ロマン・トゥルダ

トグサマリ

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第一章

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 その日から、レーナは書庫で本と向き合う日々を送るようになった。―――なにも記されていない、白紙の書物と。
 白紙。
 どうしていままでこのことに気付かなかったのか。
 あらためて見てみると、書庫に限らずすべての書籍の背表紙には、本の題名が記されていない。ただ、そこに本がある、という背景の一部分でしかなかったのだ。
 飾るためだけの書物。なにも記されていない本。
 それとも、レーナ以外の者にはちゃんと文字が記されて見えるのだろうか。
(わたしの目が、おかしいの……?)
 判らなくなる。
 すべてが偽りに思え、ものを意味付ける言葉の単語自体が、自分を騙しているのではと恐ろしくなった。


 レーナはカジノに誘いに来たヨアンに、なにも記されていない古びた分厚い本を差し出した。突拍子もない行動を見せたレーナに、目を丸くさせるヨアン。
「どうしたの、本なんか持ってきて。それよりも今日こそは出掛けよう? カジノに行こう。カミラもエルナも来るって言ってたよ」
 愛しいひとの唇が紡いだのは友人の名だったが、レーナは話を切り捨てるように首を振る。
「いいの。行かない。それよりも」
「行かない? どうして? 賭博は好きだったろ?」
(―――え?)
 レーナは目をぱちくりさせ、ヨアンを見上げた。彼女の反応に、ヨアンは疲れた表情を見せた。
「大丈夫か? 自分の好きなものまで忘れないでくれよ。まさか、僕のことは覚えているよね?」
「もちろんよ当たり前じゃない」
 言って、急に不安が頭をもたげる。
「―――ねぇ。あの。……、ヨアンは、わたしがいないと、誘われたりしてるんだよね? その、夜伽よ とぎとかにも……」
 ヨアンは愛想をつかして、他の娘たちを求めてしまうかもしれない。
 夜会に出席しなくなった自分の代わりに、別の女性がヨアンの隣にいるのだろうか。
 そうして、そのあとも。
 膝が震えた。
 不安だと、言える筋合いはない。
 彼を繋ぎとめられないのは、自分のせいだから。
 迷惑をかけているのは自分なのに、ヨアンを手放したくないと思うだなど、ひどく身勝手だと思う。
 レーナとヨアンのように互いだけを想い合うのは、ロマン・トゥルダでは他に例を見ない珍しいことだ。
 だからこそ、彼は他の娘たちに狙われている。
 彼の頑なな心を溶かし、振り向かせてみせようではないか、と。
 ヨアンは、上目遣いで自分を窺う恋人をいじらしく感じた。
「僕は君以外と夜伽をするつもりはないよ。そんなにも心配なら、でかけよう? たまには息抜きもしなくちゃ。書庫にこもってばかりだと頭の中にまでカビが生えてしまう」
 レーナはす、と視線を外す。そこにまた戻ってくるのか。胸の中に吐息を呑み込み、抱えていた本をヨアンにずいと差し出した。
「読んで」
「レーナ」
 途端声が硬くなったレーナに、ヨアンは天を仰ぐ。すっかり出歩かなくなった恋人になにが起きたのか。彼は神に何百回目か祈った。彼女を助けてくれ、と。
「お願い。とにかく開くだけでいいから」
 一歩も引かない強い表情で突き出される本。ヨアンは本とレーナを交互に見る。
「判った。読むよ。だから今日こそ外に行こう? いいね。礼拝にも来なくなるなんて、どうかしてる」
 レーナは言葉を返さなかった。返せなかった。神の存在が判らなくなったいま、どうして礼拝ができようか。それこそ不敬ではないのか。
「行こう。な?」
「―――行く。だからお願い。読んでみて」
「判った。みんなも、君が来るのを待ってるんだよ」
 言いながら、ヨアンはレーナから本を受け取った。適当なところを開け、視線を落とす。
 本に目を落とすヨアンの反応を、息をこらしてじっと窺う。
 胸が騒ぐ。
 はたして、彼はどんな反応をするのだろう。
 白紙の本を見れば、彼にもレーナの感じていた違和感が判るかもしれない。密かな期待が、胸を占める。
 しかし、―――ヨアンの言葉は、容赦なく彼女の想いを打ち砕いた。
「これが、どうしたというの?」
「え?」
 レーナは眉を寄せる。まさかそんな感想が返ってくるとは思わなかった。ヨアンが言いたいことが、判らない。
 ヨアンは混乱する彼女の前で、前後のページをめくる。どのページも、白い。なにも記されていない。なのに、平然としている。
「だって本でしょう? なにか書いてあるはずなのに、文字ひとつも書かれてないのよ? おかしいでしょう?」
「本になにか書かれているわけないじゃないか。そんなの、本じゃないよ」
 耳を疑う言葉だった。
「なに、言ってるの? だったらわたしたち、どこから知識を得たの? なんにも知ることできないじゃない!」
「本とは書庫にあるもの。書棚にあるもの。飾るものだ。開けて読むものじゃない」
 愕然とした。
 開けて読むものではない?
 どうして平気でそんなことが言えるのだろう。
 自分の持っていた考えと、激しく乖離かいり している。
 そこまで、離れてしまったのか。
 ヨアンとの間に、みんなとの間に大きな亀裂がある。深い亀裂が明らかに走っている。
 ものの定義が、違っている。
(定義? ―――定義って、なに……)
 本とはどういうものか。レーナはどうして本を〝文字が記されて知識を得るもの〟だと思ったのだろう。それが当然のことだと思ったのは、どうして。いつから。
 根本が、異なっている―――。
 本は開けて読むものじゃない。飾るもの。
 知識を得る。
 ―――知識、とは?
 知識を得る、とは? その先になにを見ようとしている?
 ―――なにを?
 頭の中でさまざまな疑念や思いが答えを出しては更なる問いを生み、思考を超え、身体を突き抜け、世界のすべてを駆け上り駆け下りる。波紋が水面を走るよりも速く、あらゆる問いに答えが音を立てて落ちてくる。目に映る光景は渦を巻き、示された答えとともに複雑な色に絡まりあい、胸の中心へと吸い込まれてゆく。
(ああ……!)
 彼女の中で、弾けるものがあった。
(わたしたちは、知ってはいけなかったのよ。なにも知ってはいけなかった。だから、だからなにも記されていないんだわ)
 ロマン・トゥルダの住民に知識は―――なにかを知るという意識の動きは、それ自体、不要なのだ。知ろうという興味は、存在してはならないのだ。
 無知でいなければならない。
(そう、だったの……?)
 本は飾るものだと言ったヨアン。きっとそれはヨアンだけの意見ではなく、ロマン・トゥルダ全体の意見だろう。
 知りたいという衝動を持つのは、自分ひとりだけ。
 疑念を抱いているのは、たったひとり。
 自分のみ。
 誰も、なにも気付かない。
 がくりと落ちたレーナの肩に、そっとヨアンの手が添えられる。
「さ、行こう? 急がないと、時間に遅れてしまう」
 ヨアンの声は、もはや頭に入ってこなかった。とても遠くで誰かが口から音を流している―――話しかけている。
(ああ、そうか。ヨアンがどこかに誘いに来てくれたんだったわ)
 たった独りだ。
 レーナは、すべてを失った絶望に、ただこくりと頷くしかできなかった。


 ―――失意のうちに赴いたカジノだったが、やはり楽しむことはできなかった。
 まわるルーレット。テーブルを滑るカード。増えてゆくコイン。
 以前の彼女なら目を輝かせてはしゃいだのに、いまのレーナは暗く沈んでいた。
(これのどこが楽しかったんだろう)
 勝っても勝っても、充実感は得られない。むしろ、虚しさばかりが降り積もってゆく。チップに触れる手が、脆く空虚のまま消えてしまいそうだ。
(つまらない。なにもかもがつまらない。―――気付かなければよかった)
 自分ではどうすることもできない後悔にさいなまれるばかりだ。
 人々の歓声も、レーナにはもはや、うるさいものでしかなかった。

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