月満ちる国と朔の姫君

トグサマリ

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【終章】

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 水の音が、優しく耳に届いた。
 深い霧が晴れていくように意識がゆるゆると形を持ち始め、ディーナは目を覚ました。
 薄く開いた視界が捉えたのは、儀式が行われた薄暗い空間ではなく、光に満ちた場所だった。重たいまぶたで何度か瞬きを繰り返す。天蓋の天井。白いカーテンの色。ここしばらくで見慣れた自室の寝台の上で横になっている自分。
 中庭へと開かれた窓からの穏やかな風が、静かに部屋を流れている。中庭の噴水の音が、その風に乗って部屋に沁み渡っていた。
 ゆっくりと起き上がる。
 頭の中は空っぽになっていて、ひどくすっきりしている。
(あたし……?)
 寝台で横になっていた自分を、摑みきれない。なにがあって寝台にいたのか、いつからいたのかも思い出せない。思い出さなければということすら、頭に浮かばない。
 天蓋からの紗のカーテンの向こうから、誰かが近付く気配があった。
「―――目が覚めたのか?」
 ジャファールだった。紗のカーテンをめくった彼はこちらを見て、口元をほころばせる。まろやかなその表情が、なんだか眩しい。
「覚めたようだね。気分はどうだ?」
「……。……!」
 数回の瞬きのあと、ディーナは寝間着だったことに気付いて、あわてて上掛けを胸元へと引き上げる。
 引き上げながらも、目の前に現れた彼の姿に、薄闇の中、悠然と座るグリュフォーンの姿が重なった。
 神獣の、静かなあの眼差し。
 自分に課せられていた使命が、弾けるように記憶に戻ってきた。
「あ―――、あの。儀式。儀式は大丈夫だったんでしょうか。わたし、ちゃんと器としてできたんでしょうかッ」
 身を乗り出し、儀式の行方を気遣わしげに訊くディーナに、ジャファールは苦笑する。
「ああ。君は、ちゃんと器としての役を果たしたよ」
「失敗とか迷惑とか、大丈夫でしたか?」
「ああ。無事に終わった」
「無事に……。そっか、よかった……」
 ほっと肩から力が抜けた。
 ディーナは左腕のキディスに触れる。指先に感じるその硬い感触に、夢ではなかったのかという安堵が胸に生まれる。無事に終われたのは、きっと、ジャファールがくれたこのキディスのおかげだろう。
 ひとつ息をつくと、次なる現実を思い出す。
 器の儀式は終わった。
 ということは、自分はもうこのまま、ここで一生の時間を独りで過ごしていくだけなのだ。
 ただ時間の流れをぼんやりと眺めていくだけ。誰とも結婚をせず、エル・ザンディにも帰れず―――バハーバドルに足を踏み入れることのできない家族と会うこともできずに。
 たったひとりで。
 ジャファールへの想いを、秘めたままで。
 ジャファールとアミナが結婚をし、子供が生まれて幸せになっていく姿をただここで見つめるしかないのだ。
(―――やだ)
 自分が無為に時を眺めやることしかできない以上に、彼の結婚は、やるせなかった。
 自分以外の誰かを愛していくジャファール。愛していけるジャファール。そうしてそれを、見ているしかできない自分。想いを自覚したからこそ、突きつけられるのは残酷な現実だった。
(いやだ)
 胸の奥が、悲鳴のような痛みを訴える。
 口を閉ざしたディーナになにを思ったのか、ジャファールは寝台に腰をかけた。
「アミナが、結婚をする」
「!」
 近くなった目線から、さも平然と、ジャファールは言った。
(アミナさまと結婚……。そう、そうだよ、ね)
 暗く重たいものが、沈みがちな気持ちにずんとのしかかってきた。
 寝台に腰を掛けたことで近付いた距離も、ディーナには胸が締めつけられるほど緊張してしまうのに、ジャファールにはなんでもないことなのだろう。
 ジャファールにとってディーナは、ただライラの娘でしかない。ライラの娘であり、器の姫。ただそれだけ。
 身分も、生まれた国も違う。皇太子でありいずれバハーバドルを背負う立場のジャファール。そんな彼がディーナ自身を見つめてくれるはずがない。もしかしたらと大それた期待をしたくなったこともあったけれど、彼の存在は、最初から遠すぎたのだ。
 けれど、けれどまさか、こんなにもすぐに結婚するだなんて。
(仕方ないよ、決まってたことだもの。いつかは、こういう日がくるんだから。ディーナ。ほら。おめでとうって、言わなきゃ)
 結婚おめでとうございます、と。
 なのに―――、どうしても言えなかった。言わなければと思えば思うほど、気持ちが焦るばかりで声が出ない。
「グリュフォーンの御子に感謝だな。誰も望まない道を選ばずに済んだ」
 思いつめるディーナの前で、ジャファールは意味不明なことを言った。
「―――御子?」
「覚えてないのか?」
「……。はい」
「儀式のこと、どこまで覚えている?」
「えと、グリュフォーンさんに、『くるっとまわって背中見せろ』って言われたところまでは覚えてますけど」
「……」
 黙り込んでしまうジャファール。
 グリュフォーンがそんなことを言ったなど、現場にはいても言葉を解さないジャファールには判らない。
 だが、向きを変えたディーナの背中に、グリュフォーンが羽根を植えつけた直後、その言葉がディーナの口から流れてきたことを考えると、おそらくはそこで彼女の意識は途切れているのだろう。
 目覚めたばかりのディーナの負担にならないよう気をつけながら、ジャファールは儀式でのことを伝える。
「―――十八日もですか!?」
 自分がグリュフォーンの器になっていた時間を知らされ、ディーナは愕然とした。
「加えて、十日ほど、ずっと眠り続けていた」
「そんなにも……」
 一瞬の間に、ひと月近くも時が過ぎてしまっていたのか。
 今回時期が早いのにもかかわらずグリュフォーンがディーナを器として選んだのは、子供が生まれたからではないかと、ジャファールは推測を口にした。
「グリュフォーンはこれからもちょくちょく御子に会うために君の身体を借りたいそうだ。だから、―――ディーナ。君は、ここに……この宮殿にずっと、いなければならない」
 急に歯切れが悪くなるジャファール。
 改めて言われるまでもなく、はじめからそう知らされている。命が脅かされるような儀式ではないけれど、終わっても宮殿から出ることはできない、と。
 怪訝な表情を読んだのだろう。ジャファールは説明をする。
「いままでが、違っていたんだ。グリュフォーン本人が教えてくれた。歴史書にもちゃんと書いてあった。器の姫君は儀式のあとなんの制約も受けないと。宮殿に閉じこもる必要もないし、望めば想う相手と結婚もできる。国を出ることも自由にできる、と」
 思いもしなかった言葉に目を瞠るディーナ。
(自由に……? まさか)
 期待をしてはいけないと自分に言い聞かせながら、恐るおそる訊く。
「聞き間違ってます? えと、なんの制約もないって、聞こえたんですけど」
「そのとおりだ。聞き間違ってはいない」
「エル、エル・ザンディに、帰れるんですか?」
 ジャファールの結婚を見せつけられるくらいなら、故郷に帰りたかった。
 ジャファールは難しい顔で首を振る。
「いいや。君は、この宮殿にいなければならない。グリュフォーンが……、君を必要としている……」
 なにかの言葉を呑むジャファール。おかしいとは感じながらも、ディーナはそこまで気がつかない。
「でも国を自由に出られるって。グリュフォーンさんが天界に行くときに、今回みたいに、また呼んでくれれ―――」
 じっと、ジャファールに見つめられて最後まで言えなかった。
 どうして、問うような眼で見てくるのだろう。なにか気分を害するようなことを言っただろうか。
「そんなにも、ここにいるのは苦痛か?」
「!」
 問いよりも、まっすぐ心の底にまで届く眼差しが、そっとしておきたい想いを暴きたてた。冗談にも軽口にも取れない真剣な低い声。かき乱されて波立った気持ちは、いやでも期待を抱いてしまう。
 眼をそらすことができなかった。苦しさでいっぱいになってしまって、ただもう懸命に顔をそむけた。
 眉間にしわすら寄せて顔ごと視線を外したディーナに、ジャファールの声は重たく告げる。
「―――気がつかなくて、済まなかった」
 突き放した声に、はっとする。
 違う、そんなんじゃない。
(そうじゃなくて!)
 傷付けて、しまった……?
 ジャファールをそっと見上げると、なにかと葛藤しているかのような苦しげな色を顔に浮かべていた。ディーナと目が合うと、すぐに笑みをふっと刻む。その優しい笑みが逆に、胸にちくりと痛みを残していく。
「おじいさまが、エル・ザンディのご家族の勘当を解かれたよ。ライラさまたちは既にバハーバドルに到着しているとのこと。宮殿ここに来るのも、もうすぐだ」
 ジャファールは、重苦しい空気を払うように、違う話題を口にした。
「おじいさまが……?」
「ああ」
 グリュフォーンが望むため、ディーナはこの国からは出られない。ならばと、祖父はライラたちの勘当を解き、彼らのほうから会いに来てもらえばよいという措置を取ってくれたのだ。
(あ……)
 一瞬頬の緩んだディーナの表情が、さっと曇る。
 ジャファールは誰もが認めるほどライラに心酔している。彼にとっては、ライラに逢えるようになったことが嬉しくてならないはず。
 彼がほんのり浮かべた優しい表情は、ライラに逢えるからだったのか。
 そう思うと、再会を素直に喜ぶ気持ちも半減してしまう。
「ジャファールさまは、母のことを慕っておいででしたものね」
 ひがんだ声が、ついこぼれた。
「いまは君の話をしている」
「!」
 苛立たしげで、そうしてどこかやるせなさをにじませた声。
 初めて聞く強い口調だった。
 ジャファールのそんな様子に、驚きのあまりディーナは次の言葉を見失う。
「あ。……済まない」
 首を振るしかできないディーナ。
 沈黙が、ふたりの間に降りる。
 中庭からの優しい噴水の音が、さらさらと耳に流れ込む。
 こんなふうに、ぎすぎすしたやりとりをしたいわけではないのに。
「―――儀式の間のことは、本当に、覚えていないのか? まったく?」
 窺うように訊かれた。
「はい……」
「グリュフォーンの言葉も?」
「あの。なにか、悪い予言があったんですか? エル・ザンディに帰るとグリュフォーンさんになにかが起こる、とか」
「いや。そんなことは、ない」
 そのまま、ジャファールは再び沈黙してしまう。
(じゃあ、どうして? グリュフォーンさんの御子がどう関係してるの? でも感謝、って言ってたし)
 何故、自由の身なのに宮殿にいなければならないのか。今回のように、要請があったときにここに来ればいいだけではないか。器の姫君の存在は、国の重要事項だから? でもいま、自由だと言われたばかりだ。
 ジャファールは、どうしてこんな、奥歯に物が挟まったような言い方ばかりするなのだろう。
「ディーナが器になっている間」
 どう言おうかと言葉を探すようにしながら、ジャファールは口を開く。
「カルリコスにオリハルコンが宿っていて。グリュフォーンが天界から戻ってきたとき、おれたちの前で精製をした」
 それがこれだと、いったんジャファールは部屋のどこかへと行き、銀色に輝く輪を持ってきた。
 深い銀色のそれは、ティアラに見えた。
「ティアラ、ですか?」
「そうだ。皇太子妃のティアラの形式をとっているから、おれの正妃になる者のみが着けることができる」
「アミナさま、ですね」
 遠まわしにせず、アミナが着けるティアラが精製されたと言えばいいのに。
 だが、その答えに、ジャファールは怪訝な顔になる。
「どうしてここにアミナが出てくるんだ?」
 どうしてと訊きたいのはこちらのほうである。
「だって、アミナさまとの結婚が決まったと先程」
「アミナの結婚が決まったと言っただけだ」
「アミナさまはジャファールさまの婚約者ですから」
「そこなんだ」
 平行線になりそうなやりとりを断ちきるように、ひとつ頷くジャファール。
「ここを見て。『ジャファールの妃 ディーナ・アルカヴァーレ』と刻まれているのが判るか?」
(―――え?)
 聞き間違えた?
「わたし、バハーバドルの文字は読めないんです、けど……」
 警戒しながらも、ディーナは告げる。ジャファールを求めすぎて、都合よく聞き間違えたのかもしれない。
「あぁ、そうか。そうだったな」
 ジャファールは裏側の文字らしき部分をしなやかな指で示しながら続けた。
「ここに『ジャファールの妃』、こちらに『ディーナ・アルカヴァーレ』とある」
「……」
 ジャファールはアミナと婚約している。彼の妃はアミナだ。ジャファールは、いったいなにを言っているのだろう。ここで自分の名前が出てくる意味が理解できなかった。
 唇を引き絞り、くいいるように異国の文字を見つめるディーナ。
「これは、グリュフォーンが自ら精製したものだ。グリュフォーンの意思で、この文字は刻まれている」
「グリュフォーンさんが、名前を間違えた、ってことですか?」
「違う。グリュフォーンはひと文字たりとも間違えちゃいない」
「どうして。アミナさまの名前でなくちゃいけないのに」
 声が震えた。頭が割れてしまいそうだった。
 オリハルコンを身に着けられるのは王族のみだと以前聞いた。皇太子妃のティアラに自分の名が刻まれているというその意味を、都合のいいように解釈したくてたまらない。期待している。胸は張り裂けそうなほどの期待で壊れてしまいそうだ。
 どういうこと? ―――判らない。全然、……そう理解したくてたまらない。
 不安と混乱、そして縋るようなディーナの表情に、ジャファールの胸に、彼女を迎えに行った際の儀式の間での出来事がよみがえってきた。


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