時代を思わせる仄明るい店内で、壁掛け時計は十八時を指している。二杯目のブレンドコーヒーはまだ熱い湯気を漂わせているが、灰皿に積もった煙草の燃えさしは、素知らぬ顔で過ぎてゆく時間を司って白々しく、与えられた領域を埋め尽くしていた。
ここで家を見張っていれば、有賀に会えるだろう。そう念じながら、中谷はR市内のビジネスホテルのWeb予約を済ませる。突然に家へ押し掛けるのは、いくら緊急のこととはいえ気が引けた。目と鼻の先まで追いかけてきた今、有賀の失踪は中谷同様、一時的な精神の疲労を癒すための、一世一代の雲隠れだったのかもしれないと思えた。善良な気質と緻密な思考回路を持っていた有賀が巨大な存在感を示す書籍に夢中になり、都会の喧噪から身を引いて穏やかに研究に没頭したいと考えたとしたら、確かにMは理想に近いと思える。あの憎悪すべき書籍に限った話でなければ、中谷自身でさえ喜んでこうした環境に身を置くだろう。
そう、あのアパートの204号室をノックしたとしたら、以前より少し痩せた、しかし元来の平常な精神状態の有賀が出迎えてくれるかもしれない。この町へ移り住んだ彼は"DYRUGELNEHD"の読解に疲れるたびに視線を上げ、豊かな自然と涼しい風、清澄な山の空気を目の当たりにし、少しずつ浄化されていたのかもしれない。そうだとしたら、そんな人当たりの良さを取り戻した有賀と遭遇するのであれば、喫茶店から見かけた彼を追いかける方が良い。そうしようと中谷は思っている。
しかし――しかし、そうでなかったら――有賀の部屋に、"DYRUGELNEHD"の挿し絵を再現するようなものがあったら? おぞましくも神秘の最奥の実験風景を掘り起こし、この郊外の町でその実践を試みている痕跡を認めてしまったら? 幻惑のようで写実的であったその昇華還元作用の手順を会得するために、悪霊の権化たる狂気の稲妻を弄ぶ、その現場を目の当たりにしてしまったとしたら?
かくして中谷はうなだれて頭を掻いた。隙間風じみた無意識が訪れ、新しく煙草をくわえたとき、目の前にライターが差し出され、見慣れた指使いで点火した。
「ヨウ、中谷。待たせた?」
「蓮華ハイム 204号室」は、一種の基地局のような場所になっていた。フラスコめいたガラス容器と電熱板、複雑なモーターと数十本に及ぶ壜――フラスコと同様に液体が入っている――、ジャンクパーツを組み合わせたであろう、Wi-Fiルータを思わせる機械とそれに繋がるPC。真っ黒な画面に白いテキストが下から上へ目まぐるしく流れてゆき、重力に逆らう滝のようだった。それらのほかにもネットワークケーブルや単純な銅線、真鍮の物体や銀色に艶めく手の平大の円錐など、気が振れたとしか考えられない、それでいて一貫した目的を偲ばせる品々が整然と置かれていた。
喫茶店での邂逅から後のことは、模糊とした印象の嵐に紛れて、中谷には今いち判然としない。魚眼カメラ越しに見たかのように歪む部屋の記憶は、R市のビジネスホテルに横たわる彼に何ら達成感らしきものを与えずにいる。覚えているのは、追跡の労が報われた安堵感、双眸の奥に見えた光、かきむしる腕と蚯蚓腫れ、奇妙な革の装丁、電子盤のような緻密さで何かが書かれた数枚の画用紙、唸るファンが吐き出す温い風、液体に浮かぶ粒、そして壁に貼られた地図。二人は換気扇の下で共に一服し、何かを話した。
顔のない人物の影だけが脳裏に残り、有賀の形をしたそれはすべての所作にぎくしゃくとした痙攣を伴っていて、覚悟していたはずの恐怖という鋸刃を喉元へ突き立てる。鈍い刃がじっくりと中谷の精神に痛々しい溝を刻み、固い冷たさが食い込んでゆく。
「思い出しても思いダしても」
有賀らしき男の声がする。
「お前に渡シた信号の元が見つからない。どうやら、魔術師トして未熟だったからこそ、叡智を完全に送ってしまっていたんだロうな」
抑揚を欠き、不自然なところでしゃくりあげるような声。
「事故だったんダよ、あの場所では。交流は相互でアッたはずだが、不用意に静電気が走ったあのトき……その衝撃でお前ノ存在が剥がれ落ちただケだ。ここで……ここデ門が見ツかッタ以上、返してモらう必要があったけれど、お前も向こう側を見テ、イズレここまで来るから、準備に集中スべきだった。神ノ電気は、消えルことはナイから」
劣化した古いスピーカーを通しているかのような、不快な韻律でその男は言葉らしく声を発し、暗がりから聞こえる水音じみた舌打ちを頻発する。
かけようとしていた言葉は出なかった。言うべくもない。既に食われていた。静かに少しずつゆるやかに歪んでいったのだろう。狂人の発する暴力的な躁も、廃人が垂らす毒々しい鬱も、壁を通り抜けて響く蝉の歌のように、ゆっくりと有賀の存在を満たしたのだ。
部屋の情景が更に暗くなる。燃え尽きた煙草は灰も残らず消えた。「蓮華ハイム」全体が小刻みに震え、まるでラクダの背に立っているように感じた。背後から見られているような感覚がして振り返ったが、そこには控えめな冷蔵庫があるだけだった。中からダンカン氏の持つ鉛筆の摩擦音が聞こえる。隣に視線を戻すと、五体の輪郭を保って制止する火花が立っており、それは白く光っていた。白く輝く熱い枝が迫ってきた。
換気扇の下で目覚めた。交流は成立した後だった。有賀のしようとしていることがすべて解り、部屋に居並ぶ装置の役割を知っていた。灰皿には紛れもなく灰が溜まっていた。火花ではなく、僅かに震える有賀が立っており、冷蔵庫からは鈍い動作音が聞こえていた。
「渡し合っタ……神の電流だ。俺も細カイ部分を思い出セたよ。Rの放送局へ周波数帯を沿ワせるより、衛星通信へノ道を探るのが良いナ。空気中の銀を集めるフロー。道を塗リ固める手段。歓迎のゴ用意を……」
声が遠ざかる。視界の霞みが増した。いくつかの天体から光芒降り注ぐ野原の情景。空中に磔にされた男の影が見えた。時間はその周囲を一瞬ずつ過ぎてゆくが、その営みでさえも巨大なガラスの輪郭に内包されていた。幻覚に溺れながらも中谷は「蓮華ハイム」から脱し、それを追うものはなかった。
R市のビジネスホテルの一室で、中谷は寝返りを打つ。有賀の部屋にあった地図が、Mから更に山間へ向かう先の田園地帯を示していたことが無性に想起される。どうすべきか分からないが、このまま帰るつもりはなかった。
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