6 / 17
第一章
5
しおりを挟むその日から、レーナは書庫で本と向き合う日々を送るようになった。―――なにも記されていない、白紙の書物と。
白紙。
どうしていままでこのことに気付かなかったのか。
あらためて見てみると、書庫に限らずすべての書籍の背表紙には、本の題名が記されていない。ただ、そこに本がある、という背景の一部分でしかなかったのだ。
飾るためだけの書物。なにも記されていない本。
それとも、レーナ以外の者にはちゃんと文字が記されて見えるのだろうか。
(わたしの目が、おかしいの……?)
判らなくなる。
すべてが偽りに思え、ものを意味付ける言葉の単語自体が、自分を騙しているのではと恐ろしくなった。
レーナはカジノに誘いに来たヨアンに、なにも記されていない古びた分厚い本を差し出した。突拍子もない行動を見せたレーナに、目を丸くさせるヨアン。
「どうしたの、本なんか持ってきて。それよりも今日こそは出掛けよう? カジノに行こう。カミラもエルナも来るって言ってたよ」
愛しいひとの唇が紡いだのは友人の名だったが、レーナは話を切り捨てるように首を振る。
「いいの。行かない。それよりも」
「行かない? どうして? 賭博は好きだったろ?」
(―――え?)
レーナは目をぱちくりさせ、ヨアンを見上げた。彼女の反応に、ヨアンは疲れた表情を見せた。
「大丈夫か? 自分の好きなものまで忘れないでくれよ。まさか、僕のことは覚えているよね?」
「もちろんよ当たり前じゃない」
言って、急に不安が頭をもたげる。
「―――ねぇ。あの。……、ヨアンは、わたしがいないと、誘われたりしてるんだよね? その、夜伽とかにも……」
ヨアンは愛想をつかして、他の娘たちを求めてしまうかもしれない。
夜会に出席しなくなった自分の代わりに、別の女性がヨアンの隣にいるのだろうか。
そうして、そのあとも。
膝が震えた。
不安だと、言える筋合いはない。
彼を繋ぎとめられないのは、自分のせいだから。
迷惑をかけているのは自分なのに、ヨアンを手放したくないと思うだなど、ひどく身勝手だと思う。
レーナとヨアンのように互いだけを想い合うのは、ロマン・トゥルダでは他に例を見ない珍しいことだ。
だからこそ、彼は他の娘たちに狙われている。
彼の頑なな心を溶かし、振り向かせてみせようではないか、と。
ヨアンは、上目遣いで自分を窺う恋人をいじらしく感じた。
「僕は君以外と夜伽をするつもりはないよ。そんなにも心配なら、でかけよう? たまには息抜きもしなくちゃ。書庫にこもってばかりだと頭の中にまでカビが生えてしまう」
レーナはす、と視線を外す。そこにまた戻ってくるのか。胸の中に吐息を呑み込み、抱えていた本をヨアンにずいと差し出した。
「読んで」
「レーナ」
途端声が硬くなったレーナに、ヨアンは天を仰ぐ。すっかり出歩かなくなった恋人になにが起きたのか。彼は神に何百回目か祈った。彼女を助けてくれ、と。
「お願い。とにかく開くだけでいいから」
一歩も引かない強い表情で突き出される本。ヨアンは本とレーナを交互に見る。
「判った。読むよ。だから今日こそ外に行こう? いいね。礼拝にも来なくなるなんて、どうかしてる」
レーナは言葉を返さなかった。返せなかった。神の存在が判らなくなったいま、どうして礼拝ができようか。それこそ不敬ではないのか。
「行こう。な?」
「―――行く。だからお願い。読んでみて」
「判った。みんなも、君が来るのを待ってるんだよ」
言いながら、ヨアンはレーナから本を受け取った。適当なところを開け、視線を落とす。
本に目を落とすヨアンの反応を、息をこらしてじっと窺う。
胸が騒ぐ。
はたして、彼はどんな反応をするのだろう。
白紙の本を見れば、彼にもレーナの感じていた違和感が判るかもしれない。密かな期待が、胸を占める。
しかし、―――ヨアンの言葉は、容赦なく彼女の想いを打ち砕いた。
「これが、どうしたというの?」
「え?」
レーナは眉を寄せる。まさかそんな感想が返ってくるとは思わなかった。ヨアンが言いたいことが、判らない。
ヨアンは混乱する彼女の前で、前後のページをめくる。どのページも、白い。なにも記されていない。なのに、平然としている。
「だって本でしょう? なにか書いてあるはずなのに、文字ひとつも書かれてないのよ? おかしいでしょう?」
「本になにか書かれているわけないじゃないか。そんなの、本じゃないよ」
耳を疑う言葉だった。
「なに、言ってるの? だったらわたしたち、どこから知識を得たの? なんにも知ることできないじゃない!」
「本とは書庫にあるもの。書棚にあるもの。飾るものだ。開けて読むものじゃない」
愕然とした。
開けて読むものではない?
どうして平気でそんなことが言えるのだろう。
自分の持っていた考えと、激しく乖離している。
そこまで、離れてしまったのか。
ヨアンとの間に、みんなとの間に大きな亀裂がある。深い亀裂が明らかに走っている。
ものの定義が、違っている。
(定義? ―――定義って、なに……)
本とはどういうものか。レーナはどうして本を〝文字が記されて知識を得るもの〟だと思ったのだろう。それが当然のことだと思ったのは、どうして。いつから。
根本が、異なっている―――。
本は開けて読むものじゃない。飾るもの。
知識を得る。
―――知識、とは?
知識を得る、とは? その先になにを見ようとしている?
―――なにを?
頭の中でさまざまな疑念や思いが答えを出しては更なる問いを生み、思考を超え、身体を突き抜け、世界のすべてを駆け上り駆け下りる。波紋が水面を走るよりも速く、あらゆる問いに答えが音を立てて落ちてくる。目に映る光景は渦を巻き、示された答えとともに複雑な色に絡まりあい、胸の中心へと吸い込まれてゆく。
(ああ……!)
彼女の中で、弾けるものがあった。
(わたしたちは、知ってはいけなかったのよ。なにも知ってはいけなかった。だから、だからなにも記されていないんだわ)
ロマン・トゥルダの住民に知識は―――なにかを知るという意識の動きは、それ自体、不要なのだ。知ろうという興味は、存在してはならないのだ。
無知でいなければならない。
(そう、だったの……?)
本は飾るものだと言ったヨアン。きっとそれはヨアンだけの意見ではなく、ロマン・トゥルダ全体の意見だろう。
知りたいという衝動を持つのは、自分ひとりだけ。
疑念を抱いているのは、たったひとり。
自分のみ。
誰も、なにも気付かない。
がくりと落ちたレーナの肩に、そっとヨアンの手が添えられる。
「さ、行こう? 急がないと、時間に遅れてしまう」
ヨアンの声は、もはや頭に入ってこなかった。とても遠くで誰かが口から音を流している―――話しかけている。
(ああ、そうか。ヨアンがどこかに誘いに来てくれたんだったわ)
たった独りだ。
レーナは、すべてを失った絶望に、ただこくりと頷くしかできなかった。
―――失意のうちに赴いたカジノだったが、やはり楽しむことはできなかった。
まわるルーレット。テーブルを滑るカード。増えてゆくコイン。
以前の彼女なら目を輝かせてはしゃいだのに、いまのレーナは暗く沈んでいた。
(これのどこが楽しかったんだろう)
勝っても勝っても、充実感は得られない。むしろ、虚しさばかりが降り積もってゆく。チップに触れる手が、脆く空虚のまま消えてしまいそうだ。
(つまらない。なにもかもがつまらない。―――気付かなければよかった)
自分ではどうすることもできない後悔に苛まれるばかりだ。
人々の歓声も、レーナにはもはや、うるさいものでしかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
「君は有能すぎて可愛げがない」と婚約破棄されたので、一晩で全ての魔法結界を撤去して隣国へ行きます。あ、維持マニュアルは燃やしました。
しょくぱん
恋愛
「君の完璧主義には反吐が出る」――婚約者の第一王子にそう告げられ、国外追放を命じられた聖女エルゼ。彼女は微笑み、一晩で国中の魔法結界を撤去。さらに「素人でも直せる」と嘘を吐かれた維持マニュアルを全て焼却処分した。守護を失いパニックに陥る母国を背に、彼女は隣国の軍事帝国へ。そこでは、彼女の「可愛くない」技術を渇望する皇帝が待っていた。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる