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47:言うべき言葉は?
◆ ◆ ◆
泥の底から意識を引き出すように目が覚めた。
明け方の森の空気はひんやりと冷たく、パトリシアは薄暗い洞窟の中で身震いした。
冷え切った身体を温める毛布はない。
服は着ているワンピース一枚だけ。
もう何日も森をさまよい続けているせいで、自慢だった黒髪は乱れ、黒のワンピースはボロボロ。
枝に引っ掛けたスカートは派手に裂けてしまっていた。
王子を誑かし、満足に《国守りの魔女》としての務めを果たせなかった罰としてパトリシアは身分を剥奪され、死ねとばかりに身一つで《黒の森》に放り出された。
《黒の森》はロドリーとエルダークの中間に広がる魔獣の住処だ。
《魔法無効領域》とまではいかないが、魔法がとても効きにくく、この森では通常の1/4程度まで出力が低下する。
並の魔女では魔法を使うことすらできなくなるため、この森に送られて生きて帰った魔女はいない。
脱出したくてもこの森には人の方向感覚を狂わせる何かがあった。
木の幹に傷をつけ、慎重に進んでいるつもりでもいつの間にか元の場所に戻ってしまう。
まるで閉じた輪の中をぐるぐると回っているかのよう。まさしく悪夢だった。
パトリシアが今日までなんとか生き延びてこられたのは、食べられる草やキノコを見分ける知識があったことと、幸運にも単独で対処できる弱い魔獣にしか遭遇していなかったからだ。
もしも《天災級》の魔獣と遭遇していれば、パトリシアの命運はそこで尽きていた。
(……喉が渇いた……)
乾き切っている喉はヒリヒリと痛み、胃の中は空っぽだ。
パトリシアは硬い地面に手をついて起き上がった。
ここ最近、硬い地面の上で眠り続けているため全身が痛い。
軋む筋肉を動かして立ち上がる。
男爵令嬢として暮らしていた頃は身なりには気を遣っていたが、もはや身なりなどどうでも良い。
パトリシアの体力と精神は限界の域にまで達していた。
洞窟の入り口で立ち止まり、魔獣がいないことを確認してから、ふらふらと歩き出す。
(川か、湧き水はないかしら……小さな水たまりでもいい)
過酷な生活環境で暮らすうちに、もはや矜持は消え去った。
食料を選ぶ余地などなく、泥水を啜り、地に這う虫を食べた。
パトリシアは風と火の魔法は使えるが、水を生み出す魔法は使えないのだ。
重い足を引きずるように歩いても、食べ物も水源も見当たらない。
空は晴天。雨が降る気配もない。
仕方なく、足元に生えていた草を手で引きちぎって草の汁を飲む。
不味い上に、喉の渇きや空腹を満たすには量が足りない。
口から草を吐き出して、パトリシアは再び歩き出した。
鬱蒼とした森の中を何分歩いただろうか。何十分か。一時間か。
耳が微かな水音を捉え、パトリシアは無我夢中でそちらへ向かった。
やがて視界が開け、見つけたのは森の中を流れる小川。
神に感謝しながら岩場に跪き、氷のように冷たい水の中に両手を突っ込み、曲げた両手をコップ代わりにして水を飲む。
生き返ったような心地で息を吐いたそのとき、近くの茂みが音を立てて揺れた。
現れたのは灰色の狼のような魔獣。
体長は二メートルほどか。
魔獣の額には三つめの赤い目があり、口からは大きな牙が覗いている。
一匹だけならまだなんとかなったかもしれないが、ぞろぞろと魔獣は現れ続け、最終的には十三匹の群れとなってパトリシアを包囲した。
(ああ。これは駄目だ。死ぬわ)
この森で魔法を使うには相当な気力と体力がいるが、パトリシアは昨日、この魔獣とはまた違う魔獣の群れに取り囲まれて散々魔法を連発した。
おかげで体力はまだ回復しておらず、群れを蹴散らすほどの強力な魔法は使えない。
最も近くにいた魔獣が飛び掛かってきた。
ほんの一秒後には喉笛を噛み切られ、何もかもが終わるのだろう。
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じたその瞬間。
――バチンっ!!
紙の束を床に叩きつけたような音が聞こえた。
続いて聞こえたのは走る足音。誰かが近づいてくる。
(幻聴だわ――魔獣が徘徊するこの森に生きた人間がいるはずがない――)
目を瞑ったまま、一秒。二秒……五秒。
おかしなことに、致命の衝撃がいつまで経っても訪れない。
「…………?」
さすがに訝って、恐る恐る目を開けると。
「久しぶりね、パトリシア」
目の前には魔獣ではなく、濃紺のローブを纏ったルーシェが立っていた。
胸に青い石のペンダントを下げ、腰に左手を当てた彼女の周囲には炭化した魔獣の死体が転がっている。
「………………」
パトリシアはただただ呆けた。
《人形姫》と呼ばれるほどおとなしく、いつも微笑んでいた彼女がパトリシアを見下ろし、偉そうにふんぞり返っている現実が信じられない。
彼女の隣には刀身が淡く光る剣――恐らく魔剣の類だ――を手にした緋色の髪の青年が立っていた。
彼はルーシェと同色の制服を着ている。どこかの国の軍服だろうか。
「早いとこ離れたほうがいいぜ。近くに十匹はいる」
油断なく辺りを見回しながら青年はそう言った。
「!!」
慌ててパトリシアは彼の視線を追ったが、どこを見ても魔獣はいない。
嘘だったのか。しかしそれにしては妙に確信を持っていたような――
「結界魔法は維持してるから、魔獣が何匹出てこようと大丈夫よ。パトリシア。こっちを見なさい」
命令されたパトリシアは大きく肩を震わせ、恐々とルーシェを見上げた。
「わたしに言うべきことは?」
腰に片手を当てたままパトリシアを見下ろすルーシェの眼差しはこれ以上なく冷たい。
「…………」
でも、彼女は危険を顧みずに助けに来てくれた。
虚偽の事実をでっち上げて居場所と婚約者を奪い、魔法学校から追い出した最低最悪な――敵でしかない女を。
「…………ごめんなさいぃぃぃっ!!!」
パトリシアはルーシェの足元に跪いて号泣した。
泥の底から意識を引き出すように目が覚めた。
明け方の森の空気はひんやりと冷たく、パトリシアは薄暗い洞窟の中で身震いした。
冷え切った身体を温める毛布はない。
服は着ているワンピース一枚だけ。
もう何日も森をさまよい続けているせいで、自慢だった黒髪は乱れ、黒のワンピースはボロボロ。
枝に引っ掛けたスカートは派手に裂けてしまっていた。
王子を誑かし、満足に《国守りの魔女》としての務めを果たせなかった罰としてパトリシアは身分を剥奪され、死ねとばかりに身一つで《黒の森》に放り出された。
《黒の森》はロドリーとエルダークの中間に広がる魔獣の住処だ。
《魔法無効領域》とまではいかないが、魔法がとても効きにくく、この森では通常の1/4程度まで出力が低下する。
並の魔女では魔法を使うことすらできなくなるため、この森に送られて生きて帰った魔女はいない。
脱出したくてもこの森には人の方向感覚を狂わせる何かがあった。
木の幹に傷をつけ、慎重に進んでいるつもりでもいつの間にか元の場所に戻ってしまう。
まるで閉じた輪の中をぐるぐると回っているかのよう。まさしく悪夢だった。
パトリシアが今日までなんとか生き延びてこられたのは、食べられる草やキノコを見分ける知識があったことと、幸運にも単独で対処できる弱い魔獣にしか遭遇していなかったからだ。
もしも《天災級》の魔獣と遭遇していれば、パトリシアの命運はそこで尽きていた。
(……喉が渇いた……)
乾き切っている喉はヒリヒリと痛み、胃の中は空っぽだ。
パトリシアは硬い地面に手をついて起き上がった。
ここ最近、硬い地面の上で眠り続けているため全身が痛い。
軋む筋肉を動かして立ち上がる。
男爵令嬢として暮らしていた頃は身なりには気を遣っていたが、もはや身なりなどどうでも良い。
パトリシアの体力と精神は限界の域にまで達していた。
洞窟の入り口で立ち止まり、魔獣がいないことを確認してから、ふらふらと歩き出す。
(川か、湧き水はないかしら……小さな水たまりでもいい)
過酷な生活環境で暮らすうちに、もはや矜持は消え去った。
食料を選ぶ余地などなく、泥水を啜り、地に這う虫を食べた。
パトリシアは風と火の魔法は使えるが、水を生み出す魔法は使えないのだ。
重い足を引きずるように歩いても、食べ物も水源も見当たらない。
空は晴天。雨が降る気配もない。
仕方なく、足元に生えていた草を手で引きちぎって草の汁を飲む。
不味い上に、喉の渇きや空腹を満たすには量が足りない。
口から草を吐き出して、パトリシアは再び歩き出した。
鬱蒼とした森の中を何分歩いただろうか。何十分か。一時間か。
耳が微かな水音を捉え、パトリシアは無我夢中でそちらへ向かった。
やがて視界が開け、見つけたのは森の中を流れる小川。
神に感謝しながら岩場に跪き、氷のように冷たい水の中に両手を突っ込み、曲げた両手をコップ代わりにして水を飲む。
生き返ったような心地で息を吐いたそのとき、近くの茂みが音を立てて揺れた。
現れたのは灰色の狼のような魔獣。
体長は二メートルほどか。
魔獣の額には三つめの赤い目があり、口からは大きな牙が覗いている。
一匹だけならまだなんとかなったかもしれないが、ぞろぞろと魔獣は現れ続け、最終的には十三匹の群れとなってパトリシアを包囲した。
(ああ。これは駄目だ。死ぬわ)
この森で魔法を使うには相当な気力と体力がいるが、パトリシアは昨日、この魔獣とはまた違う魔獣の群れに取り囲まれて散々魔法を連発した。
おかげで体力はまだ回復しておらず、群れを蹴散らすほどの強力な魔法は使えない。
最も近くにいた魔獣が飛び掛かってきた。
ほんの一秒後には喉笛を噛み切られ、何もかもが終わるのだろう。
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じたその瞬間。
――バチンっ!!
紙の束を床に叩きつけたような音が聞こえた。
続いて聞こえたのは走る足音。誰かが近づいてくる。
(幻聴だわ――魔獣が徘徊するこの森に生きた人間がいるはずがない――)
目を瞑ったまま、一秒。二秒……五秒。
おかしなことに、致命の衝撃がいつまで経っても訪れない。
「…………?」
さすがに訝って、恐る恐る目を開けると。
「久しぶりね、パトリシア」
目の前には魔獣ではなく、濃紺のローブを纏ったルーシェが立っていた。
胸に青い石のペンダントを下げ、腰に左手を当てた彼女の周囲には炭化した魔獣の死体が転がっている。
「………………」
パトリシアはただただ呆けた。
《人形姫》と呼ばれるほどおとなしく、いつも微笑んでいた彼女がパトリシアを見下ろし、偉そうにふんぞり返っている現実が信じられない。
彼女の隣には刀身が淡く光る剣――恐らく魔剣の類だ――を手にした緋色の髪の青年が立っていた。
彼はルーシェと同色の制服を着ている。どこかの国の軍服だろうか。
「早いとこ離れたほうがいいぜ。近くに十匹はいる」
油断なく辺りを見回しながら青年はそう言った。
「!!」
慌ててパトリシアは彼の視線を追ったが、どこを見ても魔獣はいない。
嘘だったのか。しかしそれにしては妙に確信を持っていたような――
「結界魔法は維持してるから、魔獣が何匹出てこようと大丈夫よ。パトリシア。こっちを見なさい」
命令されたパトリシアは大きく肩を震わせ、恐々とルーシェを見上げた。
「わたしに言うべきことは?」
腰に片手を当てたままパトリシアを見下ろすルーシェの眼差しはこれ以上なく冷たい。
「…………」
でも、彼女は危険を顧みずに助けに来てくれた。
虚偽の事実をでっち上げて居場所と婚約者を奪い、魔法学校から追い出した最低最悪な――敵でしかない女を。
「…………ごめんなさいぃぃぃっ!!!」
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