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第二章
十五話
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橙司は玄関に立ち、着流しに中羽織を着ている。少しばかり落ち着かない様子で菜佳を待っていた。
遠くから菜佳とハルの足音が聞こえてくる。橙司は足音がする方へ体を向けた。
「お待たせしました」
控えめな菜佳の声。照れくさそうに巻き毛をさわっている。
白襟がついた山吹色のワンピース。ウエストに細ベルトを巻いており、白のレース手袋にストラップ付きの白パンプス。洋装をした菜佳がそこに立っていた。
「若奥様、とてもお似合いで御座います。ねえ、旦那様」
菜佳の後ろに付き添うハルが言う。
橙司は言葉を失っていたことに気がつき、なにを言うか迷った。
『似合ってる』と一言では片付けられないような。心を揺さぶる感情がある。
「……新鮮、ですね。着物は見慣れていましたが、それも似合っていますよ」
何か違う気もしたのだが。それ以上に適切な言葉が思い浮かばない。
菜佳は頬を紅潮させ照れているが、その後ろのハルはこちらを見て呆れていた。視線が痛い。
菜佳の普段着は着物だ。それも恐らく数着しか持ち合わせていない。若い娘が着るハイカラな柄のものではなく。芥子色や弁柄色、松葉の着物。深緑や練り色の帯。それらを着回ししていた。
橙司が買い与えれば良いのだが、なにせ白嵜家からの定額金は生活最低限で。矢尾板堂の賃金で買うのも違うと思っている。
菜佳の洋装は涼葉からの贈り物だそうだ。
(洋装を買い揃えるとは、俺にはその考えがなかったな)
自分が情けなく思う橙司。
菜佳は照れながらも嬉しそうにしている。その微笑みを引き出したのは涼葉なのだ。少しだけ妬いてしまう。
「……行きましょうか、菜佳さん」
「はい、橙司さま」
今日は都心の百貨店へ行く。二人で初めての外出だ。
なにかと仕事に追われながら、休日も橙司は漢方の勉学に励んでいた。書斎に籠ったり矢尾板堂へ行ったりとで、二人きりの時間は僅か。ましてや仕事以外で二人が外出することもなく。
今日は晴れて“デエト”だ。
*****
二人は路面電車に揺られながら都心に向かっていた。
菜佳は洋装が落ち着かなくて。布一枚を体に纏うのに違和感があるのだ。
(守られてる気がしないというか、足元が……)
薄い布が心許ない。膝を擦り合わせ、周りと視線が合わぬように俯いた。けれど着物を纏う人が多い中で、洋装の自分が座っていると、みんなから見られているような。おかしく思われていないか気になってしまう。
「菜佳さん、着きますよ」
橙司の声に顔をあげた。
車内から外を見れば、背の高い建物が並んでいるのが見える。
菜佳が育った下町の商店街とは打って変わり、都会の華やかな雰囲気がそこにあった。
都心に来たのはいつだったか──
まだ母が健在だった頃。家族三人で洋食を食べに食堂に行った。幼かった菜佳はオムライスを食べ、母と父はカレーライスを頼み。その後には藤棚を見に行った。父に抱かれ藤棚に手を伸ばし、幼いながらに「きれい」だと思った。
思い出に浸っていれば、百貨店へと辿り着く。
そびえ立つ大きな建物に、菜佳は口をあんぐりと開けた。
「これは……大きいですね……」
見上げれば空を隠してしまうような。横にも縦にも広い建物だ。
「さあ、行きましょうか」
橙司に導かれ、菜佳は彼の後を追う。
◇
電気の眩しい光に目を細めた。和装洋装入り混じる人々が店内を歩き、あちらこちらから声がする。香水や食品の香りが漂っていた。
逸れぬよう橙司にぴたりと身を寄せながら歩調を合わせる。
「なんだか、とにかく音が大きいですね」
商店街の賑やかさとは異なる騒がしさ。この賑わいに酔ってしまいそうな気がした。
「そのうち慣れますよ。何処から行きましょうか」
菜佳は困った。『何処から』と問われても、何があるのか分からないからだ。
「菜佳さんの見たいものがあれば、そこへ」
菜佳は考える。辺りを見渡すが、どこもかしこも値の張りそうな物ばかりで。
「そうですね……」
これといって己に物欲がないことに悔やんだ。
先日、涼葉から借りた小説を読んだ中で、主人公の男性が愛人から香水を強請られ買い与えていた。その愛人は欲求に忠実で、美人で可愛らしく、主人公を翻弄するのだ。
(わたしは、彼女のように愛らしくなれないわね)
主人公の正妻のように、変わりゆく夫に困惑しながら女の影を薄らと感じ、それでも黙って飯をだす側なのだろう。
橙司が愛人を持つような夫だとは思っていないが。菜佳は自分のことを、異性に色目も使えず甘えることもできず、小説に登場するような魅力的な女性には到底なれないと思っていた。
菜佳は視線を上げる。
「──下駄を買いたいのです」
「下駄、ですか?」
「はい。鼻緒が切れてしまいそうなので、新しいものを」
橙司の視線は菜佳の上から下へと移る。
『その格好で下駄を買うのか』と言いたいのだろう。確かに洋装をしていながら下駄を手にするのはおかしなものかもしれない。けれど菜佳は他に思いつかなかったのだ。
「下駄の店はこの二階になります。行きましょうか」
菜佳は頷き、彼の後をついていった。
遠くから菜佳とハルの足音が聞こえてくる。橙司は足音がする方へ体を向けた。
「お待たせしました」
控えめな菜佳の声。照れくさそうに巻き毛をさわっている。
白襟がついた山吹色のワンピース。ウエストに細ベルトを巻いており、白のレース手袋にストラップ付きの白パンプス。洋装をした菜佳がそこに立っていた。
「若奥様、とてもお似合いで御座います。ねえ、旦那様」
菜佳の後ろに付き添うハルが言う。
橙司は言葉を失っていたことに気がつき、なにを言うか迷った。
『似合ってる』と一言では片付けられないような。心を揺さぶる感情がある。
「……新鮮、ですね。着物は見慣れていましたが、それも似合っていますよ」
何か違う気もしたのだが。それ以上に適切な言葉が思い浮かばない。
菜佳は頬を紅潮させ照れているが、その後ろのハルはこちらを見て呆れていた。視線が痛い。
菜佳の普段着は着物だ。それも恐らく数着しか持ち合わせていない。若い娘が着るハイカラな柄のものではなく。芥子色や弁柄色、松葉の着物。深緑や練り色の帯。それらを着回ししていた。
橙司が買い与えれば良いのだが、なにせ白嵜家からの定額金は生活最低限で。矢尾板堂の賃金で買うのも違うと思っている。
菜佳の洋装は涼葉からの贈り物だそうだ。
(洋装を買い揃えるとは、俺にはその考えがなかったな)
自分が情けなく思う橙司。
菜佳は照れながらも嬉しそうにしている。その微笑みを引き出したのは涼葉なのだ。少しだけ妬いてしまう。
「……行きましょうか、菜佳さん」
「はい、橙司さま」
今日は都心の百貨店へ行く。二人で初めての外出だ。
なにかと仕事に追われながら、休日も橙司は漢方の勉学に励んでいた。書斎に籠ったり矢尾板堂へ行ったりとで、二人きりの時間は僅か。ましてや仕事以外で二人が外出することもなく。
今日は晴れて“デエト”だ。
*****
二人は路面電車に揺られながら都心に向かっていた。
菜佳は洋装が落ち着かなくて。布一枚を体に纏うのに違和感があるのだ。
(守られてる気がしないというか、足元が……)
薄い布が心許ない。膝を擦り合わせ、周りと視線が合わぬように俯いた。けれど着物を纏う人が多い中で、洋装の自分が座っていると、みんなから見られているような。おかしく思われていないか気になってしまう。
「菜佳さん、着きますよ」
橙司の声に顔をあげた。
車内から外を見れば、背の高い建物が並んでいるのが見える。
菜佳が育った下町の商店街とは打って変わり、都会の華やかな雰囲気がそこにあった。
都心に来たのはいつだったか──
まだ母が健在だった頃。家族三人で洋食を食べに食堂に行った。幼かった菜佳はオムライスを食べ、母と父はカレーライスを頼み。その後には藤棚を見に行った。父に抱かれ藤棚に手を伸ばし、幼いながらに「きれい」だと思った。
思い出に浸っていれば、百貨店へと辿り着く。
そびえ立つ大きな建物に、菜佳は口をあんぐりと開けた。
「これは……大きいですね……」
見上げれば空を隠してしまうような。横にも縦にも広い建物だ。
「さあ、行きましょうか」
橙司に導かれ、菜佳は彼の後を追う。
◇
電気の眩しい光に目を細めた。和装洋装入り混じる人々が店内を歩き、あちらこちらから声がする。香水や食品の香りが漂っていた。
逸れぬよう橙司にぴたりと身を寄せながら歩調を合わせる。
「なんだか、とにかく音が大きいですね」
商店街の賑やかさとは異なる騒がしさ。この賑わいに酔ってしまいそうな気がした。
「そのうち慣れますよ。何処から行きましょうか」
菜佳は困った。『何処から』と問われても、何があるのか分からないからだ。
「菜佳さんの見たいものがあれば、そこへ」
菜佳は考える。辺りを見渡すが、どこもかしこも値の張りそうな物ばかりで。
「そうですね……」
これといって己に物欲がないことに悔やんだ。
先日、涼葉から借りた小説を読んだ中で、主人公の男性が愛人から香水を強請られ買い与えていた。その愛人は欲求に忠実で、美人で可愛らしく、主人公を翻弄するのだ。
(わたしは、彼女のように愛らしくなれないわね)
主人公の正妻のように、変わりゆく夫に困惑しながら女の影を薄らと感じ、それでも黙って飯をだす側なのだろう。
橙司が愛人を持つような夫だとは思っていないが。菜佳は自分のことを、異性に色目も使えず甘えることもできず、小説に登場するような魅力的な女性には到底なれないと思っていた。
菜佳は視線を上げる。
「──下駄を買いたいのです」
「下駄、ですか?」
「はい。鼻緒が切れてしまいそうなので、新しいものを」
橙司の視線は菜佳の上から下へと移る。
『その格好で下駄を買うのか』と言いたいのだろう。確かに洋装をしていながら下駄を手にするのはおかしなものかもしれない。けれど菜佳は他に思いつかなかったのだ。
「下駄の店はこの二階になります。行きましょうか」
菜佳は頷き、彼の後をついていった。
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