一よさく華 -嵐の予兆-

いつしろ十蘿

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十一.意地悪

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 柚月は渡り廊下を渡り、離れの廊下を歩きながら、ため息を漏らした。

「朝から疲れたな」

 ぼそりと言って頭を掻くと、髪が濡れている。
 手が濡れた。
 その感触に、柚月はピタリと止まった。
 
 恐る恐る、手を見てみる。

 ただの手だ。
 血にまみれてなどいない。

 柚月はその手を、ぐっと握りしめた。

 ――朝から風呂に入ったせいだな。

 柚月は部屋には入らず、入り口の前でいつものように庭に向かって座った。
 太陽は山から離れ、天を目指して昇りだしている。
 朝の空気だ。

 柚月はまた、ため息を漏らした。だが、そのため息の色が変わっている。
 深く、暗い。
 脳裏には、記憶が蘇っている。

 あれは、人斬りだった頃。

 柚月はかつて、政府に戦を仕掛けた開世隊かいせいたいの人斬りだった。
 開世隊が都で主に使っていた宿は、松屋ともうひとつ、旭屋がある。
 柚月は暗殺しごとがある時は、旭屋を使うように言われていた。

 旭屋は開世隊結成時からいるような古参の者が、ただの宿として利用しており、決まった者しか出入りしない。対して、松屋ではよく集会が行われ、新旧様々な隊員が訪れ、人の出入りが激しかった。

 わざとだ。
 そうしていたのには訳がある。

 旭屋に開世隊が行う裏の仕事を隠すため、目を引くように、松屋はいつも賑やかである必要があったのだ。

 旭屋の女将は、働き手としては高齢で、白髪の髪を結い上げた穏やかな物腰の人で、やや曲がった背でよく働き、気が利いた。

 夕食の後、柚月の姿が無いことに気づくと、いつも風呂の用意をし、夜中に返り血で汚れて帰ってきた柚月に、何も聞かず、何も見ていないような口ぶりで、「お風呂の準備、できていますよ」と、愛想よく言った。

 柚月は、言われるまま風呂に入った。そのまま眠れもせず、風呂で濡れた髪のまま、朝日を見たことが何度もある。

 あの時感じた、風呂で火照った体に感じる、朝の空気。

 半ば、忘れていたことだ。

 柚月は弱々しく頭を掻くと、目の端に映る人影に気づいた。いつからいたのか、廊下の角に、椿が立っている。
 気配がないのは、相変わらずだ。

「どうしたの?」

 柚月は無意識に微笑んでいた。
 椿も、はにかんだように笑みなる。

「お使いで、近くに来たので」
「そっか」

 そう言ったきり、二人とも言葉が続かない。久しぶりに会えて、互いに気恥ずかしい。
 加えて、柚月の方は今椿に会うのはやや気まずい。庭に視線を戻すと、そのまま椿の方を見られなくなった。

 でもやっぱりうれしい。
 照れくさくて落ち着かず、胡坐の上で指をすりあわせている。

 柚月は指をピタリと止めると、「座って」という代わりにすっと横にずれ、人ひとりが座れるほどの場所を開けた。庭を見たまま、椿の方をちらりとも見ない。が、椿には伝わっている。喜んでトトッと歩み寄り、そして、その足がピタッと止まった。

 柚月の髪が濡れている。
 風呂上がりだ、と椿にも分かった。
 こんな朝から。

 その理由も察しがつく。
 昨日柚月がどこに行っていたのか、椿は知っている。
 椿の胸に、怒りにも似た不愉快な感情が湧いた。

「遊郭って、そんなに楽しいですか?」

 突然、思ってもみないことが口から飛び出し、椿自身驚いた。しかも、棘のある言い方。
 振り向いた柚月も、驚いた顔をしている。
 椿は慌てた。

「あ、いえ。その…。雪原様も時々行ってらっしゃったけど、私は連れて行ってもらったことがないので。どんなところかなっ…て」

 言い訳のようになる。
 柚月は「ん~」と考えて宙を見ると、苦笑した。

「皆の笑顔が、悲しい場所かな」

 そう言いながら、悲しい目をしている。
 椿は驚いた。

「笑顔が?」
「そう。商売だから皆笑ってるけど、あそこにいる人はたいてい、辛い思いをしてきているから」

 それを思うと、愛想のいい笑顔が、かえって悲しく見える、と言う。
 柚月らしい。そう思うと同時に、椿は自身を恥じた。
 椿は胸の内のどこかで、男に体を売る遊女たちを軽蔑し、そこに喜んで遊びに行く男たちにも嫌悪感を抱いた。

 椿は何も言えなくなり、柚月の隣に静かに座った。
 うつむき、反省とも自己嫌悪ともいえない、複雑な顔をしている。
 その椿の顔を、柚月がのぞき込んだ。

「俺が遊郭に行くの、嫌?」

 椿ははじかれたように顔を上げた。
 柚月のまっすぐな目。
 その眼差しに、椿の頬が赤く染まった。

「いえ、お仕事で行かれているわけですから」

 慌てた様子がかわいい。
 それが、柚月の心に、ほんの少し毒を刺した。

「それ、答えになってない」

 柚月の声音が変わった。
 確かに柚月の声だ。
 だがその声音。

 男の色をしている。

 椿はきゅっと口をつぐみ、赤く染まった頬をさらに真っ赤に染めた。
 うつむいてしまっている。
 柚月を、見ることができない。

 椿にも、柚月が聞こうとしていることは分かる。だが、それを答えると、なぜだろう、心の内をすべてさらしてしまうようで、たまらなく恥ずかしい。
 言えない。

 嫌。

 たった一言が、のどに詰まる。

 無言の間が続く。
 柚月はじっと黙ったまま、その間を終わらせない。

 椿は救いを求めるように、ちらりと柚月を見た。
 柚月はじっと、椿を見つめている。

 その目。

 男の人だ、と椿は思った。
 怖い。
 だが、恥ずかしいような気持ちと、うれしいような気持ちも混ざってくる。

 とくとくと心臓が打つ。
 頬が熱い。
 膝に置いた手に力が入り、きゅっと握りしめる。

 急に、柚月がふっと笑った。

「ごめん。意地悪言った」

 そう言いながら庭に視線を戻し、ふふっと笑っている。
 椿はやっと解放されたような気持になって、肩の力が抜けた。
 柚月の横顔をうかがい見ると、どこか楽しそうに庭を眺めている。

 ――もう。

 椿は少し、憎らしくなった。

 柚月は胡坐の上に、無造作に手をのっけている。
 その手に触れてみたい、椿はそう思ったが、そうする勇気までは出なかった。
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