かみさまの朝ごはん

たかまつ よう

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ふたりのかみさま

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 それは、ちいさなお社でした。それでも人がくぐれる石の鳥居と、おとなが5,6人なら座れる境内のある、ちゃんとしたお社でした。
 大きなケヤキと大きなカエデが、そのちいさな聖地を取り囲むようにそびえていました。
 村にまだ、子供たちがいて、小学校があったころは、周りの木々も少しは細くて、日の光が差し込む余裕がありました。
 新しい人が来なくなり、小学校も廃校となった今では、その鎮守の森はずーん、と音がしそうなほどうっそうとしていて、30年前とは少し違う空気が漂っていました。

「ああ、このイチョウのはっぱが落ちたら、今年も残り少ないですね。」
 お社から見える、道路沿いにそびえるイチョウを仰いでいるらしい、細いやさしい声がします。
「おひさまが見られるのは最近は冬だけだね。わたしたちは里の精だけど、まるで山奥の樹精のような気がするね。」

ふっふっふ…。

 低いやさしい笑い声もします。
ギ…ギギ…。
 お社の戸が開く音がします。
 音はするのに、お社の戸には、かんぬきと呼ばれる木の棒がちゃんと刺さっていて、人が見たらばたいていは、扉は閉まったままに見えました。
 お社の扉の下半分の真ん中あたりが少し明るくなって…。

ギギ…ギー…。

 両側に開きました。
 中から人の形の、質素な身なりのちいさなおばあさんが出てきました。
「ああ、朝露におひさまが降りている。おじいさん、水入れを取って下さいな。」
 奥から、これもまた質素な身なりのちいさなおじいさんが手には水入れを持って、急ぎ足で追いかけてきました。
 その水入れはオニグルミのてっぺんを切って中身を出して作ったもので、ちいさなふたりが片手で持つのにちょうどいい大きさでした。

 このふたりは、今は「道祖神」と呼ばれている、夫婦のかみさまです。
 でも実は、村の人たちが「道祖神」とふたりを呼び始めるずっと前から、そこにいました。お社ができる前から、存在しているものでした。
 しいていえば、土地神さま、もしくは地の精、とでも言えば近いでしょうか。
 おばあさんは水入れを受け取ると、まだがんばって咲いている、ヤクシソウのきいろい花びらのひとつひとつにぶら下がる朝露を、じっとながめました。
 朝日が昇るにつれて、上の水玉から順番にきらり、ぴかりと光っていきます。朝露の水玉が、じゅうぶんにおひさまをはらんだところでおばあさんは、水入れを近づけて、口の中で「ひゅい」と唱えました。きらり、ころり、水玉は、中に光を閉じ込めたまま、水入れの中に転がり落ちていきました。

 おばあさんはふう、と一息ついてから、また、次の花についている水玉に向かって「ひゅい」と水入れを差し出します。ひとつぶひとつぶ、光を閉じ込めながら水を集めるので、なかなか気力と体力を使う作業でした。
 おじいさんは水入れを渡すと、もう一度中に入り、かさかさするウスタビガのまゆを取ってきました。脇を押すと上の口がぱこっと開き、(去年はその中にさなぎが入っていました。中は、今はもうからっぽです。)細い糸を幾重にも重ねたうす緑のまゆは、まだまだ丈夫で便利に使えました。
 
おじいさんは、主のいなくなったクモの巣のかけらについた、朝露のしずくを狙います。
 風が吹くたびに落ちそうになりながら、それでもがんばってクモの巣にしがみついている水玉も、朝日を浴びてちかり、ぴかり、と光っています。
 おじいさんは右手の指を三本立てて、残りの小指はまっすぐ横に伸ばしていました。その先をクモの巣の水玉に当てて、ちかり、と光ったところで「ぎゅん!」と、力を込めて言いました。
 ぴかり、水玉は光を反射する代わりに、そのなかに光を飲み込み、そのまま凍ったように固まりました。

「ぎゅん!」「ぎゅん!」

 …ひとつひとつ、水玉の中に光を閉じ込めて、とうとうその、ちぎれたクモの巣のかけらについていた水玉すべてが、おひさまの光を宿した数珠のように固まりました。
 それをそぉっと枝からはずし、じゃらじゃらとウスタビガのまゆにしまいました。

「ふう、なかなかくたびれるわ。でも、集められる時に集めないとな。」
 お日さまが高くなると、光の質も変わります。ふたりは朝日が手元にある間、休まず集めていきました。
 人は少なくなりましたが、このふたりの元へは、毎日、さとやまむらで暮らすいきものたちが訪ねてきます。
 おばあさんの集めた光は彼らのからだや心ををいやし、おじいさんの集めた光は彼らの暮らしを助けました。

「今日はいい光がたくさん採れた。さーて、朝ごはんにしましょう。」
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