【完結】今さら執着されても困ります

リリー

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42. 反動

 夜の港は、錆と潮の匂いが立ち込めていた。
 黒い水面に無数の船が停泊し、そのマストが骸骨の指のように月夜に突き刺さっている。
 フィンレイとギデオンは、路地の影に身を潜め、呼吸を殺していた。

 足音が近づいてくる。女と、一人の男。
 
 女は夜の港には相応しくない華やかなドレスを纏う。ジンジャー色の髪が月明かりに反射する。
 ――アリスだった。

「例のブツだ。……いつもより量が多いが?」

 男の一人が言った。訛りのある独特な発音。この国の者ではない。

「支払いは済んでいるわ。余計な質問はしないことね」

 アリスが木箱の中身、怪しげな白い粉が入った小瓶を確認し、冷笑する。

 ――キィン。

 静寂の中、微かな音が響いた。ギデオンが、自国から持ち込んだ写映機でその瞬間を切り取ったのた。
 
 アリスはふん、と鼻を鳴らすと、ヒールの音を響かせて去っていく。

 フィンレイとギデオンは顔を見合わせた。素早い合図。
 二人は影のように音もなく忍び寄り、一瞬で男を壁際に拘束した。

「今、女に渡したものはなんだ?」

 ギデオンの尋問。男の首元にナイフが突きつけられる。

「ひぃぃ、俺は言われた通りにやっただけだ! 何も悪くない!」

「何を渡したと聞いている」

 フィンレイの声は静かだったが、そこには大気を押し潰すような絶対的な圧があった。

「て、『天使の微睡マドロみ』だ。ただの薬だよ!」

 ――天使の微睡み。
 フィンレイは目を細めた。裏社会で囁かれる悪名高い代物だ。元々は末期患者の激痛を散らすための強力な鎮静剤だが、健康な者が使用すれば、天国のような幻覚を見ながら、徐々に内臓がドロドロに融解ユウカイしていく。文字通り、永遠の眠りへと誘う美しい劇薬だ。

「誰の指示だ?」

「さっきの女だよ! 詳しい事はわからない。俺たちは運ぶよう指示されただけだ」

 フィンレイはギデオンに首を振った。こいつはただの捨て駒だ。これ以上の情報は持っていない。

 その時だった。
 銃弾のような光のツブテが、フィンレイの前髪をかすめた。ダークブラウンの髪が数本、焼けて舞う。

「――チッ」
 フィンレイが舌打ちをする。囲まれている。

「何者だ」

 少し訛りのある言葉と共に、次々に闇の中から黒装束の男たちが湧き出てくる。油が滲み出るような不気味な気配。五人、いや十人か。
 異国の魔術師たちだ。殺気が肌を刺す。その身のこなしから、男たちが只者ではないことが知れた。
 
「それはこっちが聞きたいがな」

「その必要はない。ここで死ね」

 多勢に無勢。応戦せざるを得ない。
 ギデオンが素早くフィンレイの死角をカバーする。敵は手練れだった。統率の取れた動きで、退路を断つように魔法を展開する。
 だが、フィンレイにとっては赤子の手をひねるようなものだった。

「邪魔だ」

 ただ退屈そうに、片手を上げる。手首の一振り。それだけで、圧縮された純粋な魔力の塊が炸裂した。
 衝撃波が物理的な壁となって襲いかかる。
 バキ、バキバキッ! と、複数の骨が同時に砕ける鈍い音が響いた。男たちはまるで布切れのように吹き飛ばされ、煉瓦の壁に叩きつけられると、悲鳴を上げる暇もなく次々に地に伏した。
 全員、一撃で意識を刈り取られている。起き上がる気配はない。

 フィンレイは冷めた目で、動かなくなった黒装束の山を一瞥した。

「……行こう。今の音で警備兵が来る」

 踵を返そうとした、その時だった。糸が切れたように彼の膝が折れた。

「ぐ、っ……はぁ……ッ!」

 倒れ込むように石畳に手をつく。
 激しい咳と共に、喉の奥から嗚咽が漏れた。どろりとしたどす黒い血が、彼の服と冷たい石畳を汚していく。

 ――――――


 警告もなく、隠れ家の扉が乱暴に開け放たれた。
 突然の音に、室内に漂っていた静かな不安が打ち砕かれる。
 エレナは椅子から飛び上がった。目の前の光景に、喉の奥で悲鳴が凍りついた。

「フィンレイ様!? ギデオン!?」

 彼女の声が震え、パニックで裏返る。

「いったい何が……?その姿は……」

 あまりにも恐ろしい光景だった。
 フィンレイはギデオンの肩に重くもたれかかり、その顔は死人のように蒼白だった。だが、エレナの血の気を引かせたのは、フィンレイの胸元にこびり付くどす黒い血だった。その表情はあくまで冷静さを保っていた。

「……案ずるな。大したことはない」

 フィンレイが絞り出すような声で言った。

 エレナは呆然と立ちすくむ。
 冷静な断言とは裏腹に、フィンレイが自力で一歩踏み出そうとした瞬間、現実は露呈した。

「ぐ、っ……!」

 激しい咳の発作が彼を襲い、胸を引き裂くように体を揺さぶる。手袋をはめた手で口を覆ったが、溢れ出るものを止める役にはほとんど立たなかった。彼が手を離すと、黒い革は鮮やかな真紅で濡れていた。

「フィンレイ様!」

 エレナは彼に駆け寄り、ギデオンと共に彼を近くのソファへと運んだ。彼はそこに倒れ込み、空気を求めて喘ぎ、額には脂汗が浮かんでいた。

「反動です」

 ギデオンが静かに説明した。フィンレイの血に濡れたコートを脱がせながら、その声は抑えきれない懸念で硬くなっていた。

「殿下は、大規模な対戦用魔術の行使を余儀なくされました。殿下のお体は……呪いは、その負荷に耐えきれなかったのです」

 エレナの思考が巡る。対戦用魔術? ここ帝都で? だが、彼女が知る解決策はたった一つだった。

「ユリアナ様を呼んできましょうか? 彼女がそばにいれば、呪いを和らげ、助けられるのですよね?」

 痛みに霞んでいたフィンレイの目が、彼女の名前を聞いた瞬間、カッと見開かれた。

「駄目だ……」

 彼の声は擦れていてほとんど聞き取れなかった。しかし、彼は驚くべき力でエレナの手首を掴み、指を食い込ませた。

「ユリアナには、伝えるな。彼女が今屋敷を抜け出すのは危険だ。それに、今回の反動は今までよりも遥かに強い。彼女を巻き込みたくない」

「でもフィンレイ様――! ご自分の姿を見てください! 助けが必要なのです!」

「必要ないと言っている」

 彼は彼女を睨みつけた。痛みの中でも、彼特有の頑固さが微かに光った。

「余計な真似をするな、エレナ。これは命令だ」

 その直後、彼は意識を失った。

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