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34. 囲い
フィンレイ様との文のやり取りは、蚤の市に行った日の後もずっと続いていた。
毎日届く言葉に、私はいちいち救われる。
そして時折、彼は私を連れ出した。鉛色の屋敷から。
羊皮紙香る古書店。風が踊る丘。路地裏のカフェに、木漏れ日の森。
どれも、なんてことのない場所だ。
けれど私には、そのすべてが――彼と交わした何気ない会話の欠片さえも、目も眩むほど愛おしい宝物となる。
彼と過ごす時間だけが、私の中に火を灯す。灰色の世界は色彩を帯びていく。
――しかし、平穏は続かない。それが私の人生の理だ。
月明かりが窓から差し込む。
静かな部屋に、突如響く、部屋をノックする音。
ソファで本を読んでいた私は顔を上げる。許可も待たずに扉が開き、入ってきたのはリアム様だった。
「……いかが、なさいましたか?」
ビクリと肩が震える。この前の出来事がフラッシュバックする。振り上げられた拳、壁を殴る音、怒鳴り声。
しかし、リアム様の声色は、今まで聞いたどんなものとも違っていた。
粘つき、甘く、絡めとるような湿度。
彼の手には盆があり、その上には湯気を立てるグラタンやスープが並んでいる。
「具合はどうだ?ここのところ、食事はずっと部屋でとっているだろう」
「……まだ、よくなりません。今後も部屋で食事をとらせていただきます」
「そうか。……だから、俺も一緒に食べようかと思ってね」
彼は外に控えていたメイドに目配せし、もう一つの盆をローテーブルの上に運ばせた。
困惑。一体、何が起きているの?
彼は私の隣、パーソナルスペースを侵害する位置に腰かけた。
「この前は、少し言いすぎた。すまない。すぐに許してもらえるとは思わない。ただ、償いのチャンスが欲しいんだ」
思いもよらぬ殊勝な言葉。思わずあんぐりと口を開けそうになる。
この人は、いったい誰?
私は言葉に詰まった。彼はそれを肯定的にとらえた。
「お前には寂しい思いをさせてしまったな」
彼は安堵したように微笑むと、スプーンでグラタンをすくい、私の口元へと差し出した。
「ほら、口を開けてごらん」
私は凍りついた。
「早く。冷めないうちに」
催促。私は仕方なく、小さく口を開けた。
一瞬、リアム様の視線が私の口内をねっとりと蹂躙するように舐め回す。
スプーンが押し込まれる。味などしなかった。ただ、背筋を冷たいものが這い上がる感覚だけがあった。
「いい子だ」
帰り際、彼は私の頬に口づけを落とした。
「おやすみ、ユリアナ。いい夢を」
翌朝、窓を叩く音で目を覚ます。
フィンレイ様の小鳥だ。私は慌てて窓辺に駆け寄る。窓を開けて小鳥を引き入れる。
けれど――コンコン、とノックの音がした。
心臓が跳ねる。私は背中に手を回し、小鳥を隠すようにして立った。
リアム様だった。朝食の盆を手にしている。
「おはよう、ユリアナ」
また、スプーンが唇を割る。滑り込む金属の冷たさと、スープの熱。
彼の親指が、口の端をゆっくりと拭った。零れた一滴をすくい取り、自身の舌で舐め取る。
視線は、私の瞳に縫い付けられたまま。瞬きさえしない。
食事が終わる。
彼の手が伸びてくる。指が髪に絡みつき、絹の鎖のように巻き取られる。
優しく、けれど抗えない力で私の頭を後ろへ傾けさせ、無防備な喉元を晒させた。指先が顎のラインをなぞり、脈打つ青い血管の上を這う。粘つくような愛撫。彼は親指でその場所を摩った。何かを確かめるように。
「リ、リアム様……?」
「……温かいな」
掌の熱が肌に滲み込む。あまりに温かく、あまりに濃厚な接触。理解できない熱が、私を侵食していく。
思考が追いつかない。真っ白になる。
いったいなにが真実? 問いただしたくても、声が出ない。
彼の放つむせるような甘い匂いが思考を麻痺させ、私はただ、わけもわからず固まっていた。
――――――
「結婚式についての話だが、今度ドレスのフィッティングがあるそうだ」
「……はい」
「花は何を飾ろう?ユリアナには白が似合うな。」
彼は献身的に振る舞った。
「庭を散歩しよう」
「今度教会に行く時は、俺も行こう。お前一人では心配だ」
ノックの音はいつも唐突だ。彼は優しく、けれど壊れ物を扱うように私に触れる。
息が詰まりそうだった。私はリアム様の目を盗み、小鳥に手紙を結びつけた。
『ごめんなさい、しばらく会えません。文も送らないでください』
空に溶けていく鳥を見送る。もしリアム様に見つかれば、どんな目に合うか分からない。フィンレイ様まで巻き込んでしまう。
彼の本心が読めない今の優しさは、今までのどんな仕打ちよりも恐ろしく、不気味だった。
――――――
庭を散歩している時、私は困惑に耐えきれずリアム様に尋ねた。
「本気で……やり直したいと、そう思っておられるのですか?」
本気で今までのことを水に流せると? 何もなかったことにできると? 無邪気に何も知らないふりをしてあなたを愛せると?
――喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「ああ、当然だ。俺はどうかしていたよ。まるで悪魔にでも取りつかれていた気分だ。――どうしたら許してもらえるだろうか?」
私は言葉に詰まる。許す、など。その選択肢は私の中にはなかった。これは何の茶番?
「……正直、わかりません。アリス様はどうなさるおつもりですか?」
「彼女はもう何でもない。……だが、責任を放り出すこともできないだろう? あれは、かわいそうな女だ。だから今まで通り、友人として傍にいてやるつもりだ。けれど、妻は君だけだ。愛するのも、触れるのも」
そう言って彼は私の髪を掬い上げ、口づけを落とした。身震いを隠す。
彼の言っていることは理屈が通っているようで、ひどく歪んでいる。
――――――
ある日、カリナがドレスを持ってくる。
それは、血が滲むようなボルドーのデイドレスだった。たっぷりと贅沢に使われたレースが、あふれ出る血の泡のように重なっている。まるで、生きながらにして血の海に沈められるような装いだった。
「リアム様からです」
「リアム様が……?」
私はその毒々しいまでの深紅を見つめた。得体の知れない悪寒が、足元から這い上がってきた。
毎日届く言葉に、私はいちいち救われる。
そして時折、彼は私を連れ出した。鉛色の屋敷から。
羊皮紙香る古書店。風が踊る丘。路地裏のカフェに、木漏れ日の森。
どれも、なんてことのない場所だ。
けれど私には、そのすべてが――彼と交わした何気ない会話の欠片さえも、目も眩むほど愛おしい宝物となる。
彼と過ごす時間だけが、私の中に火を灯す。灰色の世界は色彩を帯びていく。
――しかし、平穏は続かない。それが私の人生の理だ。
月明かりが窓から差し込む。
静かな部屋に、突如響く、部屋をノックする音。
ソファで本を読んでいた私は顔を上げる。許可も待たずに扉が開き、入ってきたのはリアム様だった。
「……いかが、なさいましたか?」
ビクリと肩が震える。この前の出来事がフラッシュバックする。振り上げられた拳、壁を殴る音、怒鳴り声。
しかし、リアム様の声色は、今まで聞いたどんなものとも違っていた。
粘つき、甘く、絡めとるような湿度。
彼の手には盆があり、その上には湯気を立てるグラタンやスープが並んでいる。
「具合はどうだ?ここのところ、食事はずっと部屋でとっているだろう」
「……まだ、よくなりません。今後も部屋で食事をとらせていただきます」
「そうか。……だから、俺も一緒に食べようかと思ってね」
彼は外に控えていたメイドに目配せし、もう一つの盆をローテーブルの上に運ばせた。
困惑。一体、何が起きているの?
彼は私の隣、パーソナルスペースを侵害する位置に腰かけた。
「この前は、少し言いすぎた。すまない。すぐに許してもらえるとは思わない。ただ、償いのチャンスが欲しいんだ」
思いもよらぬ殊勝な言葉。思わずあんぐりと口を開けそうになる。
この人は、いったい誰?
私は言葉に詰まった。彼はそれを肯定的にとらえた。
「お前には寂しい思いをさせてしまったな」
彼は安堵したように微笑むと、スプーンでグラタンをすくい、私の口元へと差し出した。
「ほら、口を開けてごらん」
私は凍りついた。
「早く。冷めないうちに」
催促。私は仕方なく、小さく口を開けた。
一瞬、リアム様の視線が私の口内をねっとりと蹂躙するように舐め回す。
スプーンが押し込まれる。味などしなかった。ただ、背筋を冷たいものが這い上がる感覚だけがあった。
「いい子だ」
帰り際、彼は私の頬に口づけを落とした。
「おやすみ、ユリアナ。いい夢を」
翌朝、窓を叩く音で目を覚ます。
フィンレイ様の小鳥だ。私は慌てて窓辺に駆け寄る。窓を開けて小鳥を引き入れる。
けれど――コンコン、とノックの音がした。
心臓が跳ねる。私は背中に手を回し、小鳥を隠すようにして立った。
リアム様だった。朝食の盆を手にしている。
「おはよう、ユリアナ」
また、スプーンが唇を割る。滑り込む金属の冷たさと、スープの熱。
彼の親指が、口の端をゆっくりと拭った。零れた一滴をすくい取り、自身の舌で舐め取る。
視線は、私の瞳に縫い付けられたまま。瞬きさえしない。
食事が終わる。
彼の手が伸びてくる。指が髪に絡みつき、絹の鎖のように巻き取られる。
優しく、けれど抗えない力で私の頭を後ろへ傾けさせ、無防備な喉元を晒させた。指先が顎のラインをなぞり、脈打つ青い血管の上を這う。粘つくような愛撫。彼は親指でその場所を摩った。何かを確かめるように。
「リ、リアム様……?」
「……温かいな」
掌の熱が肌に滲み込む。あまりに温かく、あまりに濃厚な接触。理解できない熱が、私を侵食していく。
思考が追いつかない。真っ白になる。
いったいなにが真実? 問いただしたくても、声が出ない。
彼の放つむせるような甘い匂いが思考を麻痺させ、私はただ、わけもわからず固まっていた。
――――――
「結婚式についての話だが、今度ドレスのフィッティングがあるそうだ」
「……はい」
「花は何を飾ろう?ユリアナには白が似合うな。」
彼は献身的に振る舞った。
「庭を散歩しよう」
「今度教会に行く時は、俺も行こう。お前一人では心配だ」
ノックの音はいつも唐突だ。彼は優しく、けれど壊れ物を扱うように私に触れる。
息が詰まりそうだった。私はリアム様の目を盗み、小鳥に手紙を結びつけた。
『ごめんなさい、しばらく会えません。文も送らないでください』
空に溶けていく鳥を見送る。もしリアム様に見つかれば、どんな目に合うか分からない。フィンレイ様まで巻き込んでしまう。
彼の本心が読めない今の優しさは、今までのどんな仕打ちよりも恐ろしく、不気味だった。
――――――
庭を散歩している時、私は困惑に耐えきれずリアム様に尋ねた。
「本気で……やり直したいと、そう思っておられるのですか?」
本気で今までのことを水に流せると? 何もなかったことにできると? 無邪気に何も知らないふりをしてあなたを愛せると?
――喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「ああ、当然だ。俺はどうかしていたよ。まるで悪魔にでも取りつかれていた気分だ。――どうしたら許してもらえるだろうか?」
私は言葉に詰まる。許す、など。その選択肢は私の中にはなかった。これは何の茶番?
「……正直、わかりません。アリス様はどうなさるおつもりですか?」
「彼女はもう何でもない。……だが、責任を放り出すこともできないだろう? あれは、かわいそうな女だ。だから今まで通り、友人として傍にいてやるつもりだ。けれど、妻は君だけだ。愛するのも、触れるのも」
そう言って彼は私の髪を掬い上げ、口づけを落とした。身震いを隠す。
彼の言っていることは理屈が通っているようで、ひどく歪んでいる。
――――――
ある日、カリナがドレスを持ってくる。
それは、血が滲むようなボルドーのデイドレスだった。たっぷりと贅沢に使われたレースが、あふれ出る血の泡のように重なっている。まるで、生きながらにして血の海に沈められるような装いだった。
「リアム様からです」
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