愛を請うひと

くろねこや

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その後の話

弟の想い、願い

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「何故アイツをオレのパートナーだと認めてくれたんだ?」

迎えのタクシーを待つ間、曇り空を見上げていた僕へ、兄さんが不思議そうな顔をして聞いてきた。

八嶋さんは少し離れて僕達を2人きりにしてくれているようだ。



『涼、助けてくれ。響が…オレの大事なヤツが…』

夜の病院。電話越しに聞こえたのは、まるで世界が終わってしまうというように震えた兄の声。あんな声を聞いてしまえば、その言葉の通り、兄の側にいるのが『大事な人』なのだとすぐ分かった。

呼吸器には異常がなさそうだと言う。それなのに呼吸が止まるというのは、原因が脳にあるのかもしれない。今現在は頭痛などの症状はなく、酷い悪夢をみていたそうだから心因性の可能性もあるが、身体の異常に夢が影響を受けた可能性も否定できない。

「すぐ来れる? …明日まで様子をみる?」

電話を受けながら検査室の空き状況を端末で調べると、運がいいことに明日は2人分の枠が空いていた。『明日で大丈夫そうだ』との言葉にホッとして、検査一式を受けられるよう予約する。

『また同じ症状が出たらすぐ救急車を呼ぶように』。そう言って電話を切った。同じ医師であるはずの兄だが、焦りからか完全に思考が止まってしまっているようだった。僕に話をすることでようやく『いつもの調子』を取り戻せたらしく、最後は明るい声になってくれて安心した。

まずはその人の脳を姉さんに診てもらおう。脳に異常が見つからなければ、全身もチェックしよう。ついでに兄さんの健康状態も徹底的に診てやろうと決める。



あんなに追い詰められたような兄の声を聞いたのはいつ以来だろう。

そうだ、あれは…。

祖父じいちゃん助けて! 涼の熱が下がらないんだ!』


僕は子どもの頃、かなりの病弱だった。

しょっちゅう夕方から熱を出しては兄さんに寝ないで看病してもらった。昔は冷却シートなどなかったし、僕は何故か氷嚢ひょうのうの臭いを嫌がって吐いたらしい。氷水で冷やしたタオルを額に載せて、ぬるくなると取り替えてくれていたから余計に大変だったと思う。

大抵は一晩、兄さんに額を冷やしてもらって、解熱剤を飲ませてもらえば朝には下がった。

だがある日、朝になっても下がらなくて、それどころか上がる一方で。父さんも母さんも夜勤で帰らないし、その日に限って家政婦さんは休みだった。

兄さんにとって、頼れる大人は祖父だけだったのだろう。

あの発熱は何が原因だったのか覚えていないけど、あの日すぐに駆けつけてくれた祖父の姿に憧れて、兄さんは総合診療医になったのだと思う。


そんな兄さんが、あの日祖父を頼ったように、今回は僕を頼ってくれたのが嬉しかった。



「ずっと思っていました。『兄さんは八嶋さんのことが好き』なんじゃないかなぁって」

「!」

驚いたような顔が僕に向けられた。



兄さんは気づいていなかったみたいだけど、僕が物心ついた頃には『八嶋が』『八嶋が』って、ずっと言ってたんだ。誰かの悪口を言うなんて兄さんらしくなかったし、よく話を聴くと、八嶋さんを心配しているからこその言葉だと分かった。

やっと自覚したんだね。

よかった。

病弱だった僕に加えて、子どもだった姉さんは兄さんに構ってほしいからか毎晩『絵本読んで』と言うし、家政婦さんのご飯を食べずに『お兄ちゃんオムライス作って』『お兄ちゃんが作ったハンバーグ食べたい』とか我儘ばかり言うし。

今思えば兄さんだってまだまだ子どもだったんだ。誰かに甘えたかった筈だ。友だちと遊びに出かけたかった筈だ。それなのに、姉さんと僕のことばかりに時間を使わせてしまった。ずっと申し訳ないと思っていたんだ。



「僕も姉さんも、兄さんが側にいてくれたから、こうして幸せに暮らせてる」

僕の言葉を聴き逃さないようにだろうか。兄さんはじっと息を止めてこちらを見つめている。

「兄さんのお陰なんです」

僕と姉さんが医師になるため頑張れたのも、僕が子ども達に『親としての愛情』を渡すことが出来たのも、兄さんが両親の代わりになって僕達に『愛情』をくれたからだ。

親としては不完全かもしれない。それでも、兄さんがくれたものは全てあの子たちに渡せたと思う。

「ありがとう、兄さん」

震えるように息を吐く音が聴こえた。

「だから…どうか兄さんも幸せになってください」

兄さんは顔をクシャッとさせて、目を手のひらで覆うと、『ありがとうな』と呟くように言った。



僕が兄さんと話している間、八嶋さんはずっと兄さんのことだけを見ている。

この人が一緒にいてくれたら安心だと思う。


検査結果は2人とも、まぁ『健康』と言っても許容できる範囲のもので、心の底からホッとした。

兄さんは愛情深い。この人に何かあれば、兄は壊れてしまうかもしれない。

『経過をみるから』と、定期的に兄さんへ来院を促す電話をかけることに決めた。

大事な人が死にかけて辛そうな顔をした兄さんじゃなくて、笑顔の兄さんと会いたいから。



迎えのタクシーが道の向こうに見えた頃。

「…相変わらず細いな。心配だ…」

久しぶりに兄さんが僕を抱きしめてくれた。
すっぽり包み込まれたままスゥと息を吸えば、とても懐かしい匂いがした。タバコをやめたという言葉どおり、上着に染み付いたヤニ臭さは少し薄くなっているようだ。抱き返した温かい身体は厚みがあって、年齢による衰えを感じさせない。

「兄さんは筋肉が付きやすくて羨ましいよ。……大丈夫。ほら、タクシーが来たよ。八嶋パートナーさんも待ってるから行って。またね」

八嶋さんがこちらを見ているし、タクシーが車止めの向こうで待ってくれている。少し名残惜しかったけれど、背中をトントンして身体を離すように促す。

「またな」

兄さんの声と共に、温もりが離れていった。



手を振る僕に、何度も振り返って手を振り返してくれる兄さん。

危ない、前を見て。車止めにぶつかってしまう。

隣を歩く男が兄さんの腰を引き寄せてくれた。

そのまま耳元に何かを囁く。


「わぁ。兄さん、顔が真っ赤」

初めて見る兄の横顔に、僕は思わず笑ってしまった。

「…幸せでいてね。大好きだよ」


タクシーが曲がり角から見えなくなる頃、ポケットのスマホが震え出した。

「はい、山神です」

電話を受けながら振り向いた頭上。ふいに雲が割れ、隙間から金色の光が射し込むのが見えた。

(綺麗だ)

眩しく暖かな光に目を細めた僕は、裏口に向かって足早に歩きだした。
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