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Ⅳ 静けさ、忍び寄る狂気、思考
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四日目の公演には、観客の半数ほどしか訪れなかった。私とミハイルの前にイワンが一人で現れて、ゴトーが体調を崩したと教えてくれた。
「昨日の公演を見た後では、無理もあるまい」
とミハイルが笑った。
彼の目の奥には、なにかどぎつく輝くものがあって、私はそこにダイアモンドでも仕込んであるのかと思った。
「では今日は、僕がイワンのほうへ行くとしよう。ロランはどうする? 客が減って、もう一人ぐらいは隣に座れるようだが」
確かにその通りで、人間の減った場内で私は易々とダンカン氏の姿を認めることもできた。しかし私は元の席に残ると答えた。自らと隣り合ってゴトーの座ったその席が、なんだか縁起の悪いものに感じられたからだ。
劇場の中は、昨日の惨状が昔のことであるかのように片づいていて、最初に感じたのと同じ、黴の匂い混じりの鬱屈な空気に満ちているのみだった。
四日目の公演が始まると、三日目の公演がやはり物語の一部であることが分かった。場面が進んでいて、朧気ながらもそこで表現された事象を踏まえて、再びアリボルンが歩き出したからだ。ビージャルは昨日の乱舞のうちに地割れに呑まれて行方不明になったことになっていた。魔女の新たな同行者となった身長の低いフルート奏者が、どこかで見かけたような顔立ちをしていることが気に障った。
アリボルンはモウサから聞き出したとおりに、山脈を越えて緑色の雲を追いかけ、高原の空気の薄い都で銀の耳をもつ男に会った。銀耳の男はアリボルンのアルケマとしての素質とゼノとしての探求心を評価し、彼女の差し出すもの次第で精神世界への問いかけを手伝うと申し出、アリボルンは彼女の純潔を差し出した。それまでは断片的に魔の法を聞き取り、不完全な形でしか魔術を扱えなかった魔女は、多大で取り返しようもない犠牲と引き替えに、魔法に関する仔細な知識を得た。
アリボルンは山の中腹にある迷宮へと向かい、そこを徘徊する盲目の蛾の神を殺して羽をもぎ取り、その鱗粉を塗りこんだナイフを作った。
と、前日までの乱れぶりと打って変わって、七章から十九章まで滑らかに展開されたこの日の公演は、初演と同じような感動を私に与え、ダンカン氏の懸念やゴトーの体調の急変を、いささか印象の薄いものとした。しかし先に述べたようにいい加減な、曖昧模糊とした記憶を思い起こせば、やはり視界の端にうごめく怪しい暗黒は、少しずつその輪郭を強めて今にも客席に覆い被さろうとしていたのではないか。私はもはやこの芸術の前に正常な感覚を発揮できないことを悟って、久しぶりにバーで酒をあおろうと腹をくくることにした。
相変わらず惚けたようなMの町を歩き、バーに着くと、先に来ていたミハイルとイワンが談笑に耽っているところだった。
「来たね、ロラン。置いていって悪かった。ウォッカにするかい」
ミハイルの目から、あの宝石じみた輝きは失せていた。私は安堵して彼とイワンに並んで腰を下ろし、久しぶりにパイプに火を灯した。私のウォッカが運ばれてくると、私たちは乾杯した。
「ひと幕ひと幕が目まぐるしくて、感想を言う暇もない」
とイワンが嬉しそうにこぼすと、ミハイルも同意して頷く。彼らに第三章の感想を訊ねると、場の空気が一瞬だけ冷えたように感じた。ミハイルがぎこちなく答えた。
「僕ら二人はザヴィニエ劇団の熱心なファンである自覚があるが、昨日のことについては少々議論の余地が残っているんだ……幸いなことに、な。
「僕から言わせてもらえば、文句の言いようがないと思っている。あれこそ芸術の到達点に違いない。舞台の前に壁はなく観客の目はすべてを見る。演者は完璧にあの世界の住人になっていた。僕は役者の経験があるからそう感じるのかもしれないが、彼らの演技は技術だけで説明できるものでなく、彼ら自身が世界を信じる強い気持ちによって築き上げている、精神力そのものの姿だと思うね」
対してイワン。
「賛美すべき高い品質をもった公演だという点は同意ですな。劇団の誰もが申し分ない仕事を徹底的に行っている。だが昨日の熱狂的な時間はどうも……というよりかは、どこか……どこか、異なっていませんか。いや、題目や演技方針が最新のものであることを差し引いて、今回の上演ぜんたいには例年よりも更に異質な性格を感じるのですよ。とはいえ、期待通りの素晴らしい公演です」
私は姿の見えないゴトーの容態について訊ねた。イワンが愉快な様子で答える。
「宿の主人によると、顔色が悪いのに画材を一式調達してきて、宿の自室に閉じこもっているそうです。芸術家にはありがちな話だよ。感性に響くものがあったのでしょうな」
五日目、再び客数が増えていた。私自身も薄々感じていたことだが、第三章の興奮を待ちわびていたのだ。もう一度だけ、あの狂乱の宴に巻きこまれて、五里霧中の感情の流れに心を放り出し、現れる不可思議な幻影と役者たちの奔放で止めどない表現力の嵐の前に、我を忘れたいという欲求が高まったのである。観客の表情は更にあでやかな期待の色を帯びていて、喫煙による魂の休息がなかったら、私の感じていた神秘への好奇心も、彼らと同じ程度まで押し上げられて行き場を失っていただろう。速やかに進みゆく舞台上の世界は、大道具の揺らすベニヤ板の雲ですら、その手を離れて空中を飛び去ろうかというほど活き活きとしていた。
アリボルンの歩みは太陽と月が通らない台地に差し掛かり、エレンデリンホール全体の光量が絞られていった。目を凝らしてやっと役者の輪郭が見え、彼らの声、演出上の効果音がことさら明瞭に耳へと届いた。途中で何度も、獣めいた吠え声が演出として鳴っていたが、それらは常に前方や後方、ときには四方からなど様々なところから聞こえてき、あの暗渠のような通路のそこかしこに仕込まれているであろう音響装置による、周到で抜け目ない仕事ぶりが発揮されていたものと思う。
闇を貫く風鳴りと雄叫び、フルートの単調なメロディ、水の滴る音、アリボルンが訪ねた台地の武人王ガジラビュートのくぐもった号令が舞台上やエレンデリンホールの外部から縦横無尽に駆け巡り、意欲的な表現技法の実演に感心させられる一方、私は地下通路に実際に立ちふさがるスキュラのような改造兵の姿や、J・ウィンダムが描写したトリフィドじみた奇怪な植物が暗がりから根を伸ばしてエレンデリンホールを包囲するような気配を脳裏から拭い去ることができず、不可視の暗黒に包まれた空虚にあらゆる影が舞い踊る確信がもはや動かないことを実感したのだ。
私は緩やかに、そして穏やかに正気を損ない、それを静かに受け入れつつあったのだ。淡々と展開される舞台を観ながら、観客すべてが同じ状態であっただろう。すぐ近くの座席の観客が何度も後ろを振り返ったり、はるか前方の客が落ち着かなげに身じろぎしながら足下に顔を向けているのがうっすらと見えた。
隣に座っていたミハイルが席を立ち、おずおずと通路を進んで、空いている席のうち、舞台にかなり近いところへ移動したのは、劇が終盤に差し掛かったときのことだ。
蛾の神の呪いが込められたナイフをアリボルンが振りかざし、ガジラビュートの専属占い師の持ち物である、直径二メートル、高さ三メートルほどの、吊り鐘のようなペンデュラムに突き立てた。驚くべきリアリティをもつ演出技法でペンデュラムが欠け、弱い照明
に煌めきを打ち返す透いた欠片が、四方八方へ飛散するのが見えた。アリボルンはなおも振りかぶり、何度も何度もペンデュラムを割った。占い師の悲痛な叫びが響き、ガジラビュートは言葉を失っていた。
やがてアリボルンは手を止め、磨耗してなまくらになったナイフを床に落とした。そして散らばったペンデュラムの欠片を手でかき集め、小山のようになったそれに両腕を差しこんだ。照明が今度は目に痛々しいやり方で点滅し始めた。アリボルンが叫び声をあげ、細かい凶器となったペンデュラムの欠片を自身の身体中に浴びせ、被り、塗りこむようにさすり始めた。ガラス片のようになったそれは鋭く彼女の体を傷つけ、ぬらぬらと艶めく赤い液体が腕や背中、首や腰を覆う。痛みに耐えるアリボルンの泣き声とフルートの高ぶる旋律を耳にして舞台の近くに座っていた観客の何人かが、足下へ手を伸ばした。
そして彼らもまた、アリボルンと同じようにその欠片を自身の手首や頬にすりつけ始めたのだ。易々と皮膚を裂くその粉に、誰もが呻き声を漏らした。関係者が出てきてその行為を止めることはなかったが、観客のうち正気を保った人々が何人か彼らに近寄り、その愚かな洗礼めいた儀式を止めさせようとしていた。ペンデュラムを取りこもうとする人々のなかにはミハイル、止めようとする人々のなかには必死の形相のダンカン氏の姿があった。
正直にいえば、私はその中に混ざりたい欲求を抑えて歯軋りするので精一杯だった。もちろん、ミハイルと同じことをする集団にである。
もちろん? そのときの私の精神状態がいかに危険な段階にあったかを考えれば、ついその言葉が出てきたことも理解できようものだ。
その後、いつの間にか近くへ来ていたイワンに肩を叩かれた私はハッとして席を立ち、急いで友人の腕を押さえに向かった。それからの記憶は判然としない。騒がしい情景が風のように過ぎ去ってから、私は宿の自室にいて、ひとりで安いコニャックを飲んでいた。ただ、ミハイルやほかの観客の腕を取り、誰かが持っていた包帯を傷口にあてがう混乱のさなか、ぽつりと遠くの座席に座っていたゴトーが、口をみっともなく開け放して虚空を見つめている姿だけが、鮮明に思い出された。
私はパイプを取り出し、チョコレートの香りがする莨を詰めて火を点けた。恥ずべきことに、私がエレンデリンホールにおける今回の公演の異常性について、それらが異常であるという断定に立脚して思案したのは、そのときが初めてのことだった。空前であり絶後であろう表現の手法と、舞台芸術としての類稀な品質の高さ、そして圧倒的な脚本のせいで、私は出来事の多くの重要なものごとについて、正確に吟味し相関を捉えることを忘れていたのに気づいたのだ。
私は次のことについて考えた。まず、観覧の権利について。敬愛すべきミハイル・アバルキンは、この上演の観客席に腰を下ろすには数の限られた券が必要だと述べていた。その券は、どのような界隈の、どのように選別された人々に与えられるものなのだろうか。
そして私はMという町について考えた。この町を訪れたその瞬間から私を取り巻く、無作為の鬱屈感について。繁栄という言葉からは距離を置き、しかし地下を這う長大な暗黒空間を維持管理する力が沸き上がるその町の、なにか後ろめたい隠匿性を感じ取った。
そこに加えて用途の不明瞭な地下空間である。美術館は窓口に過ぎないのであって、その背後にはもっと巨大な、人目をはばかる企みをもった意志が座りこんでいる気がした。第一、福利厚生や健全な楽団活動に利用されるような施設を、なんとか地上へ移転しよう
という試みは為されなかったのか。それこそ歓迎されざる凶暴な思想を育む場所として、あそこは理想的な立地だと言えはしないか。
更に、エレンデリンホールの影について考えた。夢の中から滲み出たような怪しい名を冠する劇場の、恐らく不十分な換気によるものだと想像される、陰気な黴臭さと、小部屋や通路の角から漂う瘴気じみた気配が、足を踏み入れたものによりくきやかな影を意識させ、暗黒にうごめくもの、そこかしこの隅に体を引きずるものを想起させる。不健康な密閉空間に尋常でない人間が出入りする今回の一大行事によって、二酸化炭素や窒素などの具体的な要素をもつ、有害で巨大なガス室が形成されているともいえるだろう。
そして冒涜的な禁書を目覚ましい芸術へと変貌させたザヴィニエ劇団についてである。最終日を前にして、これまでの幕に翻弄されてきた自身の心を省みるに、私もまた、この劇団の上演に含まれる特筆すべき――演技力、題材の唯一性、特異な巨大地下劇場を活用した表現力と並ぶ――要素である、非正常性とでも呼べるものに囚われていることに気づかされた。それは正常と対を成す異常とも違って、幻惑の非日常の、大いなる外部に属する茫洋な世界の片鱗であった。
ザヴィニエ劇団でさえもその外世界と我々の日常を繋ぐ窓口に過ぎず、健康な精神が光と常識によって目を塞がれることで不可視化している、理性の通用しない無垢の自然が支配する果てなき世界へ通じる扉なのであった。
彼らが上演することで同期している世界は、私の住むロシアを含んだ、人間の五感によって知覚されているだけの世界とはまったく違った、感覚で捉えきれないすべての要素で構成された世界そのものの純粋な姿ではなかっただろうか。物質と精神がごく密接に影響し合い、秩序の整理や数式の解によって力を得ることが普遍であるあのユートピアこそが、元来あるべき宇宙の実現であり、私の認識しうる北国の寒空、不完全な政治と未完成な科学に支配される地球という巨大な船のほうが、閉鎖されたディストピアの様相を挺する皮肉な夢想なのではないか。
私は火の消えたパイプを随分長いことくわえていた。チョコレートの甘い香りが、私の痛めつけられた神経の慰めとなった。
翌日の公演には、多少の恐怖を禁じ得なかった。カウレリウス・ゼノンが読解に苦しんだ第十一巻の三十章から三十七章までが、その演目だったからである。再び、第三巻のような、ほかに類を見ない凶暴な表現技法が披露され、六日に渡る幻想の舞台に最後の幕を引くことになるのだ。
ゴトーたちの運命もまた、あの忌まわしい公演と事件によってフィナーレを迎えることになるのだが、私はもはや、無事にクラスノヤルスクの喫茶店で紅茶をすする日常に戻ることを願うばかりで、すべてのことが取り返しのつかない事実として現出するまで、なんら打つ手立てもなかったのである。
「昨日の公演を見た後では、無理もあるまい」
とミハイルが笑った。
彼の目の奥には、なにかどぎつく輝くものがあって、私はそこにダイアモンドでも仕込んであるのかと思った。
「では今日は、僕がイワンのほうへ行くとしよう。ロランはどうする? 客が減って、もう一人ぐらいは隣に座れるようだが」
確かにその通りで、人間の減った場内で私は易々とダンカン氏の姿を認めることもできた。しかし私は元の席に残ると答えた。自らと隣り合ってゴトーの座ったその席が、なんだか縁起の悪いものに感じられたからだ。
劇場の中は、昨日の惨状が昔のことであるかのように片づいていて、最初に感じたのと同じ、黴の匂い混じりの鬱屈な空気に満ちているのみだった。
四日目の公演が始まると、三日目の公演がやはり物語の一部であることが分かった。場面が進んでいて、朧気ながらもそこで表現された事象を踏まえて、再びアリボルンが歩き出したからだ。ビージャルは昨日の乱舞のうちに地割れに呑まれて行方不明になったことになっていた。魔女の新たな同行者となった身長の低いフルート奏者が、どこかで見かけたような顔立ちをしていることが気に障った。
アリボルンはモウサから聞き出したとおりに、山脈を越えて緑色の雲を追いかけ、高原の空気の薄い都で銀の耳をもつ男に会った。銀耳の男はアリボルンのアルケマとしての素質とゼノとしての探求心を評価し、彼女の差し出すもの次第で精神世界への問いかけを手伝うと申し出、アリボルンは彼女の純潔を差し出した。それまでは断片的に魔の法を聞き取り、不完全な形でしか魔術を扱えなかった魔女は、多大で取り返しようもない犠牲と引き替えに、魔法に関する仔細な知識を得た。
アリボルンは山の中腹にある迷宮へと向かい、そこを徘徊する盲目の蛾の神を殺して羽をもぎ取り、その鱗粉を塗りこんだナイフを作った。
と、前日までの乱れぶりと打って変わって、七章から十九章まで滑らかに展開されたこの日の公演は、初演と同じような感動を私に与え、ダンカン氏の懸念やゴトーの体調の急変を、いささか印象の薄いものとした。しかし先に述べたようにいい加減な、曖昧模糊とした記憶を思い起こせば、やはり視界の端にうごめく怪しい暗黒は、少しずつその輪郭を強めて今にも客席に覆い被さろうとしていたのではないか。私はもはやこの芸術の前に正常な感覚を発揮できないことを悟って、久しぶりにバーで酒をあおろうと腹をくくることにした。
相変わらず惚けたようなMの町を歩き、バーに着くと、先に来ていたミハイルとイワンが談笑に耽っているところだった。
「来たね、ロラン。置いていって悪かった。ウォッカにするかい」
ミハイルの目から、あの宝石じみた輝きは失せていた。私は安堵して彼とイワンに並んで腰を下ろし、久しぶりにパイプに火を灯した。私のウォッカが運ばれてくると、私たちは乾杯した。
「ひと幕ひと幕が目まぐるしくて、感想を言う暇もない」
とイワンが嬉しそうにこぼすと、ミハイルも同意して頷く。彼らに第三章の感想を訊ねると、場の空気が一瞬だけ冷えたように感じた。ミハイルがぎこちなく答えた。
「僕ら二人はザヴィニエ劇団の熱心なファンである自覚があるが、昨日のことについては少々議論の余地が残っているんだ……幸いなことに、な。
「僕から言わせてもらえば、文句の言いようがないと思っている。あれこそ芸術の到達点に違いない。舞台の前に壁はなく観客の目はすべてを見る。演者は完璧にあの世界の住人になっていた。僕は役者の経験があるからそう感じるのかもしれないが、彼らの演技は技術だけで説明できるものでなく、彼ら自身が世界を信じる強い気持ちによって築き上げている、精神力そのものの姿だと思うね」
対してイワン。
「賛美すべき高い品質をもった公演だという点は同意ですな。劇団の誰もが申し分ない仕事を徹底的に行っている。だが昨日の熱狂的な時間はどうも……というよりかは、どこか……どこか、異なっていませんか。いや、題目や演技方針が最新のものであることを差し引いて、今回の上演ぜんたいには例年よりも更に異質な性格を感じるのですよ。とはいえ、期待通りの素晴らしい公演です」
私は姿の見えないゴトーの容態について訊ねた。イワンが愉快な様子で答える。
「宿の主人によると、顔色が悪いのに画材を一式調達してきて、宿の自室に閉じこもっているそうです。芸術家にはありがちな話だよ。感性に響くものがあったのでしょうな」
五日目、再び客数が増えていた。私自身も薄々感じていたことだが、第三章の興奮を待ちわびていたのだ。もう一度だけ、あの狂乱の宴に巻きこまれて、五里霧中の感情の流れに心を放り出し、現れる不可思議な幻影と役者たちの奔放で止めどない表現力の嵐の前に、我を忘れたいという欲求が高まったのである。観客の表情は更にあでやかな期待の色を帯びていて、喫煙による魂の休息がなかったら、私の感じていた神秘への好奇心も、彼らと同じ程度まで押し上げられて行き場を失っていただろう。速やかに進みゆく舞台上の世界は、大道具の揺らすベニヤ板の雲ですら、その手を離れて空中を飛び去ろうかというほど活き活きとしていた。
アリボルンの歩みは太陽と月が通らない台地に差し掛かり、エレンデリンホール全体の光量が絞られていった。目を凝らしてやっと役者の輪郭が見え、彼らの声、演出上の効果音がことさら明瞭に耳へと届いた。途中で何度も、獣めいた吠え声が演出として鳴っていたが、それらは常に前方や後方、ときには四方からなど様々なところから聞こえてき、あの暗渠のような通路のそこかしこに仕込まれているであろう音響装置による、周到で抜け目ない仕事ぶりが発揮されていたものと思う。
闇を貫く風鳴りと雄叫び、フルートの単調なメロディ、水の滴る音、アリボルンが訪ねた台地の武人王ガジラビュートのくぐもった号令が舞台上やエレンデリンホールの外部から縦横無尽に駆け巡り、意欲的な表現技法の実演に感心させられる一方、私は地下通路に実際に立ちふさがるスキュラのような改造兵の姿や、J・ウィンダムが描写したトリフィドじみた奇怪な植物が暗がりから根を伸ばしてエレンデリンホールを包囲するような気配を脳裏から拭い去ることができず、不可視の暗黒に包まれた空虚にあらゆる影が舞い踊る確信がもはや動かないことを実感したのだ。
私は緩やかに、そして穏やかに正気を損ない、それを静かに受け入れつつあったのだ。淡々と展開される舞台を観ながら、観客すべてが同じ状態であっただろう。すぐ近くの座席の観客が何度も後ろを振り返ったり、はるか前方の客が落ち着かなげに身じろぎしながら足下に顔を向けているのがうっすらと見えた。
隣に座っていたミハイルが席を立ち、おずおずと通路を進んで、空いている席のうち、舞台にかなり近いところへ移動したのは、劇が終盤に差し掛かったときのことだ。
蛾の神の呪いが込められたナイフをアリボルンが振りかざし、ガジラビュートの専属占い師の持ち物である、直径二メートル、高さ三メートルほどの、吊り鐘のようなペンデュラムに突き立てた。驚くべきリアリティをもつ演出技法でペンデュラムが欠け、弱い照明
に煌めきを打ち返す透いた欠片が、四方八方へ飛散するのが見えた。アリボルンはなおも振りかぶり、何度も何度もペンデュラムを割った。占い師の悲痛な叫びが響き、ガジラビュートは言葉を失っていた。
やがてアリボルンは手を止め、磨耗してなまくらになったナイフを床に落とした。そして散らばったペンデュラムの欠片を手でかき集め、小山のようになったそれに両腕を差しこんだ。照明が今度は目に痛々しいやり方で点滅し始めた。アリボルンが叫び声をあげ、細かい凶器となったペンデュラムの欠片を自身の身体中に浴びせ、被り、塗りこむようにさすり始めた。ガラス片のようになったそれは鋭く彼女の体を傷つけ、ぬらぬらと艶めく赤い液体が腕や背中、首や腰を覆う。痛みに耐えるアリボルンの泣き声とフルートの高ぶる旋律を耳にして舞台の近くに座っていた観客の何人かが、足下へ手を伸ばした。
そして彼らもまた、アリボルンと同じようにその欠片を自身の手首や頬にすりつけ始めたのだ。易々と皮膚を裂くその粉に、誰もが呻き声を漏らした。関係者が出てきてその行為を止めることはなかったが、観客のうち正気を保った人々が何人か彼らに近寄り、その愚かな洗礼めいた儀式を止めさせようとしていた。ペンデュラムを取りこもうとする人々のなかにはミハイル、止めようとする人々のなかには必死の形相のダンカン氏の姿があった。
正直にいえば、私はその中に混ざりたい欲求を抑えて歯軋りするので精一杯だった。もちろん、ミハイルと同じことをする集団にである。
もちろん? そのときの私の精神状態がいかに危険な段階にあったかを考えれば、ついその言葉が出てきたことも理解できようものだ。
その後、いつの間にか近くへ来ていたイワンに肩を叩かれた私はハッとして席を立ち、急いで友人の腕を押さえに向かった。それからの記憶は判然としない。騒がしい情景が風のように過ぎ去ってから、私は宿の自室にいて、ひとりで安いコニャックを飲んでいた。ただ、ミハイルやほかの観客の腕を取り、誰かが持っていた包帯を傷口にあてがう混乱のさなか、ぽつりと遠くの座席に座っていたゴトーが、口をみっともなく開け放して虚空を見つめている姿だけが、鮮明に思い出された。
私はパイプを取り出し、チョコレートの香りがする莨を詰めて火を点けた。恥ずべきことに、私がエレンデリンホールにおける今回の公演の異常性について、それらが異常であるという断定に立脚して思案したのは、そのときが初めてのことだった。空前であり絶後であろう表現の手法と、舞台芸術としての類稀な品質の高さ、そして圧倒的な脚本のせいで、私は出来事の多くの重要なものごとについて、正確に吟味し相関を捉えることを忘れていたのに気づいたのだ。
私は次のことについて考えた。まず、観覧の権利について。敬愛すべきミハイル・アバルキンは、この上演の観客席に腰を下ろすには数の限られた券が必要だと述べていた。その券は、どのような界隈の、どのように選別された人々に与えられるものなのだろうか。
そして私はMという町について考えた。この町を訪れたその瞬間から私を取り巻く、無作為の鬱屈感について。繁栄という言葉からは距離を置き、しかし地下を這う長大な暗黒空間を維持管理する力が沸き上がるその町の、なにか後ろめたい隠匿性を感じ取った。
そこに加えて用途の不明瞭な地下空間である。美術館は窓口に過ぎないのであって、その背後にはもっと巨大な、人目をはばかる企みをもった意志が座りこんでいる気がした。第一、福利厚生や健全な楽団活動に利用されるような施設を、なんとか地上へ移転しよう
という試みは為されなかったのか。それこそ歓迎されざる凶暴な思想を育む場所として、あそこは理想的な立地だと言えはしないか。
更に、エレンデリンホールの影について考えた。夢の中から滲み出たような怪しい名を冠する劇場の、恐らく不十分な換気によるものだと想像される、陰気な黴臭さと、小部屋や通路の角から漂う瘴気じみた気配が、足を踏み入れたものによりくきやかな影を意識させ、暗黒にうごめくもの、そこかしこの隅に体を引きずるものを想起させる。不健康な密閉空間に尋常でない人間が出入りする今回の一大行事によって、二酸化炭素や窒素などの具体的な要素をもつ、有害で巨大なガス室が形成されているともいえるだろう。
そして冒涜的な禁書を目覚ましい芸術へと変貌させたザヴィニエ劇団についてである。最終日を前にして、これまでの幕に翻弄されてきた自身の心を省みるに、私もまた、この劇団の上演に含まれる特筆すべき――演技力、題材の唯一性、特異な巨大地下劇場を活用した表現力と並ぶ――要素である、非正常性とでも呼べるものに囚われていることに気づかされた。それは正常と対を成す異常とも違って、幻惑の非日常の、大いなる外部に属する茫洋な世界の片鱗であった。
ザヴィニエ劇団でさえもその外世界と我々の日常を繋ぐ窓口に過ぎず、健康な精神が光と常識によって目を塞がれることで不可視化している、理性の通用しない無垢の自然が支配する果てなき世界へ通じる扉なのであった。
彼らが上演することで同期している世界は、私の住むロシアを含んだ、人間の五感によって知覚されているだけの世界とはまったく違った、感覚で捉えきれないすべての要素で構成された世界そのものの純粋な姿ではなかっただろうか。物質と精神がごく密接に影響し合い、秩序の整理や数式の解によって力を得ることが普遍であるあのユートピアこそが、元来あるべき宇宙の実現であり、私の認識しうる北国の寒空、不完全な政治と未完成な科学に支配される地球という巨大な船のほうが、閉鎖されたディストピアの様相を挺する皮肉な夢想なのではないか。
私は火の消えたパイプを随分長いことくわえていた。チョコレートの甘い香りが、私の痛めつけられた神経の慰めとなった。
翌日の公演には、多少の恐怖を禁じ得なかった。カウレリウス・ゼノンが読解に苦しんだ第十一巻の三十章から三十七章までが、その演目だったからである。再び、第三巻のような、ほかに類を見ない凶暴な表現技法が披露され、六日に渡る幻想の舞台に最後の幕を引くことになるのだ。
ゴトーたちの運命もまた、あの忌まわしい公演と事件によってフィナーレを迎えることになるのだが、私はもはや、無事にクラスノヤルスクの喫茶店で紅茶をすする日常に戻ることを願うばかりで、すべてのことが取り返しのつかない事実として現出するまで、なんら打つ手立てもなかったのである。
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