ELENDERIN HOLE

風見鳥

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Ⅲ  蓋然性、舞、ソムニウム

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 二日目からは、エレンデリンホールを当初の印象よりも親しく感じることができ、開幕したときは思わず拍手をしそうになるほど観劇を楽しんでいる私自身がいた。
 アリボルンは船と馬車を乗り継いで三つ目の街ジェンベリアへ辿り着き、夢見の果てで玉座に腰を下ろした王について新たな手がかりを得た。シェイクスピアの戯曲に登場した陰険なヴェネチア商人シャイロックのような立ち位置の、モウサというアルケマから、次の目的地を聞き出す際のやりとりは、観ている側の額に汗が浮くほど鬼気迫る場面のひとつで、間違いなく現代の演劇史に残るべきものだと感じられた。アリボルンの髄と電磁場発生器を用いて大気中から魔法の一部を汲み取り、精神世界の法を無理矢理物質世界に適応させようというモウサの企みは、ビージャルの意地汚い窃盗癖によって偶然にも食い止められ、代わりに大きな手がかりを掴む結果となった。
 後になれば、エレンデリンホールで起こった事件とこの一幕の様相を照らし合わせることで、ザヴィニエ劇団がモウサよりも恐ろしい目論見を持っていたことが分かるだろう。私たちはアリボルンに感情移入して物語を見守っていたが、それよりもむしろビージャルのように、あくまで利己的に物事を捉えるべきだったのである。
 特筆すべき点がもうひとつある。二日目の公演が終わりエレンデリンホールを出る前に、私とミハイルは連れだって地下通路を散策することにした。もちろん、迷わないように目印となるものを確認しながら。
 そしてとある暗がりで、緊張の面もちのダンカン氏が、そこにあった扉を開いてその中へ入って行くのを見たのである。私から向かって右側に設けられた扉が開かれたとき、そこからは弱々しい明かりが漏れているばかりで、あまり愉快な部屋ではなさそうだったので、私はなにか見てはならないものを目の当たりにした気分になり、ミハイルに申し出て早々にその場を去った。
 美術館へと登る階段を目指しているときも、私の目は間断なく周囲の壁やふと目に入る
横道を注意深く監視し続けた。いつどこで扉が開いてもおかしくなかったからである。私は薄闇にいつも扉があると思えたし、その先の閉ざされた部屋が私を招き入れるという蓋然性を、信じるまではいかなくとも否定することができなかった。私は光が漏れてくることを恐れていた。そこから出てくるダンカン氏と顔を合わせることを恐れていたのだ。
 ようやく外へ出たとき、私は依然と曇る空を見上げながら、それでも溢れんばかりの太陽光に照らされる世界をありがたく感じ、暗黒が闊歩する地下の広大な空間を振り返る気分にはならずに、バーへと向かうミハイルと分かれて宿へ帰った。

 三日目には、私とミハイル、そしてイワンとゴトーは四人連れだって劇場へ入り、私とイワンの席を交換することになっていた。二日目の公演後、バーでミハイルとイワンが再び歓談と洒落こみ、気分転換にと、そのような運びになったのだという。
 三日ぶりに見るゴトーは、幾分か顔色が悪いように思えた。私がその旨を彼に分かりやすいよう簡単な言葉で伝えると、ゴトーは目をこすりながら答えた。
「寝不足でね……いいのだ、質の高い芸術に触れると、俺はよくこうなる。頭がぜんぶの感想を処理するのに時間がかかるのだ。俺は寝ようとしているのに、頭のほうでは、体を動かしていないのをいいことに、全神経を集中して考えてしまう。
「目がよいのでな。他人には見えようもないものも、人より多く、よく捉えて頭に入れてしまう。神秘画家ニコライ・レーリヒの作品を見たことは?」
 私が、ある、と伝えると、ゴトーはまだ開いていない幕を指さして続けた。
「あの奥には、いつも彼の描いた[チベット]を彷彿とさせる世界がある。見事だ。陰影の効果、広大なパノラマ、空間の有限性と光の無限性をすべて利用している。気づいたか? 舞台上の人間たちでさえ、この物語の装置の一種でしかない」
 舞台役者とはそういうものだ、と私が最後の部分について指摘すると、彼は照れたように笑ってから、また言った。
「あんた方の言語では適当な言葉が見つからないが、言い換えさせてくれ。彼らは人物としてあそこに立っているのでない。いや、たしかに演じているのは人間だし、役の内容も人間で間違いはないのだが……あそこに立った以上、彼らは普通の人類ではない。舞台装置のひとつとして、物語を終結へ押し進めるパーツ、ギア、ツールになった。そのように扱われているのでなく、そうなったのだ。俺の国でヤオヨロズノカミと呼ばれる神性じみたものが、彼らに宿っているのが見える」
 ゴトーは各所に英語も用いながら、なんとか私に説明しようとしてくれていたが、そのときの私は、彼の言わんとしていることを、舞台上の人間がそれまでの素性から解き放たれて登場人物と同化することだと捉えることしかできなかった。
 三日目の公演の内容は、とても順を追って説明することはできない。この日、初めて、ザヴィニエ劇団から公式に簡単な説明が入ることになった。
 公演の元となった物語の第六章が収められた第三巻と、三十章から三十七章までが収められた第十一巻は特別な名称で呼ばれ、作者の奇妙な文法と脈絡のない描写によって解読を特に困難ならしめている部分で、劇団による多少の推測や独自解釈が盛りこまれている旨が告知された。この日の演目は、第六章だった。
 ミュージカルだっただろうか、オペラだっただろうか。数え切れないほどの踊り子、視
神経への暴力とも呼べる強烈な照明の乱舞、鼓膜を刺し貫くような不快な摩擦音を主とした催眠的韻律の音楽が繰り返され、全体の動線としては、上方から下方への沈みこみ、根底における神性の成立が表現されていたように思う。目まぐるしく舞台装置が動き、振るわされ、アリボルンやビージャル、初演でアリボルンが訪れた街ムットゥーラの王などの役者がまったく違う出で立ちで狂おしく悶えては唸って踊り、客席の合間を飛ぶように駆け抜けた。
 雲、断崖、ヒレ、絶叫、炎の柱、柔らかい革、鉱山、羽音、脈動する愛、湿気、焼けた鉛、墳墓と祈り、触手、雷、そういったものが奔放に表現されていたように思う。整然としてこれを解釈することもできず、振動する暗がりから漏れる臭気じみた雰囲気、座席の下を這うかのような、あるはずもない何物かの気配に圧倒されて、私の心臓は蒸気機関を思わせる激しさで跳ねていた。この地下空間のどこに設けられているのか、パイプオルガンの旋律が響き、喜びの感情が織り交ぜられた不埒な断末魔がそれにあわせて何度も何度も発せられた。ビージャルの痴れたような笑い声がそれに続いた。
 観客の様子は、圧倒されて身じろぎひとつできない状態にあるか、不快感を隠しもせず耳を押さえてうずくまるか、高揚か恐怖かによって叫び体を揺らすかのどれかだった。
 黙示録でさえ、あのような混沌を描き出すことはなかった。湖が割れて地底の屍の豪傑が復活した場面などは、一人の観客が舞台上へ躍り出て、狂信的に忠誠を叫ぶ羽目になったし、その彼は実に自然な――あの乱雑たる舞台で自然などという言葉はむしろ違和と呼ぶべき性質ではあったが――役者の動きによって舞台袖へ招かれ、その日はもう目にすることはなかった。
 私の目は、幻覚を捉え始めていた。舞台脇の暗がりからヒクヒクと揺れる触角を見、フルートを吹きながら飛び跳ねる醜悪な小人の群れを数え、――それらはアレシェンカの遺体に感じた悲哀とは無縁の、ひたすらに不快で奇怪な狂気の使徒として私の網膜に焼き付いた――不躾に照明の前を横切り菱形の陰を投げるマンタの羽ばたきに目を細めた。エレンデリンホールは悪魔の宴のごとき様相を極め続けていた。
 その日の公演が終わったとき、私は負傷者が出なかったことが不思議なくらいだった。劇場には吐瀉物と汗の匂いが立ちこめており、正常な人間はどこを見渡しても見つからなかった。そう、あの聡明なダンカン氏の姿はすでに見あたらなく、横で茫然自失の有様となっているゴトーと私は、しばらく疲れ切って座りこみ、泣き笑うミハイルとニコライに声をかけられるまでその場に居続け、はっと気づいたときには観客の半分以上がいなくなっている時分だったのだ。
 観劇後、すぐに席を立った人々の心持ちは如何なものだったろう。私は微弱ながらも徐々に、そのときには遠い彼方へ置き忘れつつあった正気を手繰り寄せ、急ぎダンカン氏と話をせねばならない必要性に気がついた。私は依然として宙を見つめるゴトーのことを友人たちに任せ、小走りで出口へ向かう人々の雑踏に溶けていった。
 ダンカン氏は美術館から歩いて二分ほどの道端で、パイプを吹かしていた。ひとりだった。
 私は以前に世話になったものとして挨拶をし、ついさっき気づいた体で話しかけることにした。幸いにも私はダンカン氏の知る指折りの論客のうちに入っており、速やかに会話をすることができた。
「この大陸の暗がりの部分については、多くのことを知っているつもりでいた。しかし陽
に当たることのない沈黙の暗がり……特にこの片田舎の地下での一件をもって、見解を改める必要があるね……」
 私は氏の傍らに立って、莨を吸った。
 私は先ほどの公演について、なにか理路整然とした分析は可能であるか訊ねた。
「結論からいえば、それは可能だ。しかし可能性が数値化できる以上、際限のない数字のなかに飛びこむことは、実際の分析と同様に非常に危険なものとなる。人が生み出した芸術であるならば、人である我々がその見識の範疇であれを解釈できるという蓋然性は、疑う余地もないが」
 数値としての可能性を追求するということはあの舞台をどこまで深く考察するかという言葉に変換でき、そうすることが健全な精神に打撃を与える危険を含むということか、と私は問い直した。
 白んだ灰をパイプから落とし、ダンカン氏が答える。
「おおよそその通りだ。だから、かの劇団の意匠を分析しようという試みは、どこまで可能性を期待するかということよりも、それができる蓋然性が存在するか否か、という点で止めておくべきだと考えている。ザヴィニエ劇団の関係者と話して、より強くそう思うようになった」
 ダンカン氏のこの告白に、私は驚いた。
「昨日の公演の後、美術館とエレンデリンホールの運営に携わる人物と話をする機会があってね。貴君が同業者でなければ明かさなかっただろうが……とにかく、話をしたのだ。
「ザヴィニエ劇団の公演を観るのは今回が初めてだが、例年の演目がすべて、一般的でない伝説を元にして構成されていることは知っていた。もちろん今回も、そして先程の常軌を逸した第三章も、すべてひとつの伝承から起こされた台本だという。彼は一部について、小さな声で明かしてくれた」
 氏の声が震えてきたので、私は自分の莨を差し出して勧めた。彼はそれを手に取り、難儀そうに火を点けて言葉を続けた。
「あれはやはり……睨んだとおり……禁書のひとつだ。貴君は知っておいたほうがよかろう。ビザンツ帝国の詩人カウレリウス・ゼノンが著した、[ソムニウム]という題の……これはラテン語で夢や幻想を意味する……叙事詩。その更に以前、古代ギリシャで何者かによって書かれた散文詩をその男が見つけ、あのような形にまとめたらしい。ビザンツ帝国では禁書扱いとなり、ゼノンは弾劾に晒された。その上、帝国とイスラーム勢力との戦いのうちに原本は失われたのだそうだ。しかしそのときにはすでにエジプト語訳と漢語訳が存在し、拡散は水面下で続いた。
「現代のザヴィニエ劇団がどのような経緯でそれを手に入れたかまでは、友人は知らなかったが、その内容と記述の仕方は、目を通したものの精神に損傷をきたすのに十分だと教えられたのだそうだ。ここまで聞けば、貴君にも思いあたる節があるだろう。過去に出所が確かめられた唯一の例、第四回公演の際にザヴィニエ劇団が引用した忌避すべき伝説の書物の性格を考えれば、彼らの芸術は決して歓迎されるべきものではない」
 私は恐る恐る、見たものの魂を乱す、ある幻の書物の名を口に出した。正気を失ったアラブ人アブドゥル・アルハザードが著し、人間の皮膚で装丁された[アル・アジフ]――私の知る限り、それはネクロノミコンという呼ばれ方で、今でも陰鬱な伝承に登場する――の名を。
 ダンカン氏は頷いて、続けた。
「ロラン君、注意したまえ。エレンデリンホールは安全な劇場ではない。ましてザヴィニエ劇団は、人間の歓楽に供するためにあのような高水準の演劇を披露しているのではない。なにかは分からないが、とにかく目的がある。彼らの[ソムニウム]によって常識以上のことがもたらされることも考えられる。あらゆる蓋然性に気を払わなければならない。すべてが杞憂であることを心から願うがね」
 また会うことを約束し、私たちは別れた。この約束は正しく果たされることはなかったものの、そのときの私は多くの物事を整理するのに精一杯で、Mの町中をあてもなく歩きながら、長い時間をかけて歩を進めていった。下り始めた夜の帳の彼方で、雲間から覗く星の光がちらちらと揺らめいていた。

 さて、私の一連の経験の有様が徐々に物語めいた形を取り始めてきたものと思う。人知れず禁書を上演し続ける劇団、計り知れない闇をはらむ地下空間と劇場、渦巻く感情の海と精神への攻撃。この時点でミハイルとイワンの精神はかなり危険な段階へ登り詰めつつあったが、私は自らの心を手放さないよう必死だったし、ゴトーの感性がどのような形態を保っているのか気にかけることしかできなかった。
 あらゆる蓋然性。舞台上でなにが起こっても不思議でなかったし、それは舞台でないところでも同様であった。役者たちは本当に魔法に通じていたかもしれないし、それを理解するかもしれないということも、私を含めた観客すべてに言えることだった。
 演劇とは元来、映画や読書と違う興奮を覚えるもので、役者は舞台上で本物のリア王やマクベスになり得た。しかしエレンデリンホールにはもっと異質な雰囲気が立ちこめていて、地下通路の端々に、ジェンベリアに生えているとされた鈍色のサフランの揺れる影や、アリボルンが船上から魔術で打ち抜いた奇形のアジの、尖った鱗の煌めきが見える気がしたのだ。幻灯に目がくらむかのような酩酊、英語でファントムペインと呼称される感じに似た、失ったはずの動物的本能の痒みが、エレンデリンホールを訪れる人々の脳髄を蠱惑の気配の中にとっぷりと浸しこみ、きたる終演へ向けた漸次的高揚感を押し上げていたのだった。
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