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41. アリス
深夜、静まり返った厨房に影が忍び込む。
棚にある銀の缶に手が伸びる。それは、公爵夫妻が好んで飲む最高級の紅茶葉が入ったものだ。
音もなく蓋が開けられる。芳醇な香りのする茶葉の中に、白い粉がさらさらと振り入れられた。粉は瞬く間に馴染み、見分けがつかなくなる。
月明かりの下、影がほくそ笑んだ。冷たく、毒々しい笑み。
――――――
「聞きました? リアム様、ユリアナ様に夢中になっておられるって」
「ええ。ご飯もお嬢様のお部屋で食べていらっしゃるとか。まるで崇拝しているみたい」
「なんだかユリアナ様、この前久しぶりにお見かけしたんだけど、雰囲気が変わりましたよね。あんなに美しかったかしら……」
「それに比べて、アリス様はどうなるのかしら?お可哀想に。他に嫁ぎ先もないでしょうし」
「だって、あれじゃあ、ねえ……」
クスクス、クスクス。
廊下の陰で、アリスは聞いていた。
顔が沸騰するように赤くなる。屈辱が血管を駆け巡る。
(かわいそう? 私が? 爪が掌に食い込む。あの女のせいで。すべてが狂った。すべてが。)
――――――
アリスは思い出す。
それは単なる貧困ではない。泥に塗れた絶望の記憶。
彼女が生まれたスラム地区は、路地がまともに整備されておらず、雨が降るたびに泥と汚水を撹拌して黒いヘドロに変えた。空気は常に、腐敗と下水の臭いで淀んでいた。
湿った狭い部屋で、五人の兄弟と身を寄せ合って眠った感覚。カビの生えたパンの耳を巡ってネズミと争った記憶。どれだけ震えても振り払えない、骨の髄まで染み込むような寒さ。
父親はその掃き溜めから這い上がった。冷酷な商売と危うい取引を重ね、巨万の富を築き上げたのだ。
アリスはすべてを手に入れた。高価なドレス、宝石、そして洗練された美しさ。手に入らないものはないと思うほどに。
だが、貴族たちの世界は、また別の意味で残酷だった。
男爵位すら持たぬアリスは、名門への嫁ぎ先に苦労した。金で買えない「血」の壁に突き当たる。
デビュタントの夜は黒塗りの記憶。
会場の誰よりも高価な、金糸とレースをふんだんに使った特注のドレスを纏っていた。けれど、ただの一人もダンスを申し込む殿方はいなかった。
彼らは城壁のように頑として背を向けたままだった。勇気を出して令嬢たちの輪に近づくと、彼女たちは囁き合う。お淑やかに、しかしアリスに聞こえるような声量で。
「……何の臭いかしら?」
「銅貨の臭いだわ。いくら薔薇の香水を浴びても、商人の娘の成り上がり臭は消せないのね」
「あーあ、私のドレスにまで染み付いてしまいそうだわ」
羞恥、怒り、悲哀、ごちゃごちゃになった感情が胸の内で戸愚呂を巻いた。
アリスは顔を耳まで真っ赤に染め上げ、逃げるようにその場を去った。
だから、公爵家の子息であるリアムに目をつけた。接触の機会を虎視眈々と伺い、ハンカチを落とし、頬に手を触れた。無垢で、守りたくなるような花を演じきった。
事は想像以上にスムーズに進んだ。孤独な公爵子息は笑えるくらい簡単に、偶然現れた彼女を聖母のように崇拝した。
その矢先。成金趣味の小太りな醜い男との婚約話が持ち上がった。顔合わせの時に、男はアリスを舐め回すように見たその目は、同時に成金の娘であるアリスを見下していた。
(絶対に嫌だ。こんな人生。こんな終わり方、絶対にありえない。)
アリスは賭けに出た。
リアムを誘惑する、彼は落ちた。身体を重ねた。既成事実を作るのだ。子供を孕んでもいい。子供ができれば、私を放り出すことはできない。
父親は、手塩にかけた商品である私が処女を失ったことを知り激怒したが、相手が公爵家だと知ると黙認した。醜い成金趣味の男との婚約は白紙になった。そして、リアムはアリスにプロポーズした。夢のようだった。公爵夫人の座が、すぐそこまで来ていた。
しかし、巨大な壁が立ちはだかる。クロシェード公爵夫妻。彼らはアリスを受け入れなかった。彼女を汚らしい庶民であるかのように見下し、泥棒猫を見る目で見る。
なら、障害は取り除けばいい。
『天使の微睡み』。リアムがアリスの父の商社を通じて密輸している薬だ。健康な者に使用すれば、後効性の毒にもなり得る劇薬でもあった。それを、リアム様には内緒でアリスは個人的に密売人から受け取り、たびたび公爵夫妻の飲み物に盛った。少しずつ使うことで、怪しまれず、病死のように衰弱させることができる。
(あいつらが死ねば、リアム様との結婚に障害はない。)
その矢先だ。ユリアナが現れたのは。ムカつく女。全てを奪っていく。アリスが喉から手が出るほど望んでいる全てを生まれながらに持っているくせに、まるで「私はかわいそうな被害者です」というような顔をして、愛を乞う。
(憎い。憎い。あと少しだったのに。あの女さえいなければ、今頃私は……!)
「死ねばいい。私の人生を邪魔するものは、一人残らず」
アリスはほくそ笑む。白い粉の入った小瓶を手にして。
棚にある銀の缶に手が伸びる。それは、公爵夫妻が好んで飲む最高級の紅茶葉が入ったものだ。
音もなく蓋が開けられる。芳醇な香りのする茶葉の中に、白い粉がさらさらと振り入れられた。粉は瞬く間に馴染み、見分けがつかなくなる。
月明かりの下、影がほくそ笑んだ。冷たく、毒々しい笑み。
――――――
「聞きました? リアム様、ユリアナ様に夢中になっておられるって」
「ええ。ご飯もお嬢様のお部屋で食べていらっしゃるとか。まるで崇拝しているみたい」
「なんだかユリアナ様、この前久しぶりにお見かけしたんだけど、雰囲気が変わりましたよね。あんなに美しかったかしら……」
「それに比べて、アリス様はどうなるのかしら?お可哀想に。他に嫁ぎ先もないでしょうし」
「だって、あれじゃあ、ねえ……」
クスクス、クスクス。
廊下の陰で、アリスは聞いていた。
顔が沸騰するように赤くなる。屈辱が血管を駆け巡る。
(かわいそう? 私が? 爪が掌に食い込む。あの女のせいで。すべてが狂った。すべてが。)
――――――
アリスは思い出す。
それは単なる貧困ではない。泥に塗れた絶望の記憶。
彼女が生まれたスラム地区は、路地がまともに整備されておらず、雨が降るたびに泥と汚水を撹拌して黒いヘドロに変えた。空気は常に、腐敗と下水の臭いで淀んでいた。
湿った狭い部屋で、五人の兄弟と身を寄せ合って眠った感覚。カビの生えたパンの耳を巡ってネズミと争った記憶。どれだけ震えても振り払えない、骨の髄まで染み込むような寒さ。
父親はその掃き溜めから這い上がった。冷酷な商売と危うい取引を重ね、巨万の富を築き上げたのだ。
アリスはすべてを手に入れた。高価なドレス、宝石、そして洗練された美しさ。手に入らないものはないと思うほどに。
だが、貴族たちの世界は、また別の意味で残酷だった。
男爵位すら持たぬアリスは、名門への嫁ぎ先に苦労した。金で買えない「血」の壁に突き当たる。
デビュタントの夜は黒塗りの記憶。
会場の誰よりも高価な、金糸とレースをふんだんに使った特注のドレスを纏っていた。けれど、ただの一人もダンスを申し込む殿方はいなかった。
彼らは城壁のように頑として背を向けたままだった。勇気を出して令嬢たちの輪に近づくと、彼女たちは囁き合う。お淑やかに、しかしアリスに聞こえるような声量で。
「……何の臭いかしら?」
「銅貨の臭いだわ。いくら薔薇の香水を浴びても、商人の娘の成り上がり臭は消せないのね」
「あーあ、私のドレスにまで染み付いてしまいそうだわ」
羞恥、怒り、悲哀、ごちゃごちゃになった感情が胸の内で戸愚呂を巻いた。
アリスは顔を耳まで真っ赤に染め上げ、逃げるようにその場を去った。
だから、公爵家の子息であるリアムに目をつけた。接触の機会を虎視眈々と伺い、ハンカチを落とし、頬に手を触れた。無垢で、守りたくなるような花を演じきった。
事は想像以上にスムーズに進んだ。孤独な公爵子息は笑えるくらい簡単に、偶然現れた彼女を聖母のように崇拝した。
その矢先。成金趣味の小太りな醜い男との婚約話が持ち上がった。顔合わせの時に、男はアリスを舐め回すように見たその目は、同時に成金の娘であるアリスを見下していた。
(絶対に嫌だ。こんな人生。こんな終わり方、絶対にありえない。)
アリスは賭けに出た。
リアムを誘惑する、彼は落ちた。身体を重ねた。既成事実を作るのだ。子供を孕んでもいい。子供ができれば、私を放り出すことはできない。
父親は、手塩にかけた商品である私が処女を失ったことを知り激怒したが、相手が公爵家だと知ると黙認した。醜い成金趣味の男との婚約は白紙になった。そして、リアムはアリスにプロポーズした。夢のようだった。公爵夫人の座が、すぐそこまで来ていた。
しかし、巨大な壁が立ちはだかる。クロシェード公爵夫妻。彼らはアリスを受け入れなかった。彼女を汚らしい庶民であるかのように見下し、泥棒猫を見る目で見る。
なら、障害は取り除けばいい。
『天使の微睡み』。リアムがアリスの父の商社を通じて密輸している薬だ。健康な者に使用すれば、後効性の毒にもなり得る劇薬でもあった。それを、リアム様には内緒でアリスは個人的に密売人から受け取り、たびたび公爵夫妻の飲み物に盛った。少しずつ使うことで、怪しまれず、病死のように衰弱させることができる。
(あいつらが死ねば、リアム様との結婚に障害はない。)
その矢先だ。ユリアナが現れたのは。ムカつく女。全てを奪っていく。アリスが喉から手が出るほど望んでいる全てを生まれながらに持っているくせに、まるで「私はかわいそうな被害者です」というような顔をして、愛を乞う。
(憎い。憎い。あと少しだったのに。あの女さえいなければ、今頃私は……!)
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