42 / 51
42. 反動
夜の港は、錆と潮の匂いが立ち込めていた。
黒い水面に無数の船が停泊し、そのマストが骸骨の指のように月夜に突き刺さっている。
フィンレイとギデオンは、路地の影に身を潜め、呼吸を殺していた。
足音が近づいてくる。女と、一人の男。
女は夜の港には相応しくない華やかなドレスを纏う。ジンジャー色の髪が月明かりに反射する。
――アリスだった。
「例のブツだ。……いつもより量が多いが?」
男の一人が言った。訛りのある独特な発音。この国の者ではない。
「支払いは済んでいるわ。余計な質問はしないことね」
アリスが木箱の中身、怪しげな白い粉が入った小瓶を確認し、冷笑する。
――キィン。
静寂の中、微かな音が響いた。ギデオンが、自国から持ち込んだ写映機でその瞬間を切り取ったのた。
アリスはふん、と鼻を鳴らすと、ヒールの音を響かせて去っていく。
フィンレイとギデオンは顔を見合わせた。素早い合図。
二人は影のように音もなく忍び寄り、一瞬で男を壁際に拘束した。
「今、女に渡したものはなんだ?」
ギデオンの尋問。男の首元にナイフが突きつけられる。
「ひぃぃ、俺は言われた通りにやっただけだ! 何も悪くない!」
「何を渡したと聞いている」
フィンレイの声は静かだったが、そこには大気を押し潰すような絶対的な圧があった。
「て、『天使の微睡み』だ。ただの薬だよ!」
――天使の微睡み。
フィンレイは目を細めた。裏社会で囁かれる悪名高い代物だ。元々は末期患者の激痛を散らすための強力な鎮静剤だが、健康な者が使用すれば、天国のような幻覚を見ながら、徐々に内臓がドロドロに融解していく。文字通り、永遠の眠りへと誘う美しい劇薬だ。
「誰の指示だ?」
「さっきの女だよ! 詳しい事はわからない。俺たちは運ぶよう指示されただけだ」
フィンレイはギデオンに首を振った。こいつはただの捨て駒だ。これ以上の情報は持っていない。
その時だった。
銃弾のような光の礫が、フィンレイの前髪をかすめた。ダークブラウンの髪が数本、焼けて舞う。
「――チッ」
フィンレイが舌打ちをする。囲まれている。
「何者だ」
少し訛りのある言葉と共に、次々に闇の中から黒装束の男たちが湧き出てくる。油が滲み出るような不気味な気配。五人、いや十人か。
異国の魔術師たちだ。殺気が肌を刺す。その身のこなしから、男たちが只者ではないことが知れた。
「それはこっちが聞きたいがな」
「その必要はない。ここで死ね」
多勢に無勢。応戦せざるを得ない。
ギデオンが素早くフィンレイの死角をカバーする。敵は手練れだった。統率の取れた動きで、退路を断つように魔法を展開する。
だが、フィンレイにとっては赤子の手をひねるようなものだった。
「邪魔だ」
ただ退屈そうに、片手を上げる。手首の一振り。それだけで、圧縮された純粋な魔力の塊が炸裂した。
衝撃波が物理的な壁となって襲いかかる。
バキ、バキバキッ! と、複数の骨が同時に砕ける鈍い音が響いた。男たちはまるで布切れのように吹き飛ばされ、煉瓦の壁に叩きつけられると、悲鳴を上げる暇もなく次々に地に伏した。
全員、一撃で意識を刈り取られている。起き上がる気配はない。
フィンレイは冷めた目で、動かなくなった黒装束の山を一瞥した。
「……行こう。今の音で警備兵が来る」
踵を返そうとした、その時だった。糸が切れたように彼の膝が折れた。
「ぐ、っ……はぁ……ッ!」
倒れ込むように石畳に手をつく。
激しい咳と共に、喉の奥から嗚咽が漏れた。どろりとしたどす黒い血が、彼の服と冷たい石畳を汚していく。
――――――
警告もなく、隠れ家の扉が乱暴に開け放たれた。
突然の音に、室内に漂っていた静かな不安が打ち砕かれる。
エレナは椅子から飛び上がった。目の前の光景に、喉の奥で悲鳴が凍りついた。
「フィンレイ様!? ギデオン!?」
彼女の声が震え、パニックで裏返る。
「いったい何が……?その姿は……」
あまりにも恐ろしい光景だった。
フィンレイはギデオンの肩に重くもたれかかり、その顔は死人のように蒼白だった。だが、エレナの血の気を引かせたのは、フィンレイの胸元にこびり付くどす黒い血だった。その表情はあくまで冷静さを保っていた。
「……案ずるな。大したことはない」
フィンレイが絞り出すような声で言った。
エレナは呆然と立ちすくむ。
冷静な断言とは裏腹に、フィンレイが自力で一歩踏み出そうとした瞬間、現実は露呈した。
「ぐ、っ……!」
激しい咳の発作が彼を襲い、胸を引き裂くように体を揺さぶる。手袋をはめた手で口を覆ったが、溢れ出るものを止める役にはほとんど立たなかった。彼が手を離すと、黒い革は鮮やかな真紅で濡れていた。
「フィンレイ様!」
エレナは彼に駆け寄り、ギデオンと共に彼を近くのソファへと運んだ。彼はそこに倒れ込み、空気を求めて喘ぎ、額には脂汗が浮かんでいた。
「反動です」
ギデオンが静かに説明した。フィンレイの血に濡れたコートを脱がせながら、その声は抑えきれない懸念で硬くなっていた。
「殿下は、大規模な対戦用魔術の行使を余儀なくされました。殿下のお体は……呪いは、その負荷に耐えきれなかったのです」
エレナの思考が巡る。対戦用魔術? ここ帝都で? だが、彼女が知る解決策はたった一つだった。
「ユリアナ様を呼んできましょうか? 彼女がそばにいれば、呪いを和らげ、助けられるのですよね?」
痛みに霞んでいたフィンレイの目が、彼女の名前を聞いた瞬間、カッと見開かれた。
「駄目だ……」
彼の声は擦れていてほとんど聞き取れなかった。しかし、彼は驚くべき力でエレナの手首を掴み、指を食い込ませた。
「ユリアナには、伝えるな。彼女が今屋敷を抜け出すのは危険だ。それに、今回の反動は今までよりも遥かに強い。彼女を巻き込みたくない」
「でもフィンレイ様――! ご自分の姿を見てください! 助けが必要なのです!」
「必要ないと言っている」
彼は彼女を睨みつけた。痛みの中でも、彼特有の頑固さが微かに光った。
「余計な真似をするな、エレナ。これは命令だ」
その直後、彼は意識を失った。
黒い水面に無数の船が停泊し、そのマストが骸骨の指のように月夜に突き刺さっている。
フィンレイとギデオンは、路地の影に身を潜め、呼吸を殺していた。
足音が近づいてくる。女と、一人の男。
女は夜の港には相応しくない華やかなドレスを纏う。ジンジャー色の髪が月明かりに反射する。
――アリスだった。
「例のブツだ。……いつもより量が多いが?」
男の一人が言った。訛りのある独特な発音。この国の者ではない。
「支払いは済んでいるわ。余計な質問はしないことね」
アリスが木箱の中身、怪しげな白い粉が入った小瓶を確認し、冷笑する。
――キィン。
静寂の中、微かな音が響いた。ギデオンが、自国から持ち込んだ写映機でその瞬間を切り取ったのた。
アリスはふん、と鼻を鳴らすと、ヒールの音を響かせて去っていく。
フィンレイとギデオンは顔を見合わせた。素早い合図。
二人は影のように音もなく忍び寄り、一瞬で男を壁際に拘束した。
「今、女に渡したものはなんだ?」
ギデオンの尋問。男の首元にナイフが突きつけられる。
「ひぃぃ、俺は言われた通りにやっただけだ! 何も悪くない!」
「何を渡したと聞いている」
フィンレイの声は静かだったが、そこには大気を押し潰すような絶対的な圧があった。
「て、『天使の微睡み』だ。ただの薬だよ!」
――天使の微睡み。
フィンレイは目を細めた。裏社会で囁かれる悪名高い代物だ。元々は末期患者の激痛を散らすための強力な鎮静剤だが、健康な者が使用すれば、天国のような幻覚を見ながら、徐々に内臓がドロドロに融解していく。文字通り、永遠の眠りへと誘う美しい劇薬だ。
「誰の指示だ?」
「さっきの女だよ! 詳しい事はわからない。俺たちは運ぶよう指示されただけだ」
フィンレイはギデオンに首を振った。こいつはただの捨て駒だ。これ以上の情報は持っていない。
その時だった。
銃弾のような光の礫が、フィンレイの前髪をかすめた。ダークブラウンの髪が数本、焼けて舞う。
「――チッ」
フィンレイが舌打ちをする。囲まれている。
「何者だ」
少し訛りのある言葉と共に、次々に闇の中から黒装束の男たちが湧き出てくる。油が滲み出るような不気味な気配。五人、いや十人か。
異国の魔術師たちだ。殺気が肌を刺す。その身のこなしから、男たちが只者ではないことが知れた。
「それはこっちが聞きたいがな」
「その必要はない。ここで死ね」
多勢に無勢。応戦せざるを得ない。
ギデオンが素早くフィンレイの死角をカバーする。敵は手練れだった。統率の取れた動きで、退路を断つように魔法を展開する。
だが、フィンレイにとっては赤子の手をひねるようなものだった。
「邪魔だ」
ただ退屈そうに、片手を上げる。手首の一振り。それだけで、圧縮された純粋な魔力の塊が炸裂した。
衝撃波が物理的な壁となって襲いかかる。
バキ、バキバキッ! と、複数の骨が同時に砕ける鈍い音が響いた。男たちはまるで布切れのように吹き飛ばされ、煉瓦の壁に叩きつけられると、悲鳴を上げる暇もなく次々に地に伏した。
全員、一撃で意識を刈り取られている。起き上がる気配はない。
フィンレイは冷めた目で、動かなくなった黒装束の山を一瞥した。
「……行こう。今の音で警備兵が来る」
踵を返そうとした、その時だった。糸が切れたように彼の膝が折れた。
「ぐ、っ……はぁ……ッ!」
倒れ込むように石畳に手をつく。
激しい咳と共に、喉の奥から嗚咽が漏れた。どろりとしたどす黒い血が、彼の服と冷たい石畳を汚していく。
――――――
警告もなく、隠れ家の扉が乱暴に開け放たれた。
突然の音に、室内に漂っていた静かな不安が打ち砕かれる。
エレナは椅子から飛び上がった。目の前の光景に、喉の奥で悲鳴が凍りついた。
「フィンレイ様!? ギデオン!?」
彼女の声が震え、パニックで裏返る。
「いったい何が……?その姿は……」
あまりにも恐ろしい光景だった。
フィンレイはギデオンの肩に重くもたれかかり、その顔は死人のように蒼白だった。だが、エレナの血の気を引かせたのは、フィンレイの胸元にこびり付くどす黒い血だった。その表情はあくまで冷静さを保っていた。
「……案ずるな。大したことはない」
フィンレイが絞り出すような声で言った。
エレナは呆然と立ちすくむ。
冷静な断言とは裏腹に、フィンレイが自力で一歩踏み出そうとした瞬間、現実は露呈した。
「ぐ、っ……!」
激しい咳の発作が彼を襲い、胸を引き裂くように体を揺さぶる。手袋をはめた手で口を覆ったが、溢れ出るものを止める役にはほとんど立たなかった。彼が手を離すと、黒い革は鮮やかな真紅で濡れていた。
「フィンレイ様!」
エレナは彼に駆け寄り、ギデオンと共に彼を近くのソファへと運んだ。彼はそこに倒れ込み、空気を求めて喘ぎ、額には脂汗が浮かんでいた。
「反動です」
ギデオンが静かに説明した。フィンレイの血に濡れたコートを脱がせながら、その声は抑えきれない懸念で硬くなっていた。
「殿下は、大規模な対戦用魔術の行使を余儀なくされました。殿下のお体は……呪いは、その負荷に耐えきれなかったのです」
エレナの思考が巡る。対戦用魔術? ここ帝都で? だが、彼女が知る解決策はたった一つだった。
「ユリアナ様を呼んできましょうか? 彼女がそばにいれば、呪いを和らげ、助けられるのですよね?」
痛みに霞んでいたフィンレイの目が、彼女の名前を聞いた瞬間、カッと見開かれた。
「駄目だ……」
彼の声は擦れていてほとんど聞き取れなかった。しかし、彼は驚くべき力でエレナの手首を掴み、指を食い込ませた。
「ユリアナには、伝えるな。彼女が今屋敷を抜け出すのは危険だ。それに、今回の反動は今までよりも遥かに強い。彼女を巻き込みたくない」
「でもフィンレイ様――! ご自分の姿を見てください! 助けが必要なのです!」
「必要ないと言っている」
彼は彼女を睨みつけた。痛みの中でも、彼特有の頑固さが微かに光った。
「余計な真似をするな、エレナ。これは命令だ」
その直後、彼は意識を失った。
あなたにおすすめの小説
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
砕けた愛
篠月珪霞
恋愛
新婚初夜に男に襲われた公爵令嬢エヴリーヌは、不義密通の罪を被せられた。反逆罪に問われた彼女の一族は処刑されるが、気付くと時間が巻き戻っていた。
あなたへの愛? そんなものとうに、砕け散ってしまいました。
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
姉の方を所望していたと言った婚約者に、突然連れ帰られて気づいたら溺愛されています
もちもちほっぺ
恋愛
侯爵家の地下室に住み、姉の食べかけで飢えをしのぎ、婚約者には初対面で「老婆のようだ、姉の方がよかった」と言われた令嬢リリアーナ。
ある日その婚約者に問答無用で公爵邸に連れ帰られた。
庭の恵みを口にするたびに肌が輝き、髪が艶めき、体に力が満ちていく。首に巻いたお守りの秘密、十数年続く国の不作の真実、虐げられ続けた令嬢の出生の謎。
全てが明かされる時、地下室令嬢の逆転劇が始まる。
なお婚約者は今日も庭でグルメリポートを最後まで聞いている。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
婚約者は妹のような幼馴染みを何より大切にしているので、お飾り妻予定な令嬢は幸せになることを諦めた……はずでした。
待鳥園子
恋愛
伯爵令嬢アイリーンの婚約者であるセシルの隣には『妹のような幼馴染み』愛らしい容姿のデイジーが居て、身分差で結婚出来ない二人が結ばれるためのお飾り妻にされてしまうことが耐えられなかった。
そして、二人がふざけて婚姻届を書いている光景を見て、アイリーンは自分の我慢が限界に達そうとしているのを感じていた……のだけど!?
『「ママは我慢してればいいんでしょ?」と娘に言われた日、私は妻をやめた』~我慢をやめた母と、崩れていく家族、そして再生~
まさき
恋愛
私はずっと「いい妻」でいようとしてきた。
夫に逆らわず、空気を読み、波風を立てないように生きる。
それが、この家を守る唯一の方法だと思っていた。
娘にも、そうであってほしかった。
けれど──
その願いは、静かに歪んでいく。
夫の言葉をなぞるように、娘は私を軽んじるようになった。
そしてある日、夕食の後片付けをしていた私に、娘は言った。
「ママはさ、我慢してればいいんでしょ?」
その一言で、何かが壊れた。
我慢することが、母である証だと思っていた。
だがそれは、私自身をすり減らすだけの“呪い”だった。
──もう、我慢するのはやめる。
妻であることをやめ、母として生き直すために。
私は、自分の人生を取り戻す決意をした。
その選択は、家族を大きく揺るがしていく。
崩れていく夫婦関係。
離れていく娘の心。
そして、待ち受ける“ざまぁ”の行方。
それでも私は問い続ける。
母とは何か。
家族とは何か。
そして──私は、どう生きるべきなのか。