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第1章 耕起、西の旅

02: 口上

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「じゃまするよー。」
 雷は立て付けの悪いフスマ戸をガタピシと音を立てて店の中に入った。
 土間の上に、幾つかの木製の長机と椅子があった。
 店の奥、調理場と思える場所から、歳を取った親父が出てきた。
 まるで時代劇に登場するような、いやこの老人の方が「実物」なのだが、そんな人物だった。
 しかしこの人物、彼の時代には、絶対にお目にかかれないような雷達の服装を見て驚かない所をみると、それなりに”耕起”という天変地異に対応をしているようだった。

「はいはい、お越しなされ。」
「速攻で、飯が食べたいんだ。何か早いとこで、あるかな?」
 雷が席に着くなり、そう言った。
 鳴は興味深そうに、室内をキョロキョロと見回している。

「はいはい、出来るものは、みな紙に書いて壁に貼ってありますでな。」
 雷は部屋の壁に貼ってある、古ぼけた短冊の連なりを見た。
「ずいぶん沢山書いて貼ってあるじゃん。じゃあ、あの一番はじめのやつを、ちょっと持って来てもらおうかな、二人前。」
 雷は床机に腰を付けても、背中からリュックを下ろそうとせず、素早くそう言った。

「一番、はじめっちゅうと?」
「はじめに『くちうえ』と書いてあるよな、あれ二人前。」
「あら「口上」と書いてある。」
 親父がさすがに、むっとした口調になった。

「『こぉじょ~』かぁ。なる程、そう読むのね。それ二人前!」
「そんなもんが出来るかいな。あら断り書きや。」
「断り書きか、俺はまた『くちうえ』って言うから、鼻でも料理して持って来るのかなと思った。」
 雷は楽しそうに言った。
 鳴以外で、こういう話し相手に出会ったのは久しぶりだった。
 いつもは騙し騙され、ちょっとでも油断をすれば、地獄の底に転落する事になる相手ばかりだったのだ。

「その次の紙からなら、何でも出来ますのや。」
 さすがは年の功というより”この時代の老人”は、思いとどまる所は知っていて、そのまま感情的に暴走するような事はないようだった。

「あぁそうか、次の紙からあとズッと……ね。そしたら、あの一番後ろのお終いに書いてあるのを持って来てもらおかな? あの、『もとかた げんぎんにつき かしうりおことわり』ってやつね、あれ二人前。」
「そんなもんが出来るかいな、」

「爺さん、あんた何でもって、」
「あの二枚のあいだの紙なら出来ると言ぅた。」

「それなら初めからそういえば言いじゃん。『とせうけ』『くしらけ』『あかえけ』『けぇけぇ』ってのは、どんな食い物?」
「『け』じゃありゃせんがな、ありゃ『汁』といぅ字を、ちょっと崩して書いたら『け』に見えます。」

「あぁ汁か、なるほどね。……『とせう汁』?」
「『どじょ~汁』と読みなはらんかいな?」
 親父は呆れたように言った。

「いや、『とせう汁』と書いてある。」
「『と』の肩『せ』の肩に濁りが打ってあるやろ、いろはの文字は濁り打つとみな、その音(おん)が変わりますでな。」

「親っさん、なかなか学者じゃん。はぁ~、濁りを打ったら変わるか? そしたら、いろはの『い』の字に、濁りを打ったら、どぉなるのかなー?」
「『いぃ』に濁りを打てば、『い″』」
 雷は、『この親父、今、物凄い顔したなぁ』と、自分で仕掛けておきながら、親父の変顔に感心している。

「『い』には、濁りは打てん。」
「頼むから打ってみて。」
「頼まれても打てん、」
「それなりの見返りはだすから、」
「出してもろても打てん。」

「駄目か、なら『ろぉ』は?」
「『ろ″』……も、ならんなぁ、」
「これも、駄目なのか? だったら『にぃ』は?」
「『に″』……?、何で、いろはの『は』を、よって飛ばしなはんねん……、悪い人やなぁ、わざわざ『はぁ』飛ばして。」
 表面上は聞き分けのない孫の相手をしている好好爺だが、間違いなく負けず嫌いのこの親父、どこかで雷をギャフンと言わせたいと思っているようだった。

「親爺、無理するんなよ。打てんやつに無理に濁りを打とうと思ってるから、『ばな』の頭に汗かいてるぜ。」
「『ばな』て。何や?」
「これだよ。」
 雷は自分の鼻を指さす。

「これは、儂の『鼻』じゃ、」
「だろ?肩に濁りが打ってある。」
「これは濁りじゃのうて、儂のほくろじゃ、……、なぶってんねやないで、この人は。」
「すると親父のその鼻は、『どじょ~汁』の読みようの類か?」
「そうじゃ。」 
「なるほどなぁ。ようやく納得がいった。どじょ~汁、くじら汁、あかえ汁か。だったら、その『どじょ~汁』、二人前、頼むよ。」


「はいはい……、これこれ婆どんや、客人、どじょ~汁がえぇっちぃなさるでな、ちょっとこなた、町まで味噌買いに行てきとぉくれ。わしゃこれから笊(いかき)持って、裏にドジョウすくいに行てくるさかい。」
「ちょっと待った、ちょっと待った。『町まで味噌買を買いに行く』?町って、近いのか?」
 この親父が本気で言っているのなら、その『町』とはゾーンか、最悪、『過去の何処かの町』にあることになる。
 雷から見れば、それは完全な過去への時間旅行だった。

「近いもんじゃ、山越しの三里じゃ。」
「うわぁ~、『山越しの三里』!いつまでかかるの?」
 鳴が楽しそうに、このやりとりに加わってくる。

「いやいや、田舎のもんじゃ、山道にゃ慣れとりますでな、」
「えーそうなんだ!すごいよね。どれくらいあったら、行て来れるの?」
「まぁ、ものの、三日もありゃ。」
 二人のうち、可愛らしい方の鳴が言ったものだから、親父はニコニコ顔で言う。

「馬鹿言え。泊りがけで、どじょ~汁食うつもりはないからな。それと、親父、今『ドジョウをすくいに行く』って言ったけど、近くにイケスか何かあって、ドジョウを飼ってるのか?」
「いやいや、おととしの夏、大雨が降って、えらい水が出ましたんじゃ。そのとき、裏のほぉに溜池がでけてな、去年の夏覗きこんだらドジョウが二、三匹泳いどった。いま時分、大きなってるじゃろ思て、献立表の中へ入れた。」
「くそ、そんな心細いドジョウ食べてられるかよ。くじら汁にしてくれ。」

「くじら汁か、はいはい……。婆どんや、客人、くじら汁がえぇと言ぃなさるで、大急ぎで握り飯を十(とぉ)ほど作てもらいたい。わしゃ、草履に後がけして、これから熊野の浦まで鯨を買いに行てくる。」
 くそ、この悪ふざけ、やっぱりここは同じ耕起でも、ゾーン付きの同一時空世界だ、と雷は思った。
 それに、このくじら汁を食えるくらいなら、耕起前なら一帯一路弾丸鉄道を使って俺の住んでた極寒市から世界の果てまで行けた筈だ、と。

「もぉいい。何も、俺はここで年取るつもりはないからな。そんなことしてられるか。マジで直ぐに出来るものは?」
 言ってから、マジという言い回しが通用するのかと思ったが、ニュアンスは伝わるようだ。

「じきに出来るものは、そこの照らしに入れて並べてありますで、好きなもん言ぅとぉくれ。」
 雷は少し離れたところにある粗末な陳列棚のようなものを見た。
「悪いが、贅沢を言うようだけど、旅をしてるあいだ動くことは何とも思わないんだが、一度こうやって腰を掛けてしまうと、こっちからそこへ行くのが邪魔くさくなるんだよ。何があるか、ちょっと言ってくれるかな。」
 これは半分、雷の本音だった。


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