恋を煎じて、愛を呑む。

あぐつ

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第二章

十六話

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 百貨店の中。目に映る全てが初めてで、菜佳は視線をどこへやればいいのか戸惑った。一番に驚いたのは女性の店員が多いこと。
 エレベーターという移動する箱には、エレベーターガールという案内人の女性がいた。さらには各お店で働く人も女性が多い。みんな制服を着て仕事をしていた。それが菜佳にとって煌びやかに映ったのだ。
 下町では菜佳のように働いている女性は少ない。大抵の娘は家業を手伝っていてもお茶出しをするくらいだ。
 百貨店にはお茶出しをする女性の姿はなく、洋装の制服を纏う女性たちが主体として客前で働いていた。
 菜佳にとって、綺麗な洋装の店や香水の店よりも、働く女性の方が何よりも輝いてみえる。

──二階の一角に設けられた履物屋。
 下駄や草履が揃うこの場が、見慣れた光景に心が落ち着く。
 木の香り、手に取ったときの木材の感触……パンプスを持ったときより自分の手に馴染む気がした。

「その下駄でよろしいので?」

 橙司が菜佳の持つ下駄を上から覗き込んでくる。

「はい、こちらの下駄にします」

 菜佳が選んだのは桐の無難な下駄だった。そこへ橙司は別の下駄を菜佳に持ってくる。

「こちらでも良いのでは」

 それを見た瞬間、菜佳はぎょっとした。
 橙司が手にしているのは会津桐の下駄だ。会津は日本一の桐の産地。そしてその下駄は品質が良く長持ちもするが、なにより高価なのだ。

「橙司さま、わたしはそれを買えるほど銭がなく……」

 橙司は心底残念そうな顔をした。

「そうでしたか……」

 諦めた様子で下駄を戻しに行く橙司。
 菜佳はほっと胸を撫で下ろした。あれを買ってしまうと手持ちでは足りない。


 下駄を買い、菜佳は店員から下駄が入った紙袋を受け取る。

「私が持ちましょう」

 菜佳が断りを入れる前に、流れるように橙司へ袋が渡るのだ。

(これくらい、持つのだけど……)

 と思いつつ、「ありがとうございます」と橙司に返す菜佳。自分が買ったものを相手に持たせるのは、なんだか落ち着かなかった。

「菜佳さん、私の買い物に付き合ってもらって良いですか」
「……え?は、はい。もちろん構いませんよ」


 連れてこられたのは三階にある時計屋だった。周囲からは秒針の音が聞こえてくる。
 橙司は懐中時計を手に取りながら眺めていた。その目は僅かに嬉しそうで。口元を緩ませていた。

(涼葉も持っていたわね)

 彼は真剣に見比べている。菜佳にはどれも同じに見えるが、橙司は違うのだろう。
 菜佳は何気なく目に入った銀の懐中時計を手に取った。艶のある白い文字盤に、くっきりとした黒の文算用数字。金の針が時刻を指している。

(銀に針だけ金なのね。橙司さまみたいだわ)

 日焼けやシミのない白い肌、鉛白の髪。際立つ琥珀の瞳。懐中時計がその容姿を彷彿とさせる。
 ちらと隣へ視線を向ければ、橙司は菜佳の手にある懐中時計を見ていた。
 視線に気がついた橙司はこちらへ目を向け微笑んだ。

「菜佳さんはお目が高いですね」

 動揺した菜佳は懐中時計を戻す。

「わたしには価値が判りかねます……」
「いえ、そんなことはありません。『心惹かれた物こそ価値あり』ですよ」
「……初めて聞きました。誰の言葉です?」

 聞けば橙司はにっこりと笑う。

「俺の座右の銘です」

 菜佳はきょとんとするも、くすくすと笑いだした。橙司がそんなことを言うとは、おかしくて笑いが止まらない。

「ふふっ……良い座右の銘ですね」

 このとき。橙司が目を細め菜佳を見つめていたことに、菜佳は気がついていなかった。


 その後に二人は一階の菓子屋に降りてきていた。別邸で待つハルへの土産を探しにきていたのだ。

「羊羹や饅頭が良いですかね。ハルは餡子が好きなので」

 橙司は顎に手を添えながら、和菓子の陳列を見つめている。

「そうですね、無難どころではありますし」

 と菜佳は言いながら周りを見渡した。
 今では菓子も色んなものが出てきたものだ。和菓子だけでなく、ハイカラな洋菓子もある。ドロップやキャラメル、その中でもチョコレートは高級嗜好品である。
 見渡す中で、菜佳はあるものに目が引かれた。

「橙司さま、あれは如何ですか?」

 菜佳が指差す先──カステラだ。

「長崎のカステラですか。良いですね、ハルも食べるでしょう」

 菜佳はカステラの箱を手に取った。

「『心惹かれた物こそ価値あり』ですよね」

 菜佳が言うと、二人は小さく笑い合う。
 賑やかな百貨店の中で、二人の慎ましやかな関係が育っていった。

 ◇

 別邸へ帰宅すればカステラをハルへ渡す。ハルは「まあ!」と喜び受けとった。
「お茶とお出ししますね」と颯爽と台所へ向かっていく。

「ハルさんは甘いものが好きなのかしら」

 ハルの背中を見ながら菜佳が呟けば、橙司はくすりと笑った。

「白嵜では他の女中たちに隠れ羊羹を食べていました。俺はハルのおこぼれを貰い、栗羊羹を食べていたんですよ」
「ハルさん、そんなことしていたんですか。意外ですね……」

 橙司に忠義厚く、菜佳にも「若奥様」と女中としての一線を踏み越えない人だった。料理も家事も不足なくこなしている。そんな人が隠れて羊羹を独り占めしていたとは……。

(人は見た目によらないってこの事ね)

 そう思っていると、橙司が紙袋をこちらへ寄越してくる。それは時計屋の紙袋だった。

「これは菜佳さんに」

 菜佳は目を丸くした。

「橙司さまの懐中時計を買いに行ったのではないのですか?!」
「もとより、菜佳さんに贈るつもりで寄りましたから」

 菜佳は困惑しながら紙袋へ視線を落とす。

「そんな……仰ってくだされば……」
「言えば「いらない」と断るでしょう。貴方はそういう人だ」

 反論もできず、菜佳は肩をすくめる。

「……有り難くいただきます」

 嬉しそうに紙袋を渡してくる橙司の手から受け取った。紙袋から懐中時計を取り出し箱を開ければ、驚いて顔を上げる。

「この懐中時計!」

 橙司は頷く。

「菜佳さんが手にしていた物ですよ」

 時計屋で唯一目を引かれ手に取った懐中時計だ。

「『心惹かれた物こそ価値あり』ですから」

 橙司の声は心なしか弾んでいる。
 菜佳は顔を紅潮させた。手に取った理由は橙司を彷彿とさせると思ったからだ。デザインが気に入ったなどというわけではない。

(心惹かれたもの──)

 恥ずかしくて紙袋で顔を隠す。

「菜佳さん……?」
「その座右の銘、わたしには心に留めておけません……」

 橙司は首を傾げ怪訝な顔をした。

 ハルが茶を淹れ、カステラを取り分ければ。三人で食べるのだ。
 百貨店の話をハルへしながら、穏やかに時間を過ごす。
 銀の懐中時計が菜佳の手元で輝いていた。
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