Cocktail Story

夜代 朔

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#008 オールドファッションド

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    俺の心は、いつまで経っても満たされない。
    どれだけ金を稼いでも、地位を登りつめても…

    空っぽになった俺の心は、少しも満たされない。
    手が届くものは全て手に入れた筈なのに、何一つ満足出来ないのだ。

    周りは、そんな俺を羨ましがり、妬み、恨み、陥れようとする。
    今まで俺を下に見てきた奴も、昔からの付き合いがある奴も、友人も、恋人も、家族も……
    皆俺の懐に入り、中から俺を崩し落とそうとする。俺の持っている全てを、自分のものにしたがるのだ。
    その為なら、今まで築いて来た関係さえも捨てるのである。
    哀れで愚かな人間には目も当てられない。
     
     
    俺の心を癒すのは、ただ一つのバーだ。
    3年前、初めて寄ったこの店は、落ち着いた雰囲気で俺を包み込み、その酒のうまさで俺を虜にした。
 
    俺はこの店を大層気に入っている。
    ここのマスターは、俺と関わってきた人間の中では唯一話が通じる人間で、俺はマスターと話す時間が好きだ。
    自分が心を許せる相手には、ほとんど出会ってこなかったからこそ、マスターには信頼を置いている。
    このバーは、俺のように完璧なのだ。何もかもが揃っている。
    このバーにいる時だけ、俺は唯一心に余裕を持ち、寛ぎ、楽しむことが出来るのだ。

    しかし、今日の俺はとにかく機嫌が悪い。
    お気に入りのバーに来ているのにも関わらず、すこぶる機嫌が悪いのだ。
    
    原因は、今日の飲み会だ。
    いつもなら絶対参加しない飲み会に、会社付き合い。というめんどくさい理由で付き合わされた俺は、上司の隣に座らされ、何杯も酒を飲まされた。飲まされたのは、それはもう安っぽい、泡だらけのビール。

    そこだけでも最悪なのに、隣に座る上司からはひたすら自慢話を聞かされた。
    しかし、本当に最悪なのはこの後だ。
    顔を真っ赤にした上司は、俺にこう放った。

   「お前は態度がでかいから改めろ」と。

    俺は思わず、その場で「はぁ?」と言いそうになったが、その声をグッと飲み込み、「そうですかね」と笑った。
    すると上司は、「お前、顔がいいからって調子に乗りすぎなんじゃないか~?」と俺の背中を叩きながら、大声で笑いだしたのである。
    
    屈辱だった。こんな男にそんなことを言われるとは…、
    上司の顔を立ててやろうとしている俺の気持ちを踏みにじるようにして、こいつは笑っている。
    
    俺は怒りを何とか堪え、とにかく笑って過ごした。そうしないと、会社の中での評価が落ちるとわかっていたからだ。上に登り詰めるためには、こういう技術も必要だと、俺は理解していた。

    しかし、こっちが我慢してやっているのをいいことに、調子に乗る奴らが出てきた。
    それが、その場に複数人いた同僚の男と、事務の女だ。

    「そうなんすよー。こいつちょーっと顔がいいからって、俺達のことすんごい見下してくるんすよねー」

    「えーそうなんですかぁ? でも、顔がいいから許せちゃうかもー」

   聞けば聞くほど虫唾が走る。
   こいつらの口に枝豆の皮を全部突っ込んでやりたい程にムカついた。

   「私、お持ち帰りしてほしいー」

   「いやー、あいつはやめといて俺にしなよー」

   「何を言っているんだ。上司の俺の方がいいに決まっているだろう」

    馬鹿みたいに酔っ払い、猿ほどの知能しか持たない奴らの言葉を、これ以上聞いていられない。
    堪忍袋の緒が切れる前に、ここを出よう。

    そう思った俺は、すぐに店を出た。
    呼び止める奴らの声を、全て無視して。

    これが、俺のイラついている理由だ。今はいつものバーでヤケ酒をしている。

    俺は今日の出来事を、全部マスターに話した。
    マスターは落ち着いた様子で、「そうでしたか」とただ相槌を打つだけだったが、今の俺にはありがたい。
     それくらい静かに対応してくれた方が、心を落ち着かせられる。

   「…今はとにかくこのイラつきどうにかしたいんだ」

   「それでしたら…こちらはいかがでしょう?」

    マスターは笑みを浮かべて、俺の前に一杯のカクテルを差し出した。
    琥珀色に輝く酒の中に、スライスされたオレンジとレモンが浮かべられている。
    いつの間にかマスターが作っていたらしい。

    俺は目の前のカクテルに口をつけた。
    ほろ苦さと強いアルコールの味と、後から来る爽やかな柑橘系の香りが、波たっていたイラつきを沈めてくれるようだ。

    「これ、なんてやつだ?」

    「こちらは、オールドファッションドでございます。ウイスキーベースのカクテルですので、普段カクテルをお飲みにならないお客様にもオススメですよ」

    「そうか……」

    俺のイラつきは、このカクテルを口にする度に段々と静まっていった。
    まさかカクテルを飲んだだけでこんなにも心を落ち着かせることが出来るとは…

    ここのマスターは流石だな。と、心の中で感心する。

   「…それと、これは私の勝手な意見ですが、お客様はそのままでいいと思いますよ」

    「……というと?」

    「確かに、周りに合わせた行動をとることは大切です。周りを気遣い、思いやり、自分勝手な態度を避けることは、組織の中で暗黙の了解とされているでしょう」

     そこまで語ったマスターが、少し間を開けてからもう一度ゆっくり口を開く。

    「ですが私は、お客様のように我が道を行く方が間違っているとは思えません。周りからよく思われない時が多いとしても、わざわざ自分を押し殺してまで周りに合わせる必要はないと思います」

     そう微笑んだマスターは、俺のグラスの中に真っ赤なチェリーを一ついれた。

    「マスター、あんた結構クサイ台詞言うんだな」
 
    「…そうかもしれませんね」
    
    グラスを磨きながら、マスターが答える。

    「……フッ、心配しなくても、俺はこれからも俺だけを信じて進み続けるさ。何を言われてもへこたれはしない。イラつきはするだろうがな」

    冗談混じりで返すと、マスターは「無駄な心配でしたね」とまた笑った。
    俺の中の怒りも完全に消えている。

    「…今日は、閉店時間までいるとするか」

    「明日もお仕事なのでは…?」

    「いいんだよ。今日はマスターとはなしたい気分なんだ」

     そう言って俺はマスターとのひと時とカクテルを味わった。

ー完ー

    今回のカクテル 「オールドファッションド」

    アメリカ合衆国のケンタッキー州生まれ。
   「トディ」という古風なドリンクに似ていたことから、「オールド=old(古い)」という意味で名前がつけられた。

    バーボンウイスキー(+ソーダ)がベース。アンゴスチュラビターズ(ハーブ、スパイスから作られる苦味酒)を染み込ませた角砂糖、オレンジやレモンをマドラーで潰しながら飲む。
    苦味の強い酒の中、フルーツや砂糖の甘みが加わることで、味がまろやかに。

    度数は32~40度と高め。
    味わいも含め、かなり強めで大人なカクテル。

    意味は 「我が道を行く」
 
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