鬼を祓いて闇を行く(旧版)

幽月 篠

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※主と従者※

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 懐刀とは、背を預けられるただ一人の腹心のことである。 

「はいこれ。あのうつけから」

 起きてすぐに騰蛇から文を差し出され、時雨は困惑しながらそれを受け取った。それを開くと、綺麗なのに何故か野生じみた文字が羅列していた。


   例の術師と若旦那という奴が繋がっていると見ても構わんだろう。俺以外にも、椿の常連が襲われていてもおかしくはない。俺に考えがあるので、念のため武器となるものを用意しておいて欲しい。
     そして、お前に言いたいことがある。護衛の任に復帰したその日に俺の部屋に来てくれ。


 そして~の行の文字が少し震えてるように見え、時雨は首を傾げた。何を言うつもりなのだろうか。人を斬れと言われれば人を斬る覚悟はある。それとも身体を差し出せなのか。いずれにしても、これからちゃんと家来としての態度を取れるようにならねば。時雨はパシンと己の頬を叩くと、明日の為に気合いを入れた。

 時雨は文を受け取った次の日、政暁の部屋の前に居た。 
「若様。入ってもよろしいでしょうか」

 政暁の入れという言葉が聞こえると、時雨は静かに障子を開き、部屋の中に入った。

「若様。2日もお暇を頂き、申し訳ございませんでした」
 時雨が頭を下げると、政暁は微笑んだ。

「構わん。負傷したままでは、怪我も治らんし、万全の状態であるべきなのは分かっている」

 いつもの自分に向ける政暁の微笑みを見ると苦しくなるような気がする。

「若様。まず、お借りしていた着流しをお返しします」

 時雨は頭を伏せたまま、政暁に着流しを包んだ風呂敷を差し出した。
 政暁は着流しを広げると、目を見開いた。

「驚いた。修復は無理だと思っていたが、殆ど破れた所が分からないな」

 嬉しそうに笑いながら、若君は着流しを見ていた後、着流しを畳んだ。

「若君にご満足頂けたなら何よりです。して、文に書かれていた若様の考えとは?」

 時雨が問うと、政暁は計画をまとめた紙を出して時雨に説明した。うつけと言われる割には、計画も筋の通ったものであり、民間人を巻き込まないように配慮されているのを考えると、この男はうつけの振りをしているだけか、相当身内から嫌われているのではと時雨は内心、疑った。

「承知しました。貴方様の計画に従いましょう」

 時雨が平伏すると、政暁は険しい顔になった。

「もしかすると、人を斬らねばならないかもしれん。お前は俺の都合で人を殺められるか」

 ああそのことかと、時雨は政暁の心情とは対照的に、落ち着いて答えた。

「若様の都合というよりも、城下で鬼を使役し、殺している時点で術師は殺すか捕まえるのが当然ですし、雇っている若旦那という奴も同罪です。それに、藩主の嫡男ともあろう御方が、私のことなど気を使わないで良いのです」

 まあ、泰平の世で人を殺めたこともなく生きてきた藩主の嫡男が、もし俺が人を殺める姿を見れば、気持ち悪がって俺を避けるようになるだろう。そうすれば、この胸の苦しさは時間と共に消えるはず。それにはこの計画は好都合だと、時雨は胸の内で嗤った。

「そうか……。それならば良い」

 気まずそうな顔をして、若君は盃の液体を飲んだ。酒かと思ったが何の臭いもせず、時雨はそれが水であると悟った。ごくごくと飲み干すと、若君は静かな声で時雨に命じた。

「時雨、顔を上げろ」 

 顔を上げると、若君は意を決したような顔をしていた。若君は俺と目が合った瞬間に目が泳いだが、すぐに此方を見て一呼吸置くと、口を開いた。

「……紅原時雨、俺の懐刀になってくれないか」

 若君の言葉で、心の臓が止まりそうになった。これは何かの冗談だろう。そう確かめるように若君を見るが、琥珀色の瞳は静かに此方を見据えている。

「……貴方は何を言っているのです?」

 何を今耳にしたのかが信じられず、己の声は情けないほどに震えていた。

 「聞こえなかったのか。お前に懐刀になってほしいと言ったのだが」

 止めてくれ。そんな、真っ直ぐな瞳で俺を見ないでくれ。苦しくて、自分の中の何かが壊れてしまいそうになる。

「冗談はよしてください。私は貴方の懐刀になるにはあまりにも血に濡れている。そして、私より強い人などいくらでもいます」

 ああ、感情を抑えねば。そう自分に言い聞かせようとも、口は勝手に言葉を紡いでいく。おかしい。懐刀になることは紅原家の出世の良い機会だ。それなのに、俺は何に怯えている?

「時雨、落ち着け」

 目の前の若君がそう言っても、激情のままに言葉は口を突いて出る。

「私は闇を生きるもので、貴方は陽の中を生きる人間です。同じ国に住んでいようが、生きる世界が違います」
「時雨」

 名前を呼ぶな。貴方に名前を呼ばれる度に、胸が苦しくなる。時雨は琥珀色の瞳と目を合わせぬように目を伏せた。

「貴方がこんな私を懐刀にしたくても周りは……」

 言い終えるよりも先に痛いほど強い力で抱きしめられた。時雨は自分に何が起きたかも分からぬまま、あまりの衝撃に言葉を失った。

「周りのことなどこの俺が気にすると思うたか?このうつけで好色のとんびが?」
 抱きしめる力は痛いというのに、耳元で囁かれるのは柔らかな声音だ。

「俺だってこの呪詛のせいで、父上以外の周りから煙たがられている。今更お前が懐刀になろうと関係ないわ」

 若君は抱きしめるのを止めると、俺の両肩を掴んだ。力ずくで肩を掴む手を払えばいいのに、もう己には抵抗する意欲が湧かない。

「時雨、俺の目を見ろ」

 恐る恐る顔を上げると、若君は微笑みを浮かべた後、真剣な顔に戻った。

「それにお前は先程言ったではないか。術師がしでかしたことは、若旦那という奴がしたことも同然だと。それなら、もしお前に人を殺めさせれば、この俺が人を殺めたことと同じだ」

 どくんと、鼓動が鼓膜に響いたのではないかと思う程、心の臓が跳ねる。政暁は、目を見開いたまま身動きしない時雨の肩からそっと手を離すと、静かに口を開いた。

「そして俺は周りのことなど気にはしない。ただ俺はお前の心が知りたい」

 その言葉で、時雨が今まで繕っていた上辺が剥がれた。熱いものが頬を伝い、ぽたりぽたりと膝の上に落ちていく。泣いたのはいつ以来だろうか。悲しくない筈なのに、涙が止まらない。

「わた……しはっ……」

 喉がつかえて言葉にならない。涙で貴方の顔が霞む。
「ゆっくりでいい。お前の意思を聞かせてくれ」
 そう言われても、余計幼子のようにしゃくりあげてしまい、声が中々出ない。

「許っ……される……ならば……」

 願って良いのだろうか。こんな俺が望みを口にして良いのか。時雨は涙を袖で拭うと、琥珀色の双眸を見た。

「私は……っ、俺は懐刀として、貴方様のお側に居たいです」

 今まで必死に気づかないふりをしていたが、もう限界だ。初めて会った時に、貴方に心を奪われてしまったのだ。しかし俺は男だ。女となって子を孕みたいという訳ではない。ただ貴方を守りたい。貴方がどんな道を歩むのか側で見ていたいのだ。言い終える頃には、また涙で目の前の琥珀色の双眸が霞んでしまっていた。こんな醜態を晒した事が父に知られればまた叱られるに違いない。

「ならばこれからお前は、俺の懐刀だ」

 若君はそう言うとまた俺の身体を抱きしめた。その衣を汚してはならぬと分かっているのに、俺は若君の身体にしがみついて泣いた。布越しに伝わる熱が温かくて、このまま離れたくなかった。


 四判刻も経てば冷静に戻り、泣き止むと、時雨は自分がどれ程失礼な行為をしたのかに気づいて青ざめた。

「若様、申し訳ございません。若様にしがみついた挙げ句、若様の衣を濡らしてしまって」
「別に気にはしていない」

 そう呟いた後、若君は俺から離れる。そして、若君は苦しそうに頭を押さえた。

「くそっ、こんな時に……。時雨、このままだと俺はお前を犯すかもしれん。すまないが、俺の手の届かない場所まで離れてくれないか」

 いつもなら、『そうですか。ならば色子でも呼ばれませ』などと言ってそそくさと逃げる筈なのに、今日はそんな気分になれなかった。

「懐刀になりたいと言ったのは私です。別に構いませんよ。お好きなようにどうぞ」

 前に肌を重ねた後に俺が散々言ったせいか、若君は信じられないとでも言うように目を大きく見開く。

「本当に良いのか。お前は同性と肌を重ねるのが怖いのだろう?」
「他の男なら嫌ですが、おそらく若様になら多分大丈夫です」

 他の男なら殺意を抱く程嫌だが、この人なら大丈夫かもしれない。政暁は時雨の身体を引き寄せると、片手をおずおず指を絡めてきたので、時雨はそれに応えるようにぎこちなく指を絡め合う。唇同士が触れ、徐々に互いを貪るように口を吸い合えば、二人の理性の枷は外れていった。

  今まで以上に頭がくらくらして、時雨は目を瞑る。

「んっ……は……ぁ……」

   散々口吸いをしている間に髪を束ねていた紐がほどかれると、一旦唇が離れ、押し倒される。前回は妙な香が焚かれていたが、今回は完全に正気だ。正直、自分より体格の大きい男が覆い被さっているのは少し怖い。俺が怯えているのに気づいたのか、若君は微笑んで俺の頭を撫でた。

「大丈夫だ。俺を信じて身を委ねてくれ」

 頭を撫でるその手の温もりや、穏やかな声音、そして安心させるように微笑む顔に、怯えて強張っていた肢体が弛緩した。


「若……様……っ、もう……無理っ……うぁ」

 何度達しただろうか、まだ前戯だというのに限界に近い。時折、俺のものだと言わんばかりに身体中に印を付けられ、その度にひいひい声を上げる自分がいる。
「言質は取ったんだ。まだ前戯なんだから耐えろ」
 耳元で囁かれ、息が耳にかかるとまた声を上げてしまいそうになる。

「もうっ……前戯は……充分です。早く……なさってください」
「ちぇっ、もっと前戯で乱れるお前を見ていたいのだが。しょうがない。今、通和散を用意する」

 若君は、通和散の入った紙を取りだし通和散を口に含むと、それを指先に付ける。

「時雨、両足を持っておけ」

 快楽でぼうっとした頭ではろくに判断も出来ないまま、足を持つ。すると、ぬるりとしたものを秘所に塗られ、指先が内部に入り込んだ。

「んっ……」 

 やはり、この感覚は慣れない。何かを探るかのように動かす感覚がどうもぞくぞくとする。

「ひっ……」

 ある部分に指が触れた途端、皮膚が粟立つ感覚に襲われ時雨は大きく目を見開く。それを見て政暁はニヤリと笑うと、指でその一ヵ所を何度も軽く引っ掻いた。

「んあっ……くぅ……」

 唇を噛んでも声は抑えられなくて、羞恥と快感で身体が熱くなる。一旦、指が引き抜かれるが、息を付く暇なく中を二本、三本と中を慣らす指が増やされる。

「うぁ……」

 若君が、遊女から相手を快楽に堕とす手管を習ったのは知っているが、そもそも男と女では構造が違うだろう。若君は今まで何人と相手をしたのだろうか。くちゅくちゅと卑猥な音が耳まで届き、羞恥で耳を塞ぎたくなる。

「どうした? 腰が揺れてるぞ?」

 にやにやと笑う顔がいたずらをしている小僧のように楽しげで苛つく。

「分かって……っ……言ってますよね?」

 喉に力を入れねば会話どころではなくなるほど、快楽は己を蝕び、身体を火照らせている。

「 ああ、本当にお前は美しい」

 珍しい茶碗でも眺めるかのようにうっとりとした声音で言っているが、その顔は獣のように瞳はぎらつき、八重歯が虎の牙なのではないかと錯覚してしまう。若君がそんな恐ろしい顔をしているというのに、俺が目の前の獣に抱いたのは恐怖ではなく、早くこの獣に喰われたいという己でもおぞましい欲求だった。

「前回は怖がっていたというのに、今のお前は飢えた獣だぞ」
「若様だってそのようなお顔ですよ」

 袴の上から魔羅に触れると、布越しでも分かるほどそれは熱を持っている。

「っ……今のお前の顔を鏡に映してやりたいよ」

 若君は笑うと、袴と褌を脱ぎ捨てて俺の唇を塞いだ。

「ふっ……」

 互いの舌を軽く絡めると唇を離す。唇を離しても、透明な唾液が糸を引いた。熱を持ったそれが、秘所に触れると顔が熱くなるのを感じる。

「すいません若様。その着物を脱いで頂けませんか」
「なぜだ?」

 時雨はにやりと笑って、わざとらしく笑う政暁の耳元で囁いた。

「貴方の熱を肌で感じたいのです」

 自分がとんでもないことを言っている自覚はある。しかし今はただこの男の全てが欲しかった。

「んぁ……」

 指が引き抜かれそれまで足を支えていた手を離す。自分が身体を茵に横たえていると、若君は獣のように歯を見せて笑い、着物を脱いで一糸も纏わぬ姿になった。自分よりもがたいの良い筋肉質の身体に、時雨はごくりと唾を飲む。

「ならば最後まで耐えて見せろよ」

 政暁は時雨の足を開くと、秘所に魔羅を押し込んだ。

「はっ……」

 何度も身体を重ねたことはあるものの、この異物が入る感覚はきつい。うつ伏せならば良いが、仰向けでは掴める物が無い。ずるりずるりと奥まで熱が侵入する感覚を人差し指を噛んで堪えていると、噛んでいた指を外される。

「自分の指を噛むな。堪えきれないなら俺の背にでも爪を立てておけ」
「しかし……」
「しかしもくそもないわ。俺の命令は素直に従え」

 恐る恐る背中に腕を回すと、若君は獣のように歯を見せ、一気に奥まで押し込んだ。

「んあぁっ……」

 身体を貫くその熱に痺れる程の快感が身体中を走る。あまりの快感に身体を仰け反らせようとするが、腰を押さえつけられ、何度も熱を穿たれる。

「やあぁっ……、あっ、くぅ………うああっ……ッ」

 やばい。殺される。そう錯覚するほどに、己を穿つ熱は激しさを増していく。時雨は声を抑える余裕を無くし、ひたすら政暁を呼んだ。

「若様ぁ……ひあっ……わか……さまぁっ……」
「懐刀になるなら……っ……俺の名前を呼べ……」

 見上げると、心なしか若君も余裕を無くしているようだ。

「まさ……あき……さま」

 情事の快楽のせいで舌足らずになってしまった声で若君の名を呼ぶと、嬉しそうに若君は微笑んだ。

「愛しい者に名前を呼ばれるのは嬉しいものだな...、時雨よ」

 その微笑みが情事の最中とは思えないほど無垢で呆気に取られていると、奥を一気に貫かれた。

「くっ……ああぁ……っ……!」
「ッ……」

 身体を大きく仰け反らせるとドロリと精が爆ぜ、一呼吸置いて中に熱が注がれた。ぜいぜいと呼吸をしていると、魔羅が引き抜かれた。そして汗でべったりと付いた前髪を掻き上げられ額に口づけられると、頭を撫でられた。その手が心地好くて時雨は瞼を閉じ、意識を闇に落とした。


 腰まで届く髪を乱し、腕の中で寝息を立てる時雨の頬を政暁は軽く撫でた。最初肌を重ねた時はあんなに嫌がっていたというのに、今回は随分と積極的であった。それだけ心を開いてくれたのだろうか。起こさないように、秘所から指で精を掻き出すと、どろりと白濁した液が溢れる。

「んっ……」

 鼻のかかった声が聞こえ、焦ったが起きた様子はなく、すやすやと眠っている。なるべく残らないように掻き出すと、肢体を手拭いで綺麗にした。肩にまだ残る傷は塞がってはいるものの、まだまだ完全には癒えていない。無駄の無いほど適度に筋肉のついたしなやかな肢体をよく見れば、細かい傷がたくさんある。そして上書きするかのように己が付けた赤い印は数え切れないほどだ。
 もうすぐ夏だが、念のため風邪を引かぬように長襦袢を掛けてやると、また自分の腕に引き寄せた。夜が明ける前には、またこの男は居なくなる。それまでは、こいつは紅原の嫡男でも、鬼祓いの次代でもない。俺の想い人だ。俺と会う以前は誰かに組み敷かれたことがあったようだが、もうこいつは俺の懐刀だ。この先何人たりともこの男を陵辱することなど許しはしない。
 闘う姿を見るまでは、時雨が女であれば側室にして、一生俺のものに出来たのにと思っていた。しかし、化け物に囲まれながら舞うように短刀で斬り裂く姿を目に焼き付けてから、懐刀にするにはこの男しかないと確信した。そして、先程泣き崩れた姿に人としての脆い面を持ったただの人なのだと悟った。
 美しいかんばせも、するどい刃のような強さも、強がってはいても脆い部分を持っている心も全てが愛おしいのだ。

「時雨、愛している」

 寝ている時雨に囁くと、その身体を抱きしめ、長く艶やかな黒髪を指に絡めた。

 ふと時雨の意識が覚醒すると、心地よい温もりに包まれていた。身体が気だるく、このままでいたいと思ったが、それはいけないだろう。
 目をゆっくり開けると、まず鳶色のざんばらな髪が視界に入り、そして瞼を閉じた男の寝顔があった。普段は獣や猛禽を思わせるような雰囲気を醸し出しているというのに、寝顔は幼い童のようだ。
 身体を起こそうとしたが、長襦袢の上から抱き枕のように抱きしめられおり、起き上がれない。起こさないように腕を退けるとやっと起き上がることが出来た。

「っ……」

 昨夜は前戯ばかりでそれほどではなかった筈だが、腰に僅かに痛みが走る。それに構わず、立ち上がって身体を確認した。身体は何処もベタついてはいないが、赤い跡があちこちにある。昨夜のことを思い出し、顔がかあっと熱くなったので、急いで赤い跡を隠すように着物に着替えた。
 正直、人と肌を重ねることにあんなに我を忘れたのは初めてで、自分がやったことが恥ずかしくなる。肩まで若君に布団を掛けると、熱くなった頬を冷やすために、障子を開ければ、宵闇の空は若君の瞳と似た琥珀色の朝焼けに染まり始めていた。
 身内が死んで以降、色々と嫌なことばかりあり宵闇の中にいる心地だった俺にとって、この男は朝焼けなのかもしれない。

『時雨の瞳は夕焼けの色に似ているな』

 誰が言ったかは覚えてないが、ふと誰かの言葉が脳裏に響いた。あの言葉が真ならば何故全く正反対のものに惹かれるのだろうなと、時雨は朝焼けに向かって微笑んだ。


 家に帰宅すると念のため水で身体と髪を清め、自室で髪を拭いていると、騰蛇が入ってきた。

「騰蛇、いつものを頼む」
「ああ、構わんよ」

 騰蛇は笑うと、時雨の後ろに座り、手櫛で時雨の髪を梳かしはじめた。騰蛇は十二天将でも火将に位置しており、本来なら手拭いや風に任せて髪を乾かさなければならないところを、騰蛇が数回手櫛で髪を梳かすことによってあっという間に乾くのである。
 父とは違い、腰まで届く程の長い髪を持つ時雨にとって、騰蛇に髪を梳かしてもらうのは日常茶飯事になっていた。髪に湿り気がないのを確認し、櫛で髪を梳かしていると騰蛇が口を開いた。

「時雨、今日は襟足で髪を結べ。さもないとお前の父が気絶する」
「ん?何故だ?」
「とにかく襟足で結んでおけ」

 何でこうも必死に言うのか分からない。時雨は少し考え込むと、あることに行き着き、軽く目を見開いた。

「あ……」
「そういうことだよ。だから秋也の前では襟足で結べ」
 そう言うと、騰蛇は笑みを浮かべ部屋を出ていった。
 襟足で髪を結んだ後、父の部屋に行き、昨夜の若君の考えを伝えた。

「なるほど。ならば、その日数名の鬼祓いを寄越そう。お前は、若君の御身を守ることを最優先に行動しろ。外法師はなるべく生け捕りが良いが殺しても構わん」
「承知しました。では父上、失礼いたしました」

 とりあえずばれないようにそそくさと父の部屋を出ようとすると呼び止められた。

「時雨。何故、元服前の髪型なのだ?」
「それは……その……」

 時雨がしどろもどろになっていると、影縄がどこからともなく姿を現した。

「任務が終わったのなら、楽な髪型が良いのではと私が提案したのです」

 秋也は影縄の顔をじっと見たが、別に疑った様子はなく、時雨の方に視線を戻した。

「そうか。しかしこの鬼祓いの長に報告するまでが任務だ。この私の前では髪型は崩すな」
「はい」

 影縄が思いがけず助け船を出してくれたことに心の中で感謝しながら、時雨は父の部屋を出た。


 騰蛇に言われて、困っている次代時雨様に助け船を出してみたが、なんとか主様秋也は気づかずに済んだようである。騰蛇によれば、赤い跡が次代様の首の後ろにあったらしく、藩主の嫡男に寵愛されていることを知れば、主様が動揺するかもしれないので、次代様を助けてやれと言われた。
 今まで身内しか興味の無かった次代様に信頼出来る存在が現れたことは幸いである。あれだけあの鷹の子を嫌っていた騰蛇も何かがあったのか、鷹の子と次代様の関係を見守る立場に変わっている。次代様はもう元服を迎えて3年も過ぎた立派な青年だ。鷹の子と次代様が二人だけの誓いを立てたのなら、もう主様にも、式神にも二人の間に入る余地は無いだろう。次代様が自分の口で言わない内は、主様が二人の間に首を突っ込まないよう、自分達が二人の仲を隠さねばと影縄は密かに誓った。
  今まで心に暗い澱を抱えていた次代様が、今朝は随分と清々しい顔をしていたのだ。母と姉を失って辛い思いばかりしていた次代様に一筋の光が差したなら、それを失わせる訳にはいかない。それが例え次代様と血の繋がった親であってもだ。







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