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第2章 救国のハムスターは新たな人生を歩む
41 ニルス王子の想い その2
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王都の人混みに目を丸くし、巨大な王宮に目を丸くし、広大な庭園に目を丸くし、そこで開かれていた催しに潜り込んで、また目を丸くした。
真っ白なローブに金糸で刺繍された、数え切れないほどの紋章。
魔法陣と見まちがえそうな、たくさんの光の輝きに目を奪われた後、その光をまとった主に、僕は心までも奪われそうになっていた。
僕の視線の先で、紋章だらけのローブを着た精霊が、手当たり次第にガツガツと食べ物を口に放りこんでいる。
ローブの中に滑り込んでいる銀色の髪が、せわしなく食べ物に伸ばされる手の動きに合わせて、キラキラときらめく。
華奢な白い喉元が、ゴクンと食べ物を飲み込む度に、大きく上下する。
それに合わせて、大きな銀色の目がキュッと閉じられては、また大きく見開かれる。
魅入られたように、僕はふらふらとその美しい精霊に吸い寄せられた。
すぐ傍に立ちつくして、この世のものとは思えない光景に目を瞬く。
離宮にも精霊術師はいたし、何度となく精霊を見たことはあった。
でも、これほどまでに美しい精霊を見たことはなかった。
それに、服を着た精霊なんてものを見たことがなかったし、食事をしている精霊も見たことがなかった。
やっぱり、王都は何もかもがちがうんだ。
息をとめたまま、時を忘れてじーっと見入っている僕に、ふと精霊が視線を返した。
次の瞬間、精霊は大きな目をさらに見開いて、あわてて食べていたものを飲み込んだ。
そして、ととのった顔をギュッとゆがめて、笑みのようなものを作った。
「これは、これは、ゴホン、ゴホン。ニルス殿下。ゴホン、ゲホン。ご機嫌麗しそうでなにより、ゴホン、ガホン、でございます」
精霊がしゃべったことにも驚いたけど、ずっと離宮で暮らしていた僕のことを知っているのには、もっと驚いた。
僕が王宮に着いたのはついさっきだし、予定より一日早く着いた。
僕が今日、王宮にいるだなんて伝わってないはずだ。
ということは、この精霊と僕は会ったことがあるんだろうか?
でも、こんなに美しい精霊に会ったことを、忘れてしまうなんて考えられなかった。
僕のことを知ってるの?
って聞いたら、精霊は名前を名乗って、離宮にお見舞いに来たことがあるって答えた。
ますます、ありえなかった。
離宮は王都から遠く離れているし、そもそも、僕に会いに来てくれる人なんて数えるほどしかいない。
でも、精霊はウソをつけないって聞いたことがある。
じゃあ、どういうことだろう?
……えーっと……そもそも、この子は精霊なんだろうか?
ひょっとして、人なのかもしれないって思い当たった。
そうか。
そうだよね。
だって、精霊にしてはおかしいことだらけだ。
僕は精霊みたいな女の子に手を出してって頼んだ。
精霊と人は触れ合えないって聞いたことがある。
触れれば人だし、触れなければ精霊だ。
僕は女の子の手を取った。
女の子に触れたとたん、懐かしい温もりが僕を包み込んだ。
亡くなったお母様のことを思い出した。
目の奥がジーンと痺れて、思わず天を仰いで目を閉じた。
同時に、僕はもうひとつの温もりを思い出した。
ハーミア様だ。
どうして、こんなところに……ううん、どうして、こんな姿で。
目の奥からじわーっと広がってくる涙を押し込めて、僕は必死に考えた。
いや、ハーミア様は神の使いだから、姿ぐらい変えられても不思議じゃない。
たぶん、この姿が本来の姿なんだ。
そうか、わかった。
ハーミア様は天使なんだ。
大天使様がいて、天使がいないなんてことはない。
天使の加護を持った人だっている。
創世神話にも王国史にも、天使については書かれてなかった。
人とよく似た姿をしてるから、誰も天使だとは気づかないんだ。
でも、いったい、いつからなんだろう?
兄上は知ってるんだろうか?
いや、知らないはずだ。
ハーミア様が兄上と一緒にいないことが、そもそもおかしい。
やっぱり、新しい婚約者のせいなんだろう。
それで、ハーミア様は兄上に内緒で、姿を変えたんだ。
だから、お見舞いにも来なかった?
じゃあ、王宮にいる救国のハムスター様って誰なんだろう?
他の天使なのかな?
僕はおもいきって、
どうしたの、ハーミア様?
って聞いてみた。
そのとたん、ハーミア様のまとっている雰囲気が、すっと重いものに変わった。
ああ、やっぱり、と僕は思った。
聞いちゃダメだったんだ。
迂闊なことを聞いた自分にも、ハーミア様を悲しませた兄上にも、怒りがわいた。
ハーミア様は遠くを見つめて、ハーモニーだって言った。
ハーモニー?
そういえば、さっきもそんな名前を名乗ってた。
ハッとした。
そうだ。
ハーミア様の名前は兄上が付けたものだった。
ハムちゃんという愛称で呼べるようにって聞いたことがある。
ハーミア様なんて呼んだら、兄上のことを思い起こして気分が沈むのかもしれない。
僕はしばらく考えた後、ハーモニー様って声に出した。
そうすると、ハーミア様はあわてて、ハーモニーですって言った。
呼び捨てにしていいってことみたいだった。
兄上には悪いけど、うれしかった。
距離が縮まった気がした。
僕とハーミア様が仲良しだって、認めてもらえた気がした。
ハーミア様は人の姿をしてても、やっぱりすごかった。
王都に入る前の街で噂に聞いた、大天使の加護を持った精霊術師が人の姿をしたハーミア様だった。
魔族四天王を倒して、勲章をいっぱいもらってた。
兄上の危機も救ったって、あとから王宮で聞かされた。
ハーミア様は人の姿に変わっても、やっぱり優しかった。
他の国の王女様と婚約した兄上もちゃんと助けてくれるだなんて、さすがはハーミア様だった。
王都に来てよかった。
ハーミア様の無事な姿も拝めた。
それに、王立学園にハーミア様が一緒に通うって聞いて、僕は舞い上がるほどうれしかった。
王都に知り合いがいないっていうのもあるけど、ハーミア様と一緒にいられる時間が増えるのが何よりもうれしかった。
それに、時間をかければ、僕にだってハーミア様の沈んだ心を解きほぐして、笑顔を取り戻すことができるかもしれない。
そう思った。
ハーミア様は昔と違って、表情を失くしてしまっていた。
きっと、兄上のことを想って、いつも心が泣いているんだと思う。
僕の心の中のハーミア様は、いつもコロコロと楽しそうに笑っていた。
なんとかしなくちゃ。
僕はハーミア様じゃなくなったハーモニーに、精一杯の笑みを浮かべて手を振った。
王都にやってきて、ようやくいろいろなことがわかってきた。
兄上がハーモニーのことに気が付いていないこと。
新しい救国のハムスター様はハムスター仲間と暮らしていて、部屋から一歩も外に出ないこと。
ハーモニーがずいぶん前からハムスターじゃなくなっていたこと。
ハーモニーはまだ笑ってくれないけど、学園での生活は楽しかった。
ハーモニーはずっと僕と一緒にいてくれた。
ユリウスっていう子がハーモニーの絶対結界に弾かれたり、兄上と婚約者の王女様と一緒に昼食をとることになったりと、いろいろあったけど、うまくいっていたと思う。
精霊祭ではハーモニーと一緒の馬車に乗って、パレードに出ることになった。
ハーモニーと一緒にお祭りに行って、同じ景色を見るっていう夢が叶った。
でも、兄上にハーモニーのことがばれてしまった。
最初はなぜだろうって思ったけど、精霊宮殿の深部にハーモニーが入れてもらえなかった時に、そういうことかって気が付いた。
ハーモニーが僕に話してくれたことは、ぜんぶ兄上と一緒に経験したことだった。
子爵家の養女が知ってるはずのないことを、ハーモニーは知ってた。
兄上がそのことに気が付かないはずがなかった。
兄上がハーモニーに、君は人なのかって聞いた時、僕はとっさにハーモニーを隠そうとした。
だって、兄上には他に婚約者がいるんだ。
ハーモニーは渡せないって思った。
今の兄上では、ハーモニーを幸せにできない。
そんなこと、兄上だってわかってるはずだ。
精霊祭ではいいこともいっぱいあった。
ハーモニーが笑うのを初めて見た。
僕に笑いかけたんじゃなくて、護衛の人にだったから、ちょっと妬けたけど。
すごく小さな声だったけど、笑い声も聞いた。
僕の顔は真っ赤になってたんじゃないかって思う。
ハーモニーの笑顔は心をとろけさせる力を持っていた。
やっぱり、天使だった。
誰だってあの笑顔を見たら、一目で恋に落ちるって思った。
あと、シーラ様が僕をハーモニーの婚約者にしてくださるって、おっしゃった。
思いもよらなかったシーラ様の申し出に、僕は大喜びで飛びついた。
兄上がハーモニーを幸せにできないんだったら、僕が幸せにしたらいい。
僕にとってハーモニーは唯一の存在だ。
絶対に悲しませたりしないって、ハーモニーに約束した。
シーラ様が出した条件は、僕にとって難なくクリアできることだった。
ハーモニーがモランデル家を継いで、僕が婿養子となること。
モランデル家はこの先もずっと、王国一の精霊術師が後を継ぐこと。
シーラ様のおっしゃることは単純明快だった。
モランデル家を王国を守る盾とすること。
ただ、それだけだった。
僕とハーモニーにはピッタリだと思った。
ハーミア様だった頃のハーモニーは、シーラ様を褒めることはなかったけど、今では養女になるほどの間柄だ。
きっとお互い信頼してるんだろう。
僕はシーラ様の手をとって、ぜひお願いしますって頭を下げた。
そこまではよかった。
でも、気が付いた時には、兄上がハーモニーに詰め寄っていた。
兄上の身勝手な行動を許すわけにはいかなかった。
僕だって、ついさっきハーモニーに婚約を申し込んだときに、護衛の人の助言で気づかされたばかりだ。
ハーモニーを悲しませないことがいちばん大切なんだって。
父上の許しを得て、すべての障害を取り除いた後じゃないと、ダメなんだって。
兄上はまちがっている。
ハーモニーを大切に思うなら、兄上だって先にやるべきことがあるはずだって、僕は思った。
それ以来、僕と兄上は口をきかなくなった。
僕がまちがっているんだろうかって思うこともある。
ハーモニーは今でも兄上のことが大好きだ。
あの護衛の人だって、シーラ様だってわかってるみたいだった。
それでも、僕は兄上をハーモニーに近寄らせる気はなかった。
僕はシーラ様と一緒に父上に頭を下げた。
ハーモニーと一緒にいられるようにって、できるかぎりのことをした。
シルフィーみたいに飛ぶことはできないけど、お姫様抱っこぐらいはできるようにならなくちゃって、体を少しずつだけど鍛えるようにした。
新年の行事や建国祭では、すぐ傍にはいられなかったけど、ハーモニーと同じ空気を吸って、同じ時間を感じることができた。
ハーモニーが前に話してくれてたことを、実際に目で見て、耳で聞いて、同じ体験をして、また、学園でその話をした。
離宮で夢見てたよりも、ずっとずっと楽しい毎日が過ぎていった。
でも、ハーモニーは最強の精霊と契約するために、王都から遠く離れたところに行ってしまった。
シーラ様に尋ねても、もう少ししたら戻ってまいりますって、いつ帰ってくるかは教えてくださらなかった。
王国のために、力を手に入れて帰ってきますって、シーラ様はおっしゃってくださったけど、僕は不安だった。
そして、ハーモニーがいない時を見計らったように、あの事件が起きた。
でも、勇者様がいよいよ処刑台に上がろうかという時に、ハーモニーは帰ってきた。
さすがはハーモニーだった。
大天使様と話をして、勇者様の命を助けて、新しい聖剣も貰った。
父上も大喜びで、なんと僕をハーモニーの婚約者として認めてくださった。
でも、僕自身が婚約を申し込んで、ハーモニーに許してもらったわけじゃない。
次の日、僕は朝早くに学園に来て、今か今かとハーモニーが来るのを待っていた。
ちゃんと自分の言葉で婚約を申し込もうって思ってた。
でも、待ちに待ったハーモニーを目の前にして、僕は何にも言えなくなっていた。
馬車から下りたハーモニーは、昨日までのハーモニーじゃなかった。
昨日見た、優しいほうの大天使様のように、やわらかな春の風をまとっていた。
いつもの精霊のような硬い表情じゃなく、春の陽だまりを思わせる温かな微笑みを浮かべていた。
おはようございます、ニルス殿下、ってハーモニーは僕に笑いかけてくれた。
危うく膝からくずれ落ちそうになった。
まさしく、天使そのものだった。
まわりにいた人たちも、ハーモニーを見てとろけそうな、しまりのない顔をしていた。
あとから馬車を下りてきた、精霊マニアのユリウスだけが、つまらなそうにムスッとしていた。
真っ白なローブに金糸で刺繍された、数え切れないほどの紋章。
魔法陣と見まちがえそうな、たくさんの光の輝きに目を奪われた後、その光をまとった主に、僕は心までも奪われそうになっていた。
僕の視線の先で、紋章だらけのローブを着た精霊が、手当たり次第にガツガツと食べ物を口に放りこんでいる。
ローブの中に滑り込んでいる銀色の髪が、せわしなく食べ物に伸ばされる手の動きに合わせて、キラキラときらめく。
華奢な白い喉元が、ゴクンと食べ物を飲み込む度に、大きく上下する。
それに合わせて、大きな銀色の目がキュッと閉じられては、また大きく見開かれる。
魅入られたように、僕はふらふらとその美しい精霊に吸い寄せられた。
すぐ傍に立ちつくして、この世のものとは思えない光景に目を瞬く。
離宮にも精霊術師はいたし、何度となく精霊を見たことはあった。
でも、これほどまでに美しい精霊を見たことはなかった。
それに、服を着た精霊なんてものを見たことがなかったし、食事をしている精霊も見たことがなかった。
やっぱり、王都は何もかもがちがうんだ。
息をとめたまま、時を忘れてじーっと見入っている僕に、ふと精霊が視線を返した。
次の瞬間、精霊は大きな目をさらに見開いて、あわてて食べていたものを飲み込んだ。
そして、ととのった顔をギュッとゆがめて、笑みのようなものを作った。
「これは、これは、ゴホン、ゴホン。ニルス殿下。ゴホン、ゲホン。ご機嫌麗しそうでなにより、ゴホン、ガホン、でございます」
精霊がしゃべったことにも驚いたけど、ずっと離宮で暮らしていた僕のことを知っているのには、もっと驚いた。
僕が王宮に着いたのはついさっきだし、予定より一日早く着いた。
僕が今日、王宮にいるだなんて伝わってないはずだ。
ということは、この精霊と僕は会ったことがあるんだろうか?
でも、こんなに美しい精霊に会ったことを、忘れてしまうなんて考えられなかった。
僕のことを知ってるの?
って聞いたら、精霊は名前を名乗って、離宮にお見舞いに来たことがあるって答えた。
ますます、ありえなかった。
離宮は王都から遠く離れているし、そもそも、僕に会いに来てくれる人なんて数えるほどしかいない。
でも、精霊はウソをつけないって聞いたことがある。
じゃあ、どういうことだろう?
……えーっと……そもそも、この子は精霊なんだろうか?
ひょっとして、人なのかもしれないって思い当たった。
そうか。
そうだよね。
だって、精霊にしてはおかしいことだらけだ。
僕は精霊みたいな女の子に手を出してって頼んだ。
精霊と人は触れ合えないって聞いたことがある。
触れれば人だし、触れなければ精霊だ。
僕は女の子の手を取った。
女の子に触れたとたん、懐かしい温もりが僕を包み込んだ。
亡くなったお母様のことを思い出した。
目の奥がジーンと痺れて、思わず天を仰いで目を閉じた。
同時に、僕はもうひとつの温もりを思い出した。
ハーミア様だ。
どうして、こんなところに……ううん、どうして、こんな姿で。
目の奥からじわーっと広がってくる涙を押し込めて、僕は必死に考えた。
いや、ハーミア様は神の使いだから、姿ぐらい変えられても不思議じゃない。
たぶん、この姿が本来の姿なんだ。
そうか、わかった。
ハーミア様は天使なんだ。
大天使様がいて、天使がいないなんてことはない。
天使の加護を持った人だっている。
創世神話にも王国史にも、天使については書かれてなかった。
人とよく似た姿をしてるから、誰も天使だとは気づかないんだ。
でも、いったい、いつからなんだろう?
兄上は知ってるんだろうか?
いや、知らないはずだ。
ハーミア様が兄上と一緒にいないことが、そもそもおかしい。
やっぱり、新しい婚約者のせいなんだろう。
それで、ハーミア様は兄上に内緒で、姿を変えたんだ。
だから、お見舞いにも来なかった?
じゃあ、王宮にいる救国のハムスター様って誰なんだろう?
他の天使なのかな?
僕はおもいきって、
どうしたの、ハーミア様?
って聞いてみた。
そのとたん、ハーミア様のまとっている雰囲気が、すっと重いものに変わった。
ああ、やっぱり、と僕は思った。
聞いちゃダメだったんだ。
迂闊なことを聞いた自分にも、ハーミア様を悲しませた兄上にも、怒りがわいた。
ハーミア様は遠くを見つめて、ハーモニーだって言った。
ハーモニー?
そういえば、さっきもそんな名前を名乗ってた。
ハッとした。
そうだ。
ハーミア様の名前は兄上が付けたものだった。
ハムちゃんという愛称で呼べるようにって聞いたことがある。
ハーミア様なんて呼んだら、兄上のことを思い起こして気分が沈むのかもしれない。
僕はしばらく考えた後、ハーモニー様って声に出した。
そうすると、ハーミア様はあわてて、ハーモニーですって言った。
呼び捨てにしていいってことみたいだった。
兄上には悪いけど、うれしかった。
距離が縮まった気がした。
僕とハーミア様が仲良しだって、認めてもらえた気がした。
ハーミア様は人の姿をしてても、やっぱりすごかった。
王都に入る前の街で噂に聞いた、大天使の加護を持った精霊術師が人の姿をしたハーミア様だった。
魔族四天王を倒して、勲章をいっぱいもらってた。
兄上の危機も救ったって、あとから王宮で聞かされた。
ハーミア様は人の姿に変わっても、やっぱり優しかった。
他の国の王女様と婚約した兄上もちゃんと助けてくれるだなんて、さすがはハーミア様だった。
王都に来てよかった。
ハーミア様の無事な姿も拝めた。
それに、王立学園にハーミア様が一緒に通うって聞いて、僕は舞い上がるほどうれしかった。
王都に知り合いがいないっていうのもあるけど、ハーミア様と一緒にいられる時間が増えるのが何よりもうれしかった。
それに、時間をかければ、僕にだってハーミア様の沈んだ心を解きほぐして、笑顔を取り戻すことができるかもしれない。
そう思った。
ハーミア様は昔と違って、表情を失くしてしまっていた。
きっと、兄上のことを想って、いつも心が泣いているんだと思う。
僕の心の中のハーミア様は、いつもコロコロと楽しそうに笑っていた。
なんとかしなくちゃ。
僕はハーミア様じゃなくなったハーモニーに、精一杯の笑みを浮かべて手を振った。
王都にやってきて、ようやくいろいろなことがわかってきた。
兄上がハーモニーのことに気が付いていないこと。
新しい救国のハムスター様はハムスター仲間と暮らしていて、部屋から一歩も外に出ないこと。
ハーモニーがずいぶん前からハムスターじゃなくなっていたこと。
ハーモニーはまだ笑ってくれないけど、学園での生活は楽しかった。
ハーモニーはずっと僕と一緒にいてくれた。
ユリウスっていう子がハーモニーの絶対結界に弾かれたり、兄上と婚約者の王女様と一緒に昼食をとることになったりと、いろいろあったけど、うまくいっていたと思う。
精霊祭ではハーモニーと一緒の馬車に乗って、パレードに出ることになった。
ハーモニーと一緒にお祭りに行って、同じ景色を見るっていう夢が叶った。
でも、兄上にハーモニーのことがばれてしまった。
最初はなぜだろうって思ったけど、精霊宮殿の深部にハーモニーが入れてもらえなかった時に、そういうことかって気が付いた。
ハーモニーが僕に話してくれたことは、ぜんぶ兄上と一緒に経験したことだった。
子爵家の養女が知ってるはずのないことを、ハーモニーは知ってた。
兄上がそのことに気が付かないはずがなかった。
兄上がハーモニーに、君は人なのかって聞いた時、僕はとっさにハーモニーを隠そうとした。
だって、兄上には他に婚約者がいるんだ。
ハーモニーは渡せないって思った。
今の兄上では、ハーモニーを幸せにできない。
そんなこと、兄上だってわかってるはずだ。
精霊祭ではいいこともいっぱいあった。
ハーモニーが笑うのを初めて見た。
僕に笑いかけたんじゃなくて、護衛の人にだったから、ちょっと妬けたけど。
すごく小さな声だったけど、笑い声も聞いた。
僕の顔は真っ赤になってたんじゃないかって思う。
ハーモニーの笑顔は心をとろけさせる力を持っていた。
やっぱり、天使だった。
誰だってあの笑顔を見たら、一目で恋に落ちるって思った。
あと、シーラ様が僕をハーモニーの婚約者にしてくださるって、おっしゃった。
思いもよらなかったシーラ様の申し出に、僕は大喜びで飛びついた。
兄上がハーモニーを幸せにできないんだったら、僕が幸せにしたらいい。
僕にとってハーモニーは唯一の存在だ。
絶対に悲しませたりしないって、ハーモニーに約束した。
シーラ様が出した条件は、僕にとって難なくクリアできることだった。
ハーモニーがモランデル家を継いで、僕が婿養子となること。
モランデル家はこの先もずっと、王国一の精霊術師が後を継ぐこと。
シーラ様のおっしゃることは単純明快だった。
モランデル家を王国を守る盾とすること。
ただ、それだけだった。
僕とハーモニーにはピッタリだと思った。
ハーミア様だった頃のハーモニーは、シーラ様を褒めることはなかったけど、今では養女になるほどの間柄だ。
きっとお互い信頼してるんだろう。
僕はシーラ様の手をとって、ぜひお願いしますって頭を下げた。
そこまではよかった。
でも、気が付いた時には、兄上がハーモニーに詰め寄っていた。
兄上の身勝手な行動を許すわけにはいかなかった。
僕だって、ついさっきハーモニーに婚約を申し込んだときに、護衛の人の助言で気づかされたばかりだ。
ハーモニーを悲しませないことがいちばん大切なんだって。
父上の許しを得て、すべての障害を取り除いた後じゃないと、ダメなんだって。
兄上はまちがっている。
ハーモニーを大切に思うなら、兄上だって先にやるべきことがあるはずだって、僕は思った。
それ以来、僕と兄上は口をきかなくなった。
僕がまちがっているんだろうかって思うこともある。
ハーモニーは今でも兄上のことが大好きだ。
あの護衛の人だって、シーラ様だってわかってるみたいだった。
それでも、僕は兄上をハーモニーに近寄らせる気はなかった。
僕はシーラ様と一緒に父上に頭を下げた。
ハーモニーと一緒にいられるようにって、できるかぎりのことをした。
シルフィーみたいに飛ぶことはできないけど、お姫様抱っこぐらいはできるようにならなくちゃって、体を少しずつだけど鍛えるようにした。
新年の行事や建国祭では、すぐ傍にはいられなかったけど、ハーモニーと同じ空気を吸って、同じ時間を感じることができた。
ハーモニーが前に話してくれてたことを、実際に目で見て、耳で聞いて、同じ体験をして、また、学園でその話をした。
離宮で夢見てたよりも、ずっとずっと楽しい毎日が過ぎていった。
でも、ハーモニーは最強の精霊と契約するために、王都から遠く離れたところに行ってしまった。
シーラ様に尋ねても、もう少ししたら戻ってまいりますって、いつ帰ってくるかは教えてくださらなかった。
王国のために、力を手に入れて帰ってきますって、シーラ様はおっしゃってくださったけど、僕は不安だった。
そして、ハーモニーがいない時を見計らったように、あの事件が起きた。
でも、勇者様がいよいよ処刑台に上がろうかという時に、ハーモニーは帰ってきた。
さすがはハーモニーだった。
大天使様と話をして、勇者様の命を助けて、新しい聖剣も貰った。
父上も大喜びで、なんと僕をハーモニーの婚約者として認めてくださった。
でも、僕自身が婚約を申し込んで、ハーモニーに許してもらったわけじゃない。
次の日、僕は朝早くに学園に来て、今か今かとハーモニーが来るのを待っていた。
ちゃんと自分の言葉で婚約を申し込もうって思ってた。
でも、待ちに待ったハーモニーを目の前にして、僕は何にも言えなくなっていた。
馬車から下りたハーモニーは、昨日までのハーモニーじゃなかった。
昨日見た、優しいほうの大天使様のように、やわらかな春の風をまとっていた。
いつもの精霊のような硬い表情じゃなく、春の陽だまりを思わせる温かな微笑みを浮かべていた。
おはようございます、ニルス殿下、ってハーモニーは僕に笑いかけてくれた。
危うく膝からくずれ落ちそうになった。
まさしく、天使そのものだった。
まわりにいた人たちも、ハーモニーを見てとろけそうな、しまりのない顔をしていた。
あとから馬車を下りてきた、精霊マニアのユリウスだけが、つまらなそうにムスッとしていた。
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