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アクナス修練堂の日々−10
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大枝の上のエルガーの頬に、いつしか涙が伝い、ぽろりと落ちた。
あの秋風に踊る木の葉の舞いのようなエタルツの動き。それは父親からエルガーに伝えられた剣技であった。
それからというもの、エルガーは取り憑かれたようにクリスイン・エンテスの動きを脳裏で反芻していた。目に焼き付けたあのえもいわれぬ動きの美を少しも取りこぼさず自身に覚えさせようと、何十、何百、何千回も頭の中で繰り返し、それを試行錯誤して再現することが半年続いた。
すると、頭に刻まれたエンテスの動きはエルガーの身体を刺激し、身体はそれに従って動き始めた。身体が少年に動きを教えていた。この不思議な作用に少年は興奮し、それを自分の身体で体現することが何より楽しかった。修練堂の窓から覗き込む見取り稽古が終わると人目のない森の中、ひたすら己のエタルツを振り続けた。稽古のない日は朝から始め、釣った魚を炙って腹を満たすと1ティーヌ(30分ほど)眠り、またエタルツを振る。そんな日々を送った。
三節剣を自在に操るダオン相手に、初めて己の思った通りの一撃を加えることができた。自分のしてきたことが正しかった、脚はむずむずし腰の辺りから頭の天辺までエルガーは喜びで包まれた。
アルヘカント種の巨馬と巨人族のナイサに合わせた鞍の上で、エルガーは良い働きをしたエタルツの外鞘を無意識に握った。エルガーの佩刀は、父から贈られたこの大脇差『バイカ』の一振りしかない。黒鞘の先端から刃側、両側面、背側のそれぞれには見知らぬ異国風の花が彫金された丈夫な金属板が鋲打されている。
大きさに極度の差がある二人は、アクナス修練堂南側裏門(南半球に位置するエトワイル大陸では建造物の北面を正面とする)を通り越し、西大門へと達した。門番は当然気付いているはずだが、宗家一族使用人であり一目瞭然の巨人は誰何もされず通用門に進む。外壁には金属製の球体が埋め込まれている。下に開いた穴にナイサが手を差し込むと、籠手に嵌め込まれたコラン石が輝き、手は複雑なパターンを描いた。
「キリキリキリ、チッチッチッ、チャリッ、ブーン」
機械音と共に軋る音もなく門は内に開いた。通用門と言えど決して構えは小さくないのだが、それでもナイサは馬の首を抱くように身を伏せ、門を潜り抜ける。豊かな乳房が頭に覆い被さりエルガーはムズムズする。
視界が開けた。手入れの行き届いた庭園に園丁が作業をしている姿がある。ザーと絶え間なく流れ落ちる水の音。居館屋上から流れ出る水は、壁にへばり付くように配置された水路と水溜りを経て、入り口の屋根に達し、両脇から流れ落ちるカーテンとなっていた。そしてそれは満々と清水を湛える地上の池に引き込まれており、シャナヤ伯領特産の舞姫鯉が長いレース編みをたなびかせ気持ち良さげに回遊している。
修練堂のドームは居館の南に位置するためここからは見えない。
二人の目の前に迫って来たのは、この風流な作りの居館とそぐわない建造物であった。それは居館西翼と渡り通路で接続された低い円錐台の塔であり、石積みは苔むし、蔦が絡み、そこを棲家とする小動物、鳥は数知れず、今も活発にそれぞれの生活に勤しんでいる。
この塔の通り名は「魔槌(まつい)の塔」。クリスイン・エンテスの三女、クリスイン・アーネルが全権を握る鍛刀の研究機関である。
手綱を掴み前を行くナイサがエルガーを振り返り勢い良くしゃがむ。1.3ロール(2.6メートル余り)という長身のナイサであるが、脚が長いためしゃがむと随分低くなる。それでもその目線はエルガーより少し高い。
「ぼく、こいつの手入れ手伝うよ」
「ナイサが馬の手入れだ。エルガーはよく怒られろ」
と言うと両手でエルガーの髪の毛をワシャワシャと掻き乱してから両肩をがっちりと掴みゴツンと額をぶつけた。
「ナイサを心配させた罰を受けるがいい」
ナイサはやっぱりナイサだな、とエルガーが内心呟くと、塔の勝手口の扉が大きな音と共に開け放たれた。
エルガーがとっさに横へ顔を向けると持ち上げたスカートの両手を左右に大きく振りながら突進してくる姿が見えた。なんとか逃げようともがいてみるものの、がっちり掴まれた巨人の手から逃れられるわけもない。
「わぁー離せっ、ナイサ。緊急事態だ」
現れた女性はナイサの腕から奪い取るようにエルガーを引き離すと、強烈に抱きしめ、頬を擦り寄せた。
「エルガー、どこも怪我はない。大丈夫なの」
そう言うと、この女性はエルガーに正面を向かせ、体の隅々まで見回した。スカートが汚れるもの気にせずひざまずき、女性は少年の顔をよく見ると、再び抱きしめた。
「危ないことはしないって約束したでしょ。わたくしがどれほど心配したと思っているの。もう、この子は」
他の誰が何を言おうとあまり気にしないエルガーであったが、この女性に言われると心の中から罪悪感という小さな泡が浮かび、弾けた。
「母上、もうそのくらいにしてあげて下さい。エルガーの顔が変になってます」
女性の後ろから声がした。タナスが、母親の陰からひょこっと顔をのぞかせエルガーに片手を挙げて見せた。
「いいんです。わたくしとの約束を破ったのだから、これくらいのことはされて当然です」
約束を破ったのに罰を受けず、甘やかされるのはどうなんだろう、とエルガーは思った。エルガーは今年で十二歳になる。流石に皆の前で、まして実の子供の前でこれほど子供扱いされるのが恥ずかしかったが、無理に押しのけることもできずにいるうち、注がれる想いエルガーは胸が熱くなった。
エルガーはカムナの首に優しく腕を回すと
「カムナ様、ごめんなさい。約束守れるよう努力します」
「そう、そう言ってくれるだけで嬉しいわ」
エルガーには見えなかったが、カムナは幸せそうな、そして少しの翳りを含んだ顔になっていた。
「アーネル様は今日ボクのしたことを・・・」
「もう聞いているし、アーネル様でもない。何度も言ってるがアーネル」
腕を組み脚を交差させ、扉に寄りかかる人物。オレンジ色と赤色のちょうど中間色をした髪をギュッと一つにまとめている。閉じていた目を開いて、ため息をつきながら頭を振ると、その髪の束が馬の尻尾のようにゆったりと揺れた。
「お義姉さんは甘やかし過ぎです。少しきついことも言ってやらないと」
「いいんです。わたくしはこの子を甘やかすと決めたんですから。子供達だって承知です」
そう言うとカムナはエルガーの手を引いて、さっさと塔の中へ入っていった。
「お義姉さん、ここは私の塔なんですけど」
アーネルはそうは言いながらも、エルガーの無事な姿に安堵の色を隠しきれないでいた
ニヤニヤしているナイサに
「何をしてるんだい。ナイサは兄上とエルメを連れてきな。今晩はどうせこちらで食事をするんだろうからね。ついでに父上のところへ寄ってね、ピナ酒をもらって来なさい。飲みきれなくて溜まる一方じゃあ、作った人に申し訳ない」
アーネルは振り返り、室内へ向かって大声を上げる。
「ドワンジは天ぷら揚げてるんだろ。厨房の材料使ってしまっていいから、内弟子、使用人の賄い含めてどんどん揚げてしまいな」
あの秋風に踊る木の葉の舞いのようなエタルツの動き。それは父親からエルガーに伝えられた剣技であった。
それからというもの、エルガーは取り憑かれたようにクリスイン・エンテスの動きを脳裏で反芻していた。目に焼き付けたあのえもいわれぬ動きの美を少しも取りこぼさず自身に覚えさせようと、何十、何百、何千回も頭の中で繰り返し、それを試行錯誤して再現することが半年続いた。
すると、頭に刻まれたエンテスの動きはエルガーの身体を刺激し、身体はそれに従って動き始めた。身体が少年に動きを教えていた。この不思議な作用に少年は興奮し、それを自分の身体で体現することが何より楽しかった。修練堂の窓から覗き込む見取り稽古が終わると人目のない森の中、ひたすら己のエタルツを振り続けた。稽古のない日は朝から始め、釣った魚を炙って腹を満たすと1ティーヌ(30分ほど)眠り、またエタルツを振る。そんな日々を送った。
三節剣を自在に操るダオン相手に、初めて己の思った通りの一撃を加えることができた。自分のしてきたことが正しかった、脚はむずむずし腰の辺りから頭の天辺までエルガーは喜びで包まれた。
アルヘカント種の巨馬と巨人族のナイサに合わせた鞍の上で、エルガーは良い働きをしたエタルツの外鞘を無意識に握った。エルガーの佩刀は、父から贈られたこの大脇差『バイカ』の一振りしかない。黒鞘の先端から刃側、両側面、背側のそれぞれには見知らぬ異国風の花が彫金された丈夫な金属板が鋲打されている。
大きさに極度の差がある二人は、アクナス修練堂南側裏門(南半球に位置するエトワイル大陸では建造物の北面を正面とする)を通り越し、西大門へと達した。門番は当然気付いているはずだが、宗家一族使用人であり一目瞭然の巨人は誰何もされず通用門に進む。外壁には金属製の球体が埋め込まれている。下に開いた穴にナイサが手を差し込むと、籠手に嵌め込まれたコラン石が輝き、手は複雑なパターンを描いた。
「キリキリキリ、チッチッチッ、チャリッ、ブーン」
機械音と共に軋る音もなく門は内に開いた。通用門と言えど決して構えは小さくないのだが、それでもナイサは馬の首を抱くように身を伏せ、門を潜り抜ける。豊かな乳房が頭に覆い被さりエルガーはムズムズする。
視界が開けた。手入れの行き届いた庭園に園丁が作業をしている姿がある。ザーと絶え間なく流れ落ちる水の音。居館屋上から流れ出る水は、壁にへばり付くように配置された水路と水溜りを経て、入り口の屋根に達し、両脇から流れ落ちるカーテンとなっていた。そしてそれは満々と清水を湛える地上の池に引き込まれており、シャナヤ伯領特産の舞姫鯉が長いレース編みをたなびかせ気持ち良さげに回遊している。
修練堂のドームは居館の南に位置するためここからは見えない。
二人の目の前に迫って来たのは、この風流な作りの居館とそぐわない建造物であった。それは居館西翼と渡り通路で接続された低い円錐台の塔であり、石積みは苔むし、蔦が絡み、そこを棲家とする小動物、鳥は数知れず、今も活発にそれぞれの生活に勤しんでいる。
この塔の通り名は「魔槌(まつい)の塔」。クリスイン・エンテスの三女、クリスイン・アーネルが全権を握る鍛刀の研究機関である。
手綱を掴み前を行くナイサがエルガーを振り返り勢い良くしゃがむ。1.3ロール(2.6メートル余り)という長身のナイサであるが、脚が長いためしゃがむと随分低くなる。それでもその目線はエルガーより少し高い。
「ぼく、こいつの手入れ手伝うよ」
「ナイサが馬の手入れだ。エルガーはよく怒られろ」
と言うと両手でエルガーの髪の毛をワシャワシャと掻き乱してから両肩をがっちりと掴みゴツンと額をぶつけた。
「ナイサを心配させた罰を受けるがいい」
ナイサはやっぱりナイサだな、とエルガーが内心呟くと、塔の勝手口の扉が大きな音と共に開け放たれた。
エルガーがとっさに横へ顔を向けると持ち上げたスカートの両手を左右に大きく振りながら突進してくる姿が見えた。なんとか逃げようともがいてみるものの、がっちり掴まれた巨人の手から逃れられるわけもない。
「わぁー離せっ、ナイサ。緊急事態だ」
現れた女性はナイサの腕から奪い取るようにエルガーを引き離すと、強烈に抱きしめ、頬を擦り寄せた。
「エルガー、どこも怪我はない。大丈夫なの」
そう言うと、この女性はエルガーに正面を向かせ、体の隅々まで見回した。スカートが汚れるもの気にせずひざまずき、女性は少年の顔をよく見ると、再び抱きしめた。
「危ないことはしないって約束したでしょ。わたくしがどれほど心配したと思っているの。もう、この子は」
他の誰が何を言おうとあまり気にしないエルガーであったが、この女性に言われると心の中から罪悪感という小さな泡が浮かび、弾けた。
「母上、もうそのくらいにしてあげて下さい。エルガーの顔が変になってます」
女性の後ろから声がした。タナスが、母親の陰からひょこっと顔をのぞかせエルガーに片手を挙げて見せた。
「いいんです。わたくしとの約束を破ったのだから、これくらいのことはされて当然です」
約束を破ったのに罰を受けず、甘やかされるのはどうなんだろう、とエルガーは思った。エルガーは今年で十二歳になる。流石に皆の前で、まして実の子供の前でこれほど子供扱いされるのが恥ずかしかったが、無理に押しのけることもできずにいるうち、注がれる想いエルガーは胸が熱くなった。
エルガーはカムナの首に優しく腕を回すと
「カムナ様、ごめんなさい。約束守れるよう努力します」
「そう、そう言ってくれるだけで嬉しいわ」
エルガーには見えなかったが、カムナは幸せそうな、そして少しの翳りを含んだ顔になっていた。
「アーネル様は今日ボクのしたことを・・・」
「もう聞いているし、アーネル様でもない。何度も言ってるがアーネル」
腕を組み脚を交差させ、扉に寄りかかる人物。オレンジ色と赤色のちょうど中間色をした髪をギュッと一つにまとめている。閉じていた目を開いて、ため息をつきながら頭を振ると、その髪の束が馬の尻尾のようにゆったりと揺れた。
「お義姉さんは甘やかし過ぎです。少しきついことも言ってやらないと」
「いいんです。わたくしはこの子を甘やかすと決めたんですから。子供達だって承知です」
そう言うとカムナはエルガーの手を引いて、さっさと塔の中へ入っていった。
「お義姉さん、ここは私の塔なんですけど」
アーネルはそうは言いながらも、エルガーの無事な姿に安堵の色を隠しきれないでいた
ニヤニヤしているナイサに
「何をしてるんだい。ナイサは兄上とエルメを連れてきな。今晩はどうせこちらで食事をするんだろうからね。ついでに父上のところへ寄ってね、ピナ酒をもらって来なさい。飲みきれなくて溜まる一方じゃあ、作った人に申し訳ない」
アーネルは振り返り、室内へ向かって大声を上げる。
「ドワンジは天ぷら揚げてるんだろ。厨房の材料使ってしまっていいから、内弟子、使用人の賄い含めてどんどん揚げてしまいな」
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