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01. プロローグ
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「お腹がすいた」
私の世界のすべては、その一言に尽きた。
肋骨が浮き出た体。泥と煤で固まった汚い毛並み。
フォートユラ国の冬は容赦がなく、石畳の冷たさが肉球から全身へと染み渡ってくる。
「あっち行け!シッ!」
屋台の店主が水を撒く。
最近稼ぎが減って苛立っているという噂を聞いた。氷水のような飛沫がかかり、私は小さく身を縮めた。
広場の時計塔が正午を告げている。
あちらこちらからランチの美味しそうな匂いが漂ってくる。
何か食べたい。食べなければ死んでしまう。
空腹でふらつく足を必死に前へ出した。
ふと、目の前に落ちている魚の頭が目に入った。誰かが落としたものだろうか。魚はつやつやと新鮮な輝きを放ち、私はごくりと喉を鳴らした。
チャンスは一瞬。店主が客と小銭の勘定で揉めている隙に、私は飛び出した。
ガブッ。
硬くて冷たい魚の頭をくわえる。やった、これなら少しは――。
ドカッ!
衝撃。
視界がグルンと回った。蹴られたのだと気づいた時には、私は壁に叩きつけられていた。せっかくの魚は泥の中に転がり、私の口の中にはさびた鉄の味だけが残った。
反射的に吐き出した唾液は、赤く染まっていた。
「汚ねえ猫だ。死んじまえ」
店主が鬼のような形相で罵声を浴びせる。
男の重そうなブーツがまた振り上げられる。痛い。寒い。もう、動けない。ああ、これで終わりなんだ。なんてあっけなくて、寂しい最期だろう。
私は目を瞑って、来るはずの衝撃に備えた。
「――やめろ」
空気が、凍りついた。
その声は、広場の喧騒を一瞬で切り裂くような、鋭く冷たい響きがあった。
ゆっくりと目を開ける。
そこには、この泥だらけの世界には似合わない、あまりにも綺麗な少年が立っていた。
黒曜石のような髪。雪のように白い肌。
五歳くらいだろうか。仕立ての良いベルベットのコートを着て、泥汚れ一つない革のブーツを履いている。一目で貴族の出だとわかる佇まいだった。
彼は私を見下ろしていた。憐れみ?ううん、違う。彼はまるで、珍しい昆虫の標本でも見つけたかのような顔で、私を観察していたのだ。
「へへ、ただの薄汚い猫ですよ。」
男がへこへこと頭を下げるのを無視して、少年は、しゃがみ込んだ。
綺麗なコートの裾が泥水に浸かるのもお構いなしだ。
「お前、壊れてるな」
彼はそう言うと、躊躇なく私を掴み上げた。
蹴られた脇腹が痛んで、私は顔をしかめた。ああ、私の体は泥と血で汚れているのに。彼の真っ白な手が汚れてしまう。
「みゃあ」
鳴いて身を捩った。
こんなにも美しい存在を、私のような醜いもので汚したくなかったのだ。しかし、逃れようとする私をなだめるように、彼は私を優しく抱き寄せた。
「僕のだ」
高価な石鹸と、かすかにインクの匂いがした。
何より、今まで感じたことのない温もりが、衣服越しに伝わってきた。
私の世界のすべては、その一言に尽きた。
肋骨が浮き出た体。泥と煤で固まった汚い毛並み。
フォートユラ国の冬は容赦がなく、石畳の冷たさが肉球から全身へと染み渡ってくる。
「あっち行け!シッ!」
屋台の店主が水を撒く。
最近稼ぎが減って苛立っているという噂を聞いた。氷水のような飛沫がかかり、私は小さく身を縮めた。
広場の時計塔が正午を告げている。
あちらこちらからランチの美味しそうな匂いが漂ってくる。
何か食べたい。食べなければ死んでしまう。
空腹でふらつく足を必死に前へ出した。
ふと、目の前に落ちている魚の頭が目に入った。誰かが落としたものだろうか。魚はつやつやと新鮮な輝きを放ち、私はごくりと喉を鳴らした。
チャンスは一瞬。店主が客と小銭の勘定で揉めている隙に、私は飛び出した。
ガブッ。
硬くて冷たい魚の頭をくわえる。やった、これなら少しは――。
ドカッ!
衝撃。
視界がグルンと回った。蹴られたのだと気づいた時には、私は壁に叩きつけられていた。せっかくの魚は泥の中に転がり、私の口の中にはさびた鉄の味だけが残った。
反射的に吐き出した唾液は、赤く染まっていた。
「汚ねえ猫だ。死んじまえ」
店主が鬼のような形相で罵声を浴びせる。
男の重そうなブーツがまた振り上げられる。痛い。寒い。もう、動けない。ああ、これで終わりなんだ。なんてあっけなくて、寂しい最期だろう。
私は目を瞑って、来るはずの衝撃に備えた。
「――やめろ」
空気が、凍りついた。
その声は、広場の喧騒を一瞬で切り裂くような、鋭く冷たい響きがあった。
ゆっくりと目を開ける。
そこには、この泥だらけの世界には似合わない、あまりにも綺麗な少年が立っていた。
黒曜石のような髪。雪のように白い肌。
五歳くらいだろうか。仕立ての良いベルベットのコートを着て、泥汚れ一つない革のブーツを履いている。一目で貴族の出だとわかる佇まいだった。
彼は私を見下ろしていた。憐れみ?ううん、違う。彼はまるで、珍しい昆虫の標本でも見つけたかのような顔で、私を観察していたのだ。
「へへ、ただの薄汚い猫ですよ。」
男がへこへこと頭を下げるのを無視して、少年は、しゃがみ込んだ。
綺麗なコートの裾が泥水に浸かるのもお構いなしだ。
「お前、壊れてるな」
彼はそう言うと、躊躇なく私を掴み上げた。
蹴られた脇腹が痛んで、私は顔をしかめた。ああ、私の体は泥と血で汚れているのに。彼の真っ白な手が汚れてしまう。
「みゃあ」
鳴いて身を捩った。
こんなにも美しい存在を、私のような醜いもので汚したくなかったのだ。しかし、逃れようとする私をなだめるように、彼は私を優しく抱き寄せた。
「僕のだ」
高価な石鹸と、かすかにインクの匂いがした。
何より、今まで感じたことのない温もりが、衣服越しに伝わってきた。
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