10 / 21
#008 オールドファッションド
しおりを挟む俺の心は、いつまで経っても満たされない。
どれだけ金を稼いでも、地位を登りつめても…
空っぽになった俺の心は、少しも満たされない。
手が届くものは全て手に入れた筈なのに、何一つ満足出来ないのだ。
周りは、そんな俺を羨ましがり、妬み、恨み、陥れようとする。
今まで俺を下に見てきた奴も、昔からの付き合いがある奴も、友人も、恋人も、家族も……
皆俺の懐に入り、中から俺を崩し落とそうとする。俺の持っている全てを、自分のものにしたがるのだ。
その為なら、今まで築いて来た関係さえも捨てるのである。
哀れで愚かな人間には目も当てられない。
俺の心を癒すのは、ただ一つのバーだ。
3年前、初めて寄ったこの店は、落ち着いた雰囲気で俺を包み込み、その酒のうまさで俺を虜にした。
俺はこの店を大層気に入っている。
ここのマスターは、俺と関わってきた人間の中では唯一話が通じる人間で、俺はマスターと話す時間が好きだ。
自分が心を許せる相手には、ほとんど出会ってこなかったからこそ、マスターには信頼を置いている。
このバーは、俺のように完璧なのだ。何もかもが揃っている。
このバーにいる時だけ、俺は唯一心に余裕を持ち、寛ぎ、楽しむことが出来るのだ。
しかし、今日の俺はとにかく機嫌が悪い。
お気に入りのバーに来ているのにも関わらず、すこぶる機嫌が悪いのだ。
原因は、今日の飲み会だ。
いつもなら絶対参加しない飲み会に、会社付き合い。というめんどくさい理由で付き合わされた俺は、上司の隣に座らされ、何杯も酒を飲まされた。飲まされたのは、それはもう安っぽい、泡だらけのビール。
そこだけでも最悪なのに、隣に座る上司からはひたすら自慢話を聞かされた。
しかし、本当に最悪なのはこの後だ。
顔を真っ赤にした上司は、俺にこう放った。
「お前は態度がでかいから改めろ」と。
俺は思わず、その場で「はぁ?」と言いそうになったが、その声をグッと飲み込み、「そうですかね」と笑った。
すると上司は、「お前、顔がいいからって調子に乗りすぎなんじゃないか~?」と俺の背中を叩きながら、大声で笑いだしたのである。
屈辱だった。こんな男にそんなことを言われるとは…、
上司の顔を立ててやろうとしている俺の気持ちを踏みにじるようにして、こいつは笑っている。
俺は怒りを何とか堪え、とにかく笑って過ごした。そうしないと、会社の中での評価が落ちるとわかっていたからだ。上に登り詰めるためには、こういう技術も必要だと、俺は理解していた。
しかし、こっちが我慢してやっているのをいいことに、調子に乗る奴らが出てきた。
それが、その場に複数人いた同僚の男と、事務の女だ。
「そうなんすよー。こいつちょーっと顔がいいからって、俺達のことすんごい見下してくるんすよねー」
「えーそうなんですかぁ? でも、顔がいいから許せちゃうかもー」
聞けば聞くほど虫唾が走る。
こいつらの口に枝豆の皮を全部突っ込んでやりたい程にムカついた。
「私、お持ち帰りしてほしいー」
「いやー、あいつはやめといて俺にしなよー」
「何を言っているんだ。上司の俺の方がいいに決まっているだろう」
馬鹿みたいに酔っ払い、猿ほどの知能しか持たない奴らの言葉を、これ以上聞いていられない。
堪忍袋の緒が切れる前に、ここを出よう。
そう思った俺は、すぐに店を出た。
呼び止める奴らの声を、全て無視して。
これが、俺のイラついている理由だ。今はいつものバーでヤケ酒をしている。
俺は今日の出来事を、全部マスターに話した。
マスターは落ち着いた様子で、「そうでしたか」とただ相槌を打つだけだったが、今の俺にはありがたい。
それくらい静かに対応してくれた方が、心を落ち着かせられる。
「…今はとにかくこのイラつきどうにかしたいんだ」
「それでしたら…こちらはいかがでしょう?」
マスターは笑みを浮かべて、俺の前に一杯のカクテルを差し出した。
琥珀色に輝く酒の中に、スライスされたオレンジとレモンが浮かべられている。
いつの間にかマスターが作っていたらしい。
俺は目の前のカクテルに口をつけた。
ほろ苦さと強いアルコールの味と、後から来る爽やかな柑橘系の香りが、波たっていたイラつきを沈めてくれるようだ。
「これ、なんてやつだ?」
「こちらは、オールドファッションドでございます。ウイスキーベースのカクテルですので、普段カクテルをお飲みにならないお客様にもオススメですよ」
「そうか……」
俺のイラつきは、このカクテルを口にする度に段々と静まっていった。
まさかカクテルを飲んだだけでこんなにも心を落ち着かせることが出来るとは…
ここのマスターは流石だな。と、心の中で感心する。
「…それと、これは私の勝手な意見ですが、お客様はそのままでいいと思いますよ」
「……というと?」
「確かに、周りに合わせた行動をとることは大切です。周りを気遣い、思いやり、自分勝手な態度を避けることは、組織の中で暗黙の了解とされているでしょう」
そこまで語ったマスターが、少し間を開けてからもう一度ゆっくり口を開く。
「ですが私は、お客様のように我が道を行く方が間違っているとは思えません。周りからよく思われない時が多いとしても、わざわざ自分を押し殺してまで周りに合わせる必要はないと思います」
そう微笑んだマスターは、俺のグラスの中に真っ赤なチェリーを一ついれた。
「マスター、あんた結構クサイ台詞言うんだな」
「…そうかもしれませんね」
グラスを磨きながら、マスターが答える。
「……フッ、心配しなくても、俺はこれからも俺だけを信じて進み続けるさ。何を言われてもへこたれはしない。イラつきはするだろうがな」
冗談混じりで返すと、マスターは「無駄な心配でしたね」とまた笑った。
俺の中の怒りも完全に消えている。
「…今日は、閉店時間までいるとするか」
「明日もお仕事なのでは…?」
「いいんだよ。今日はマスターとはなしたい気分なんだ」
そう言って俺はマスターとのひと時とカクテルを味わった。
ー完ー
今回のカクテル 「オールドファッションド」
アメリカ合衆国のケンタッキー州生まれ。
「トディ」という古風なドリンクに似ていたことから、「オールド=old(古い)」という意味で名前がつけられた。
バーボンウイスキー(+ソーダ)がベース。アンゴスチュラビターズ(ハーブ、スパイスから作られる苦味酒)を染み込ませた角砂糖、オレンジやレモンをマドラーで潰しながら飲む。
苦味の強い酒の中、フルーツや砂糖の甘みが加わることで、味がまろやかに。
度数は32~40度と高め。
味わいも含め、かなり強めで大人なカクテル。
意味は 「我が道を行く」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる