ELENDERIN HOLE

風見鳥

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Ⅴ  罠、エレンデリン、終幕

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 翌日のエレンデリンホールには、黴の匂いとともに得も言われぬ生臭い不快な臭気が漂っていた。私の横にはミハイルがおり、ゴトーとイワンも席に着き、ダンカン氏の苛ついた姿も見受けられた。初日と比べて数席の空きがあり、その席に腰を下ろしていた客の運命が案じられた。
 改めて場内を見渡すと、本当にたくさんの国の人々がいた。イギリス人、北欧人、アラブ人、中国人、アメリカ人、ロシア人、そのどれもが、不安と期待の入り交じった面持ちで上演を待っている。それはまるで、逃げ出さずに戦地へ赴いた若い兵士の、後悔や覚悟、勇気と郷愁をない混ぜにしたあの憂鬱を映し出しているかのようだった。
 開演と同時に、あの生臭い香りがなにかに押されるように強まり、私は、ああしまった、と独りごちた。長大な地下の廊下を這いずる肉塊が蠕動する衝撃で、スモッグ状の臭気が場内へ押し流される情景をイメージしてしまったからだ。暗がりに潜む無尽蔵の蓋然性、繋がりつつある正気の物質世界と狂気の精神世界、モウサの企てた魔法と科学の接続、そのすべてがザヴィニエ劇団の手によって疑いもないほど厳格に私の脳内で成立し、割れるペンデュラムを見たときから健全な道標を見失った私の瞳に、蛾の神の不細工な歩みと鈍く輝くサフランの花園を見せ、銀の耳の男が手を振る情景を映しこんだ。
「いでよ、うたえ。痴れた神の億千万の脈動、銀河の絶叫と魔の法の序説を。虚無から到来した散章は形而上に属する不羈の自然の意志にして、絆を結ぶために手段を選ばぬあの無貌の神性が言葉を重ねた、開眼して注視すべき魂の通信なれば、なおのことうたえ、呪文を唱えよ。
「エレン・デ・リン、エレン・デ・リン。エレン・デ・リン、エレン・デ・リン。かの言葉は神々の韻律」
 パイプオルガンの音色が轟き、幕が開いた。薄暗い劇場のそこかしこからフルートの演奏が聞こえ、立派な衣装を着た人物たちが舞台上に躍り出た。ワイヤーで天井から吊られた踊り子たちが旋回し、鳴り響く雑多な音楽の中に不明言語の歌を混ぜこんだ。
「すべてはこの日のために。すべてがこの日のために」
 と、口を揃えて叫んでいるのは、アリボルンやガジラビュートを演じていた役者である。彼ら役者は、奇妙な動物の毛皮を羽織って整列して、一様に観客の真上、なにもないと思われる空間を見つめていた。踊り子たちが降下し、床に触れまいかというところで激しく旋回する。驚くべき色彩を湛える照明によって、紫やコバルト色に明滅する舞台の隅から、黒煙に見える蒸気が漂ってきた。
 私は横のミハイルを見やった。彼は口の端に泡を溜めながら、瞼がめくれるかというほど目を見開いて舞台を見ていた。やがて場内を熱気と微風が闊歩し始め、足下にサフランが生えてきたように感じた。私は実際の演劇と幻覚の区別もままならず、戸惑いながら周囲を見回すことしかできなかったが、同じような様子の観客が視界に入ることで、自身が異常なことは不思議なことではないと思えたし、ミハイルのような状態に陥るのも無理はないと感じることができた。
 触角をぎくぎくと震わせる巨大な昆虫が現れた。素晴らしいリアリティをもつ模型だった。複雑な機構で脚や腹部を揺らし、パイプオルガンの音色に合わせてギコギコと音が鳴る仕組みを組みこんでいた。私はそのように納得しようとしたが、劇団員が整列して凝視していた天井の薄暗がりから真っ黒なマンタが垂直に降りてきて、トロンボーンのような野太い叫び声を上げたときに、わずかに張っていた理性の糸が切れたようだった。
 下半身に数頭の獣の頭を生やした改造兵が登場し、マンタへ向けて矢を放った。マンタは身を翻して優雅に空中を泳ぎながら、また叫び声を上げた。
「ゼウス、アッラー、ヤハウェに玉座を奪われ、絆を断ち切られた後ろめたい神よ」
 兵が歌い始めた。本当は精巧な舞台衣装と音響の効果によるものなのだろうが、そのときの私には、もはや確かめようもないことだった。
「アリボルンは繋げる」
 兵が歌った。
「彼女が繋げる」
 アリボルンの役者が歌い連なる。
「アリボルンは結ぶ、アルケマとゼノを」
「彼女が結ぶ」
「一度破れた繊維は二度と元通りになることはなく」
「その後幾百年をやり過ごすために繕われた」
「愚かな補強は再び破れる運命にありながら」
「偽物の完全を信じこむゼノとアルケマは」
「お互いの司る世界の融合を夢に見ながら」
「自らが夢の中にあって」
「目覚めてすらいないとは気づかずに」
「日々を、旅を」
「時間を、有限を」
「ただ費やしてきたのであった」
 その間も、旋律と光は病的なほどに高まり続け、やがてあの匂いをまとったひとりの人物が舞台に現れ、アリボルンを演じていた役者と改造兵を残して、踊り子も、ほかの劇団員も、舞台袖へ退いた。
 臭気を漂わせる人物はくすんだ土色のぼろ切れを羽織って、細かいひだのある被り物を深く被っている。観客の何人かが立ち上がって舞台へ近寄り、虚ろに宙を掻く腕を振りながらその人物の興味を引こうとしだした。
 突然舞台が暗転した。
 マンタのはためく気配と、遠くの通路をうごめく巨大な昆虫の脚が擦れる音を感じるばかりで、ほかの音楽も目がくらむような照明装置も、すべてが止まった。
「お前はアリボルンではない」
 恐らくぼろの人物の声だったろう。耳障りな声が響いて、フルートがまた吹かれた。
「私はアリボルンではない」
 アリボルンの役者の声が答えた。先に述べた通り、この女性は明らかにアリボルンではない人物として、第三巻第六章にも登場していた。
「物質世界でアルケマとゼノの両面で世界を見ていた私は、精神世界では愚鈍な意識体に過ぎなかった。銀の耳の男に対価を払って魔の法律に目を通し、精神世界の魔の意識体とアリボルンはひとつになった。アリボルンの探していたぼろの王に会うために、精神世界とアリボルンを繋げる必要があると察した意識体は、極彩色の門を潜り抜けてあなたの元へ自らを連れていった」
「繋げたのだな」
「今頃あちらの世界はなくなっているだろう。彼女がそう言っている」
「そうだろう。浮遊する意思と歪な秩序があちらの世界に浸食すれば、もはやそこに事実などというものはない」
 物語の佳境ではあるが、それよりも注目すべきことが、エレンデリンホールの人々に起こりつつあった。誰もが夢見心地で舞台を見守る中、不穏なざわめきが観客の間を走っていた。話しかけている、銀の耳はどこにいる、殺せと言うな。そういった言葉が囁き声に乗って聞こえてきた。
 ぼろを着た人物――ぼろの王と呼ばれるもの――の声がした。
「屍の豪傑はあちらではフルートの小人だった。この体を作り変えられた兵士はビージャルであるし、妖しい植物がガジラビュートであった。儂も何者かとして物質世界にいたかもしれぬ」
「ぼろの王、アリボルンは望むことがあってあなたを探した。あちらでは見つからなかったのだ」
「述べよ」
 そこで強烈に照明が入った。開演前と同じ、無意味な電光の健全な明かりだ。ぼろの人物の姿はなく、いつのまにかあの匂いもなくなっていた。また数人の客が姿を消しており、イワンもそこに含まれていた。ゴトーはなにかを諦めたかのように呆然と座っており、ミハイルは嬉々とした表情で独り言を言いながら舞台を見ていた。ダンカン氏は人の少なくなった場内の通路を苛立たしげにうろつきながら、まだ空中を舞うマンタを睨みつけていた。
 脳裏に再び、銀の耳の男が現れた。テレパシーめいた幻覚と幻聴。ポオの描写した圧倒的なメェルストロームを想起する感情の大渦に、輪郭を失った喜怒哀楽の残滓が重油のごとく流れこみ、情景の向こうで高笑う男の燦然と輝く耳を通して私は魔法と呼ばれる外宇宙の叫びを聞いた。説明など私には到底できない。それは今の人類に備わる感覚器官のうち、魔法を聞くための感覚を司るものが一つもないからである。私は確かにそれを聞いたのだが、その受信が耳で行われたのか、それとも不足する能力を補う別の組織によって行われたのか、今となっては見当もつかない。従って、私には聞こえると感じた、と説く以外にどうしようもないのだ。
「どうしたことか、窓が閉じてしまったようだ。こちらの落ち度だよ。ここからは即興だ。どうなっても知らないがね」
 そしてまたあのどぎつい照明が輝き始めて、今度は場内すべてが照らされるようになった。マンタが煙のように輪郭を薄めて空間に溶けゆき、同じように改造兵も舞台袖へ歩きながら浮かぶように消え去った。
 どういうわけかそれまで私を怯えさせた影の感じや不可思議な要素がことごとく解消されていったが、舞台に銀の耳の男が歩み出たとき、最後の魔術が現出したのだった。
「繋げてしまおう」
 そう言って男が私の頭蓋骨にタップを刻むと、私やほかの観客を頭痛が襲った。一酸化炭素中毒に似た酩酊と脳漿が沸騰するかのような熱い痛みに耐えきれず、私は転げ回って身悶えた。朧気に舞台上で踊る男のシルエットが目に入り、もはや数少ない観客たちの悲痛な叫びが耳に入った。鉤爪で脳内をまさぐられる感覚があり、そのうちに引きずり出されて粘土のようにこねられながら、なにかに錬りこまれる予感がした。私も叫んだ。泣いた。
 頭痛の背後から襲い来るそれは、皮膚や体組織が神経と共に報せる痛覚ではなかった。精神と人格を内包する魂への、残虐な暴力と呼ぶべき風の印象が吹き荒び、ずたずたになりつつある私自身の人間性が、敵も判らないまま抗って固く緊張の糸を張る。全身が、形而下に属するあらゆる痛覚とまったく異なる痛みに対して為す術を失っていった。それは徐々に、実にゆっくりとその影響を広げていった。激痛が、まるで体表を覆う無数の蛆虫のように、少しずつ私の体を這いずりだしたのだ。乱暴に打ち込まれる波か銃弾の如く刺々しい印象。熱く垂れる蝋を喉に流し込まれるような不快感と吐き気、そして高熱。筋肉が強張って固くなる様はゴルゴダで磔にされたメシアのようで、彼と異なるのはロンギヌスの苦痛の槍が脇腹だけでなく、私の眉間、うなじ、脊髄、肘の裏、心臓の横、下腹部、膝頭、踵、爪先とあらゆるところに何度も何度も繰り返し突き立てられた点である。皮膚を襲う、鎖を叩きつけられるような痛みと、串刺し公と恐れられたヴラド・ツェペシュでさえ哀れむ、神経と組織すべてを貫く飛礫のような苦痛の嵐。文字通り血液が沸き立つような印象は、いっそ出血してしまわねば、その火薬じみた熱によって血管が爆ぜるのではないかと感じるほどで、私は何度手首を噛み千切る気になったか分からない。
 エレンデリンホールを取り囲む闇が、見覚えのある煌々とした印象を放ち、――光り輝くような闇の滲出――這いずりながら照明と戦っている。悶絶する観客全体に被さる不可視にして不可解な苦痛は呼吸を妨げ、視界の端には明滅する影が移りこむ。
 何分かそうしていたように思うが、私は幸いにも、気を失っていたのだ。私の人生において最大の幸福とはなにか訪ねられたら、莨による一酸化炭素中毒を経験していたおかげで、脳が最大限に防御機能を発揮し、私の神経をすべて無効にすることができたこの瞬間を挙げるだろう。私はミハイルやほかの大多数の観客のように、生命体の限界を越える痛覚を感じる前に五感の扉を閉め切ったのだ。すなわち、生き延びたのである。
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