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第7章 創造と崩壊
58: 齟齬の始まり
しおりを挟む螺子は夢を見ていた。
闇ファイトのリングに螺子は、上がっている。
対戦者の顔は判らない。
問題なのは、リング下の観客者達だった。
夢の中の観客者達は、スード達でも、人間でもなかった。
観客達の容姿は、鵬香の血を体に注入して、スードになり損ねた、あのドナーの蛭人間を連想させた。
血と粘液にまみれた何百本という腕が、リング上の螺子の脚にまとわりつき、彼をリングから引きずり降ろそうとする。
螺子が絶叫を上げた時、彼はトレーシー家のスード棟にある自室のベッドで目覚めた。
悪夢から目覚めたばかりの螺子の横にはアンジェラが座り込んでいた。
一日がこれらから始まる朝だというのに、アンジェラの表情は極めて暗かった。
もしかすると彼女は昨夜寝ていないのではないかと螺子は思った。
「すみません、マスター、、。」
夢の中の絶叫だと思っていたが、もしかすると本当に叫んでいたのかも知れないと螺子は思ったのだ。
「お前のマスターは、私?それともお父様?」
螺子には、突然自分に投げかけられたアンジェラの言葉の意味が判らなかった。
ティムドガッドから帰還してからというもの、アンジェラは螺子に対して、一層の親近感を持つようになってはいたが、かといって螺子を人間として扱うまでには至ってはいない。
会話があったとしても、犬の飼い主が、自分の犬に話しかけるようなもので、半分はアンジェラの自問自答のようなものだった。
従って大半のスードは、マスターとの会話において、マスターの今現在置かれている状況を、全て一瞬の内に判断して答えなければならなかった。
今の螺子も同じだ。
そう、利口な犬がそうする様に。
キャスパーとエイブラハムの関係などは異例中の異例なのだ。
螺子は、昨夜、アンジェラとエイブラハムが激しく言い争っているのを知っている。
アンジェラの問いかけは、恐らくその事に関係して要る。
「私の掟の中には『アンジェラ様にお仕えするように』と書いて有ります。エイブラハム様の事は、アンジェラ様の掟の問題だと思うのですが。」
「お前の遠回しな言いぐさは、だんだんキャスパーのものに似てくるわね。でも人間にはスード程の強い掟はないのよ。だからお前の言い草は賢いように見えるけれど間違ってる。」
アンジェラは昨夜、父親のエイブラハムから、螺子の身柄をヴィルツのいる研究所に移すように迫られていた。
アンジェラは、これ以上、螺子と離れて暮らす事は嫌だと、父親につっぱねていた。
出兵による螺子の欠落は、アンジェラに愛玩動物の損失・死亡以上の悲しみを、彼女にもたらしていたのだ。
しかし一方では、螺子がヴィルツの研究所に出向く事は、父親にとって特別の意味があるのだという事も、今のアンジェラには理解ができていた。
もう父親の具体的な野望や、そのアプローチがまったく理解できないというところから、彼女は卒業していたのだ。
けれど、螺子を手放すのは、、。
それはアンジェラにとって非常に悪い結果をもたらす筈だった、それは螺子の出兵で身に染みて判っていた。
『もし、目の前のこの男が、自分をさらって、どこかにつれて行ってくれたら。父親のいう事など聞くなと、私に言ってくれたら、、。』
そう思っている自分に気がついて、アンジェラは頭を振った。
自分の目の前にいるのは「男」ではなく、スードなのだ。
「お前は明日から、お父様が特別に大切にしてる研究所に行く事になっている。でも私は、お前をあの研究所には行かせたくないの。ヴィルツ博士は、なんだかおかしい。お前は私の持ち物よ。壊したくない。でもお父様には逆らえない。だからこれからキャスパーと相談していらしゃい。キャスパーなら、なんとか良い方法を見つけるかも知れない。私が許可するわ。」
それがアンジェラの考えついた次善策だった。
アンジェラは2階のバルコニーから、トレーシー邸を出ていく螺子を見送っていた。
その時、アンジェラの手には螺子の出兵中、彼女を慰めていた螺子の昔の古いチャイナマスクが、握りしめられていた。
もしかしたら今度こそ、自分のスードが永遠に帰ってこないのではないかという予感に怯えながら。
・・・・・・・・・
停滞していた明日が、うって変わって何か途方もない変化を孕み出したかのように、道行く人々の顔色が一様に高揚していた。
戦勝気分で盛り上がっている街を通り抜けて螺子は、エイブラハム本社についた。
レヴィアタンの領土拡大は、国内に好景気をもたらしていた。
スード封鎖地区を除いて、どの人間もティムドガッドへの侵略の結果から、何らかの恩恵を得る事が出来ていた。
エイブラハム本社も、遠征中の兵士に使った医療薬の効果が、トキマという巨大マスメディアを通じてに華々しく宣伝された結果、他の薬品の販売率までもが向上し、社内が活気に満ち溢れていた。
もっとも暮神が生還していれば、豪族や議会の地図は、軍部主導の流れへと塗り変えられ、そこからはじき出される筈のエイブラハム社にはこんな状況は起らなかっただろうが。
「それにしてもミネルバ。旨く十川司令官を取り込みましたね。あの人物が軍部を裏切るとは思わなかった。」
そんな螺子の言葉ににやりと笑いながら、キャスパーは返事の代わりに、螺子にマスクを取るようジェスチャーで指示した。
「ああいう人間は、己個人の名誉が全てだ。軍部の持っている思想など関係ないのさ。ところでお嬢さんはまだ、君の素顔を見たくないようだな。彼女には、君がマスクを取ると、スードから人間に変身するという思いこみがあるのかもしれんな。」
「今日は、そのお嬢様の命令でここに来ました。」
「君がヴィルツの所へ行くべきかどうかだな?彼女としては、私の方からエイブラハム氏に手を回して、君を自分の手元に置いて置けるようにしたいのだろう。」
「ミネルバ、貴方はどうお考えですか?」
キャスパーは自分のオフィスの壁に飾ってある薬品のポスターに顎をしゃくって見せ、言葉を繋いだ。
ポスターの中央には、プレッシャータイプの注射器と透明なカートリッジが写り込んでいる。
「あれが目下のトレーシー家の稼ぎ頭だよ。ティムドガッド戦争で使われた万能薬、『ルネサンスBT』。不老不死とまではいかんが、被投薬者には完全な健康と、快復力を保証する。欠点は効果を持続させる為に、一週間に一度薬を打ち続けなければいかんと言う事だがね。病気のない国に薬はいらん。それでは困る。一週間が手頃だろう。」
「効果の持続力まで操作しているのですか?」
螺子自身も、今回のティムドガッド戦争の裏側で、スード解放のためのトリックが、キャスパーの手によって着々と仕掛けられていた事には気付いていた。
その中心が、傷ついた人間の兵士に投薬される驚異的な薬物に関係ある事も薄々は知っていた。
しかしここまで考えていたとは。
「そういう事になる。我々スードには、人間がかかるような病気は一切ない。だからそんな病院も医者も我々の世界にはなかっただろ?その代わり別の特殊な病気があって、それで皆が苦労するがな。」
マスクを取った螺子の精悍な顔に陰りが広がった。
もうそろそろ自分の感じている疑問を口にすべき時だと思ったのだ。
「『ルネサンスBT』と、スードとは何か関係が有るのですか?」
「『ルネサンスBT』はヴィルツが母星の過去の技術力を修復して作り上げた薬品だ。人間の体質をスードのそれに近づける事が出来る。なに、只の模倣品だよ。」
キャスパーは、螺子の表情の変化を読みながら先を続けた。
『この若者は、思った通り私のやり口に反感をいだき始めているようだ。やはり私の計画を最初から話さなくて正解だったな。今も全部話す訳には行くまい。』
「いいかね。人間に正面切って、スードとの融合を迫るなど所詮不可能な事なのだ。この星を生きる延びるには、スードとの融合しかないと迫っても、大半の人間には、スードへの抜きがたい差別がある。だからそうしたければ、彼らには最後まで、自分達人間が自力で自分を変化させたと思わせる必要があるんだ。」
「でも、それでは人間と、スードの溝は最後まで埋まらないのではありませんか?」
「『ルネサンスBT』が完全に普及して、人間達が一世代交代した時点で、事実を公表する。」
「事実?お前達はスードになりかけてるぞって言うんですか!?」
螺子は自分の中に突然わき起こった怒りに耐えきれず、我を忘れて椅子から立ち上がって怒鳴った。
螺子自身、その怒りが何処から湧いてきたのか、よく理解できていなかったのだが、、。
「それじゃ、ペテンだ!」
「我々は、人類の差別性と自己欺瞞というペテンから生み出されたのだ。その我々がペテンを掛けかえしたからといって恥じる必要はない。人間が我々にやった大虐殺を忘れるな。今の君ならヴィルツが単なる執行者だと言うことが判るだろう。スードと人間の隔たりは、人間の存在自身にあるんだ。」
キャスパーも立ち上がって、螺子に有無をも言わせぬ迫力で言い返した。
螺子は、その時点で自分の内部の中で、何かが変化しだした事に気がついた。
『人間とスードとの宿命の行く末を、この男に任せて大丈夫なのか?グレーテルの分身であるティンカーボールは、キャスパーの事を信用してはいないようだった。俺にどれほどの事が出来るのかは知れないが、俺なりの方法を取るべきだ』と。
そしてその想いは、螺子自身の遠い過去からの警鐘でもあった。
「それと、今度の俺の研究所行きとはどんな関係があるのですか?」
螺子の言葉は冷静なものに戻っていた。
螺子はゆっくりと椅子に座りながら、まだ興奮冷めやらぬキャスパーに訪ねた。
先の怒りにも似た想いは、高まった感情が引き起こした、混乱したジャンプオーバーフラッシュバックの結果だったような気もした。
それに対して、キャスパーの方は、普段の緻密さを取り戻すのに数秒かかった。
キャスパーは、遠い過去の建国復興期にも、この青年とこの手の論争をした事があるのかも知れないと感じながら、その時の結論を、今出すつもりで自分の椅子に座った。
キャスパーにも螺子が持つ『ジョフ』のような能力があるが、その能力の性格や発露の仕方はかなり違っていたのだ。
彼の場合、過去において「この記憶は忘れたい」と思った事柄についてはフラッシュバックは起こらず、それをこじ開けるには、多大な苦痛を伴っていた。
「怒鳴ったりしてすまない。ヴィルツとエイブラハムは、人間とスードの完全な新融合を目指している。その為の素材が君であり、そのノウハウがティムドガッドのコモンナンド魔女の魔術にあるという事だ。」
「しかし、コモンナンド魔女は、バシャールがつれ去ったのでは、、。」
キャスパーはコモンナンド魔女をレブィアタンに入国させるにあたって起こるであろう様々なトラブルを回避する為に、バシャール達が彼女を連れ去った事にしていた。
いずれはばれる誤魔化しだったが、キャスパーの目的は、スードの独立でありそれが果たされるのなら、何でもやるつもりでいた。
スード居留区を出たのも、居留国内の運動に限界を感じたからだ。
過去には一人で外界を放浪し、バシャール達との親交を深めた事もあった。
その事を裏切り行為と捉えたスード達もいたがキャスパーにはそれも苦にならなかった。
「ヴィルツは既にバシャール達が彼女をつれ去る前に、彼女の魔法の中に隠された母星の科学を学んでいたのだよ。ヴィルツはスードと人間の融合体第一号だが、技術的には不完全なものなのだ。その証拠に彼にも老いが来ている。彼も焦っている筈だ。『ルネサンスBT』は彼自身が自分に処置した技術を少しレベルダウンしたものにしかすぎないからね。だから彼は君を使った次のレベルを考えている。」
「貴方は、最初にヴィルツとエイブラハムと言われましたが、エイブラハム氏はこの事をどう考えているのですか?」
キャスパーは、以前交わしたエイブラハムとの会話を反趨していた。
この若者には、コモンナンド魔女の存在については誤魔化した。
エイブラハムについても、誤魔化す必要があるかのかどうかを決める為に。
応援ありがとうございます!
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