ELENDERIN HOLE

風見鳥

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Ⅵ  生存、整理、モデル

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 エレンデリンホールで大量死が発生した後、私は生き証人として、ノヴォシビルスクの大きな病院で警察に証言を聞き取られた。十七人の観客が、耳から血を吹き出し白目を剥いて絶命した現場には、当時公演を行っていたザヴィニエ劇団の人間は一人もおらず、生きた人間は私と、狂ってしまって気の毒なうわごとを繰り返す日本人しかいなかったのだという。私はゴトーの身を案じたが、精神病棟に入れられて絵を描いているとしか聞かされなかった。警察は彼が完成させる絵が、この奇怪な事件の手がかりとして役立つことを期待しているようだったが、無駄な望みだと私は伝えておいた。
 死亡者名簿のなかに高名なジェイムズ・ダンカン氏の名があったこともあり、Mの町の地下通路には徹底的な捜査が入るべきだったが、複雑な迷路のようなあの空間の隅々まで文明の目が通ることは実現し難く、ほどなくしてこの事件は警察内部でも触れられざる案件に数えられることになったという。私への聞き取りも、やがてなくなったし、私は静かに正気と体力を回復した。
 クラスノヤルスクへ帰り四ヶ月後、私はゴトーが故郷に戻ることなく栄養失調で息を引き取ったと知った。そして唯一、エレンデリンホールという絆で繋がる生存者である私にあてて、彼の最後の作品が遺されたということも。
 そうして、私があの事件に関わったことがらの整理がついた。愉快な友人ミハイル・アバルキンと尊敬すべきジェイムズ・ダンカン氏は死に絶え、イワンは行方不明となった。
特異な観察眼と感受性によって発狂したゴトーも遂に冥府へ旅立った。せめて彼らの眠りが静謐なることを願う。
 凶悪な催眠によって幻覚と幻聴を引き起こした――私はすべてが気のせいだったと信じることに必死なのだ――エレンデリンホールは西暦二〇〇〇年より後になってから、地下通路ごと埋め立てられて消失したらしい。跡地には福祉関係の省庁施設が建設された。
 ザヴィニエ劇団の消息は途絶えた。Mの住人も、美術館の職員も、彼らがどこの何者であるか聞かずにいたため、調べようがなかったのだ。それも責められることではないだろう。人間は二足歩行と引き替えに動物的本能のほとんどを失ったが、微かに残留するそれは、本当に危険なものをしっかりと嗅ぎ分ける。触れずにいるよりほかなかった。
 事件を思い出すようなあらゆる物思いも忌避するようになった私だが、その点について少しばかりの救いがあることを説明しよう。ザヴィニエ劇団の特異な性質として、六年ごとに公演を行うというものがあったが、私がいくら情報を精査しても、その後の活動の記録や噂はないのだ。何しろ拠点であったエレンデリンホールが跡形もなく破壊されたのだから、鬱屈で寂寥感漂うあの町へ固執する必要がなくなったというなら理解できるが、国内外を問わず、完全に彼らの足取りは霧のように掻き消えてしまった。十二年経っても、恐らく十八年経っても、あのおぞましい劇団の芸術は二度と人目に触れることはないのであろう。エレンデリンホールとザヴィニエ劇団は、精神的に一心同体であったのだ。
 善良な人々の無邪気な感性に働きかける冒涜的な禁書の上演。そのためだけにあの劇場のか黒い影と劇団は手を組み、あわや人類全体への強力な精神攻撃ともなりうる危険な演目を、地獄の近隣である地底の暗闇から周到に放ち、正気を保つべき人々の柔らかな魂を引きずり込もうとしていた。生存本能を著しく縮小した現代人でさえ、僅かに残ったその残滓を奮い起こして、なんとしてもあの不埒な陶酔から逃れるべきだったのだ。
 しかし芸術という外套が冒涜的な精神を覆ったため、多くの人がその虜になってしまった。すべては、不幸と企みによるものだったとしか言えない。

 ゴトーの遺作となったあの二枚の絵が、私の経験したことの最後に述べる物事としてもっとも相応しいだろう。また、そのように話を構成することによって、エレンデリンホールの事件の性質のうち、最重要に言い残しておくべきものが明るみになる手助けとして、これまで私の述べてきたことが効果を発揮するのだと信じている。
 現在、その二枚は別々になって価値の分からないスイスの美術家と、韓国の富豪によって所蔵されている。私としては縁ある品として手元に置いておこうという気が起こらないし、どこかへ展示されて人目を引く事態になったとしても、当面はなんの影響もないだろうと予想している。なにしろたった一人の生存者は、――[ソムニウム]と題された幻惑のユートピアを目の当たりにしたこの世で唯一の人間こそが――ほかでもないこの私なのだから。
 さて、エレンデリンホールが演劇の内容を具現化するという証拠はなにひとつとして示されていない。最初に断ったように、すべてはなんらかの間違いや集団催眠の一種であったかもしれないし、そのように認識することが普通の人間のやり方なのか疑うわけでもない。はたまた時として思考停止は健全な魂の保護策として有用であると断言するのでもないが、少なくとも、あのような結果を残したザヴィニエ劇団の一連の業を私と共に目撃した油絵師が、次のような絵画を生み出したという事実がある。その事実だけが、あの六日間が悪夢などでなく、多数の観客が実際に目の当たりにした現象なのだと私に告げる。
 [舞]と題された一枚目は、エレンデリンホールの劇場内を描写したものだった。紛れもなくそれは三日目に上演された、[ソムニウム]第三巻の第六章の場面で、艶めく絵の具の効果を存分にふるって作成された、見事な作品だった。
 完全な模写と呼ぶ勇気は私にはない。ただ次の要素が認められたとき、蓋然性そのものが魔法の一部だったのだと得心したのである。
 天井付近を飛空する巨大なマンタの姿があった。垂れ幕の後ろから顔を出すグロテスクな虫の姿があり、その触角は見たことがあった。胞子のようなものが空中を漂っていて、座席の影に長い触手が伸びている。躍動的にフルートをくわえる醜い小人の隊列が役者を取り囲んでいた。
 パイプオルガンの淋しげな音色が再現されようかというほどの臨場感は恐ろしいほどで、今や爆破され木っ端微塵となったエレンデリンホールの心騒がせられる情景が、アリボルンの耳と同じように特異な目を持った東洋人の遺作に生々しく保存されている有様は、封印してしまいたい記憶を荒々しく揺さぶる残響として、強烈に、厳然と、私の魂に打ち込まれたのだった。
 二枚目の絵は無題である。
 構図は単純なものだった。ある人物画である。誰の、という点では、説明が困難なものであるが、絵自体に不思議なところはない。この私だけが知りうる鮮明な記憶によって、その性質が見いだされる怪奇の具現だ。私が見たときにだけ、ゴトーのもう一枚の作品と同じほどの衝撃を与える、呪わしき人物の顔である。
 人物画が私に示したことが事実であるならば、なんと悪趣味な抜擢だろう。魔女を崇める罪深いサバトの夜宴さえも陳腐に滲むようなあの第六章。ハリと呼ばれる湖を割って地底の屍の豪傑がその眠りを解いたとき、熱狂的に忠誠を誓った一人の観客がいたことを覚えているだろうか。客席から痴れたように走り出し、屍の豪傑の足元にすがりついて従属と賛美を叫んだ男のことを。
 ゴトーの瞳はその顔の特徴を極めて正確に捉え、明瞭な印象を与え得る筆使いで完璧に表現していた。彼は興味深いその狂信者を、はっきりと見極めて記憶していたのだ。彼自身が語ったようにものごとを把握する能力に長けたその目から、巧みに再現された人物模写は素晴らしい出来で、先に述べた作品と併せて見れば、あの油絵師が並々ならぬ才覚を携えた偉大で立派なサムライであったことは疑いようもない。
 この人物画を見たとき、私は当然思い浮かぶべき、とある蓋然性の問いをなんとか精神の外へ排除しようとした。今でも当時の鼓動の早まりが蘇るようだ。これはただ、鋭い感受性をもつ気の毒な観客の、非常に激しい感情移入を記憶に留めようとしてゴトーが書き残したメモのようなもので、それ以上でもそれ以下でもないのだ、と自らに言い聞かせた。
 しかし私は、事件の後日談の最後までも神秘学者であったのだ。私は自らに問いかけた。
 あの素晴らしい油絵師にくきやかな印象を与えた人物の顔がこうして完璧に描かれることはよいとして、ではこの人物画がまた別の人物と同じ顔であることはどう説明すればよいのか。
 ゴトーが描いた狂信者の顔は、そっくりそのまま、ある演者と同じものであったのだ。ビージャルに代わってアリボルンに同行した、彼女の腰ほどの身長のフルート奏者と。
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